指輪





 源泉が旧い知り合いの消息を知ったのは、偶然のことだった。ある事件の情報源にした裏の世界の情報屋から、話のついでに教えられたのだ。トシマから四年、内戦の終結からも二年がたった春の終わりのことだった。
 旧知のことが気になりながらも、源泉はなかなか相手を訪ねることができなかった。ライターの仕事が立て込んでいたのが、一つ。もう一つの理由には、先方が源泉の訪問を喜ばないかもしれないということがあった。先方――は、トシマが戦火に包まれた折、当時麻薬組織の首領と目されていた男と共に、姿を消したからだ。たとえ、実質はヴィスキオを支配していたわけでなくとも、シキは裏の世界では名の通った男だ。そういえば、このところ、すっかりシキの仕業という仕事の話しは聞かなくなった。けれど、身を潜めたからといってもかっての王、生命を狙われることもあるだろう。訪ねれば、かえって迷惑が掛かるかもしれない。
 散々迷ったものの、結局源泉は思い切って相手を訪ねることにした。
 そう繁華でなはいある街の外れに、とシキは居着いているという。源泉が訪ねていくと、教えられた場所には、小さな喫茶店があった。二人が何をしているとも聞いておらず、一体どういうことか、と訝しみながら、源泉はドアを押し開けた。西側の窓から日の光の差す店内に、客の姿はない。あまり流行っていないのか、好意的に考えるなら暇な時間帯なのかもしれない。午後四時半という時刻は、お茶にするにしても夕食を取るにしても、中途半端だ。
 源泉は店員の姿を探して、店内を見渡した。そのとき、いらっしゃいませと店の奥から女の声が聞こえてきた。
 奥の厨房にいたのだろう、エプロン姿の女がカウンターに出てくる。見れば、それはだった。
 トシマを出て四年経つが、外見に変わりはなかった。大人の女なのだが、どこかしらあどけない娘のような雰囲気がある。ただ、ごく控えめながらも化粧をしているようで、源泉は彼女に少しばかり華やいだ印象を受けた。そういえば、この子も女の子だったなぁと、今更ながらに失礼な感想を抱く。
 少なくとも、この四年間の苦労の影が彼女の顔に現れていないことに、内心ほっとしていた。
 は源泉を見て目を丸くしたが、すぐに「お久しぶりです」と微笑した。
「驚いたな……知り合いにお前さんの居所を聞いて、懐かしくなって訪ねてきたんだ。ちっとも変わってない……いや綺麗になった」
「お世辞はいいですよ」は苦笑した。
「お世辞じゃないさ。この店は、お前さんが? 」
「えぇ。一年ほど前から、シキと一緒に。どうぞ座ってください。コーヒーでもお出しします。よかったら、一緒にケーキもいかがです? うちで出すチーズケーキは、甘さが控えめで人気があるんです」
「そうか。なら、もらおうかな」
 源泉はカウンターの席についた。
 カウンターの中では、が皿やカップの用意を始めている。一年前からというだけあって、なかなか板に付いた動きだ。すぐに「どうぞ」という声と共に、源泉の前に水のグラスとおしぼりが用意される。
 その拍子に、彼女の左手の薬指にはめられた指輪が目に入って、源泉はぎょっとした。指輪は飾り気もない、シンプルなデザインだった。彼女の想い人たる男は、指輪を贈るタイプとは到底思えなかった。
「……その指輪は、シキが? 」
「えぇ」
「シキは……その……元気か? 」
「はい。裏の仕事は、もう請けていませんけど、元気ですよ」
 がそう言ったときだった。奥の厨房から、すっと出てくる者がある。噂をすれば影というのか、出てきたのはシキだった。当然ながら、源泉の記憶にある格好とは違い、白いシャツとスラックスというごく普通の出で立ちだった。シャツの胸元の合わせ目から小ぶりのロザリオと、同じ鎖に通された銀の指輪が垣間見える。 と同じく黒いエプロンをつけると、シキはの傍に立った。。かって殺人鬼だのレアモンスターだのと呼ばれた男のあまりの変わり様に、源泉は呆然とした。
 しかし、思考停止する源泉の目の前で、とシキはごく普通に会話を始める。
「誰が来たかと思えば、トシマの頃の情報屋か……、話し込むのはいいが、出掛ける用があっただろう」
「あっ……! そうか……」
「後は俺がやる。お前は出掛ければいい」
「ありがとう。でも、せっかく源泉さんが来てくれたのに……残念……」はしゅんと項垂れたが、すぐに源泉を振り返って微笑んだ。「すみません。少し用があって……出掛けないといけないんです。後はこの人がしてくれますから」
「あ……いや、急に訪ねたこっちが悪いんだ。気にしないで行ってくれ」
 ようやく、源泉は我に返って返事をする。「それじゃ、失礼します」と頭を下げて、は奥の厨房へと引っ込んだ。それを見送っていると、コトリと音を立てて目の前にコーヒーカップとケーキの皿が置かれた。顔を上げればシキと目が合い、源泉は慌てて礼を言った。
 どうも妙な感じだ。こちらは客のはずなのだが、シキが無駄に偉そうなせいで、コーヒーを出されただけでも申し訳なく思ってしまう。この店は本当に客が来るのだろうか、と源泉は他人事ながら心配になった。
 そんな源泉の心配など余所に、シキはカウンターの中でグラスを拭き始めている。同様の慣れた手つきに、シキもまっとうにこの店で働いていることがうかがえた。
「さっき情報屋と言ったな……お前さん、俺のことを覚えていたのか? 」源泉は尋ねた。
「あぁ。トシマで言葉を交わしたことがあるだろう。それに、何度か行き違ったこともあるからな」
「意外だな。お前さんは、俺みたいな雑魚には目も呉れないだろうと思ってたが。……裏の仕事は、もうしてないんだって? 」
「トシマを出てしばらくは、と旅をしながら請けていたがな。もう辞めた」
「そりゃまたどうしてだ。俺は、お前さんは裏の世界でしか生きていけないタイプだとばかり……あ、スマン」
 謝ることはない、とシキは言った。事実だからと。そうして話始めたのは、彼が裏の仕事を辞めるきっかけとなった出来事だった。
 一年半ほど前、ある組織がを拐かしたのだという。幸いにも、組織の目的はを人質に彼を言いなりに使うことだったため、彼女は監禁場所で丁重に扱われていた。シキは彼女を救出した上で、組織へ乗り込んで潰した。
「……まさか、お前さんの最後の仕事は、あの犯人不明の暴力団の組員皆殺し事件か……! テレビでもしばらく騒がれてたぞ」
「あぁ。全員死んだかどうかは知らんがな。俺は屋敷にいた全員を斬っただけで、息を確かめてトドメを刺すまではしていない」
 さらりととんでもないことを言って、シキは話を続ける。
 ともかく、裏の仕事を請けていれば、に危険が及ぶことも十分にあり得る。それを二人とも覚悟の上だったが、実際に起こってみるとシキもそう冷静に割り切ることができなくなった。また、件の暴力団を皆殺しにしたことを知ったに、仕事や刺客ならまだしも無用な殺しをするなと泣きながら諭されたところで、シキも決心が着いたらしい。
 そうして、裏の世界から足を洗ったシキは、と二人この街に身を落ち着けたのだという。
「……そうだったのか。しかし、まさかお前さんが他人のために、自らの生きる世界を捨てるとはなぁ……あの子が、お前さんにとってそれほどのものとは」
「……ただ飽きただけだ。近頃は裏の仕事もつまらん殺しばかりだからな」
「そう照れなさんな。それで、お前さんたちは夫婦になったのか? あの子の指輪は、お前さんが贈ったんだろ」
「確かに、俺が与えたものだが。あの指輪は、裏の仕事で宝石店の関係者と関わったとき、報酬として出されたものだ。特に意味はない」
 それに、とシキは言葉を継ぐ。
 夫婦になると言っても、には戸籍がない。彼自身も公の書類上は死んだことになっている。だから、書類上婚姻関係になることはあり得ないのだ、と。
 まるで、戸籍があればそうなっても構わないというような口振りだ。大した変わりようだ、と感心しながら、源泉は更に尋ねた。
「お前さん達、子はいないのか? 」
 すると、シキはグラスを拭く手を止め、ちょっと驚いたようなような表情になった。
 しまった、と源泉は思う。二人の仲睦まじい様子が伝わってくるのでつい調子に乗ったが、立ち入ったことを聞きすぎてしまった。
「スマン。立ち入ったことを聞いた。深い意味はないんだが……」
「いや……。俺たちに子はいない」
 今は身を落ち着けているが、もシキも裏の世界に関わった身。いつまた生命を狙われ、旅の生活に戻るとも分からない。子ができたとしても、育てられる環境ではない、とシキは淡々と言った。
も、子は成す気はないらしい。血に染まったことのある手で、子を抱くことはできないと言った……アレも、手を汚したことが、ないわけではないからな」
「そう、か……」
「俺自身、人の親になることを考えたことはない」
 シキは静かに言ったが、ひと呼吸置いて「ただ……」と続けた。言いかけた言葉の先を考えるように目を伏せて、ごく僅かに唇の端を持ち上げて、笑みともいえないほど微かな笑みを浮かべた。
「――ただ、の子ならば、この手に抱いてみたいと思わないこともないが」
 無表情の下から、ごく僅かに彼の内にある感情が染み出したような笑みだった。この男は、こんな優しい笑い方をするようになったのか、と源泉はただただ驚かされた。


