黄昏を歩くひとびと 街の外れの空き家に新しい住人が入ったのは、夏の終わりのことだった。 かつて地位のある軍人の別邸であったその家は非常に立派であるものの、第三次大戦末期に持ち主が自殺して以来人が入ったことがない。8年という年月の経つうちにその邸の敷地で亡霊を見る者まで出る始末で、街の人々は“お化け屋敷”として認識していた。だから、新たに住人が引っ越してくる段になって街の人々の噂の的になったのは、無理からぬ話だった。 “お化け屋敷”の新たな住人は4人である。皆が皆年若く、一番年長と思われる黒髪と赤い瞳をもつ冷たい美貌の青年でさえ20代の後半といったところだろうか。その下は20を幾つか過ぎているらしい大人しげな娘で、街に買い物に来ては気安く住人と立ち話をしてよく笑った。2人の他に金髪碧眼の明るい青年と灰色の髪に緑の瞳を持つ人を寄せ付けない雰囲気の青年がいて、こちらは共に20前後のようである。 4人は同居しているものの、今一つどのような繋がりがあるのか傍目には判然としない。年長の青年と大人しげな娘が兄妹であるとか、夫婦なのだとか。いやいや娘と灰色の髪の青年こそ姉弟なのだとか、実は4人は只の友人同士だとか。そんな憶測まで住人の間で密やかに流れる始末だった。 *** ある秋の日の日の夕方。 私は、買い物袋を片手に上機嫌で歩いていた。スーパーで野菜と果物がお買い得だったのである。買い物袋の内訳は梨4個とキャベツ、玉ねぎなどと重いものばかりであったけれど、こういうときはあまり苦にならない。というか、苦になっても買って帰るべきだ。重さのためというよりは買い物袋が破れることを恐れて、私はゆっくりとした足取りで街中を抜けていく。 夏の終わりから住み始めた家は、この街の外れの坂の上にある。周囲は民家が疎らで雑木林に囲まれているため、家路を辿るうちにすれ違う人の姿はぐっと減り始める。そうして坂の下まで来ると、その先にあるのは私たちの家の他は公園や墓地だけなので殆ど他の人がいなくなるのである。 だがこの日、坂の下には珍しく人の姿があった。 夕日に照らされる小さなシルエットが2つ――どうやら子どもであるらしい。 私は少し気になって寄り添う2つのシルエットに近付いた。まだ日が出ているものの、この季節の日没はあっという間である。この街はかなり治安のいい部類に入るとはいえ、不幸な事件や事故が全くないわけではない。子ども2人でこのような人気の無い場所にいるのは物騒であるから、帰るように言おうと思ったのだ。 近付くと、子どもは小さな女の子とその兄らしき男の子であることが分かった。2人は私を見るなりギョッとして声を上げた。 「お兄ちゃんっ…怖い!」涙声を上げる女の子。 「出たっ!!」妹を庇って私の前に立ちふさがる少年。 「――何がでたの…?」 よく分からないまま聞き返すと、2人は目に見えて脱力した。どうやら私を何かと間違えて『出た』と認識したらしい。 「なぁんだ、ただのおばちゃんか」 おばちゃんと言われた。その事実は少なからずショックだったものの、訂正するのは却って『おばちゃん』であることを示すように思えた。私は密かに落ち込みながら、2人を順に見た。 「こんなところでどうしたの?じき日が暮れるから早く帰らないと、」 「おばけやしきを見に行くの。おばけは本当にいるってみんなに教えてあげたいの」 「…妹は、おばけが見えるんだ。だけどみんな信じてくれなくて、嘘つきは仲間はずれだって言って一緒に遊ぼうとしないんだだから、皆におばけがいることを証明するんだ」 そういう少年の手の中には銀色のデジタルカメラがある。おばけを写真に撮る気なのだろうが…。 「そう。でも、坂の上のお化け屋敷にはお化けはもういないと思うなぁ」 どうして。どうして。 丸く見開かれた男の子と女の子の目がそう言っている。私はたっぷりと勿体をつけて次の言葉を発した。 「だって、住んでる私も見たことがないもの」 がっかりした兄妹と別れて坂を上っていると、ゆっくりと坂を下ってくる人影があった。上る私と下る人影。やがてすれ違うが、傍で見ても影は黒い影のままだ。私は立ち止まり、ゆらゆらと揺らぎながら街の方へ進んでいく影を会釈で見送る。 (お化け屋敷にいないとは言ったけど、他の場所にいないとは言ってないのよね…) ただ、迂闊に関わるのはいいことではない。妖は基本的にヒトと相容れないし、全てが全てではないが中には危険なモノも存在する。興味本位に妖に近付くことは、暗くなってから子どもだけで出歩くのと同じくらいには無用心なのだ。 内心で言い訳をしながら前方を向くと、また坂を下ってくる黒い影が見えた。今度の影は揺らいでいない。私は立ち止まったままこちらへ向かってくるその影に笑いかけた。 「シキ…心配してくれたの?」 「いや」影のような黒衣の男――シキはいっそ清々しいほどにあっさりと否定してくれる。「たまたま外に出たところで気になる気配があったのでな。少し様子を見ただけだ」 「私もさっきすれ違った。嫌な感じはしなかったからそのまま見送ったけど」 シキは、先程の人影を追うように視線を坂の下へと向ける。つられるように私も同じ方向を見たが、あの影はもう見えない。 「さて、帰るか」 そう言ったシキは、私の状態を見て僅かに眉をひそめた。その面にはやや呆れている気配が漂っている。 「それにしても、また随分と買い込んだものだな」 「お買い得だったの。うちには食べ盛りの男の子が約1名いるんだし」 力説してしまってから、私はこれこそおばちゃん的台詞ではなかったかと自己嫌悪に陥る。