ささやかに冷酷(後編)


 『――遊ぼう?』

 その言葉の意味を問う間もなく、腕を強く引かれる。気がつけば、何か柔らかなものの上に倒れこむ形になっていて、私はひどくうろたえた。
 (これ、ベッド…!?)
 自分が身体の下にしているものに思い当たり、慌てて起き上がろうとする。が、アキラが身体の上に乗り上げてきたせいで、身動きが取れなくなってしまった。
 「アキラ様…」
 「まだ起きちゃ駄目だよ、は俺と遊ぶんだから。子どもじゃないんだから、どういう意味か分かるでしょ?」
 「そんなの、分かり、ません…どうしてこんな…」
 「驚いてる?――目が丸くなってるよ」
 くつくつと喉の奥で楽しげに笑い、アキラは顔を近づける。近すぎる距離に恐れを感じて目を閉じ顔を背けると、左の瞼の上に柔らかなものが触れた。
 それが唇だったと気付いたのは、柔らかな感触が去った後で、私は驚きアキラを仰ぎ見た。
 「――本当に、冗談はこの辺りで終わりにしませんと。あなたには<王>がおられます。こんな戯れはお止めください」
 「シキはいないよ。出掛けてしまって、俺を構ってくれない。…どうしてかって言うとね、気に入ってるからだよ。の、そのシキみたいに綺麗な黒髪とか、がシキを好きなこととか。だから、俺と遊んで?」

 私が、<王>に恋をしている?
 一体何をどうしたら、そういう結論に至るというのか。

 「そんな、私が<王>を好きだなんて、勘違いです!」
 「自覚してないだけだよ。そういうのは初々しくていいと思うけど、あまり自分の感情に無自覚だと、大切なものをなくすよ?」
 まぁそれはどうでもいいんだけど、と呟いて、アキラは私の首筋に顔を埋めた。温かく濡れた舌の感触が肌の上を這って、これから自分の身に起こることを実感する。どうにか逃れようと盛んに身を捩るが、アキラはその細い外見に似ず思いのほか強い力で身体を押さえつけていた。
 「嫌なら本気で抵抗しなきゃ」
 アキラは笑ってそう言うが、私にはそれ以上の抵抗ができなかった。
 人を傷つけることが、怖い。誰かを攻撃すれば、それは自分に戻ってくるかもしれない。そうして自分が傷つくのが嫌だから、誰かを害したくは無い。
 「アキラ様、お止め下さい」
 身じろぎを止め、目を閉じて言う。諦めたのではなく、どうしても聞き入れて欲しかったからその言葉に望みを託した。こんな状況になっても、私はまだアキラを傷つけることを恐れていた。
 「口で言うだけでは、だめだよ」
 「あなたを傷つけたくないんです」
 「それは優しさじゃなくて、甘さだよ」
 一際優しい声でアキラが言った後に、額、瞼、顎と順に唇が落ちてくる。これから陵辱しようとしているのに、それは何故か労わるような仕草だった。

 「シキが好きなら、シキがするように抱いてあげようか?」

 不意に耳元に落とされた囁きに、私はなぜか居てもたってもいられないような気分になって、アキラを押しのけようとする。その腕を捕らえられ、抵抗を封じ込められた。
 「シキの名前には反応するんだね」
 「違います!私は――」
 言いかけた言葉は、口付けによって封じられた。



***



 ふわり、と一瞬冷たい風が頬に当たるのを感じて、目が覚めた。
 起き上がれば、そこはいつもの自分のベッドではない。身じろぎをすると身体が少し痛み、自分に起こったことを思い出した。
 私は、<王>の愛妾と肌を合わせたのだ。

