ノイジーワールド





 傍らにあった温もりが、するりと寝床の中から抜け出していく。その密やかな気配に、シキは眠りから引き上げられた。寝床を出て行った相手――には気取られぬよう、そっと頭を動かしてベッド脇にあるテーブルの上の置時計を見る。
 午前8時45分。時刻としてはもう早朝とはいえないが、眠ったのが明け方頃であったから、時間的には決して寝すぎということもない。
 現在、シキはを伴ってヨーロッパ南部に位置する国にいた。この国のあるマフィアのボスがその地位を後継者に譲ろうとしているが、その前後の組織が不安定な時期に敵対勢力が攻撃してくる可能性があるからと、ボスの外出時の護衛を依頼されたのだ。シキが依頼を受けて以来、2人はボスの私邸内に用意されたこの客室に滞在している。そして、主にボスの外出時にシキが呼び出されるのだが、今日はその予定はないから、いわば非番の日といえるだろう。
 もう少し寝ていようと思いながらも、シキは何となく置時計から視線を外して、ベッドの脇で着替えを始めたの背中へと目を向けた。しかし、シキの視線に気付かずに、無造作にパジャマの上着を脱ぎ落とす。肌の露になった右肩から右の肩甲骨の辺りにかけて、赤い痕が幾つか散っていた。シキが行為の最中につけた痕だ。昨晩できたばかりの鮮やかな赤もあれば、以前につけて消えかかっている薄いものもある。おそらく、どれも本人には気付かれることなく、その細い肩から消えていくことだろう。
 の体つきは、シキの目からは頼りなく見えるほどに細い。
 荒事は専門外と自分で言うだけのことはあって、の体つきは、アキラの細身ながらもしなやかさのある身体とは全く違う。どちらかといえば、“ひょろりとしている”という表現が相応しい。そんな身体でも背や肩や腰の辺りに時折艶のような印象を受けることはあるが、それはを抱く自分であるから認識する印象なのかもしれない。
 結局シキの視線には気付かぬまま、はさっさと着替えを済ませて洗面所の方へ歩いていった。明け方まで抱いたというのに、もう起きるつもりらしい。は数年間弟子として下積みをしていたせいもあってか、裏の世界の人間としては珍しいほどに律儀なところがある。寝坊も1日2日のことならともかく常態化させるのは嫌らしく、このところは前夜シキに抱かれようと何があろうと出来る限り早起きすることにしたようだ。
 そういうの律儀さを指して“いい嫁になる”と言ったのは、たしか、かってシキにの救出を依頼してきたバーのマスターだったはずだ。 シキが入院している際のの行動を知って、 マスターは何らかの誤解していた節がある。 そのため、電話で救出の成功とそのまま国外へ伴う旨を告げたとき、そのような軽口を叩かれたのだった。

 『――今後もあの子を守ってやってくれ。あの子は、今度のことであんたを庇って、賞金稼ぎ共に睨まれることになった。もう裏の世界でも表の世界でも、生き難い身の上だ。いっそあんたの傍にいるのが、幸せかもしれん。料理もできるし、甲斐甲斐しいし、大事にすりゃあいい“嫁”になるぞ』

 そのとき、シキは勘違いを一笑に付したものだった、が。
 “好きだ”と何の駆け引きもなく告げてみせた潔さ。喜怒哀楽をあけっぴろげに表現する率直さ。けれど、そんな子どもっぽさとはうって変わって閨で見せる艶めいた仕草。――そんなものに、やけに心が揺らされる。
 自分がどう生きるのかも定まらないままに、ただ気まぐれに借りを返すためだけに助けただけの相手。今や、その相手を目的に生き始めている。そして、それを理解して受け入れ始めている自分がいる。
 どうやら、このままではあの男のからかいの言葉どおりになってしまいそうだ。
 そう思って、シキは口元に皮肉な笑みを刻んだ。そのとき。

 コンコンコン。

 控えめにドアがノックされる。
 シキが起き上がりかけると、それより先に洗面所からが「はーい」とニホン語で小さく返事してドアへ向かう。シキはまだ眠っていると思い込み、起こさぬように気遣っているのだろう。
 「俺が出よう。――貴様では、用件が分かんだろうからな」
 そう声をかけると、はようやくシキの目覚め気付いたようで、振り返って目を丸くする。が、すぐに「大丈夫だから」と笑いながら首を横に振った。
 「この国の言葉はあまり分からないけど、いつまでも他人と話すのを避けてるわけにもいかないからな。練習がてらに出てみるよ。簡単な用件なら、何とかなるかもしれないし。駄目そうだったら、助け舟頼む」


