妄執による畸形ならば いつの間にかしとしと空から静かに落ち始めた雨粒が、大きく葉を広げ枝を伸ばした庭の木々の上に降りかかっている。雲行きが怪しいと思っていたら、昼を過ぎた頃から雨になったらしい。そのことに気付いた私は、足を止めて廊下の窓からそとに見える庭園を眺めた。 ここは室内だから分からないが、一歩庭に出てみれば、湿気を含む風や土と水と草木の匂いの混じった空気に触れることができるだろう。そう思うと、堅牢な<城>の中でもその初夏の空気の気配を一瞬感じたような気になった。 窓の外では、いつの間にか数種類の紫陽花が見事な花をつけている。 (アキラ様、もう知っているかしら) 紫陽花を見ながら、私はごく自然に自分の主のことを思った。 私の直接の主は、この<城>の最奥に住まう<ヴィスキオ>の<王>の愛妾である。<王>は彼を非常に寵愛しており、愛妾のためだけに今私が目にしている庭園を造ったほどである。ただ、愛妾は周囲のことにも自分に向けられる感情にも、時折自分自身にさえ、ひどく無関心なところがあって――私の役目は本来彼の世話なのだが、無頓着があまりに酷いので彼の興味を外界に向けようと他愛ない出来事を報告することに躍起になっている。 何々の花が咲いたとか、どこそこにオープンした洋菓子店はおいしいとか、<城>の中庭で見かける猫がどうだとか、本当にどうでもいい話題を子どものような熱心さで話す。けれど、彼は案外楽しそうに聞いてくれるのだった。 以前手酷い仕打ちを受けた相手であるのに、どこか不安定で儚げなところがあるので――憎めない。何だか放っておけない気になってしまう。 (これは絆されたことになるのかしら…)だったら安っぽい女みたいで嫌だ。 嫌な考えに至ってちょっと顔をしかめたとき、 「やっぱり降ってきたな」 背後から声を掛けられて、私は振り返った。 廊下をこちらへと歩いてくるのは、知り合いだった。年齢は30代後半だろうか、<王>の愛妾の警護についているナルセという男だ。仕事の場所が近いということもあって度々話す機会があるし、仕事で手伝いが必要なときは手を貸してくれることもある。いつも飄然として他の<ヴィスキオ>の男たちのように粗野ではないので、気安く接することのできる相手だった。 「そうですね。困ったものです」 ナルセに苦笑して見せてから、もう一度窓の外に視線を走らせる。 私は雨は好きなのだが、主のアキラは雨が降ると少し心が不安定になる。今のように、<王>が不在のときは殊更に。だから、最近では雨が降ると自然とアキラの様子が気に掛かる。 「大丈夫さ」ナルセもアキラの側近くに仕えているので、雨のときのことは把握している。私が言葉にはしなかった意味まで読んだらしく、そんな風に言った。「あんたが世話係になってから、あの方は前より大分落ち着いてるんだ。あんた、気に入られてるんだよ…とはいっても、あの方に好かれるんじゃぁ、あんたは大変だろうが」 「別に、アキラ様はいつもあんな風だと思うのですが」私が特に好かれていということはない。 「いや、あんたは好かれてるよ。あの方はあんたにこそ纏わりついているが、今まで他の女には必要以上に接したりしなかった」 アキラが私に気を許しているという言葉を聞くと、照れるような誇らしいような嬉しいような感情が湧いてきた。“好かれている”なんて思い込みであるはずなのに、ひどい仕打ちを受けた相手であるにも関わらず、である。 どうしても無表情で聞くことはできず、かといって笑うわけにもいかず、私は唇を引き結んで目を伏せる。 どんな感情も、今は他人に知られたくないと思った。 思い過ごしです。そう言ったのに、ナルセは言葉を止めなかった。 「まぁ、あの方があんたに懐くのも分からなくはないよ。あんたは、気負わずに接することができるというか、傍に居ると何だか安心できる感じだからな。<ヴィスキオ>にはちょっと居ないタイプだ」 「…そんなお世辞を言っても、何も出ませんから」 いい加減気恥ずかしさと居たたまれなさが限界を越して、ナルセの言葉を受け流すことにする。苦笑して腕に抱えた荷物を持ち直すと、ナルセは私の抱えているものに目を向けた。 「それにしても…重そうだな。あんた一人で平気か?何もあんたが運ばなくとも、他の男連中にでも持って行かせりゃいいのに」 「ついでですから」 私が抱えているのは、<王>が買い求めた書物だった。今日<城>に届けられたばかりで、洋書が4冊とニホンの学術書が2冊ある。私は、それを<王>の私室へ運ぶところなのだ。 