 <王>の愛妾に手出しすれば、<王>に斬られる。
 それは<ヴィスキオ>の中ではよく知れた話であるのに、愛妾に手を出す者は後を絶たない。働き始めて数ヶ月の間に私はすでに3度、<王>に殺された男の死体を見た。その度に、“殺されると分かっていてどうして”と不思議に思ったものだった。
 けれど、今なら分かる。
 あの男たちは、そうせざるを得なかったのだ。花の蜜のように甘やかなアキラの色香に、花弁のように艶やかな容貌に、虫のように惹かれていくしかなかったのだ。

 そして、私も彼らと同じく<王>に殺されるだろう。

 そのことを思うと、恐ろしさより悲しみを強く感じる。自分でも理由が分からないのに泣き出してしまいそうで、きつく目を閉じて涙が落ちるのを押し留めた。奇妙なことに、私を陵辱したアキラへの怒りはなかった。
 いずれ<王>に殺されるのならば、自分の仕事はきちんと済ませよう。そして、どうせ逃れられないのなら、真っ直ぐに顔を上げて、斬ってくださいとあの人の前に立とう。
 それが私の最後の意地だから。
 そう思いながら私はベッドを降り、乱れた着衣を直し、アキラの姿を探した。――さしあたって、彼の朝食の給仕が済ませてしまうべきやりかけの仕事だった。
 けれど、室内にアキラは居なかった。
 「一体どこに…」
 ひとり困惑したところで、ふと先程冷たい風を感じたことを思い出し、私は窓の外を見る。すると、思った通り雪の降りしきる庭に、アキラの後姿が見えた。初めて会ったときと変わらず、彼はシャツにジーンズという薄着で外に出ていた。
 「この寒いのに…」
 何となくいじらしさを感じ、私は寝室のガラス戸から庭へ降りてアキラを迎えに行く。名を呼んで傍に立つと、彼は驚いたような表情で私を見た。
 「ここにおられては風邪を引きます。中へ戻りませんか?」
 「君は――自分を犯した男の体調なんか心配するの?」
 「はい、それが仕事ならば。…私はこの仕事が好きでした。自分でようやく手に入れた、身体を売らない真っ当な仕事ですもの。だから、どうせ<王>に殺されるのなら、自分の仕事はきちんとしたい」そう言ってから、私は立ち尽くすアキラの腕をそっと掴んだ。「さぁ、中に入りましょう」



***



 こまごまとした仕事を終えて戻ると、使用人のまとめ役である執事が私を待っていた。
 予定外の事態があったこと、そのせいで皺になった制服を替えるために更衣室に立ち寄ったことのために思いの外時間が経っていて、私は叱責を受けるのだろうと覚悟した。
 けれども、そうではなかった。執事は私の身に起こる事態を予測していたのか、ひどく心配そうな表情で私を迎え、どうだったかと尋ねた。
 「どうだったか、というのは…何かご存知なのですか?」
 「先日、アキラ様はお前を給仕に寄越すようにと私に言われた。そんなことは今まで無かったというのに…。何か良くないことがあるのではないかと案じていたが、やはりそうだったのだな」
 知っていて行かせたのかと思うと執事に腹が立つ気もする。が、彼とてアキラにさからうことなど出来ないのだろう。私は心の中でだけ“お互い大変ですね”と呟いた。
 「何があったのかは大体予想がつく。――悪いことは言わない、シキ様が戻られる前に逃げた方がいい」
 「いいえ、私は逃げません。逃げてもどうせ逃げ切れはしないのですから、正々堂々とここにいます。…どうか仕事に戻らせて下さい、<王>に斬られることを忘れていられるように」
 「すまない」
 執事は低くうめくと、両手で顔を覆う。私はその姿に会釈をひとつして、仕事に戻った。



***



 その日の夜、<王>が<城>に帰還した。
 <王>――シキは、戻って特に急務がなければ、アキラの元へ行くのが常だ。そういう場合、<城>の私邸部分へと続く廊下で<王>を迎えるのは、使用人たちの役目である。

