愛するには支障ありません





 子どもの頃、自分が大嫌いだった。

 引っ込み思案な自分の性格が嫌いで、可愛いらしく整っていない自分の顔が嫌いだった。
 内気だからいつも目立たないように、写真にさえ写りたくなかった。
 可愛くない顔だという自覚はあるから、「いいな」と思う服でさえ、着てみる前から諦めた。

 まだ、子どもの頃の記憶。


***


 シキが、若返ってしまった。

 若返った、というのは少し誤解を招く言い方かもしれない。彼はもとより20代半ばであったから、世間的に言えばもとより「若い」といわれる年齢なのだから。どうも上手く説明し難い部分はあるが、正確に言うならば身体の時間が数年分巻き戻ってしまったようだった。
 それが、今から2週間前のこと。
 最初はさすがに現実ではあり得ないはずの状況に戸惑う素振りを見せたシキも、今は落ち着いて日々を過ごしている。すぐに元に戻るのではないか、と思われたその奇妙な状況は、しかし、なかなか戻りそうにない。当初は「すぐ戻るよ」などと楽観していた私の方が、「戻らないのでは」と心配になり始めているのだが、まさか「戻らなかったらどうする」などと尋ねて本人の不安を煽るわけにもいかない。それに、「どうする」と私は尋ねたわけではないが、むしろ当事者であるシキの方が何がしか決めて、腹を据えてしまっている節も感じられた。
 こうなると、「戻らなかったらどうする」というのは、同時に、私へ跳ね返ってくる問いでもあった。
 シキの若返り現象が起こってからも、私たちはそれまでと変わらず、共に暮らしている。
 昼間私が仕事に行って、シキは(裏の仕事は請け負えないので)家事などをして、晩にはそろって食事をして、一緒に寝るという生活。ただ、ひとつだけ、彼が若返る以前と違って、性的に触れられることだけは受け入れていない。理由は、道徳的によろしくないのでは、というのが一点。もう一点は、同一人物とは分かっていても、本来のシキではない相手に触れられているような気がするからだ。
 けれど、もしずっとシキが戻らないなら、いつまでもこのままの状態でいられるものではないだろう。どこで、今のシキを受け入れる覚悟を決めるべきか――けれど、そうしたらシキはもとに戻れないことが確定してしまうような気もする。

 このところ、むしろ、不安を抱いているのは私の方のようだ。
 それが何だか小憎らしい。
 (そりゃぁ、ずっと混乱してるよりは、落ち着いてる方が精神的にいいだろうけど…)

 どうして、私ばっかり不安なのか。そんなことをぐるぐると考える。
 以前と変わらず同じベッドに横になり、ふとした拍子に身体が触れ合ってシキの低めの体温を感じる。身体が触れ合うと、まだそれなりに暑い季節だというのに、シキの腕が伸びてきて私の背中を抱きこんだ。今は空調が効いているからいいものの、後で暑くなるのではないだろうか。それとも、体温が低いシキは暑くはないのだろうか。
 身体の時間が巻き戻ったとはいえほんの数年のこと、それでもまだシキは私よりも背が高いから、こうやって以前と変わりない体勢で眠ることができてしまう。
 以前と、さほど身体に変わりはないから、シキはこうも落ち着いているのだろうか。シキの体温を感じながら、ふとそんなことを思う。私だったら、ほんの数年でも昔に戻るなんてとても我慢できない。
 今の自分はさほどでもないけれど、昔、私は自分のことが大嫌いだった。今になって考えてみればなぜそこまで嫌っていたのかはっきりとした理由は思い出せないが、それでも当時の自分に対する嫌悪感だけは今でもよく覚えている。万が一、私もシキと同様に若返ってしまったら、きっとシキの傍にいる自信などなくなって、どこかへ隠れたくなってしまうだろう。
 うつらうつらとそんなことを考えているうちに、眠りに入っていったようだった。


***


 翌朝、シキに揺り起こされて目が覚めた。
 まだ眠くて、もう5分と寝床の中に留まろうとすると、また執拗に身体を揺さぶられる。そこでやっと目を開けると、珍しく動揺したような表情――といっても、見た目はほとんど無表情に近いのだが――のシキがこちらをのぞき込んでいた。
 「起きろ。寝ている場合ではないぞ」
 「ん…久しぶりに刺客でも来た…?」まさかシキがその程度で顔色を変えるはずはないのだが、思いつくままに尋ねてみる。が、彼の返答よりも先にふと自分の声に違和感を覚えて、私は首を傾げた。「――あれ?」
 何か、いつもとは違う。不思議に思って起き上がれば、着ているパジャマの肩が落ち、袖が余っているのが分かる。それに、座って向き合うシキの目の高さが、いつもよりやけに高く感じられる。