そうしているうちに、あっさりとシキは私の手から買い物袋を奪って歩き出した。「早くしろ」と肩越しに言葉を投げられて、私は慌てて綺麗に伸びた背中を追いかける。追いかけ、追いつき、隣に並ぶ。そうして私は買い物袋に塞がれていない右手で彼の空いている手を取った。 そのような悪戯を仕掛けても、シキは何も言わなかった。こちらを見ようともしない。けれど、あまりの無反応に怯んで手を離そうとしたとき、シキの手に力が込められた。握り締めるようなきつさではなく、ちょうど力の抜けた私の手が滑り落ちるのを止めるくらいの緩やかさで。 「――何をにやけている」 シキがこちらを見て眉をひそめたが、私は家に帰りつくまで笑いを止められなかった。 *** 「お化け屋敷なのだそうよ、ここって」 夕食の後台所に立って果物を剥いていた が唐突に言った。そのあまりの唐突さに、シキは思わず読んでいた本から顔を上げる。夕食の後片付けを手伝って皿を拭いていたアキラも、テーブルで夕刊の英文クロスワードを解いていたリンも、何のことかと手を止めて彼女の方を見ていた。 「それって、街で聞いたのか?」アキラが尋ねる。 「今日買い物の帰りに会った子たち教えてくれたの。ここってお化け屋敷だったんだって」 楽しげに言いながら の手元は滑らかに動いている。するするすると一続きに薄く剥けた梨の皮がまな板の上に山を為していく様は、いっそ見ていて心地がいい。料理の腕は並で、稀にどうしようもない失敗をする だが、果物は器用に剥くのだから不思議だ。そんなことを思いながら、シキは交わされる他愛もない会話に耳を傾ける。 「その子たちには残念かもしれないけどさ。もう出たりしないよ」リンはそう言いながら指先でくるくるとボールペンを回した。「確かにここには“いた”けど、俺たちが入ったときに出て行っちゃったじゃん。払われると分かってて戻るはずないよ」 この邸は、元はと言えばシキとリンの父親の持ち物だった。それをシキが相続したのであって、実は買ったり譲り受けたりしたわけではない。ただ、放置していたものを今になって活用しているというだけである。それは、この街の人間は知らないことだろう。 当初この邸には、街の人間が噂するようなモノが確かに居た。住む者のない8年の間に居ついた存在――しかし、それらはシキたちがこの邸に住むにあたって一斉にどこかへ去って行った。恐らく、居ついたモノたちは新たな住人が自分たちの天敵であることを敏感に察していたのに違いない。 シキとリンは、遡れば巫覡の血筋にあたる。 代々巫覡であった家は、いつのころからだろうか人に害為す人外の存在と渡り合うことを生業とするようになった。必ずしも血縁者全員がそうというわけではなく、殆どは軍人であった2人の父親のように普通の職業に就く。シキもリンも同様に“こちら”の世界に関わる予定はなかったのだが――第三次大戦で血縁者が離散してしまったために、関わる予定の無いものに関わることになってしまった。今では依頼を受けて人外のモノを払うことを生業としている。 2人と違って、 やアキラは3年ほど前までは幽霊とも化け物とも関わりの無い生活をしていた。何もなければ今もその生活を続けていたのだろうが、シキやリンと関わったことで“こちら”の世界に身を置くことになった。今では2人共一端に人外のモノを払う力があるし、名指しで依頼がくることさえある。 揃いも揃って4人がこのような風であるから、この邸に居ついていたモノにとっては紛れもなく天敵であった。 早くも は皮を剥き終えたようで、まな板の上で梨を切り分けている。さくさくと小気味の良い音がする。2枚の皿にそれぞれ1個分の梨を盛り付けると、 は皿を手に台所から出てきた。 「これ、アキラとリンの分ね」 通り掛かりにテーブルの上に皿を置くと、もう1皿を手にシキの居る間続きのリビングへ歩いてくる。「こっちは私とあなたの分」ことりと背の低いテーブルの上に皿を置くと、 はそのままソファに座るシキの隣へ腰を下ろした。 「半分置いておくから」 「全部食べても構わんが」 「それはさすがに無理。今日の梨はかなり大きいもの」 言われてシキは本から顔を上げ、皿に山と盛られた梨を見た。確かに、それで梨1個分というならかなり大きい部類に入るのだろう。そう思いながら に視線を移すと、ひどく得意気な表情をしていた。 「凄いでしょう?もう梨も終わりだけど水気も多いし味もいいし、これは結構お買い得だったと思うの。つい買い込んでしまってもおかしくないでしょう?」 力説する の片手には梨を刺したままのフォークが握られている。なるほど確かに水気が多いのだろう、梨からは今にも果汁が滴り落ちそうになっていた。落ちるな、と思ったシキは彼女の手を掴んで固定すると、顔を寄せて果汁の滴りかけるざらりとした表面を舐め取ってから口に入れる。 「あぁ、確かにこれは味がいいな」 咀嚼して飲み込んでから顔を上げると、目を丸くしていた が一気に真っ赤になって俯いた。 「ちょっとそこ、見せ付けないでくれる?」 からかいを含んだ声が届いて、シキはダイニングの方へ顔を向ける。弟がそれはそれは楽しげな笑みを浮かべてこちらを見ていた。その隣のアキラは目を丸くしていたが、シキと目が合うと急に一心に梨を食べ始めた。その頬が少しだけ赤くなっている。 「――何のことだ?俺はただ味見をしただけだが」 表情一つ動かさず、シキは答えた。 End. |