ラジオノイズ
遠くで微かなノイズが聞こえる。 それだけが、色を失い沈黙したこの世界に響く唯一の音になる。 シキは真っ暗な闇の中にいた。 左も右も上も下もない。一寸先すら見えない、真っ暗な闇。自分の身体すら見えない。或いは、この場にはシキの身体すら存在していないのかもしれないと思えるほどの闇だった。 つい先程まで、自分は病室のベッドの上にいたはずだ。 そこまでの記憶はある。ならば、ここは一体どこなのか――。 『…同じところに堕ちてきたのだな』 不意に頭の中にそんな言葉が伝わってくる。それは声としてではなく、頭の中に直接言葉として浮かび上がってきたものだ。声を聞くことはなくとも、その言葉の調子だけで、シキは誰が話しているのかを唐突に悟った。 トシマで見失った宿敵――nだ。 『執着すべき相手を喪い、生きる意味を失って、この完全なる虚無へと堕ちてきた。お前は、最後まで、俺に勝てなかった…』 「…そんなことは、もう、どうでもいい」 反駁というには弱々しすぎる語気で、シキは静かに呟く。 この完全なる虚無の世界とやらも、しきりに話しかけてくるnの声も、全ては現実ではあり得ない幻だ。シキは虚ろな気分と共に、そう思う。 現実のnが現在生きているにしろ死んでいるにしろ、こうしてシキの意識に働きかけるというのは不可能だ。そんなことが出来るなら、nicolウィルスの保菌者は、戦闘兵器というより超能力者か人外の存在ということになってしまう。それに、この暗闇を虚無だというが、そんな抽象的な概念が場所として実在するわけがない。 nの声を、この暗闇を生み出しているのは。 (――俺だ。俺自身の弱さが、生み出した幻だ…) シキがそう自覚してからは、暗闇はただ暗闇としてそこに在った。 もはや誰かが現れることもない、闇が晴れることもない。実体さえ持たずに、シキはただその闇の中を漂った。時折外界の風景が視えることがあっても、それはごく僅かな時間でしかない。走る車の窓にのぞく景色のように、すぐに過ぎ去ってまたもとの闇が戻ってくる。 しかし、そんな暗闇の中でも、途切れがちに物音が聞こえてくることがあった。 『………い加減に…て…い…』 『……それ…も……“シキ”……か……』 おそらく人の声なのだろう。 けれど、声というにはあまりに遠く、不明瞭でもある。まるで壊れたラジオから流れるノイズのように、その声はいつもシキには聞き取れない言葉を紡いでいる。シキはいつも、闇の中でぼんやりとそれに耳を傾けているだけだった。自分から話し掛けてみようという気には、到底ならなかった。 それが。 『――…でいいのか…――アキラに恥ずかしくない…か……』 あるとき、途切れがちなノイズがはっきりと哀願の調子を帯びて聞こえた。声が帯びる感情、は何の変化もなく、感覚も感情もない暗闇の世界には明らかに異質で、ふと興味を引かれる。シキは初めて、自分の意識をそちらへ向けようとした。 それには、首まではまり込んだ泥の沼から抜け出そうとするに等しい根気と労力が要った。長いこと虚ろな暗闇の中に沈んでいた意識は、容易には浮上しない。それでもやっと外界が感じられるかというところまできたとき、またあのノイズが聞こえた。 いや、それは最早ノイズではない。はっきりとした人の声として、シキの耳にまで届く。 『――俺は悔しくて仕方がない…!』 強い感情を乗せた声が、叩きつけられる。その強さに引き上げられるようにして、シキは久しぶりに外界の景色を目の当たりにした。そこは闇に沈む前と同じ病院の病室で、ベッドの傍らで若い男が抑えたような嗚咽に肩を震わせている。 その男に、見覚えがあった。 確か<千耳>の跡継ぎで、名はといったか。アキラとは親しい間柄であったらしく、アキラは死の間際にもその名を口にするほどの執着ぶりだ。自分が死んだら泣いて欲しい、と言って。 けれど、その自身はアキラの死を目の当たりにしても、涙ひとつ見せなかった。