その眼差しを、感情を、意識を他の全てから奪い取りたい。 こんな苛烈な衝動が、あの温かな感情と同じである筈がない。 喪ったのではなく始めから持たない 魔物討伐の遠征から帰還した後数日は、久しぶりの休暇が与えられた。 休暇を幸いとばかりに朝の遅い時間になっても惰眠を貪る<契約>相手の姿に、シキは眉をひそめた。常人より休息の必要の少ない筈の<契約者>だが、その分を差し引いて一般的な基準からしても、寝過ぎではないかと思う。 確かに、昨夜は遠征で消費した魔力の補充のために、交わりはした。<契約>の際、心臓と共に余分にの方へ移った魔力を受け取るには、それが最も確実で効率的で相手に負担の少ない方法なのである。あの行為は確かに疲れるだろうし、身の内にある魔力を奪われるは尚更だろうが…何か、釈然としない気がした。 呆れているということはあるが、それだけでもない。苛立たしいのとは少し違う。軽蔑しているというわけでもない。 ただ、そう、面白くない。 必要以上に眠り続ける娘。 戦場では<契約者>であることを利用して不眠不休の役目を買って出たりもする癖に、休暇の度に埋め合わせのようにだらだらと眠る。それは、自分が常人でなくなったことを恐れ、あくまで人間であろうと足掻いているかのようで――まるで、自分と同質のものになることを拒むかのようで、面白くない。 いっそ叩き起こしてやろうかとシキは寝台に近付いて手を掛ける。が、何を寝惚けたのかが幸せそうに(それこそ猫ならば喉でも鳴らしそうな上機嫌で)触れた手に擦り寄ってきたので馬鹿らしくなって止めた。 眠り続ける相手にいい加減付き合いきれず、シキが騎士団寮の部屋を出たのは、それから少し経った昼前のことだった。 が形ばかりの<竜騎士>に任じられたときから、2人は国王直属の騎士団に属するようになった。同時に王宮の敷地内にある騎士団の寮に部屋が与えられ、そこに住むよう定められた。 その寮を出て、シキは一人で王都の中心部にある女神の神殿へ向かった。 神殿とはいっても、礼拝のためではない。シキの種属はたとえ己の創造主に向かってでも祈りを捧げるような習慣は持ち合わせない。だから、シキの目的は国内随一とされる神殿の書庫の蔵書だった。 既に数千年を生きたシキが、今更人の手による書物から新しい知識を得るということはない。そうと知りながらも書物を手に取ったのは、初めは単なる気紛れでしかなかった。だが、一度目を通して見ると人間の書物は思いの外良い暇つぶしになった。 決して、目新しいということはない。 どれほど優れた内容であっても、この世界の真理そのものを描写するということはない。 女神に近い存在である竜ならば生まれながらに感覚で真理の全体像を悟るが、人間は懸命に手を伸ばしても辛うじてある一点に触れるか触れないかというところである。それでも手を伸ばして真理を求め、言葉で記述しようとする人間の懸命さ――内容よりもむしろそちらに興味を引かれる。 それを面白いと感じるようになったのは、いつからであったか。 *** 夕方になり寮に戻ると、部屋にの姿はなかった。 がらんとした部屋の中を見るともなく見れば、がよく薬草集めに使う籠と剣がなくなっていることが分かる。さすがに1日寝て過ごすことは気が咎めて、森へ薬草を集めにでも行ったのだろう。王都では薬など容易く買い求められるし、何より<契約者>は怪我の治りも早くて薬など必要ではないが、は未だに趣味として薬草を調合している。 自分の剣を忘れずに持っていったことは上出来だ、とシキは思った。 だが、一体なぜシキのものまで無いのかということは大いに疑問だった。 女神の神殿では帯剣は禁じられて、武器は預けるきまりになっている。それを知っていたからシキはどうせ預けるならばと自分の剣は持たず、小振りのナイフのみを携えて昼前にこの部屋を出た。放置していた方が悪いと言われればその通りだが、それは<契約>相手が剣を持ち去った理由にはならない。シキが化身してから愛用している剣は少々特殊で、“刀”と呼ばれる。この国の東部沿岸地域でのみ打たれる刀は、売ればそれなりの値がつくだろうが、使うとなるとに扱えるものではない。 はて、一体何のつもりなのか。 困惑するというよりは呆れながら、シキは再び部屋を後にした。 王都の街中を抜け、北にある森へと向かう。 森は生命の盛んになる夏ということもあって様々な気配に満ちているが、細々とでも魂に繋がりがある分の気配は探しやすい。その細いけれども確かな糸を手繰るようにして、シキは森へと分け入っていく。 探し人は、それほど森を進むまでもなく、すぐに見つかった。 『シキ』 身を屈めて低木の陰にある草を摘んでいたが、近付くまでもなくこちらを振り向いて立ち上がる。その動作の続きのように、彼女は手に携えていた刀をシキへと放って寄越した。 「どういうつもりだ」 緩やかな弧を描いて宙を舞った刀を受け取りながら尋ねれば、 『密会へのお誘い』 は無邪気に答えた。およそ“密会”という雰囲気には程遠い、悪戯の成功した子どものような笑顔を浮かべている。恐らく自分の言葉の意味は理解しているようでしていないのだろう、と確信しながら溜め息をついた。 そんなシキに気付かず、は足下に籠を置くと腰に吊るした自分の剣を抜き放った。 『剣の稽古に付き合って欲しくて。この前駄目だったところを直したいの』 「熱心だな」 シキは僅かに揶揄するような響きを声に乗せる。