けれど、けれども、あいらぶゆー





 冬が、もうすぐそこまで来ている。
 日が短くなり、日中の気温が下がり、例年より遅いといわれた紅葉も過ぎて樹々は葉を落としつつある。そんな気候の変化のせいだろうか、我が家の同居猫たちも時折居間の日向でうつらうつらしている姿を見ることが多くなった。
 そろそろ通勤のために、マフラーと冬用の厚手のコートを出した方がいいかもしれない――そんなことを考えながら、私は庭で洗濯物を取り込もうとしていた。時刻は午後3時過ぎ。こうも寒くなってくると、あまり遅くまで干していては、洗濯物はすぐに冷えて湿ってしまう。それでも、まだこのくらいの時間帯ならば日は十分にあり、風さえなければ庭の物干し竿のある辺りは比較的暖かい。
 そうして幾枚かの洗濯物を竿から外したとき、家の方から私を呼ぶ声が聞こえた。見れば勝手口から、同居猫のうちの1匹が慌てたように小走りで近づいてくるところだった。
 「ごめん!俺、取り込もうと思ってたのに…」
 「別にいいよ、私、暇だから。それにコノエ、気持ちよさそうに寝てるんだもん、このまま寝かせといてあげたいなぁと思って」
 十数分前に居間で目にした幸せそうな寝顔を思い出して暖かな気分になり、私は思わず微笑んだ。すると、彼――コノエは一瞬驚いたような表情になったかと思うと、顔を隠すように俯いてしまう。それから再び顔を上げると、コノエは困ったような、少し怒ったような表情を見せた。
 「叩き起こしてくれたらよかったのに」
 少し拗ねたような声で言う。
 何となく、私にもその感情は理解することができた。子どもの頃、母親の用事の手伝いをすると張り切っていたのに、つい遊び呆けて手伝いを忘れてしまっていた。後になって気がつき、慌てて母親の元へ行くと母親自身が用事を済ませた後だった。そのときは、忘れていた自分が腹立たしくて、同時に母親が自分を呼ばずに一人で用を済ませたことが面白くなくて、拗ねみせたものだ。今のコノエの心境は、そのときの私の感情に近いのかもしれない。
 「勝手にやっちゃってごめんね」
 「そんな…あんたが悪いわけじゃない。忘れてたのは俺なんだし…」
 「それじゃぁ、洗濯物の取り込みを忘れたコノエには、後で洗濯物をたたんでもらおう。私たたむのあんまり得意じゃないから」
 洗濯物をたたむのに得意も苦手もないといわれそうだが、実は私はたたむのが苦手だった。いや、苦手というよりはたたむ意義が見出せないのだ。また着るものなんだから、しわにならない程度に広げてその辺に置いておけばいいと思う。とはいっても、常識的に衣類はたたんで収納するものだし、今は一人暮らしでもないからだらしないところは見せられないという意地もあるので、ちゃんとたたむけれども。
 しかし、私の言葉にコノエは真顔で大きく頷いた。
 「あんた、結構たたみ方不器用だもんな」
 見栄を張ったつもりが、ばれていたらしい。


 それから、私たちは手分けして竿に残る洗濯物を外しにかかった。2本ある高さの違う竿のうち、私は低い方の竿を、コノエは少し高い方の竿を受け持つ。手を動かしながら、視界の端に私なら背伸びしなければ外せない位置の洗濯物に軽々と手を伸ばすコノエを見ていると、何だか不思議な気がした。
 コノエは、どちらかといえば小柄な方だ。日本人の基準よりはるかに背の高い他の2匹に比べたら、いっそ頼りないほど小さく見える。だから、年下ということとも相余って、つい自分の弟であるかのように扱ってしまう。けれど――もし仮に同居猫たちがこの先ずっとうちに居続けて、私もこの家に留まり続けるということがあれば――いつかは、そんな風に気楽に思えなくなるかもしれないな、なんてふと思う。と、そのとき。

