ただひとりの君、だから嘘も真実も告げない



 眠りに引き込まれかけたとき、髪を梳いていた手が静かに離れていくのが分かった。
 熱の余韻を残した身体は気だるくて、もう少しだって動きたくはない。眠くて瞼だって重い。けれども、他のどんな感情よりも欲求よりも自分に触れていた手が離れていくことへの苛立ちが勝って、アキラは目を開けて顔を上げる。
 「シキ、どこかへ行く?」
 「いや。書斎に用があるだけだ」
 書斎ということは、仕事の資料にでも目を通すのだろうか。もしかすると、以前アキラがと一緒に運んできた本でも読むのかもしれない。いずれにせよ、シキにはこのままベッドで休むつもりがないようだと思い、アキラは眉をひそめた。
 「一緒に寝よう?帰ったばかりで、シキだって疲れてるはずだ」
 「睡眠は、今必要ない」
 必要あるなしの問題ではないだろう。アキラは書斎への扉へ向かうシキの背を睨むが、上手い説得の言葉を思いつかないうちにシキは扉の向こうへ消えてしまった。「必要があるとかないとか、そういう問題じゃないんだ」掛ける宛てのない言葉を呟いて、アキラは仰向けになって照明を落とされて闇に沈む天井を眺める。

 3年前、Nicolウィルスを得てから、シキはあまり必要以上に休息を取らなくなった。本当はそれ以前のシキがどうだったかなどアキラも知らないのだが、常人からは考えられない程休息が少なくて済むのは、明らかにNicolウィルスの働きだろう。
 休息すら削って何をすることがあるのか――<ヴィスキオ>の支配を拡大するのだ。だから、シキはいつも多忙にしている。アキラを放り出して。
 Nicolの作用なのか、シキは昔より野心的になった。かっては利益など興味がないとばかりにアルビトロにラインを投げ与えていたシキが、今では自分でラインをコントロールして生んだ利益で<ヴィスキオ>の支配圏を広げている。でも、それは何かを手に入れたいがための野心ではなく、ただ自分が走り続けるためだけのものだ。
 <ヴィスキオ>のやり方は間違いなく狂っているが、シキにしろアキラにしろ、それを何とも思っていない。今よりも先に――未来に興味がないからだ。支配者であるからには一応跡継ぎがいることが望ましいはずのシキが、妻も娶らず誰も抱かないのは、まさしくそういうことだった。

 ――けれど、自らの野心を糧に走り続けて道が尽きたとき、シキはどうするのだろう。

 時々アキラはそう思って不安になる。シキが壊れることを案じているのではない。そうではなくて、自分はもしかすると先に壊れて、最後まで傍にいられないのではないか。あの男を独りにしてしまうのではないか。そういう心配だった。
 そして、以前よりかなり脆弱になった自分とNicolウィルスの身体強化の効果を引き比べると、それはあながち杞憂でもないのかもしれなかった。


***


 ふと込み上げてきた暗い思考に眠気は去って、じっと天井を見上げていたアキラは再び静かに書斎の扉が開く気配を感じた。首だけ動かして見れば、だらりと脱力した誰かを腕に抱いたシキが入ってくるところだった。
 シキがこんな風に他人を扱う様子を見たのは初めてで、アキラはベッドの上で起き上がって近付いてくるシキを待つ。シキが傍まで来ると、その腕の中の人物が誰なのかおぼろげに分かってきた。
 「書斎のソファで眠りこけていた」
 「――、」
 もう退がったのだと思っていた。いつだって、彼女は抱き合った後長居することもなく、素っ気ないくらいすぐに仕事に戻ってしまうから。けれど、今日ばかりは終わった後すぐ動けるほどの気力が残っていなくて、寝入ってしまったのかもしれない。
 アキラが手を伸ばそうとすると、シキは意識のない彼女の身体を静かにベッドに下ろした。
 「シキが優しいなんて珍しい」
 「書斎で眠りこけられては目障りだ。かといって、お前のものを勝手に処分するわけにもいかないだろう」
 シキはやはり書斎で何かするのだろう、目障りということばも理解できないことはない。アキラのものだから扱いは任せるという理屈も奇妙ではない。
 それでも、このへの扱いは破格だとアキラは思う。シキには、必要もなく邪魔にもならなければ女や子どもなどのか弱いものを傷つけて喜ぶような趣味はない。けれど、無闇に弱いものに優しくするわけでもない。何かしらシキにこの行動を取らせた原因はあるのだろうが、本人は破格の行動だと自覚しているのだろうか…。
 「俺は、シキがこの子をどうしても殺したいと思うなら止めない。シキは俺の主だから。――でも、そう言ってくれるってことは、まだこの子で遊ぶのを許してくれるってこと?」
 「好きにしろ。俺はこの女がどうなろうと興味は無い」
 「ありがとう」
 アキラは笑って、彼女の寝顔を覗き込む。初めてきちんと目にする彼女の寝顔はひどくあどけなくて、驚くと同時に何だか妬ましい気もした。邪推以外の何者でもないのだけれど、シキの腕に抱かれて運ばれたからこんなに安堵しきった表情なのではないか、とも疑ってしまう。
 それでもあどけない寝顔を見ていると穏やかな気持ちが勝って、アキラはそっと手を伸ばしてみた。手の甲で軽く頬に触れ、指先で額に掛かる髪を払う。何か温かな感情に動かされ、いつも彼女がしてくれるように額に口付けてから顔を上げると、黙って見下ろしていたシキが唐突に踵を返して扉へ向かうところだった。


***


 半分ほど隙間を残して閉じられた扉に、アキラは一瞬目を丸くした。任せるとはいったものの、相手が非力な女性であるものの、彼女がアキラに危害を加えることを警戒しているのだ。
 「心配性だな」
 小さく笑って、アキラは腕を伸ばしの身体を抱き寄せた。いつもとは逆の、自分が彼女を庇うような抱き方。でも、それも悪くないとアキラは思った。優先順位ではシキが勝るものの、彼女を大事にしたいと思うのは本心だからだ。

 だって、彼女には自分がいなくなった後、シキの傍にいてもらわなければならない。

 そう思うようになったのは、いつからだろう。初めて昔の自分にどこか似た純粋さや硬質さを持つを戯れに傷つけて――それでも彼女が心までは屈しなかったのを見たときだったかもしれない。
 は強い。昔の自分より柔軟で、それだけきっと強いから、最後までシキの傍にいてくれるだろう。それに彼女は女性だ。跡継ぎを産むことができる。他の女ならば許せなくとも、彼女なら不思議とそれを許せる気がするのだ。

 だから、いつか来るそのときまで、を――それに彼女の心の硬質な部分を、守ろうと決めている。

 の体温を間近に感じながら、静かに目を閉じる。いつの間にか不安は消え去り、ひどく穏やかな気分が残っている。シキがこういう安堵を感じるときが、願わくば自分といる瞬間に少しでもあればいいのに。――ちらりとそんなことを考えて、アキラは眠りに引き込まれていった。





End.
配布元:『模倣坂心中』“long spell of rain ”より
「ただひとりの君、だから嘘も真実も告げない」

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