 キィとドアが開く音がして、若い男の声が聞こえ始める。ベッドの上のシキからは壁で死角になってしまって姿が見えないが、男の声には聞き覚えがあった。ボスの甥の一人で、若くして幹部になっているサルヴァーレという男だ。
 シキは、思わず眉をひそめた。サルヴァーレはいかにも遊び人といった風情の男で、男女問わず気に入った相手は取りあえず口説く。シキでさえ、初対面で口説きめいた文句を言われたほどだ。出来れば仕事の時間外は顔を合わせたくはない、が。幹部がわざわざ出向いてきたのなら、用件が何であれ自分が対応しないわけにはいかない。それに、このままではサルヴァーレはを口説き始めるかもしれない。
 そんな頭の痛い思いで起き上がりかけたシキの視界に、ふとあるものが映った。
 テーブルの上に置きっぱなしにされたの眼鏡。顔を洗うのには邪魔だからと放置して洗面所へ行き、そのまま来客に対応したのだろう。そういえば、自分もと顔を合わせたはずなのだが、とっさにそこまで気付かなかった。
 思わずシキは眉間に刻んだ皺を深くする。と、そのとき。
 『――君はシキと一緒にここへ来た子だよね?いつもと印象が違うね。君は素顔の方が美人だ』
 「え?え?――あの…えぇと…?」
 唐突に複雑な内容を話しかけられて、が戸惑いの声を上げる。
 『シキもクールで魅力的だけど、僕は君の方が好みかな。ねぇ、今度食事をしないか?できれば二人きりがいいけど、君が不安ならシキも一緒でいいよ。それはそれで、僕にとっては両手に花なわけだし』
 『食事…?』辛うじて聞き取った単語を、が繰り返す。
 『そうだよ。承諾してくれる?』
 まずい。このままでは、勢いに負けて食事の約束を取り付けられてしまう。そんなのは御免だ。自分はサルヴァーレと食事などしたくないし、もちろんひとりをあの男と食事させるわけにもいかない。
 シキはベッドを降りると、大股に部屋を横切って入り口のドアへと歩いていった。そこで熱っぽく両手を握られて呆然としているの身体を腕の中に抱きこんで奪い返し、改めてへらへらと笑っている遊び人を睨む。けれども、サルヴァーレはシキの睨みなどどこ吹く風といった風情だ。
 『おはよう、シキ。寝起きの君も美しいね』
 『寝言は寝てから言ったらどうだ。それから、これに手を出すな』
 『おぉ、こわっ。僕はただ挨拶しただけだよ。手を出すななんて、彼は君のものなのかな?だったら、もっとそれらしく扱わないと彼にも周囲にも分からないよ。ついうっかり、手を出してしまうかも』
 挑発を含んだ軽口に、シキはいよいよ殺気を発する。その気配を感じて腕の中のが不安そうに身動ぎをするが、殺気を真っ向から浴びているサルヴァーレは平気な顔をしている。軽薄そうに見えて、これでも若くしてマフィアの幹部に選ばれるほどの器なのだ。
 サルヴァーレはシキの殺気をいなすように小さく肩を竦め、用件を伝えて何事もなかったかのように去って行く。その姿が廊下の角に消えると、シキはげんなりと脱力した。腕の中で、はまったく状況の分からないままに目を丸くしていた。


***


 「よく眼鏡もなしで来客に対応したな。何も見えないだろう」
 室内へ戻ると、シキはテーブルの上から眼鏡を取り上げてへ渡してやる。すると、は少しばつが悪そうにしながらも「だけど、全く見えないわけじゃないから」と反論した。
 「完全に見えないわけではなくとも、日常生活に支障を来すから矯正が必要なのだろう。来客の場合、後で誰が来たのかが問題になることもある。見えなかった、では済まない。貴様も情報屋なら、誰が誰の元を訪問したというネタを売ったこともあるだろう」
 「ある、けど…。――その…ごめん。次からは、ちゃんと相手の顔が見えるようにする」
 殊勝に俯き反省するを見ながら、シキは少しばかり居心地の悪い気分になった。訪問客の顔が重要云々というのは、まぁその通りである。
 が、実はシキの本音は視力よりも、眼鏡をかけろという点にある。
 ニホンを出る前後の一時期、はコンタクトをしていたのだが、彼がやはり眼鏡に戻ると言ったとき、シキはそれに強く賛成した。の素顔は眼鏡のときの印象とは違って思いの外整っていて、そのことに違和感を覚えたのが理由の一つ。
 それに、の表情は、双眸は、いっそ無防備なほどにはっきりと感情を表す。かといって、決して本人が騒がしいわけではないのだが、これまで感情を殺し続けてきたシキにはその率直な感情表現を直に目の当たりにし続けることは――そして、こちらの感情まで揺さぶられることは――荷が重いと感じ、それを少しでも遮ることができるかと期待したというのが、もうひとつの理由だった。
 ところが、今はすっかり目的が逆転してしまっている。最初はシキからの率直な感情表現を隔てておくべためであったのが、今はむしろの素顔を他人の目から隔てておくためという意味合いが強い。
 ニホンの外ではニホン人(というよりアジア系)は、欧米などでは年齢よりも若く見られることが多い。それだけでも、裏の世界では子どもだといって侮られることもあるのだ。その上、顔が良ければ、変な輩の欲望の対象とされる危険性もなくはない。の場合、顔立ちは多少整ってはいても、特に目立つ華やかさがあるわけではない。けれど、そこに真っ直ぐな感情が映し出されるとき、妙に目を惹くような表情になることがある。だから、せめて無防備に素顔をさらすべきではないと思うのだ。
 それはおよそ自分らしくない気の回し方で、だからこそ本人に告げるつもりはない。
 らしくない、と指摘されるのも癪な話だからだ。
 シキは小さく息を吐き、着替えを始めた。先程の騒ぎで、最早眠気は飛んで行ってしまったのだ。上着を脱ぎ落として衣服を手に取ったとき、が気分を変えるように明るい声で言った。
 「それにしても驚いたな。この国の正式なあいさつって、あんななのか」
 「――あんな、とはどういうことだ…?」思わずシキは振り返る。
 「どうって…がばっと抱きついて、頬にキスするだろ。それで、相手の両手を握って話し始めるんだ。あれって、されたら返すのが礼儀なのかな。俺はちょっと無理だな」
 「――…」
 シキは呑気なの顔を見ながら、苛々と手にした衣服の布地をきつく握り締める。
 いくらスキンシップの多い国とはいえ、よほど親しい相手でもなければそこまですることはないだろう。何が挨拶なものか。いくら外国暮らしの経験がないとはいえ、いい加減気付いても良さそうなものだ。
 しかし、そこで気付かないのがだ。他者のある種の視線や行動の意味には、どこまでも疎い。他人の感情の動きに鈍感というわけではなさそうだが、素顔を晒さなければぱっとしない外見であるため、これまで他人からある種の感情を向けられる対象になるとは思わなかったのだろう。