 「なぁ、こっち終わったけど、あんたの方は…」

 目の前でこちらに背を向けて洗濯物を外していたコノエが、唐突に振り返った。
 2本の竿同士は20センチほどしか距離が離れていなかったので、私たちは間近で見合う形になる。それは予想外の近さで、見合う形に引き摺られるように先日の“毛繕い”の光景が脳裏に閃く。過剰反応とは知りながらも止められず、気がついたときには僅かながらも避けるように身を退いていた。
 「あ…」コノエは驚いたように目を丸くし、ついでしゅんと耳を伏せた。「ごめん。驚かせたよな…この前、いきなりあんなことしたし、あんたがびっくりするのも当然だ」
 「この前って…もしかして、この前のこと覚えてる…?」
 「覚えてる…毛繕いして、それから――キスした」
 リビカにとっては取り立てて珍しくもない行為、更にコノエ自身忘れているとばかり思っていた。だからこそ、こちらも何でもない顔をして接することが出来た。それを、まさかコノエも覚えていたなんて。わざわざ謝るということは、リビカの常識からいっても、やはりあの毛繕いは普通ではなかったのだろう――そう理解すると、急速に頬に血が上ってくる。
 こういうとき、気まずくないように笑って流せるのが大人の態度なのだろう。けれど、そこまで器用にはなれなくて、今どんな顔をしてみせたらいいのかも分からなくなってくる。思わず俯いたとき、「だけど」とコノエが言葉を継ぐのが耳に届いた。
 「熱で変になってたとか、誰でも良かったとか、そういうわけじゃない。多分、あんたが好きなんだ。だから、自分を止められなかった」
 「…っ」
 私は俯いたままぎくりと身を強張らせた。それから、恐る恐る顔を上げる。いつもみたいに笑って、気楽に“私もだよ”と応じることができないのは、はっきりと分かっていた。
 コノエは、ひどく真剣な表情をしていた。それも当然だろう。コノエは、誰かを好きだなんて、冗談で言うような子ではない。
 真剣な面持ちのコノエと向き合いながら、私は困り果てた。毛繕いの一件があったというのにこうなる可能性を考えていなかったのだ。否、あの一件があったからこそ、考えないようにしていたといえる。
 だって、恋愛するには私たち二人は先が見えなさ過ぎる。
 コノエはリビカなのだ。想いが通じ合ったとしても、人間の恋人そのままに接することはできないだろう。それに彼は、いつか自分の世界に戻る。この世界でうちに閉じ込められて暮らすよりはその方がずっと幸せだろう。そんな幾つもの不安要因を抱えているなら、いっそ、私たちの間に恋愛感情など入り込ませない方がいいのかもしれない。
 そんな思案をしながら、言葉を発そうと口を開いたとき、

 「――あっ」

 唐突に風が吹き、手にした籠の中の洗濯物が一枚吹き上げられ、地面に舞い落ちた。
 秋の間私が使っていた、薄手のストールだ。
 慌てて拾おうと屈むと、コノエも同じことをしようとしたらしく、ストールに伸ばした互いの手が触れ合う。その瞬間、触れ合った部分にぱちりと静電気のような痺れを感じた。痺れとはいってもごく軽いものだったはずだが、コノエはまるで火傷したかのようにぱっと手を引く。余程、痛かったのかもしれない。
 「痛かった?大丈夫?」
 尋ねても、返事はない。ただぼんやりとした表情で、こちらを見ている。
 何度か名前を呼ぶと、彼はようやく我に返って、深刻そうな面持ちで「ごめん」と言った。
 「毛繕いのことで責任を取ろうと思って“好きだ”って言ったのに、余計困らせてたんだな」
 「…?」
 「さっき、あんたの感情が流れ込んできて分かったんだ…勝手にあんたの感情を見てしまって、ごめん」
 「感情が流れ込む…どういうこと…?」
 戸惑う私に、コノエは自分が“感情の器”というものであること、そのため他人の感情を感じ取ることができること、そして、その力がほとんど制御できないものであることを説明した。それから、僅かに身を引きながら、彼らしくない自嘲めいた笑みを一瞬浮かべた。
 「嫌な力だろ…こんな力、持っててごめん」
 どこか傷を負ったような表情。コノエはその力のために、あまりいい扱いを受けなかったのかもしれない。看病した夜うなされていたのは、そのときの記憶のせいだろうか。
 ふと、私は自分の内側から何かが込み上げてくるのを感じた。嫌悪でも憐憫でもない。もっと強くて勢いのあるそれは、多分、特殊な能力のためにコノエを虐げてきたであろう何かへの、反発だった。
 内側から込み上げる感情の勢いに任せて、私は自分からコノエの手を掴んだ。
 「力を持ってることなんて、謝らなくてもいいよ。謝るべきなのは、無意識にでも他人の内面を見てしまったことだけだと思う。それだって、コノエは最初に謝ってくれた」
 力を持っているというが生まれつきだというなら、それはコノエのせいではない。積極的に使えというのではないが、自分の個性として普通にしていればいいと思うのだ。たとえば、他人より速く走れる人や遠くまで泳げる人が、そのことで謝る必要がないのと同じに。


 コノエは驚いた表情のまま固まっていたが、やがて、解けるようにふわりと微笑む。互いの距離が近いので、笑みに細くなった目の縁に、僅かに滲む涙さえ見えてしまう。
 「…そうだな」それから、彼はそっと私の手を握り返した。「ごめん…また、さっきあんたの感情が伝わってきた。あんたの感情は、すごく“温かい”から…だから、やっぱり好きだ」
 その言葉と表情に、抑えていた感情が堰を切ったようにあふれ出してくる。
 確かに、恋愛するには私たち二人は先が見えなさ過ぎる。不安要因は山ほどある。それでも、私とコノエの感情がこの先どうなるにしても、私たちの関係がどう変化するにしても、私はコノエに今の自分の正直な気持ちを伝えたいと思った。だって、コノエ自身気持ちを口にすることに躊躇いはあっただろうに、それを越えて打ち明けてくれたのだから。

 「――私は…」

 言いながらも、頭の中では最悪の未来予想図が幾つも渦巻いている。
 けれど、踏み出してみなければ、結局どうなるかなんて分からないのだ。
 後悔なら最悪の結末が訪れるときに幾らでもすればいい。
 不安を蹴散らすように、私は残る言葉を伝えるために大きく息を吸った。








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