***


 出されたコーヒーもチーズケーキも、味は絶品だった。何でもチーズケーキは、が勉強してきて焼いているのだとか。
 コーヒーを飲み、ケーキを食べ終えると、源泉は席を立った。会計をしようとしたが、シキに今回は構わないと言われた。コーヒーもケーキも、が久しぶりに会った旧知に出したものであり、客に出したわけではないのだから、と。
 そして、源泉が帰ろうとすると、シキは戸口まで見送ってくれた。
に会いに来たのに本人が構えず、すまなかったな」シキが言った。
「いやいや。お前さんと話せて、かえって良かったのかもしれん。どうしても、なら遠慮して聞けないような話もできたしな。……あの子によろしく伝えてくれ」
「あぁ」
 源泉は歩きだそうとして、そこでふと足を止めた。
 店の前に出された小さな立て看板。そこにこの喫茶店の営業時間が書かれているのが、偶然目に入る。午前十一時から午前零時。喫茶店にしては、少し遅い時間帯だ。
「この店、随分遅くまでやってるんだな」
 振り返って源泉は言う。
「夜は酒を出す」だから、午後七時以降は一切を店には立たせないのだと、シキは言った。
「そうかい。なら、今度来るのは昼間にしとくかねぇ」
「好きにしろ。俺がいるときに来るなら、貴様の欲しいネタを売ってやろう。俺が店に立つのは、大抵夜だがな」
「! お前さん、まさか……あの子は知ってるのか? 」
「あぁ。何も言わん」
「ならいいが」
 裏の仕事は辞めたと言った。だが、この口振りでは代わりに情報屋などやっているらしい。やはりシキは、裏の世界に関わらずには生きられない人間なのだろう。
 そう納得した源泉は、暗くなり始めた街へ歩きだした。









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