ささやかに冷酷(前編)


 私は、カートを押しながら廊下を歩いていく。
 <城>の奥深く、<王>の愛妾の住まう場所へ向かっている。人が少ないせいか辺りはとても静かで、カートに載せた食器類が立てる音だけが時折響く。あまりの静かさに身の置き所がないように思えて、気を紛らわすために廊下の窓から見える庭に視線を向けた。
 庭に、人影が見える。
 大き目のシャツにジーンズ姿の見慣れぬ男が、庭に立ち空を見上げている。こちらに背を向けているために顔は見えないが、まだ若いらしい。もしかすると、私よりもまだ若いかもしれない。
 私は息を呑み、足を止めた。



***



 第3次世界大戦とそれに続く内戦を経て、現在ニホンを実質的に支配しているのは、<ヴィスキオ>という犯罪組織である。
 勿論ニホンには正式な政府が存在するが、<ヴィスキオ>を抑える程の権力は持たない。<ヴィスキオ>の頂点たる<王>が望めば、政府など明日にも瓦解する。それが、ニホンの現状だった。
 私はその<ヴィスキオ>の本拠地――旧祖と呼ばれたトシマにある<城>で、使用人として勤めている。<ヴィスキオ>に勤めていると言えば、一見非常に危険なように思われるが、何の力もコネも持たぬ女の身にはこれ以上望むべくもない職場だった。
 現在、世間は弱肉強食の力の論理が全てになっている。内戦以前から多少そういう風潮はCFCにあったが、内戦後<ヴィスキオ>が権力を持つようになってからは、弱肉強食の傾向が更に強まっていた。
 強者が幅を利かせ、弱者は搾取される――経済面でも、その傾向ははっきりと現れた。
 力ある者コネのある者は別として、何も持たない者は満足な職に就くこともままならない。その上、女は余計に、選べる仕事が少なかった。コネも何も持たない女でも容易く就けるものといえば、身体を売るかそれに近い仕事が殆どだ。
 使用人として<ヴィスキオ>に雇われた私は幸運な方だった。



***



 勤め始めて数ヵ月たった今日、突然上司にあたる執事に呼ばれた。
 私は<王>の愛妾に朝食の給仕をするように言いつけられ、二言三言注意事項を聞いてから与えられた自分の仕事を実行すべく、愛妾の居所――<王>の居室へと向かったが。
 (――どうしよう…)
 立ち止まったまま、私は困惑する。
 というのも、庭にいる人物のことである。

 <ヴィスキオ>の関係者だとしても、何か無ければこのような<城>の奥深く、<王>の私邸部分に立ち入ることは無い。それに、この辺りはもう<王>の居室間近なので、たとえあの男に邪な思いが無くとも、見つかれば無事では済まないだろう。愛妾に近づいた男は、例外なく<王>に殺される――それは、新入りの私も知る有名な話なのだ。
 もし、今私が男に声を掛ければ、迷い込んだ程度なら何事も無く済むだろう。また、愛妾に近づこうとしているのなら、咎めないことは私自身の非になり得る。
 一瞬のうちにそんなことを考えて、カートを離れ、庭に出られるような扉を探した。

 扉は、すぐに見つかった。
 そこから庭へ降りていくと、途端に冬の冷え切った空気が身体を包む。不用意に制服として与えられた黒いワンピースの上にエプロンというだけの薄着で外へ出てしまったことに気付き、思わずふるりと身を震わせた。
 冬の最中だというのに、自分と変わらぬ薄着のあの男は寒くないのだろうかと疑問に思う。
 外に出た場所からは男が見えず、私はその姿を探しながら庭を歩いた。
 冬ということもあって、庭は寂しげな様子である。けれども、あちらこちらに山茶花や椿が花をつけていて、冬枯れの景色の中でその赤や白の花びらがやけに鮮やかだった。
 <城>の庭とはいえ、<王>が無駄な華美を好まないこともあり、凝った彫刻や造形があるわけではない。それでも、花壇や茂みがあるので一直線に突っ切ることは出来ず、私はあても無く進んだ。そうして樹の茂みを何度か抜け、はらはらと紅色の花びらを散らす山茶花の樹の陰を覗き込んだときに、ようやく目的の人物を見つけた。