 まさか…これは。

 一度あることは、二度あるという。何だか嫌な予感がして、鏡を見に行こうとベッドを降りかけると、ベッドから下ろした脚はパジャマのズボンの裾が余ってつま先が見えなかった。昨夜までは、こんなことはなかったはず。
 「シキ」と、私は無表情ながら静かに動揺している彼を振り返った。もちろん、こちらも動揺しているのは同じだ。「私、どうなってるの…?」
 「――…自分の目で、確かめてみるか?」
 長い沈黙の後にそう言うと、不意にシキはベッドから降り、あっという間もなく私の身体を抱き上げてしまった。世に言うお姫様抱っこというアレではなく、子どもを抱き上げるような抱き方で、そういう姿勢が可能であること自体が今私がどういう状態なのかを雄弁に物語っている。

 おそらく、私もシキと同じように…。

 シキは私を抱いて洗面所へ歩いていくと、そこの鏡の前に立ってみせた。おそるおそる鏡を見れば、10代の終わりといった年頃の青年に抱かれる、少女の姿が映っている。少女は、13、4といったところだろうか。もう写真の中でしか見ることはない――写真すら見る機会はないので、もう二度と目にすることはないと思っていたはずの、自分の姿だ。
 「今度はお前の番だな。それも、だいぶ時間が戻ったようだ。…この姿、せいぜい13、4といったところか」
 「多分、そのくらいだと思う…――どうしよう、これじゃ仕事に行けない。いつになったら戻るのかな」
 「さぁな、俺もまだ戻らないくらいだからな」


 結局、その日は仕事を休むことになった。
 更に、問題は仕事だけではなかった。シキの場合とは違って完全に成長期の初めまで若返ってしまった私は、もとの衣服はどうにもサイズが合わない。それでも、裾が余るのを無理をして、とりあえずもとの衣服を着るより他はない。
 そうして、半日が過ぎていった。
 午後になるとシキは買い物に出て、私はひとり家で留守番をすることになった。身体が子どもになったとはいえ、精神的には何も変わりないのだから、ひとり留守番など別に不安に思うことでもない。…思うことでもないはずなのだが、ひとりになるといろいろと良くない考えばかり浮かぶのは、精神が子どもに戻った身体の方に引きずられているからかもしれない。
 このまま戻らなかったらどうしよう。シキは私になど愛想を尽かしてしまうかもしれない。
 彼ならば、こんな可愛げのない子どもなど放り出せば、いくらでも美しい大人の女性が寄ってくるはずなのだし。
 先程苦労して取り込んだ洗濯物をたたみながら、そんなことを考える。そうするうちに、玄関のドアが開閉する音が聞こえて、私は腰を上げた。玄関へと出迎えれば、買い物袋を抱えて帰ってきたシキがこちらを見るなり、たくさんの買い物袋を上がり口に置き、紙袋をひとつ押し付けてくる。見れば、街の中心部にある衣料品店の袋だった。
 「――あの…これって…?」
 「大人の衣服では不便そうだからな。裾を引っ掛けて転ばれては面倒だ」
 「あ…ありがとう」
 感謝の言葉を告げてから袋の中を見れば、数種類の衣服がそろっている。いずれもシンプルだが可愛らしいデザインで、目にした瞬間その可愛らしさに感動するよりも先に、シキは一体どんな顔でこの服を選んだのかと疑問が込み上げてくる。その場面を想像すると、妙に可笑しいような薄ら寒いような気になる。
 私は服を抱えたまま、どうしていいか分からなくなってしまった。衣服自体は私の好きなデザインだったが、13、4の頃といえば自分が嫌いで可愛い服を着るのが怖かった頃で、果たしてこれを着ても大丈夫だろうかと戸惑ってしまう。

 似合わなかったら、失望されてしまうのではないか。

 衣服を抱いたまま考えていると、靴を脱いで上がったシキが「気に入らなかったか」と尋ねてくる。それへ、慌てて首を横に振った。
 「ううん。こういう服、すごく好きだけど、可愛すぎて、着るのが怖いというか…」
 「全く似合わないと思うなら、最初から買ってくるものか」
 「――…その……何ていうか…ありがとう」
 似合うだろうと思って選んでくれたのなら、少し嬉しいということは確か。けれど、その言葉をそのまま受け取るほどには、自信が持てない私は、顔を見られないように俯いたままそう呟く。今までなら、時折シキから投げられるこんな言葉にも、それなりに上手く対応できていたはずなのに。やはり、外見が子どもになると気分まで引っ張られるものなのだろう、と強く感じた。


***


 結局、身体はもとに戻らないまま一週間が過ぎて、私は勤め先を辞めることになった。子どもの声ではまずいので、シキが身内だといって勤め先に電話するのを、私は隣で聞いることしかできなかった。
 そんなことがあったものの、子どもの姿になってからも、日々は変わらず穏やかに過ぎていく。シキと共に外へ出れば度々兄妹と言われるが、それにもお互いに慣れてしまった。それでも、夜、一緒に寝ているとふと不安になる。
 シキは今はまだ私を傍に置いているけれど、こんな子どもは嫌なのではないだろうか。
 このままずっと戻らなかったら、いつか愛想をつかされるのではないだろうか。

 ――私がずっと子どものままだったら、どうする?