 “彼は、君のものなのかな?”

 ふと、サルヴァーレの言葉が蘇る。
 (違うな)と、シキは声に出さずに否定した。
 所有物にできるなら、話は簡単だ。思うさま執着を示して、他人を見るなと命じるだろう。
 けれど、はシキの所有物にはならない。好きだと言い、共にいることを、触れられることを受け入れてはいても、が完全にシキに所有されることはない。という人間の芯の部分は、おそらく、いつまでもアキラに在るからだ。
 アキラの死後、が初めて涙を見せたとき。媚薬に蕩かされながらも、シキがはっとするほどの強い眼差しを見せたとき。そのいずれも、シキがアキラの名を出したときだった。そんな人間を、どうして単純に己の所有物だと思うことができようか。
 かっての自分ならば、執着した存在を己の所有物としなければ、気が済まなかっただろう。けれど、今ならば所有物とならないを許容することができる。というのも――認めるのは癪だが――自分もまた、アキラの存在に生かされた人間だからだ。

 「どうかしたか、シキ…?俺、何か変なこと言ったか」

 どこまでも呑気には首を傾げていたが、不意に「お」と声を上げると、シキの傍へ寄ってきた。そうして、右手でまだ上着を着ていないシキの肩口に触れた。シキの身体には幾つもの傷痕が残っているが、その部分には傷はない。ただ、皮膚のある一点に赤い痕がついている。
 「おー、我ながら結構上手くつけられたな」とはしきりに感心している。
 「…は?」
 「いや、キスマークって、一遍、つけてみたかったんだよ。だから、さっきシキが起きる前にやってみた。いいだろ、そっちだって、時々つけてるんだから。…ところで、シキは何でいっつも背中にばっかりつけるんだ?実は背中の方がつけやすいのか?」
 「…気付いていたのか」
 「そりゃあ、背中は見えないけど、つけられる感覚で分かるさ。腰の辺りだと見ようと思えば見えるところもあるし」
 あっけらかんとしたの表情に、シキは返す言葉に詰まった。同時に、さまざまな感情が混じり合って複雑な思いが、ふつふつと腹の底から込み上げてくる。他人の傍らでそんな悪戯にも目覚めないほど深く眠っているとは、自分はそこまでに心を許しているのか、という驚き。その悪戯が相手をいかに煽る行為であるかに気付かないへの苛立ちと呆れ。そして、何かに駆り立てられるような、何に対してかも分からない衝動。
 数ヶ月前、自分の中にある“虚ろ”から目覚め、感情を殺すことをやめたときにも、これほど様々な感情が生まれるとは思いもしなかった。

 ざぁざぁと幾つもの感情が、自分の中で声を上げる。
 ノイズの嵐。一体どの感情の声に従うべきか、分からなくなる。

 分からないままに、シキは最も強く感じた感情に身を任せることにした――に触れたいという、目も眩むような衝動に。傍にあった<身体を引き寄せ、強引にシャツの襟元からのぞく首筋に噛り付くような勢いで唇を押し当てる。その部分の皮膚を強く吸う。

 「っ…服で隠れない場所に痕をつけるなって…」

 いつもとは逆に頭上から降ってくるの抗議の声も、衝動に駆り立てられる意識にはどこか遠くノイズのように聞こえる。
 自分の内も外も雑音に溢れ、静寂とはかけ離れた世界。騒がしいことこの上ない。けれど、結局死にきれなかった自分には、静寂に満ちた虚ろな世界より余程相応しい。最早あの虚ろの中には戻らない――ここで生きていく――生きていくしかないのだ。
 諦めのような、満足のような、むしろその半ばの心境で、シキは唇を押し当てた温かな皮膚に痕を残した。





End.

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