書物はいずれもハードカバーで厚みもあるから、実際以上に重たげに見えるのだろう。だが、持ってみれば決して軽くはないものの、持てないことはない。だから、ナルセが「手伝おう」と言ってくれたときも、私はそれを断った。 「平気です。見た目ほど重くはないので」 「だが」 「大丈夫ですよ」ナルセが心配そうなので、私は思わず苦笑する。「箸より重いものを持ったことがないお嬢さまでもないですから、」 「」 不意に声が聞こえて、ナルセと私は一瞬はっとする。いつの間にか、私の主・アキラが廊下のすぐそこに立っていた。いくら裸足であったとはいえ、足音どころか気配もしなかったのだ。廊下を歩いてきたのではなく、付近の部屋のいずれかから出てきたばかりなのかもしれなかった。 「何してる?」 「今、お部屋へ行くところです。少し話していたので遅くなりましたが、」 「いいよ。俺も戻るから、もう行こう?」 黙礼するナルセの横をすり抜けるようにして、アキラがこちらへ歩いてきた。目の前まで歩いてきたところで、私の抱える書物を一瞥し、山の一番上から無造作に一冊手に取る。 「シキの本?」 「はい、そうです」 「またわけの分からない本ばっかり…」 手にした洋書をぱらぱらとめくって見てから、ぱたんと本を閉じる。それから、ふと溜め息を吐いたアキラは、そのまま本を戻してくれるのかと思いきや、私の手から更に2冊の書物を取り上げた。 あ、と思ったときには既に遅く、アキラは先に立って歩き出していた。私は慌ててナルセに会釈してからその背中を追いかける。 「アキラ様…待ってください、私が持ちますから…、」 「言ってる間に着くよ。ほら」 アキラの言葉通り、目的の部屋はもう目の前だった。私は本を取り返すことを諦め、小走りで先を行くアキラの隣に並びながら礼を言った。 *** 気を許すつもりは、決してなかった。 たとえ主でも、アキラは私に害を為した相手だ。いつだって、警戒はしていた。 けれど、私が仕え始めるときの言葉通り、彼はあれ以来性的な意味での接触を仕掛けてきたことはない。触れることはあっても猫がじゃれついてくるような無邪気なもので、そうすると、いつまでも邪険にしてはいられなかった。 以前のように誰彼となく寝所に引き込むという行いも鳴りを潜めて――私は早くも彼の一面を忘れかけていた。 そうだ。悔しいけれど、私は気を許し始めていたのだろう。 *** その日の夜。相変わらず雨は降り続いている。 雨の音も届かない堅牢な<城>の奥、私は<王>の私室へとつながる廊下を歩いていく。 普段はともかく、今日のように<王>が不在の雨の夜、望まれれば傍についているのは私の仕事のうちなのだ。一晩中ということで同僚たちは邪推もしているようだが、そういうことは何もなく、ただ話し相手などをする。 ナルセの言った“気に入られて大変”というのは、その辺りを慮った言葉なのかもしれないと、廊下を歩きながら私は今更に思い至った。だが、特に辛く感じたことはないから、やはり大変だとは思わない。 <王>の私室の手前まで来たとき、ぼそぼそと囁きのような声が聞こえる。はっとして別のことを考えていた思考を戻し、前方を見るとまさに<王>の私室の前に2人の人間の姿がある。 片方は、体格のいい男。黒いスーツ姿で私室を警護する男のうちの一人だということ分かるものの、照明の明度を落としてあるせいで顔までは見えない。もう片方は、もっと華奢な体つきをしている。素肌に白いシャツだけを纏った姿が、薄暗い灯りの中ひどく扇情的に浮かび上がっている。アキラだ。 2人は私に気付かない。 男は小声で何ごとかを言い、アキラが甘さを含む囁きで答えて男の腕に手を掛け――。 「アキラ様っ!」 唐突に、怒りとも悔しさともつかない何かが込み上げる。その感情に突き動かされるままに、私は距離を詰め、男とアキラの間に割って入った。 無鉄砲といえば無鉄砲な行動だ。アキラに目の眩んだ相手、しかも粗暴な<ヴィスキオ>の男を阻んだのだ。これからどんな報復を受けるかも分からない。けれど、そのときにはそんなことに考えも及ばなかった。 男がアキラに手を出したにせよ、アキラの方が誘ったにせよ、その先の行為に及ぶことを見逃すわけにはいかない。互いの合意があっても、アキラは<王>の愛妾なのだし、私にはアキラを守る義務がある。 「このようなことをして、<王>の咎めを受けることになってもいいのですか?」 叱りつけたいのを堪えて低い声で言い、アキラを、次いで男を見る。そこで、私ははっとして動きを止める。