 「あの、こちらで何をなさっているのですか?」
 声を掛けると、男はゆっくりと振り返った。
 こちらを見る男の顔立ちは予想通りまだ若いが、ひどく整っている。その上、男のまとう雰囲気が艶を含んでいるものだから、私は何故か恥ずかしい気がして、努めて男と視線が合わせないようにした。
 「俺?――俺は、空を見ていたんだよ」
 男が言葉を発する。
 私は男の容貌に気をとられていたので、それが先程の自分の問いに対する返答だと気付くまでに数秒かかった。
 「空、ですか?」
 見上げれば、灰色の厚い雲に覆われた空が見えた。
 かつてトシマ上空の空は、戦争による環境破壊のために曇りか雨の日が殆どであったという。現在は都市の復興と共に天候もやや回復して、晴れる日もある。が、今日のこの空は。
 「あれは雪雲でしょうか?今日の天気予報では雪が降ると言ってました」
 「そうだね。降りそうだから、待ってるんだ」
 「雪がお好きなんですか?」
 「さぁ、それはどうだろう…」
 あぁ、世間話をしに来たのではないのに。
 気付けば男と他愛の無い会話を交わしていて、困惑する。けれども、私は不器用なのか自己主張が弱いのか、本題を切り出すことができなかった。
 「私は好きです、雪。綺麗だから」と、また他愛ない言葉を返してしまい、はっと我に返って自分を叱咤した。「あの、でも、ここは寒いですし、その薄着では引きますから…中に入りませんか?」
 提案すると、男はくすりと笑った。
 「そうだね。君が寒そうだ」
 「あ、いえ、そういう意味で言ったわけでは…」
 「いいから、中に入ろう?」
 言うが早いか男はすぐに行動に移った。
 あっさりと踵を返し、私が来た道を辿ろうとする。そうして、男に先を譲ろうとぼんやり待っていた私の手を、行く先を促すように一瞬だけすれ違い際に引いてすぐに離した。
 氷のように冷たい指先だった。



***



 庭の構造が頭に入っているのか、男は迷い無く進んで<城>の廊下に入る扉を探し当てた。有り難いことにそこは先程私が庭へ出た場所で、カートがぽつんと残されていた。
 「あの、私は仕事がありますので、ここで失礼いたします。――それから、差し出口かもしれませんが、あなたも早く戻られた方がよろしいかと…」
 「どうして?」
 「ここは<王>の私邸の部分ですから、」
 「関係ない人間が立ち入れば、シキに叱られる――そう言いたいのかな?」
 ごく気楽に男は<王>を名で呼んだ。その様子に、私は驚いて男を見た。
 「もしかして、あなたは、」
 「シキの“愛人”ってことになるのかな。…まぁ、呼び方なんてそんなに重要じゃないから、“愛人”でも何でも、好きなように言ってくれて構わないけど」

 (この人が…?)
 現在では、男性同士で関係を持つことは、少数派ではあるが昔ほど特異なことではない。
 それに、男は私の目から見ても分かるような艶やかさを持っていて、<王>が寵愛するのも納得のいく話だ。

 <王>は、あの人は、彼を愛している…。

 「大丈夫?」
 「え?」
 「俺がシキの“愛人”だと分かって、そんなに驚いた?――泣きそうなカオしてたけど」
 泣きそう?私はそんなに情けない表情をしていたのだろうか。
 思わず両手で頬に触わる。そして、すぐに触るだけでは顔など分かるはずもないことに気付いて、窓ガラスに自分の顔を映してみた。けれども、ガラスには至って普通の自分の顔が映るだけだった。
 「???」
 「――もしかして、と思ったけど。無自覚なんだね」
 謎掛けのように男は言う。私は意味が分からず尋ねたが、上手くはぐらかされて答えはもらえなかった。