冷静に弔いの手配を済ませた上、アキラを軍に手渡さないという考え方を貫いて荼毘に付した残りの骨さえ、手元に残さずに散骨してしまった。涙ひとつ見せずの、その淡々とした処置にシキは忌々しささえ覚えたものだったが。 今、はシキの傍らで必死に涙を押し留めようとしている。眼鏡を外して袖口で目を擦り、顔を上げるが、また新たに涙が頬を伝う。まるで子どものように悲しみを露にした表情に、とめどなく溢れ落ちる涙に、シキは微かに動揺を覚えた。 ――虚ろに満たされていた世界が、揺らぐ。 アキラの死以来、暗闇に漂う間はもちろんのこと、目覚めていても常に薄い被膜を隔てたように全てが遠く虚ろに感じられた。何が起ころうと、どういう扱いを受けようと、まるで他人の身の上の出来事のようだった。 その被膜で隔てられた内側の、シキの周囲を満たす虚ろが、目にしたばかりのの涙で揺らぎ始めたような気がする。怒りとは、どういう感情であったのか。悔しさとは、悲しみとは、どういう心の動きであったのか。アキラの死以来遠ざかっていたそれらの感情が、シキの中で微かにざわついている。 シキはそれを疎ましく感じた。走るべき道も失われたこの世界で、生命をつないで、心を働かせて一体何になるというのか。 それに、このまま感情に支配されれば自分は弱くなる。あの男に負けてしまう。 けれど。 「――最悪だ…泣くつもりじゃ、なかったのに…アキラのための涙は、墓まで持っていくつもりだったのに……っ…」 涙混じりに呟かれた言葉に、ふと脳裏でアキラが死んだ晩の記憶が蘇る。そうだ、アキラは最期に言ったのではなかったか――この男に泣いてほしいと。ならば、涙を抑えるよりも素直に泣いてやる方が、アキラの意に添うに決まっている。 そう思い、シキは口を開いた。 「………アキラ、は…泣いてほしい、と…言った…――己の、死を…嘆いてほしい…と…言っていた……だから…泣いてやれば、いい…」 久しぶりに発する声はひどく掠れていて、自分のものとは思えないほどだった。それでも何とか最後まで声を押し出してからふと見ると、は驚いたように目を丸くしていた。その目の縁から、また新たな涙が溢れ出す。 しばらく呆然とシキを見つめていたは、もう涙も拭おうとしないまま、不意にシキを睨んだ。 「…泣けばいいなんて、簡単に言うんじゃないっ。あんたは純粋だからアキラを失って狂うことができるけど、俺にはそこまではできない…アキラを失った悲しみも、泣けば薄れてしまうかもしれない――…だから、泣きたくなかったんだよ!!」 真っ向から叩きつけられたのは、久しく感情に接していなかったシキが受けとめるには、強すぎるものだった。シキを取り巻く虚ろが震え、壊れるかと思ったほどだ。一瞬たじろいだのも束の間、は涙を隠すかのように背を向けて走り去った。 が去ると同時に、辺りは再び静寂に包まれる。そうだ、これでいい。下らない感情などない方がいい。そう安堵しながら、シキは再び虚ろな暗闇へと意識を沈めていく。 ――果たして、このままでいることが正しいのか。 ちりりと胸に湧いた疑問から、敢えて目をそらして。 *** その一件以来、の声は度々暗闇に沈むシキの意識に届くようになった。 は、毎日決まって夕方にシキを揺り起こす。そして、その日の出来事などを一方的に話しながら、シキに食事をさせようとするのだ。といっても、シキは以前から食に興味が薄かったのがこのところ「生命を維持しなければ」という義務感さえなくなって、食べものに手をつけることも億劫になっている。それでも、が箸を手にして他愛ない会話の合間に食べものを差し出してくるので、口を開けないわけにはいかなかった。 そうして、食べものを口にすると、は嬉しそうに微笑んでみせる。他人がものを食べるのが、一体何がそんなに嬉しいのかとシキは不可解で仕方がなかった。けれど、そんなの穏やかな笑みや、他愛ない話にまじえてアキラとの記憶を語る声音は、シキの中に眠る何かを時折ざわめかせることがあるのは確かだった。 