ぼくは臆病な猫のままでいい
子どもの頃のあなたなんて、想像もつかないな。 どんな風だったのか、見てみたいかも。 いつだったか、はそう言って笑った。 もちろん、時が戻ることなど現実にはあり得ない。 単なる戯言と、互いに弁えての会話だった――それなのに。 *** 昔の夢を見た。かって、戦場に出ていた頃の夢を。 戦場とはいっても、シキは日興連とCFCとの内戦には関わっていない。内戦が行われた約二年の時は、名を上げようとシキを狙う刺客や昔身内を殺された復讐者などの襲撃をかわすことで過ぎていった。シキひとりならともかく、戦闘経験のない道連れがあってはそれで手一杯で、とてもではないが内戦に首を突っ込んでいる余裕はなかったのだ。 だから、シキが経験した戦場といえば、自ずから先の第3次大戦ということになる。 その戦場の夢の中では、立ち上った炎が赤く夜空を焦がしていた。 敵方が、侵攻の妨げになる建物を焼き払ったのだろう。非戦闘員がシェルターに避難してもぬけの殻になった街を、炎が赤い舌を伸ばし、我が物顔で飲み込んでいく。 風向き次第では、この場も危うくなる。 そうと分かっていても、シキはその場を動くことができなかった。 目の前に広がる凄惨な光景に、意識をもっていかれてしまったのだ。 折り重なる死体。その中に、兵士がひとり亡霊のように佇んでいる。 ふと兵士が振り返る。その紫の瞳には、澄んだ虚無が湛えられている。 ぞくり、とわけも分からないままに恐怖が込み上げてくる。 それは魂に焼き付けられるほどの屈辱の記憶だった。 その記憶を葬り去るために、自分は踏み出したはずだ。 けれど、見えていたはずの目標も、進むべき道もいつしか見えなくなりはじめて――。 *** 「――っ…!」 思わずシキが起き上がるのと、夢が途絶えるのはほとんど同時だった。目覚めたことに気付き、シキは静かに息を吐き出した。 なぜ、今になって昔の夢をみたのか。 “あのとき”の光景はトシマを出るまではしばしば夢に見たし、トシマを離れてもしばらくは見ることがあった。それでも、このところ――追っ手の数が減り、少し落ち着いた生活ができるようになってきてから――は、ほとんど見ることがなかったというのに。 夢の名残の不快さを噛み締めながら、シキは傍らを振り返った。 窓に掛かったカーテンの隙間に、夜が明けてすぐの僅かに明るくなり始めた空がのぞいている。外の微かな光がぼんやりとベッドまで差し込んで、シキの傍らに眠るの安らかな寝顔を照らしていた。 手を伸ばして指先だけで柔らかな頬に触れれば、はまるでシキの手に擦り寄るかのような仕草をする。ぼんやりとその様子を見ているうちに、昂ぶっていた感情が次第に落ち着いていくのが分かる。 誘われるように身を屈め、シキは彼女に顔を寄せた。まずは額、次いで目蓋、頬、最後に唇と順に掠めるだけの口付けを落としていく。そうして身を起こしかけたとき、が目蓋を震わせてゆっくりと目を開けた。 ぼんやりと眠りに霞んだの眼差しが、シキの姿を捉える。その瞳になぜかまざまざと不審と不安の色が浮かび上がるのを、シキは目の当たりにした。 それは、息を忘れるほどの衝撃だった――。 警戒心も露わには素早く身を起こし、油断ない仕草でシキに向き直った。 「あなたは誰」 「何を言っている」 「ここへどうやって入ったの。シキはどこへ行ったの」 「何の話だ。俺はここにいる」 宥めるように言って、シキはに向かって手を伸ばす。けれど、彼女は一向に警戒を解かず、猫ならば全身の毛が逆立っているだろうと思われるような有様で、シキの手をかわすようにベッドの端まで身を退いた。 「ふざけるな。