大人ならば許されるの
もしも、あの男に遭遇する以前に彼女に出会っていたらなら。 ふと考えても仕方のないような仮定が思い浮かび、シキは自嘲の笑みを零した。 碌でもないことを考えるのは、結局、暇だからだ。常識では考えられないことだが、先日突然数年分の年月を遡った姿になってしまったシキは、裏の仕事を請け負えなくなっていた。といって今まで散々危険な仕事を請けてきたので、当分食べていくには困らない程度の蓄えはある。ただ、強制的に予定外の(しかも望みもしない)休暇状態になってしまったので、シキはとしてはどう過ごせばいいのか分からないというのが正直なところだった。 趣味のようなものは、あるにはある。 読書がそれで、趣味というよりは習慣化している。この強制的休暇状態に入ってからも、その辺にある本を読んでいた。その外多少の家事も受け持っているが、それでもどう過ごしていいかとふと途方に暮れる瞬間があるのは、もう長らくこんな休暇がなかったからだろう。 これまでは、常に走っているような状態だった。 子どもの頃は、家の名に恥じぬように努力しろと言われ。長じては、強くなりたい名を上げたいという焦りに駆られて。そして、nと遭遇してからは、屈辱の記憶を消すために。次々と危険な仕事を請け負ったが、報酬そのものにはあまり興味がなかった。いくらか刀の手入れなどに遣う程度で、報酬のほとんどは放置しているといってもいい状態だった。もっとも、今仕事を請けなくても十分に暮らしていけるのは、その頃の蓄えがあるからなので、そういう意味では放置しておいて良かったとも言えるが。 走り続けることしか知らなかった頃は、立ち止まることが恐ろしく、苦痛さえ伴うような気がしていた。今はそうではないと分かっているものの、名残のようなもので微かな不安を感じる。どうしていいか分からないというのは、つまりはその不安から来るものなのだろう。 本を読んでいるはずがいつしか思考がずれて、内容が頭に入らなくなっていた。 シキは息を吐くと、開いていた本を閉じ、ずるずるとソファに横になった。そうしていると、しんと静まり返った部屋の中、蝉の声が遠くで聞こえてくる。開け放した窓から入ってくる風は生温いものの、日が沈みかかっているので日中ほどの暑さは感じられなくなっていた。 こんな静かなとき、普段なら話しかけてまではこなくとも、何がしかの物音を立てているであろう彼女は、今は仕事に出ていていない。 シキを狙う追っ手を逃れて移り住むこと数回。そうしてこの街に来たとき、彼女は働きに行きたいと言い、実際その通りにした。別に裏の仕事の報酬だけで十分に生活していけるのだが、生活費を折半したいというのが彼女の希望だったのだ。妙なところで律儀な性分はシキもよく知っていたので、特に反対はしなかった。 ただ、こうして彼女を待つという状態は今までになかったことで、妙に落ち着かない。彼女がいないと、つい込み上げてくる焦燥に身を任せたくなる。 立ち止まるな。走れ。誰にも劣らない力を手に入れろ。 焦燥がしきりに囁きかける。 力への執着は、トシマを出る前後に失ったはずだった。それなのに今、再び力を手に入れなければと焦燥が込み上げるのは、自分の姿が最も切実に力を欲していた頃に戻ってしまったからだろうか。時間を遡ったのは身体だけで、その分の記憶は残っているはずなのだが、心理状態というのは身体に多少引きずられるところがあるのだろう。 情を捨てろ。しがらみに囚われるな。 感情に惑わされては、力は手に入れられない。 ――枷となるものや感情を切り捨てることが、強さだとは思いません。 ふと、シキは彼女に触れたいと思う。渇いた者が水を欲するように。 今に始まったことではなく、そういうときはこれまでにも度々あった。