音も光も時の感覚さえもない暗闇に取り巻かれ、夕な夕なにに揺り起こされることでやっと時の経過を知る日々がしばらく続いた。そうして揺り起こされてから聞かされる話だけが、シキにとっては外界で起こる全てのことだった。 そんなある日。 『――なぁ、あんた、いつまでそうしてるつもりだ?』 暗闇の中に漂うシキの意識に、ふとそんな声が届く。 幻聴だろう、とシキはすぐに思った。というのも、この暗闇の中にまで届きシキを揺り起こすの声でさえどこか遠いノイズのように不明瞭に聞こえるというのに、その声はひどくはっきりとしていたからだ。きっと、かってこの場に現れたnと同じ、幻に違いない。 第一、この声の主は、もう…。 『返事くらい、したらどうなんだよ』 再び声がして、シキはそちらへと意識を向ける。すると、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる姿があった。青灰色の髪、碧い瞳、そして自分を模したかのような黒ずくめの格好――見間違えることはない、これはアキラだ。 「…どうせ貴様も俺が創り出した幻だろう」 『どうしてそう思う?』 「貴様は死んだはずだ…俺が、この手で殺した」 『だから、もう現れることはないはずだって?』 と、シキの言葉の続きを引き取って言いながら、アキラは唇に皮肉げな笑みを刻む。が、すぐにその笑みを掻き消して、シキを見据えた。その碧い瞳が、シキの記憶にあるのと寸分違わない強い光を湛えている。 『たしかに、今ここに存在する俺はあんたの想像の産物なのかもしれない。俺に分かるのは、自分が“アキラ”だってことだけだ。本物なのか幻なのかなんて分からない。けど、そんなことどうだっていいことだろ。俺は、俺がすべきだと思うことをするためにここにいる。それで十分だ』 「すべきこと…?」 シキが呟くのと同時に、アキラが動いた。 足場があるとも思えない暗闇を蹴って、左のストレートを繰り出す。その瞬間、シキは強い衝撃を感じた。じんと頬に広がる痛みで、自分の身体がそこにあることに気付かされる。 アキラはさらに呆然としているシキの襟元を掴み、激しく揺さぶった。 『どうしてあんたはそんな風になっちまったんだ!?今のあんたは、俺が追い越したいと思った“シキ”じゃない。あんたが今みたいだったら、俺は闘おうとは思わなかった。追いかけて、裏の世界に入ろうとも思わなかった…!』 「その話か」叩きつけられる言葉に、シキは苦い思いを抱きながら虚ろに嗤った。「あの男…も、同じことを言った。やはり貴様は…俺の過去の記憶が形を変えた幻か…」 『っ…そうやって、あんたは俺を幻にして、俺の話を聞かないつもりだろ…。この際だから言ってやる、今のあんたは弱い。今なら俺のように不確かな存在でも、あんたを倒すことができるっ』 不意にアキラは強くシキを突き放した。その手の中には、いつの間にか日本刀が握られている。抜刀の勢いでアキラが斬りつけてくるのを、シキはいつの間にか手にしていた自分の刀を反射的に抜いて受け止めた。 けれど。 振り下ろされる刃を受け止めた瞬間、手の中の刀が今までにないような不協和音を発する。それは、まるで刀が悲鳴を上げたかのようでもあった。 鍔迫り合いになるはずが、気がつけばアキラは刀を振り切っている。気がつけば、シキの手の中からは刀が消えていた。辺りを見れば、半ばで折れた刀の半分がシキのすぐ隣に突きっており、もう半分はアキラの足元に転がっている。刀が折れるなどかってないことで、シキは呆然と空になった自分の掌を見つめた。 刀がなくなったシキに対して、アキラはそれ以上斬りつけることはなく、殺気を消すと静かに刀を鞘に戻した。そして、痛ましいというかのような面持ちで、そっと目を伏せる。 『言っただろ、今のあんたは弱いって。そんな死にかけの心では、刀だって弱くなるに決まってる』 「…貴様は、俺にどうしろと言うつもりだ」空の右手を握り締めて、シキは低く呟いた。