 時折尋ねてみたい衝動に駆られるが、それでも口に出すことはできない。だって、先にシキが若返ったとき、彼自身も同じ思いをひとりきりで抱いていただろうから。それに、たとえ尋ねたとしてシキは「お前自身はどうしたい」と尋ね返しそうな気もする。
 私自身は、シキの傍にいたい。どんな場所であろうと、どんな姿であろうと。けれど、シキにとって今の私は傍に置く価値があるだろうか――足手まといになるし、抱くこともできないのだから。そんな私が傍にいることは、許されるだろうか。
 シキは私のことを我が強いということがある。この街に来たとき働きたいと言ったときも、そんな言葉と共に許してくれた。けれど、本当は、私には我なんてない。多少シキに意見することはあるが、根本的には逆らうつもりはない。家族を捨てて、シキと生きるのだと決めたときから、私の世界は彼だけになってしまっている。
 本当は、怖いのは、足手まといになることではない。ある日突然、彼の方から「お前など要らない」と言われること――もしそうなったら、私は何のためにここにいるのか分からなくなってしまう。その前に、自分から離れた方が傷は浅いのかもしれない、などと最近思うことがある。
 そんなことを考えだすと、どうにも眠れず、私はベッドの中で身動ぎをした。

 「――眠れないようだな」

 不意に隣で横になっていたシキが言い、闇の中から伸びてきた彼の手が私の額を撫でた。
 「子どもの癖に、寝つきが悪いか」
 「…子どもじゃない。子どもじゃないから、いろいろ考えだすと止まらなくて」
 「何を考えている」
 「…」
 言うべきか、黙っているべきか、と迷う。だって、シキは弱音を言わない人だ。私は彼から弱音を聞かされたこともないのに、自分だけ聞いてもらって楽になるなんて、ずるい。そう思うから唇を間で黙っていた。が、答えを待ちながら額に触れているシキの手の思いがけない優しさに、胸の奥から熱が込み上げてくる。
 あ、まずい。
 そう思ったときには堪えきれず、引き結んだ唇を衝いて嗚咽を抑えたような吐息が零れ落ちた。
 「っふ…」
 「
 少し動いて私の肩を抱いたシキが、静かな声で促すように名前を呼ぶ。とうとう私は堪えきれなくなって、涙声で言った。
 「このまま、私が大人に戻れなかったら――…子どものままじゃ、シキの足手まといになる、から…置いて行って」
 「何を馬鹿な」
 「だって…子どものままじゃ、シキの邪魔になるだけ…何もあなたに与えられもしない。だったら、私を傍に置いておく意味も、ないんでしょう…?私を置いて、あなたは、」
 「下らんな」切り捨てるように言って、シキはベッドの上に身体を起こした。次いで、私も引き起こされる。ベッドの上で向き合う格好になる。「お前が足手まといなのは今更だ。子どもに手が掛かるのは当然だ。だが、子どもはいずれは大人になる。だから――」

 「3年だ」

 唐突に言われて、頭がついていかない。3年とは一体何のことなのか、と首を傾げる。
 と、シキは私を抱き締めて、補足のように言葉を続けた。
 「お前が大人に戻らないままだとしたら、今はただ守ってやる。だが、3年後には必ず俺のものにする。それまでにお前を手放すことはしない。離れることも許さん」
 言われた内容を、ようやくのことで頭が理解する。途端に、じわりと頬が熱くなった。抱き締められたままで、今ばかりは本当に良かったと思う。素直に喜べばいいのかもしれないが、それもまた恥ずかしくて、とっさに口を衝いて出たのは憎まれ口だった。
 「…そういうの、ロリコンって言わない?」
 「3年後だと言っているだろう。それに、今の俺とお前の年齢差では、それには当てはまらないはずだ」
 答えるシキの声は平然としているが、どこか拗ねているようでもある。もう少しからかってやろうかと思ったが、それでは嬉しい言葉に対してあまりにも非礼な気がして、私は黙って嬉しさをぶつけるようにこちらからシキにしがみ付いた。

 「――ありがとう。嬉しい」

 心を占める感情を素直に言葉にすれば、シキの腕が更に強く私を抱いた。






End.
お題配布元:『is』
「愛するには支障ありません」

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