***



 男は、自らアキラと名乗った。
 アキラの後について、私は初めて<ヴィスキオ>の<王>であるシキの居室に入った。おそらくこの国で最高の権力を持つであろう<王>の居室は、拍子抜けするほど簡素だった。
 広さはある。けれど、室内に置かれた調度品は装飾性を抑えたシンプルなものばかりで、権力者という語が与えるイメージには結びつかない。それでも、シンプルな調度品が広い室内にあってもみすぼらしく見えないのは、実は高価で質の良いものだからだろうか。

 (あの人らしい、のかも…)
 ふと垣間見た<王>の姿を思い浮かべる。
 <王>は<ヴィスキオ>の頂点に在りながら、自ら交渉に赴き、刀を振るうこともする。権力者らしくないその在り方が、私室にも表れているように思えた。

 (…?)
 不意に視線を感じて、顔を上げる。すると、こちらを見ていたアキラと視線が合った。庭での印象からするとアキラは穏やかで優しい性格であるように私は思ったのだが、今こちらに向ける視線は感情の無い、見透かすような透明な眼差しだった。
 何か気に障るようなことをしてしまったのか、と不安になる。が、次の瞬間にはアキラは、無表情が幻だったかのように微笑んだ。
 「驚いたでしょ?あんまりにも<王>らしくない部屋だから」
 「あ、いえ、そんなことないと思います…」
 「それは本心?」
 笑みを含んだ声で言い、アキラは少し身を屈めるようにして顔を覗き込んでくる。そうされると――美人に弱いと私は密かに自負しているので――もう、逆らうことは出来なかった。
 「本当は、その、少し驚きました…――あ、あそこ、窓が開いてますね」
 これ以上視線を合わせているのは心臓に悪そうで、私は無理に話題を変えて部屋の奥を指した。そこには更に奥の部屋へと続く扉があり、半開きになった隙間から、庭に面したガラス戸が細く開いているのが見えていた。そこから冷気が入ってきているらしく、時折私のいる位置まで冷たい風が届く。
 「あぁ、俺はあそこから庭に出たから」
 「私、閉めて参ります。部屋が冷えてしまうといけませんから…」
 言うが早いか、アキラの眼差しから逃れるように足早に奥の部屋へと向かう。そして半開きの扉の前に立ったとき、私は足を止めた。

 扉の先は、寝室だった。

 「あの、申し訳ございません――何の断りもなく…」
 他人の寝室に立ち入るのは、一般的には不躾な行為になるだろう。けれども、使用人としての仕事の中にはベッドメイキングなども含まれるから、戸惑うことでもないのかもしれない。それでも、私は使用人という仕事に就くのは初めてのことで、困惑せずにはいられない。
 謝罪の言葉を述べならが振り返ると、アキラは驚いたような表情をしていた。それが、じきに笑みに変わる。
 「いいよ。窓、閉めて」
 許可を得たので、ドアをすり抜けるように寝室に入る。室内をあまり見ないようにしながら、細く開いたままのガラス戸に足早に近づいた。そしてガラス戸を閉めたところで、
 「あ、雪…」
 「やっぱり降ってきたね」
 振り返ると、いつの間にかすぐ後ろにアキラが立っていた。
 「そういえば、君はこういう仕事は初めて?最近入ったみたいだし」
 先程の不自然な反応から推察されたかと思うと恥ずかしいが、事実には違いない。私は正直に肯定した。
 「そう。新入りさん、お名前は?」
 「、と申します」
 「
 音で遊ぶようにアキラは私の名前を繰り返してから、花開くように微笑んだ。

 「…俺と遊ぼう?」








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