 この日も、<王>は戻るとすぐに自らの居室へ向かった。

 <城>の中で<王>の私邸にあたる部分は<ヴィスキオ>が本部として使用する建物から独立している。一旦中庭を通らなければ、私邸部分に入ることはできない。使用人は、その玄関にあたる場所に立ち並び<王>を迎えるのだ。
 不意に数人の幹部を従えて、<王>が姿を現した。幹部たちは通路の半ばに留まり、<王>だけがその先へと歩いていく。
 私は通路脇に立ちながら、通り過ぎていく<王>を見た。白皙の美貌、紅い瞳、翻るコート――断片的に、けれども鮮やかに映像が目に焼きつく感覚。私は束の間、彼に殺されるのだという恐怖を忘れた。
 「――おかえり、シキ」
 聞き覚えのある声に、顔を上げると扉の前にアキラの姿があった。立ち並ぶ使用人は皆俯きアキラを見ないようにしていたが、私は礼に反しない程度に顔を上げて彼を見る。アキラも、こちらを見ていた。
 「今戻った。今回は大人しくしていたか?」シキはアキラに尋ねたが、やがてその視線の先を追って私に目を止めた。「今度の遊び相手はアレか」
 シキと視線が合い、背にぞくりとしたものが走る。それでも、私は目をそらさずにゆっくりとシキの前に進み出て跪いた。斬られるときに周囲を巻き込まないようにするための行動だった。
 「ほぅ、自ら名乗り出るか」
 面白そうに薄く笑みを浮かべ、シキはゆっくりと刀に手を掛ける。私は震えて泣き出しそうなのを必死で堪えながら、目を閉じた。

 けれど、静かに待った死の瞬間はいつまでも訪れない。それとも、死んだことに気付かなかっただけなのか。
 不審に思いゆっくり目を開けると、シキが無表情でこちらを見下ろしていた。アキラとシキは容貌も雰囲気も全く異なるのに、なぜか無表情で見透かすような眼差しは似ている。そう思っていると、シキは何も言わずに踵を返し、アキラを伴って私邸へと入っていった。
 シキの視線から解放された途端、身体が震え涙が溢れ出した。<王>が私邸に入りで迎えを終えた使用人たちが、好奇や同情の視線を送りながら去っていくが、そんなことは気にならなかった。
 私はその場にへたり込み、安堵したのか悲しいのか分からないまま、ひとり泣き続けた。



***



 「なぜ止めた?」
 私室に入り二人きりになると、シキはアキラに尋ねた。
 「止めた?何のこと?」
 先に奥の寝室へ向かいかけていたアキラは、立ち止まると首を傾げながらシキを振り返る。
 「あの使用人を斬ろうとしたときのことだ」
 「それは俺が聞きたいな。どうして斬らなかったの?いつもなら問答無用で斬り捨てるのに」
 「お前は斬るなという顔をしていた」
 そうだ。
 シキは刀を抜きかけたとき、ふと背にアキラの視線を感じて振り返った。そのときアキラは、確かに痛ましいような表情をしていたのだ。今まで己と通じた男が斬られるときすら笑顔で見守ったというのに、である。
 けれど、シキの言葉にアキラは不思議そうな表情をした。――自覚はないようだ。
 「まぁいい」溜め息のようにシキは言った。「それで、お前はあの女をずいぶんと気に入ったようだな?」
 「そうだって言ったら、嫉妬してくれる?…うん、確かに気に入ってるよ。黒髪がシキみたいに綺麗なところとか、真っ直ぐにこっちを見るところとかね。――でも、シキの方があの子を気に入るんじゃないかと思うな」
 「どういう意味だ」
 シキが不審そうに眉をひそめると、アキラが近づいてきて自分から口付ける。いつものように深く合わせるのではなく、触れあわせるだけですぐに離れた。


 「さぁ、何となくそう思うだけ」
 あとは自分で考えて――翡翠色の瞳が、楽しげに告げていた。





End.
配布元:『ivory-syrup』より
「ささやかに冷酷」

前項
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