彼女が特に強さを求めるでもないことは普段の様子から分かっているので、意外だという意味を込めて。すると、は否定するでもなくしっかりと頷いてみせた。 『私は、まだちゃんと<竜騎士>を演じられるくらい強くないから』 神妙な面持ちで言ってから、はふっと微笑した。 同時にふわりと温かな感情が一瞬だけ、こちらへ伝わってきた。本性のときほどではないにしろ、時折こうして相手の感情を感覚することがある。今までにも何度か感じたことのある温かな感情の流れに目を細めながら、シキはの言葉を聞いた。 『――それに、実際に戦うのは嫌いだけど、シキとの稽古は好きよ。だって、あなたの剣を振るう姿はとても綺麗だもの』 *** キィンと刃がぶつかり合い、離れていく。以前に真っ向からの鍔迫り合いで力負けしたことを学習してか、は慎重に力での競り合いになることを避けているようである。改善すべき点は多いものの、呑み込みが早いのは良いことだ――シキは表情には出さずにそう思った。 或いは、上達が早いというのは自身の能力というより、短命を宿命付けられた人間という種属の性質なのかもしれない。 たとえば、今は2人の間で日課と言ってもよい剣の稽古だが、シキがそれを真剣で行うものだから、は当初など殆ど半泣きで剣を手にしていたものだった。それも何度か続ければまともに剣を構えられるようになったし、そうするうちに剣の扱いも馴染んできて、今では並みの兵士には負けない程の使い手となっている。 だが、上達すればする程にその剣の振い方が自分のそれに似てきていることに、この娘は気付いているのだろうか。――まさしく自分ならそうするだろう、という間合いでの剣が振り下ろされて、それを受け止めながらシキは少し複雑な気分になった。 人であることに拘り、己と同質になることを拒む娘。人間の非力ながらも懸命に足掻く姿をこそ面白いと思う一方で、この娘に関してはいつからか足掻くことを許さず囲い込んでしまおうかと思うようになっていた。 ――それが、いつからかは思い出せないが。 シキは俄かに刀に力を掛け、の手の中から剣を弾き飛ばす。 それは普段稽古の際に手本となるように示す型からはやや外れた動作で、対応しきれなかったはあっさりと剣を失って驚いた表情になっている。そこで更にシキは隙のできた彼女の腕を掴んで引き寄せる。 無意識に剣の振い方を真似る程己を求めるならば、いっそその身を全てこちらに委ねればいい。 他の誰にも目を向けず、笑いかけず、気に掛けず、只こちらを見ていればいい。 駆け上がってくる飢餓にも似た衝動に、シキは無防備に薄く開いたの唇に自分のそれを合わせる。差し入れた舌で舌を絡め取って口づけを深めれば、やがて驚きに身体を硬直させたままのから緩やかに感情の流れが伝わってくる。 驚きと、包み込むような温かな感情と、そこに混じる砂糖菓子のように甘やかな何かと。それを人間が何と名付けるのか、分からないわけではない。多少の語弊はあれども、それらは愛とか恋とか名付けられるのだ。ただ、シキの種属は基本的に生涯を単独で過ごすものであるから、その感情に関する知識はあっても人間と同等にそれに意義を感じるわけではない。 その不可解で不必要な感情まで奪うように、シキは温かな口腔の内側を深く貪る。奪っているのはこちら側だというのに、飢餓にも似た衝動はまた少し強まったようだった。 ――キリがない。 自嘲しながら唇を離せば、は体勢を崩してシキの腕の中に倒れこんできた。慌てて身を離そうとするのだが、脱力してしまっているようで、身体を強張らせる程度にしかならなかった。とうとう諦めたのかはシキに身を預けたまま力を抜いて、ふ、と吐息に混じる熱を隠すように、何度も細く震えるような息を吐き出して呼吸を整えている。やがてシキへと伝わる彼女の感情の中で、苦さと悲しみが大きく膨れ上がって甘やかなものを打ち消したとき、ふつりと感情の流れは途絶えた。 『今のは…一体…どうして』 そっとシキから身体を離して、は尋ねた。彼女の戸惑いも無理はない。魔力の受け渡しに伴う行為の一環として口付けをすることは仕方ないが、それ以外ではそうする理由もないのだから。 「剣が上達したとはいえ、お前はまだ隙が多い。隙を衝かれた代償が、何も死だけとは限らないだろう」 言い訳めいた言葉。だが、シキがわざと嘲笑めいた笑みを見せると、は更に追求することを止めて眉をひそめた。戦場で女が殺されるよりも慰みものにされることもあると、彼女はその身で以って知っている。シキの言葉で2人が出会ったまさにそのときのことを思い出したらしかった。 『それは分かってる。でも、あなたとの稽古の間は、そんなこと考えたくないし考える必要も無いと思っていたから。あなたはきっと誰かをそんな風に扱わないって信じてた』 それって人が好すぎることになるのかな、とは淡く苦笑う。 その表情に、またシキはあの飢餓めいた衝動を覚えた。 以前はその衝動を察知して“ナルシスト”などとシキに言ったのかもしれないが、それが自己愛だとはシキは思わなかった。自分と同質だから愛おしいというわけではない。むしろ、の中に異質を見るからこそ、奪い取って囲い込んでしまいたいと感じるのだ。 人間ならこの衝動にも名を付けるのかもしれないが、それがあの温かな感情と同じ名前であるはずがない。 相変わらず飢えを訴える本能を抑えながら、シキはそう思った。 End. 配布元:『模倣坂心中』“造りかけの似姿”より 「喪ったのではなく始めから持たない 」 |