ただ、このところ――数年の時間を遡った姿になって以来、どれほど触れても足りるということがない。少しすればまた、傍らに彼女の姿を探している自分がいる。 情けない、と自嘲しながらシキは目を閉じて蝉の声に耳を澄ませた。 一体どれほどそうしていただろうか。 不意に扉の外によく知る気配を感じた。そうするうちに、扉を開ける音、次いで軽やかな足音が聞こえてくる。 「ただいま…――シキ…?」 眠っていると思ったのだろうか、彼女はソファに横たわるシキに気付くと、足音をひそめて近づいてきた。傍まで来ると衣擦れの音をさせて、その場に跪く。シキが目を開けると、顔を覗き込もうとしていたらしい彼女はちょと目を丸くした。 「残念。寝てたら悪戯しようと思ったのに」 「そこまで好きにされるほど腕はなまっていないつもりだが?」 「うん、分かってる。でも隙があったらやる気だったけど」 そう言って彼女がけらけらと笑う。 シキは肘で身体を起こすと、右手で笑っている彼女の顎を掴んで固定し、素早く唇を重ねた。無防備に開いていた唇の合間から舌を差し入る。我に返った彼女が身を引こうとするのも許さず、思う様口腔を貪った後に離れた。途端、彼女が脱力して床に座り込む。 そこで、終わりにするつもりだった――最初は。 けれども、以前なら触れられることを普通に受け入れていた彼女が俄かに見せた抵抗が、無性に苛立ちを煽った。苛立ちのままに、シキはソファを降り、彼女の肩を押して覆い被さる。それでも気丈なもので、彼女は床に押し倒されて暴れはしないものの、顔を上げてシキを見据えた。 「犯罪になるから駄目だって言ったのに。あなたは私を性犯罪者にするつもり?」 「俺は成人している。たとえ外見が数年前に戻っても、記憶は変わらん。年齢差で云々は理由にはならないだろう。何故そこまで抱かれることを拒む。俺が納得できる理由を言え」 すると、彼女は困りきった表情で視線をそらした。その仕草に苛立ちが煽られる。 シキは込み上げてきた衝動のままに彼女のシャツをたくし上げ、僅かに汗ばんだ肌に触れた。掌で身体のラインを辿りながら、彼女の首筋に顔を埋め、柔らかな肌に軽く歯を立てる。 「嫌だ…シキっ…!!」 彼女がもがきながら悲鳴のような声を上げたところでシキは我に返り、身を引いた。そうして見下ろすと、彼女は今にも泣き出しそうな表情をしていた。その表情にすっと体温が引いていくのを感じる。 シキは静かに息を吐き、彼女から離れた。 「――やはり、この姿の俺には抱かれたくないか」 「ごめんなさい。シキのことはちゃんと好きだよ、もちろん今の姿になっても。姿が変わってもシキはシキなんだってことも、分かってる。分かってるけど、あんな風に触れられるのは、今までのシキじゃないと…別の人にされてるみたいな気がして、怖い」 「――っ…」 意外な返答にシキは目を見張った。今の今まで抱いていたはずの苛立ちは霧散し、何とも言いがたい複雑な感情が湧いてくる。彼女の言葉に一体どんな感情を持てばいいのか、と途方に暮れながら、シキは床に横たわる彼女に手を差し出した。 「…すまなかった」そう口にすると、彼女は目を丸くした後におずおずとシキの手に手を乗せる。シキは彼女を引き起こすと、その傍らに跪いた。「少し触れてもいいか。それ以上のことはしない」 「えぇ」彼女は頷くと、自分から抱きつき腕を回してシキの背を撫でた。「我が儘言ってごめんなさい」 「あぁ、まったくだ」 腕の中の身体を抱き返しながら、シキは内心密かにため息を吐いた。 彼女が“我が儘”で選ぶのが自分自身とあっては、どうしようもないではないか。 それでもただ抱き合って互いの体温を感じているだけで、ずっと耳に囁きかけていた焦燥の声はいつしか消えていた。 End. 配布元:『is』より 「大人ならば許されるの」 |