そこにいた男は、私もよく知る―― 「ナルセ、さん…」 「あんたは…」 私が呆然と見上げると、ナルセも呆気に取られた顔でこちらを見ている。 「どうして、」思わず質問というより独り言に近い呟きを零す。自分の声が情けなく掠れているのが分かったが、どうすることもできない。 だって、信じていたのだ。ナルセは他の<ヴィスキオ>の男たちのように粗野でも軽率でもない。信頼できる相手で、アキラに惑わされたり手を出したりするような男ではない、と。けれど、それは私の思い込みでしかなかったらしい。 驚きが収まると、再び怒りが込み上げてくる。その衝動に任せてナルセに詰め寄ろうとした私を制するように、アキラが肩に触れてくる。振り返ると、アキラは挑発的な笑みを浮かべていた。 「邪魔は許さない。俺はそいつと遊ぶんだから」 「アキラ、様…?」 「それで俺を庇ったつもり?はっきり言って迷惑だよ。お前はもう退がっていいから、そこをどいて」 「…っ」 まともにアキラの目を見て、私は思わず息を呑んだ。翡翠の瞳に浮かぶ艶めいた色の下、鋭く冷たい氷のような光が垣間見える。途端、ぞくりと何かが背筋を走り抜けていった。 それが純粋な畏怖だったと気付いたのは数秒後のことで、今までアキラにそこまでの恐れを抱いたことのない私は戸惑いを覚える。 「、お前はもう行っていい。――これは許可でなく命令だ」 聞いたこともない冷えた声音。怖い、けれど。アキラの眼差しを遮断するためにきつく目を閉じ、私は何度も首を横に振った。そして、思い切って瞼を上げ、アキラの視線を受け止める。 「そんな命令は聞けません。あなたをお守りするのも私の仕事ですから」アキラに告げて、今度はナルセを振り返る。「行ってください。さすがに何もなければ<王>はあなたを咎めはしないはずです。もしこの忠告を聞いて頂けないなら、私は何があってもあなたを阻止します」 「待ってくれ。俺が行ったとして、あんたはどうする気だ」 ナルセもまた、アキラの眼差しを見たのだろう。そう言って気遣わしげに私を見る。その目が、私ではアキラを宥めるのには不足だと告げていた。 一瞬答えに詰まっていると、不意にアキラがこちらに手を伸ばしてきた。するりとたおやかな腕を私の肩に回し、抱き寄せる。息が触れるほど間近に顔を寄せてくる。 「そいつを逃がす?なら、代わりにお前が相手になってくれる?――シキがいなくて退屈だから今日はどうしても遊びたい気分なんだ。お前が相手をしてくれないなら他を探すけど」 甘い毒のような囁きに、何かが一瞬背筋を抜けていく。それが恐れなのか、嫌悪なのか、期待なのか――考えてみる気にはなれなかった。その感覚とは別に、悲しさがじわりと込み上げてくる。 結局そうなるのか、という諦めもあるにはあった。 けれど、それよりも愛する人が傍にいない不安や構ってもらえない寂しさを、このような形でしか紛らわすことのできないアキラを可哀想に思う。こんな風に、自分を汚すようなやり方をしてはいけない。こんなやり方、孤独になるだけだ。――そう感覚的に思うものの、アキラを納得させられるような言葉も経験も私は持っていない。 ひどくもどかしいような気持ちで、けれど他に譲歩もできなくて、私は頷くしかなかった。諦めの思いで目を閉じると、一瞬だけ瞼の裏に鮮烈な紅が閃いて消える。それが何なのか分かりかけていたが、敢えて深く考えないようにして口を開いた。 「私がお相手いたします」 よくできました。 そう褒めるかのように、アキラの唇が軽くこめかみの辺りに触れてから離れる。「行こう?」と囁き声で促され、手を取られて、私は素直にアキラに従った。 「っ!?」ナルセの慌てた声が追いかけてくる。「アキラ様、待ってください!その子を、」 「お前、もう要らないから」 アキラがナルセにそんな言葉を投げる。温度のない声音が<王>を連想させ、案外アキラとシキは似たもの同士なのかもしれない、と私は頭の片隅で思った。 「、止めろ!確かにあんたは前は無事だったが…次も咎めがないとは言えないんだぞ!?」 「分かっています」足を止め、けれど振り向かずに私は言った。「私は別にいいんです。だから、もう行って下さい。それから、余計なことですけれど、あなたは<ヴィスキオ>から離れた方がいい。<ヴィスキオ>には相応しくないまともな人ですもの、ここにいてはきっと狂わされるだけです…今みたいに」 「それはあんたも同じだろう。どうせこのご時勢だ、<ヴィスキオ>から離れて生きるなんて出来やしない」 全くもって、その通りだ。そういう同意は心の中だけに留めて、私はアキラの後に従って私室へ入る。 