目が合うと、どうしていいのかわからない




 今まで散々逃亡生活を続けてきた私たちだが、ここに来てしばらくの間一箇所に身を落ち着けることになった。冬が近付き、また最近は追手も一段落しているというところからシキが判断したことである。
 私たちが身を落ち着けたのは、街からかなり外れたところにある一軒家だった。普通に生活するなら不便だし、人が住まなくなって久しいその家は外観も内装も幽霊でも出そうな様子である。けれど、前の持ち主が読書家だったのだろうか、書斎や居間に本が山ほど残されていたので、活字中毒の傾向がある私はこの家がすぐに好きになった。シキはどのように思っているのか聞いていないが、度々書架の本を手に取っているところを見かけるから気に入ってはいるのだろう。
 とはいえ、古い家であちこち破損しているから、秋の終わりともなると室内でも結構寒い。逃亡生活では冬に野宿に近いことだってしたことはあるけれど、それはそれ。風呂上りで温もった身体が冷えていくのは我慢が出来ず、早々にベッドに入ることにする。


 ベッドの中で本を読んで、そのまま少しうつらうつらしていると、不意に隣に人の気配があった。僅かに布の擦れる音をさせて、冷たい身体が布団の中に滑り込んでくる。
 もしかして、とふと思い至って私は目を開けた。
 「……シキ」
 間近で整った顔を見ながら、私はどうしたらいいのかと密かに慌てた。
 可笑しな話なのかもしれないが、シキとは裸で抱き合うようなことはあっても、こうして同じベッドでただ眠るという機会は今までなかったのである。身体を重ねた後はなし崩しで同じベッドで寝ることになるが――そうではなく最初から同じベッドに入ったことはなかった。それは、この家で暮らし始めてから(といってもまだ数日だが)も同じだった。布団もベッドも一組しかないわけではないから、私たちは何となく別々のベッドで眠っていたのだ。
 それなのに、いきなりどうしたというのだろう。
 「起こしたか」
 「ううん、半分起きてた。うとうとしながら、そろそろ本を片付けないとなって思ってた」
 「そうか」シキが布団の上に伏せたままにした本を手に取る。本を閉じて表紙に視線を落とす。「『タイタス・アンドロニカス』か…寝る間際に読むには刺激が強いだろう」
 シェイクスピアの中でも“最も残酷な芝居”といわれる話である。あまり寝る間際に読む本でもないかもしれないのだが。
 「私は好き。主人公のタイタス・アンドロニカスが、強姦されて舌と両手を切り落とされた娘ラヴィニアと対面して『…今も娘だ』って言う場面が気に入ってる。強姦なんて加害者が悪いに決まってるけど、やっぱり被害者だって傷ついているはずでしょう。そこへ、変わり果てた姿でも親子には変わりないって言ってもらえて、ラヴィニアどれだけ救われただろうと思って」
 「……分かったから、眠れ」
 シキは手を伸ばして本をベッドの傍らの棚の上に置いた。
 私も一旦は口を閉ざしたが、そうすると最初の緊張を思い出してしまう。更に、湯冷めしたのか体質なのかシキの身体は冷たくて、触れ合う部分から体温を奪われる。もしかして、自分が寒いからこの布団に潜り込んだのかと思わず疑ってしまうほどだ。いずれにしろ、眠れるような状況ではない。

 眠れと言われたってなぁ…。

 そう思いながら、私はすぐ傍にある冷たい身体に身を寄せる。眠るのに邪魔にならない程度に、けれど可能な限りくっつくと、頭の上から声が降ってきた。
 「誘っているのか」
 「ちがう。寒いから、風邪を引くと困るし」ただし、“風邪を引く”の主語が“シキ”であることは黙っておく。
 「俺の身体に触れる方が寒いだろうに」
 身体が冷えている自覚はあるのか。そう納得しつつ、返す言葉を探して黙るとするりと髪を撫でられるのが分かった。一度、二度、三度。そして、すぐに離れていく。
 「…もしも3年前、俺がお前を置いて去っていたらお前は今頃どうしていただろうな」
 ぽつりと呟くような言葉が落ちてくる。シキにしては珍しい口調であったので、私はそっと彼の顔を見てみる。相変わらずの無表情だ。
 3年前。というと、つまり、トシマ脱出後私が勝手にシキについて行くと宣言したときのことだろう。はて、あのときは何を考えてそう決断したのだったか。

 あのとき分かっていたことは、自分がシキに惹かれているのだということだけで。碌に闘い方も知らなくて。シキについていく未来に何が起こるかなんて普通の生活しか知らない私には想像も出来なくて。
 普通の生活に戻る退路は最早自分で断ち切っていたから、シキの傍にいることが許されなかったとしてもそれまでと同じには暮らせなかっただろう。けれど、自力でシキの跡を追うほどの行動力があったとは思えない。

 「本当に、そうなったらどうしてただろう?」
 「お前は…他の身の振り方を何も考えてなかったのか」
 「…多分。あのときは、とにかくあなたに置いて行かれないことに必死で、“保険”を掛けてる余裕なんてなかったから。置いて行かれたらそれはそれで、何とかじたばたしながら生活していったかもしれないけど」
 「無謀だな」
 シキが呟く。一瞬だけその無表情が揺らいで口元に微かな笑みが浮かんだ気がしたけれど、それは錯覚だろうか。それでも私は何となく緊張も寒さも忘れ、ひどく温かな気分になった。
 「あなたから離れた場所で生きてもそれなりに楽しかっただろうけど、きっと今くらい幸せにはなれなかった」
 恥ずかしいような言葉だが、今は穏やかな気分だったのでそれを口にしても照れることはなかった。
 と、不意に無言でシキが腕を伸ばして私を抱き寄せる。自然とシキの胸に顔を当てる姿勢になって、私は一瞬驚いたものの、思わず微笑した。
 温かい。手足は冷え切っているけれど、身体の芯の方はちゃんと人間らしい温度を保っている。気付けば氷のようだった手足も、私の熱が移ってか少し体温が上がっているようだった。よしよし、と私は何となく満足感を覚えながら目を閉じる。
 とても心地よくて、今なら簡単に眠れそうな気がする。

 「お前の幸せとやらは、随分安上がりだな」

 眠りに引き込まれる間際に聞こえた呟きの声は、いつもより少し柔らかかった気がした。





End.
配布元:rewrite“好き過ぎる7のお題”より
「目が合うと、どうしていいのかわからない」





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