「あの男もいない世界で、一体何のために走り続けろという。あそこには!」 「――…あそこには、もう、貴様もいないというのに…」 『…結構仕方がない奴だよな、あんた』 ふと淡い苦笑を浮かべると、アキラはゆっくりとシキに近づいてくる。更に身を寄せると、まるで抱き締めるような格好で、刀を手にしていない右手を背に回して静かに撫でた。 『今のまま朽ち果てて、あんたは本当にいいのか?“俺”に対してじゃなく、あんた自身は自分に恥じないでいられるか?…あんたは、そういうことが平気な奴じゃないだろ。だから、俺はあんたに惹かれたんだと思う』 「恥じる、か…そんな感情などもう失くした」 『嘘をつけ。あんたの感情は、まだあんたの中にある。あんたの生命と一緒に、俺の大切な人がずっと繋いでる。だから、生きろよ。感情を殺すことは、多分強さじゃない。迷いながらでも、怒りながらでも、泣きながらでもいい、nとは違う生き方をしろ。――そうやって初めて、あんたはnに勝てる』 そう言いながら、アキラは手にした刀をシキに押し付ける。勢いに押されてそれを受け取った瞬間、急に闇が薄らぎ始めるのをシキは感じた。 と、不意にアキラがぱっと離れて2、3歩後ろへと退がる。闇が薄れ始めたというのに、アキラの立った場所はいまだ闇が色濃く残っている。アキラはシキの視線に気付くと、ここが自分の居場所なのだとまた淡く笑った。これ以上は、進むことができないのだと言って。 『そういえば、生きろなんて俺が言えた義理じゃないよな』 「――全くだ」 『だけど、あんただって随分好き勝手言って、好き放題してくれただろ。この際お互い様だから、文句は聞かないからな』 アキラは屈んでシキの折れた刀を拾った。折れた切っ先の側部分も柄側の部分も丁寧に拾い上げ、投げ捨てられていた鞘に戻す。そして、大事そうに刀を抱くと、『じゃあな』とシキに微笑んでから踵を返した。遠ざかるその背が、今だに濃く残る闇の中へ消えていく。やがてその背が完全に見えなくなった瞬間、シキの意識も光に呑まれた。 *** 遠くで声が聞こえる。 かってこの意識を度々揺り起こしたのとは違う、別の誰かの声だ。それは、必死に何かを訴えかけようとする調子を帯びていて、シキは不明瞭なその声に耳を傾ける。 『――加減……目を…さない…………軍に…捕まっ…――…救ってやって…れ…』 ――。 その名が聞こえた瞬間、シキを取り巻く虚ろが揺らいだ。 彼が見せた怒った顔、笑った顔、泣いた顔…さまざまな表情が、洪水のように脳裏に蘇ってくる。感情というのはこれほどさまざまであったのか、と今更のように思い出す。その途端、ざわりと失くしたものとばかり思っていた感情がざわめき、おおきなうねりとなってシキの内側に広がった。 “だから、生きろよ” 分かっている。抗いもしないで諦めるなど、敗者のすることだ。たとえ、走るための目的がなくとも、まだ走れるだけの気力があるなら、生き続けなければならない。そう思って、シキは虚ろに支配された身体を動かそうと、懸命に抗う。 次の瞬間、唐突に視界が晴れて、白い天井と白い壁の部屋が見えた。つんと鼻につく薬品のにおいに、そこが入院している病院の病室であると気付く。そこでふと傍に人の気配があるのを感じて、シキはそちらを振り返った。 ベッドの傍らに立っているのは、ではない。初老の男だった。きっと、この男が先程の声の主なのだろう。この男は、が軍にどうされたと言っていた…?ふと浮かんだ疑問に衝き動かされて、シキは口を開いた。 「――話を…聞かせろ……」 *** 時折、粉雪の舞う日だった。冬の終わりの、春を目前にしての最後の寒さといったところだろうか。外気は皮膚を切り裂きそうなほどに冷たく張りつめている。 日が落ちて辺りが暗闇に沈み、いよいよ気温が下がる頃、シキはある街の郊外にある邸宅の庭に潜んでいた。軍に連行されたが、今はある幹部に私的に監禁されているという情報を得たためだった。 <千耳>の知人からを救ってほしいと依頼されたのは、ひと月前のことだ。 だからこそシキはこの場にいるのだが、今に至ってもその依頼を請けた自分が不可解だった。これまでならば、鼻で笑って蹴ってきたような依頼内容ではないか。けれど、ひと月前のそのときは、何となく請ようという気になった。忌々しいことだがアキラが生きろと言い、自分もそうする気になったのだ。目的がない今は目の前に差し出された道を進んでみてもいいと思った。 目覚めてからのリハビリには、ひと月かかった。リハビリを始めた当初はこれほどまでに自分の身体が衰えていたのかとシキは驚いたものだが、それでも担当の医師によれば、時折意識を戻し、食事をしていたのから衰えはまだましな方であるらしい。もし完全に意識を失って眠り続けていたら、もっと衰弱していただろうという話だった。そんな身体をようやく元通りとまではいかなくとも、それに近い水準に戻して退院したのが、ほんの3日前のこと。依頼人であるバーのマスターがある程度の情報を集めていたので、それからの行方を特定して侵入するのに漕ぎ付けるまでは早かった。 そして、ここへ来る前に、の自宅――もとは<千耳>のものでシキも一時期身を寄せたことがある――へ寄った。の性格からしてシキの刀を勝手に処分するとは考え難い、保管しているとすれば自宅以外にはないだろうと思ったのだ。家の中を探せば、案の定シキの刀は念入りに隠されていた――アキラの刀と共に。 そうして2振りの刀を見つけ出し、最初に自分の刀を確かめたとき、シキは驚きに目を見張ったものだった。というのも、シキの刀は刃が半ばで折れていたからだ。 なるほど、はきちんと手入れをしていたのだろう。素人ということもあって万全の手入れとは言えないが、刀を維持するのに必要な水準は十分にクリアしている。の手で手入れされて曇りのない刃が、しかし、半ばで折れているのだった。 ずっと使い続けてきた刀が折れたというのに、気がつけばシキはその場で唇の端を上げて笑みを作らずにはいられなかった。まるで、あのとき闇の中で起きた出来事を再現するようではないか。そう思いながら、迷うことなく今度は傍にあるアキラの刀を取り上げる。すると、それだけでも刀は微かな抵抗をシキの掌へと返した。アキラの闘い方は自分の模倣だとばかりシキは思っていたが、それでも微妙な癖や個性が出るらしい。 かといって、新たに刀を鍛えている時間はなかった。 (少々扱い難いくらいの方がいい。…ねじふせて、使いこなしてやる) そう思いながらシキは、鞘を握る手に力を込める。 そのとき、闇の中で明るい光の漏れる邸の窓の一つに、人の姿が見えた。それは若い男で、額を窓ガラスに押し付けるようにして外を眺めている。その男に、シキは見覚えがあった。男は、他でもない自身だ。 眼鏡がない顔は意外にあどけなく、整っている。の素顔を見るのはこれが初めてではないが、これほどの印象の違いをこれまでシキはあまり意識していなかった。こうも大きく印象が変わってしまっているのは、あけっぴろげに喜怒哀楽を映していたの表情が今は憂いに沈み、どこかしら艶のようなものが漂っているせいかもしれなかった。 (なるほど…私的な監禁は、囲い者にするためということか) 軍の拘束下にあった人間を引き取ってしまった幹部の意図を、シキはここへ来てようやく理解する。の情報屋という経歴から考えて、彼を監禁した軍の幹部は裏の情報を聞き出しているのだろうとばかり思って、こちらの方面は正直想定外だった。が、今のの風情を見れば、軍幹部のした行動の意味も納得できなくもない。 と、そのとき誰かに呼ばれたのか、窓の中でふとが顔を上げる。室内を振り返ろうとする刹那、沈んだ顔に一瞬決然とした色が浮かぶのが見えた。 (――しかし、心までは飼われていないと見える) シキは微かに笑みながらそう考えて、邸へと侵入するために静かに動き始めた。 End. |