結局、後ろを振り返らないままだったので、ナルセがどうしたのか確認はできなかった。 *** アキラは私を寝室へ導き入れようとしたが、私は逆らってその手前の書斎の中央で立ち止まった。 「どうしたの?今更怖気づいた?」 「――その、本当にそういうことをするなら、ベッドは駄目です」 「ベッドが嫌い?……そういう趣味があったんだ?」 そんなわけはない。嫌いどうこうではなくて、気が引けるだけだ。 この部屋のベッドは<王>とアキラが共有している。アキラは本来の使用者だからいいが、私という他人がそのような行為に寝台を使ったら――<王>はいい気がしないだろう。私がシキの立場なら嫌だ。だから、ベッドは避けたい。 「まぁ、俺はどこだっていいけど」アキラは何だか意味ありげな微笑を浮かべる。「でも、床だと後で泣くのはだから」 行為の後、衣服を整えて立とうとしたところで手を引かれて、私は再びソファの上に逆戻りした。と、横から伸びてきた腕がするりと腰を捉える。 「まだ駄目だよ」 囁き声と同時にアキラがしなだれ掛かってきた。 こんな風にじゃれつかれることは今までにもあったので、私はいつもの癖で体勢を変え、ソファの肘掛に背中を預けてアキラの身体を受け止める。ちょうど胸の辺りにアキラの頭が来る状態になる。重さを感じないわけではないが、アキラの身体は軽くて――少し不安を覚えるのもいつものことだ。 「…嫌がらなくなったね、こうして触れても」ひょいと顔を上げて、アキラが私の顔を覗きこんだ。「気長に馴らした甲斐があってよかった」 「ならした…」 手懐けられたというのか、私は。野生動物みたいに。 確かに、隙を見せるまいと気を張っていたことは認める。それから、有耶無耶のうちに気を許すようになってしまったことも。それでも、動物のように手懐けられたといわれるのには抵抗があった。 「はなかなか打ち解けないし、かと思えば他の奴には愛想よく笑ったりするし。だから、あいつを“落とす”つもりだったけど――結局が俺のところに来たから」 初めから私が従うように意図していたのか。それで、よくできました、なのか。 あくまでペット扱いなのかと私は悲しくなる。誘いに乗る方も悪いといえば悪いが、そんなことのためにナルセを巻き込もうとしたのか、とも思う。けれど、虚しすぎて怒る気にはなれなかった。あまりに考え方が違いすぎて、怒ったとしても通じる気がしないのだ。 「そんなことのために、ナルセさんを…」 「そんなこと、じゃない。は俺のものなんだから。――所有物は所有者のためだけに存在しなきゃいけない」 言葉の終わりのほうは、私に言うというよりは独り言のようでもある。そこで、アキラは再び私の胸の辺りに頭を乗せ、腰に回したままの腕に少し力を込めた。 「は俺の所有物なんだから、もう他の奴に気を許しちゃ駄目だ。俺のものである限り、ずっと大切にしてあげるから」 所有物、所有物、とアキラは繰り返す。 まるで呪縛のような言葉。それも、呪縛されているのは私ではなく、多分アキラの方だ。きっと、アキラをその言葉で繋いだのはシキなのだろう。所有物と所有者――そんな関係だけを教え込まれたから、アキラは他にシキを大切だと表現する方法を持たないのだ。 返事をすることができなくて、私は代わりのように繰り返しアキラの髪を梳きながらそんなことを考える。すると、彼は私を抱く腕に少し力を込めて胸元に頭をすり寄せる。抱き締められている、というよりは、縋りつかれているような気分だった。 アキラが私に向ける執着は、きっと、愛でも恋でもない。シキから向けられた執着を、わけも分からずに真似て手近な私に向けてみただけに過ぎない。 それは違うと否定することは容易い。 けれど、否定の後に愛とか恋がこんなものだと説明して、所有する・される以外にこんな愛し方があるのだと示すことはできない――私だって、親と暮らしたから家族の情は知っていても、愛だの恋だのは今一つ理解できないから。否定して代わりに示せるものがなくては、ただでさえ不安定なアキラを余計に不安がらせるだけだ。そう思って、私は何も言わなかった。 せめて、幾らか長くアキラの傍にいることができたなら、愛し方とはまではいかなくとも、所有し執着する以外にも大切だと表現する方法があるのだと示せるかもしれないのに。けれど、じきに処分される身では、それは只の夢想にすぎない。 温い感傷を振り切って、私は<王>の遠征の日程を思い出そうとした。 End. 配布元:『模倣坂心中』“束縛とモノマニア ”より 「妄執による畸形ならば 」 |