君が悲しみを知ればよかった 本来、自分は人の感情に敏感な方ではない。 それでも分かってしまったのは、きっと彼女が自分と同じだからだ。 彼女は、地味でいて目立つ人間だった。 多分彼女に注目しているのは自分だけではないかとアキラは思っている。他の<ヴィスキオ>の男たちは、アキラをもの欲しげに見る。そうでなければ、使用人として雇われた中でも特に若く華やかな女たちの気を惹こうとする。男たちにとっては、彼女は地味で真面目すぎるのだ。 それでも、彼女――新しく入った使用人は、アキラの目を引いた。 最初に印象に残ったのは、綺麗な黒髪。仕事の邪魔になるので彼女はいつも束ねているが、シキを思わせるような漆黒のそれを昼の日なたのように笑う娘が持つことに微かな違和感を覚えた。だから、廊下やシキの出迎えなどで彼女を見かける度に何となく目で追っていたら、気がついてしまった。 ――彼女は、よくシキを目で追っている。 シキは、とにかく人目を引く。 彼自身はアキラしか抱かないが、男であれ女であれシキと関係を持ちたいと思っている人間は<ヴィスキオ>の中にも外にも多い。そういうことを、アキラは何となく知っている。 けれども、彼女の視線はそういうものではなかった。 欲望とは違う、愛でもない、未発達の憧憬。それはいつか恋愛感情に変わるのかもしれないが、今はまだ自分に何らかの感情を返してもらえるとは思ってもおらず、ただシキに焦がれている。 (可愛いよね) <ヴィスキオ>で働くには、幼く素直すぎる。こんな時世だというのに、まだ純粋さと硬質さを残している。そんな、どこか昔の自分に似た彼女を、アキラは――傷つけてみたいと思う。 そうして傷ついたとき、彼女は今の自分のようになるのか試してみたいのだ。 久しぶりに一人でシキの私室を抜け出し、アキラは執事のオフィスを訪ねた。時間はもう夜中になっていて、訪問するには不都合な時間帯だったが、予想通り執事はまだ仕事をしていた。 アキラが入っていくと、執事はすぐに顔を上げた。 「アキラ様…」 「こんな時間にごめんね。この間、新しく女の子が入ったんでしょ?」 「はい、数ヶ月前ですが、確かに若い娘を一人雇いました」 どうしてそんなことを訊くのか、と執事は問わなかったが顔にははっきりと表れている。しかし、アキラは意に介さなかった。 「あの子を俺のところに寄越して。用は何でもいいから」 「――どうして彼女を…今までそんなことは一度も、」 「アンタが心配することじゃないよ。ただ、暇つぶしに試してみるだけ。――シキの留守に男を呼び込むなと言ったのはアンタなんだ。いいじゃない、今回は男じゃないよ?」 執事が諦めたように目を閉じて天を仰ぐのを、アキラは微笑みながら見ていた。 End. 配布元:『ivory-syrup』より 「君が悲しみを知ればよかった」 |