俺はここにいると言っているだろう。これは一体何の冗談だ」 「――まさか、あなたがシキだっていうの?だけど、あなたは……あっ、」 言い終わらないうちに、ベッドの端で身体を支えていた手がシーツを滑り、はぐらりと体勢を崩した。背中から床に落ちようとする彼女を捕まえようと、シキはとっさに腰を浮かせて手を伸ばす。が、彼女を引き止めることはできず、勢いあまって一緒に床に投げ出される羽目になった。 「うわぁっ…!!」 「っ…!」 シキはとっさに身を捩り、せめて先に落ちた彼女を下敷きにしないよう、隣に身体を投げ出すことに成功した。その拍子に肩を床に打ちつけ、シキは微かに眉をひそめながら身体を起こす。打ち付けた肩の痛み自体は、どうというほどのこともない。むしろ、ベッドから落ちるなどという喜劇じみた経験をしたことが、不本意でならなかった。 しかし、不本意な気分はさておき、シキは傍らのに目を向けた。 「…怪我はないか」 尋ねれば、彼女は頷いてのろのろと身体を起こす。そしてシキに向き直り、おずおずといった様子で口を開いた。 「本当に、シキなの…?」 「俺がそれ以外の何に見える」 「でも、私の知るシキは大人だった。あなたはそうじゃない…私より年下、10代にしか見えない」 「何を」馬鹿な、と嗤おうとしてシキは言葉を呑んだ。 ふと違和感を覚えたのだ。 一瞬何がおかしいのかと考え、じきにそれが何であるかに気付く。答えは、目線の高さだった。こうして座って向き合うとき、の目線はもっと下にあったはずだ。それが、今は普段より自分に近い。そういえば、寝間着も普段より少し大きいような気がする。 まさか。 嫌な予感が背筋を駆け上がり、シキはその場に立ち上がった。つかつかと窓際に歩み寄り、掛かっているカーテンを勢いよく開ける。次の瞬間、窓ガラスに映った自身の姿には、さすがのシキも息を呑んだ。 窓ガラスに映し出されたのは、10代の終わりと思しき自分の姿だった。 10代後半といえば、第3次世界大戦の最中で戦場に出ていた頃だ。あの夢を見たためにこの姿になったのか、この姿になったからあの夢を見たのか、シキには分からなかった。実際には無関係なのかもしれないが、こうなると関連付けて考えずにはいられない。 シキが呆然と自分の姿を眺めていると、不意に窓ガラスの中で動くものがあった。床に座り込んだまま成り行きを見守っていたが立ち上がり、静かにシキの後ろへ歩いてきたのだ。 「――シキ…?」小声で名を呼ばれて振り返ろうとすると、それより先にがふわりと背中から抱きついてきた。「シキなんだよね、姿は違っても」 「当然だ。俺は俺以外のものになったことはないし、今後もそのつもりはない」 腹部にまわされたの手を解き、身体を反転させる。するといつもより間近に彼女と顔を合わせることになって、シキは密かに困惑した。 この近さで彼女の顔にまた不審の色が浮かぶ様を見るのは――怖い。 「なんて顔してるの」 間近に向き合ったが唐突に淡い苦笑を浮かべる。それから、両手を持ち上げて、そっとシキの頬に触れた。 「誰?なんて言ってごめんなさい。だけど、私も怖かったよ。目が覚めたら見慣れない人がいるんだもの、とうとうシキが私に愛想を尽かして置いていったのかと思った。――でも、今のであなたがシキだってちゃんと分かったから、」 そこで不意に言葉を切り、は「そうだっ」と目を輝かせた。何か思いついたのだろう。 「ちょっとごめんね、確認させて」と断るや否や、ためらいもなくぺろりとシキの上衣の裾を捲り上げてしまった。 露になったシキの肌には、幾つかの傷痕が残っている。戦争で負ったものもあれば、裏の仕事でできた傷もある。