僕は嘘だってつける 補佐官から不在の間にシキが来たことを聞き、アキラは帰還の報告も兼ねて主の執務室へと向かった。 とは言っても、主であるシキの執務室はアキラたち秘書に与えられた部屋より数歩の距離にある。文字通り数歩で辿り着き、ノックをして扉を開ける。すると、執務中であったらしいシキは書類から顔を上げた。 「ただいま戻りました」 「――親衛隊の新兵は使えそうだったか?」 今日、アキラは直属の精鋭部隊である親衛隊に数週間前に入った新兵の訓練の様子を、督励を兼ねて視察に行ってきたのだ。シキは、そのことについて尋ねている。 「はい。さすがにラインに頼らず這い上がってきたことだけはある連中です。訓練すればじきに使い物になるでしょう」 「ほう、中々の評価だな。」 唇の端を持ち上げてシキは笑う。どうも機嫌がいいようだ。 シキの表情は、自分の配下の兵が強いことを喜ぶというよりは、単に強者が間近にいることを楽しむ風だ。この主は反乱が起きて自分に反逆する者が出ることで退屈を紛らわせている節がある。今の笑みも、その中から反乱を起こして自分を楽しませる者が出るかもしれないという期待の意味合いが含まれている。 アキラも反乱は構わないが、それが足元の親衛隊であれば勘弁して欲しいと思う。一番の忠誠をシキに捧げるべき親衛隊が反乱とあっては、それを率いるアキラは申し訳が立たない。万が一にも親衛隊が反乱を起こすようなことがあれば、自分の生命で贖う気でいる。 「さすがに、女のひと睨み程度では震え上がりはするまい」 ぽつりとシキが楽しそうに言う。アキラに向けた言葉というよりは、独り言のようだ。それでも、ついアキラは反応してしまった。 「女のひと睨み、ですか…?」 「ああ、たいしたことではない。――今日秘書室に行ったら、お前の補佐官がもの凄い目で机の上を睨んでいた。それで、新兵なら震え上がる目つきだと言ってからかっただけだ。」 「はぁ…」とアキラは曖昧に返事をした。 自分の補佐官であるがそのような顔をするとは、俄かには信じられなかった。彼女は言葉の端々に気の強さが見えることはあるものの、基本的に穏やかで優しい性格だ。そのために、軍の中には彼女を慕う者も多くいることを、アキラは知っている。もちろん、シキもそのことは把握しているはずだ。 それでもシキがわざわざ言う程の表情というのが、アキラの興味を引いた。 「睨む、とは…何かよくない情報でもあったのでしょうか。彼女は、俺には何も言いませんでしたが」 「いや。が睨んでいたのはこれだ」 楽しそうに言って、シキは机の上にあった小箱を取り上げる。その形には見覚えがあった。彼女が自分にバレンタインデーのチョコレートだとくれた小箱の、色違いだ。アキラが受け取った箱が白であるのに対して、今シキの手の中にある箱は黒い。 「それは…」 「バレンタインデーの義理チョコだそうだ。――は面白いな。義理チョコなど最早廃れた習慣だと思っていたが、まだこうして律儀に配るのだから」 『総帥にもお渡ししました』 ふと、の言葉を思い出す。アキラは、彼女が箱を睨んでいた気持ちが分かるような気がした。彼女は、総帥に贈るかどうか迷っていたにちがいない。義理チョコだと言っていたのは方便で、あの箱には多分義理以上のものが込められているのだろう。 ――それは、義理ではありません。 そう思うが口には出さず、アキラは密かに内側で焦燥にも似た感情を燻らせる。 アキラが総帥秘書を兼務するようになってから、もう短くはない時が過ぎている。 その中で何人もの補佐官を持った。有能な者も無能な者もいた。上手く息が合っていても何らかの事情で配属替えになった者もいる。シキの怒りを買って、辞めさせられた者もいる。それでも、のような補佐官は初めてだった。 『おかえりなさい』 『いってらっしゃい』 たとえばそんな言葉で、もしくは小さな気遣いで、はアキラに仕事のこととは別に何か暖かなものをくれる。それはシキとともに軍に身を投じて以来久しく感じたことがなく、またそれ以前にも持たなかった種類の安らぎにも似た暖かさだった。 彼女には、今まで持ったどの部下以上にも親しみを感じている。もちろん、彼女が悲しむようなことはしたくない。けれど、それでも。 それでも、シキのことは別だ。 シキの傍に在ることだけは、何を犠牲にしても誰を泣かせても譲れない。――そう思ってしまう自分を、アキラは浅ましいと感じた。 「どうかしたか、アキラ?」 ふいに呼ばれてアキラは我に返った。 見れば、ひどく楽しげな表情でシキはこちらを見ている。勘のいいこの主のことだ。彼女の心情も、自分が動揺することも全て見透かした上で、彼女の話を持ち出したのかもしれない。 それでも、彼女に嫉妬するような醜態は見せたくなかったので、アキラは首を横に振って、 「何でもありません」 とだけ答えた。 End. 配布元:『 ivory-syrup 』より 「僕は嘘だってつける」 |