それらは10代の終わりにはまだ殆どなかったはずだが、外見が時を遡ってもどういうわけか、傷は消えないまま残っているのだった。 腹部に走るその傷の一つを、彼女の指先がそろりと撫でる。 「…おい」 「ごめんなさい、確認するだけだから」 どこか上の空で返事しながら、は医者にでもなったかのように大真面目に傷痕を撫で、辿っていく。シキはため息を吐き、したいようにさせることにした。そろそろと傷痕を撫でる手の感触自体はくすぐったいだけだ。けれど、その感覚も、続けば僅かなりとも情欲を煽る刺激となる。は気付いているのだろうか。この行為が、閨の中で彼女が躊躇いがちにする愛撫とそう変わりのない意味を持つことに。 「――いい加減にしろ」しばらく好きにさせた後に、シキは彼女の手を押し留めた。「誘っているのか?」 「さ、さそっ…!?」 はぎょっと手を止め、次の瞬間、ふるふると首を横に振った。 「冗談だ。――別に、誘われても構わないが」 顔を強張らせているの様子にシキは思わず小さく笑って、そのまま彼女を引き寄せ口付けようとした。と、思いがけないことには大きく身を捩り、シキの腕の中から抜け出してしまう。 普段なら、口付け程度の接触をが拒むことはない。 一体何なのだ、とシキは不機嫌に顔をしかめた。 「この姿の俺には、触れられるのも嫌というわけか」 「そうじゃない、けど」は一定の距離を保ったまま、困りきった顔をする。 「だけど、この年齢差でキスしたら、犯罪だもの」 性犯罪者にはなりたくない、と彼女は大真面目に言ったが、先ほどのシキの不機嫌な態度を見て申し訳なくなったのか、懐柔策に出た。ちょっと背伸びをして、自分からシキの頬へ唇を触れさせたのだ。 自分のしたことが恥ずかしいのだろう、は顔を赤らめてぱっと離れたかと思うと、くるりと踵を返した。「そっ、そろそろ朝ごはんの用意でもしようかな…」上ずった声でいい、ばたばたと部屋を出て行ってしまう。さすがに朝食はまだ早いだろうと思ったが、止める間もなかった。 “だけど、私も怖かったよ” “とうとうシキが私に愛想を尽かして置いていったのかと思った” 「今更、手放してやるものか」 先ほどのの言葉を思い出し、シキはぽつりと呟く。 トシマ以来、はずっとシキと共にあった。追っ手をかわすには、彼女はたしかに足手まといにしかならない。それでも、nという目的を失った今もシキが生きることに飽かずにいるのは、彼女が傍にいるからなのだろうと思っている。 と共に眠るようになってから、nに出会ったときの夢を見なくなった。と共に生き始めてから、嫌っていたはずのぬるま湯にも似た平穏な日常もそう悪くはないと感じるようになった。時折、渇いた者が水を求めるかのように彼女の姿を探して見つけ、変わることなく傍らに在ることに安堵する自分を自覚することもある。 けれど、そういった自分の執着をに伝えるつもりはなかった。 重すぎるだろう、と思うからだ。 は真っ直ぐな性格で、屈折したところがない。たとえばシキが執着しているということを伝えたとしても、彼女はシキの心情を完全には理解しきれないに違いない。それでも、理解しきれないなりに、は受け止めようとするだろう。そうやって真っ直ぐな性格の彼女が重すぎる執着に押しつぶされ、歪められていく様を見るくらいなら――永遠に理解されなくていい。 とはいえ、がこちらの気も知らないというのは、厄介だった。 口付けをするのに先程のような調子では、 「元に戻るまで、触れるなということなのか…?」 はて、一体元の姿に戻れるのはいつのことか、とシキはため息を吐いた。 End. 配布元:『is』より 「ぼくは臆病な猫のままでいい」 |