俺以外見るな
春先とはいえ、夜明け前の空気はかなり冷え込んでいた。 ぽつりぽつりと気紛れのように疎らに街灯の立ち並ぶ道を進みながら、私は背後の古びた家屋を振り返る。昨日この付近に刺客が現れたことから、私たちは一冬を過ごした家屋を去ることになった。名残惜しくて振り返った家屋は今は闇に覆われてシルエットしか見ることが出来ず、しかもそれさえも次第に遠ざかっていく。じわりと寂しさが胸に広がった。 と、そのときやや歩調が遅くなったことに気付いたのか、先を行くシキが無言で私の手を取った。 ――束の間の平和な時間に、私は大分普通に暮らしていた頃の感覚に戻ってしまったらしい。だが、感傷に浸っている暇はない。刺客は大抵容易く撃退してしまえる程度の相手だが、この近辺の住宅街で立ち回りになっては、無関係の者を巻き込む危険がある。そのようなことになれば事件は表沙汰になり、私たち自身が動き辛くなる。それに、僅かの間はあるけれどご近所さんであった人々を危険に巻き込みたくなどない。 顔を上げてシキの背をみつめる。黒衣のせいで闇に紛れたシキの姿は今にも見失ってしまいそうで、私はただその背を追うことだけに集中する。 そういえば、以前にもこんなことがあった。トシマを抜けるために通った下水道の中でも、同じように一心にシキの背を追ったのだ。 当時私は大きな迷いを抱えていた。このままシキと共にいることが許されるだろうかとか、それで別の楽な生活を捨てていいのだろうかとか、今よりもずっと迷っていた。その上、戦争になど馴染みの無かった私は、地上で繰り広げられているであろう内戦がとにかく怖かった。間近に砲声が聞こえる度に足が竦んだほどである。 そうやってただ迷い怯えるだけだった私の先に立って進みながら、あのときシキは言ったのだ。 『余所事に気を取られる暇があるなら、俺の背だけ見ていろ。はぐれれば、そのまま置き去りにする』 実際には下水道は逸れようもなく一本道であったけれど、その一言は効いた。置き去りにされる恐怖がどんな感情よりも勝って、それから私は下水道を出るまで一心にシキの背を追いかけたのだった。 *** 夜明けの時刻が過ぎてもまだ暗いと思っていたら、曇った空から雨が降り始めた。 春先とはいえ雨はまだ冷たく、そのまま身体を濡らすわけにもいかない。雨がそれほど強くならないうちに、私たちはかっての塒からやや離れたところで雨を避けられそうな廃墟を見つけ、身を落ち着けることができた。 (そういえば、こうやって雨宿りするのは久し振りかも…) 硝子の割れた窓辺に立ち、雨の様子を見ながらふと思う。 冬、あの古びた家屋で暮らしているとき、私はほとんど家に居て家事のようなことしていた。時折裏の仕事の依頼を受けて留守にするシキはそうでもなかったのだろうが、私は雨の時には大抵家にいたのだ(そして、雨が降りそうなら外出は控えていた)。 「――身体を冷やすな。病で倒れられては足手まといだ」 無感情な声が近くで聞こえたかと思うと、背後から伸びてきた腕が拘束するように私の腹部の前で組み合わされる。背中に感じた温もりに安堵して思わず身体の力が抜けたところで、ようやく後ろから抱き締められているのだという状況に思考が追いついた。さすがに私も抱き締められただけで恥らうほど初心ではない。けれど、突然すぎるとどう反応していいのか分からないときがある。今回もどう反応すべきか判断し損ねた私は、しばらく迷ってから自分の腹部の前で組み合わされている手に触れてみた。 冷たい。試しに触れてみた手は、夜明け前の外気の冷たさで冷えた私の手よりもなお冷たい。そこで、私は自分の手をシキの手の上に重ねて、ゆっくりと撫でてみる。そうすることで、少しでも手の温度が上がればいいと思いながら。 「――刺客のことがなければ、もうしばらくあの塒を使うのもいいかと思っていた」 しばらくの沈黙の後、シキはぽつりと言った。耳に近い斜め上から降ってくる声音は普段と違う位置のせいか、やや躊躇いの響きを含んでいるような気がする。けれど、何も問わずに聞き続けた。 「お前はあの塒を気に入っていたのだろう?逃げ回る生活など止めて、あそこで暮らしていきたかったのではないか?」 たしかに、気に入っていた。シキがいて、本があって、雨風がしのげる場所。他に望みようもないくらいである。だが、あの古びた家は結局子どもの隠れ家のようで、おままごとに似たことはできても、実際に生活していく場所ではない。 私たちは、きっとこれからも定住して暮らしていくことはないだろう。いつか斬り捨ててきたものたち同様に、どこか路上で殺されて野ざらしにされる。それだけが、多くの人を殺してきたシキへの、そして私への報いだ。だから穏やかな布団の上での死などに執着するつもりはない。 そういう道を選んだのだと、私はもう理解しているから。 「あの家は好きだったけれど、あそこでずっと暮らしたいわけじゃない。逃げ回る生活だって、あなたと一緒なら結構悪くない思ってる。でも、もし次にまた長くいる塒を探すことがあるなら――本のたくさん残っている場所だといいな」 「…次があれば、考えておく」 馬鹿げた考えと一蹴されるだろうという予想に反した答えに、私は一瞬目を丸くする。シキらしくないけれど、“らしくない”というのは所詮私の固定観念であって、シキから予想外の返答が返ることだって度々ある――ここ1年ほどは特に。だから私は今回も早々に驚きから立ち直って、「ありがとう」と言った。 と、そのとき室内で小さな物音がした。 カタンと室内に放置してあるテーブルか何かを動かしたような音。それと同時に、私の腹部の前で組み合わされた腕が拘束する力が僅かに強まり、背に触れている身体が静かに緊張する。 とはいえ、最初に調べてあったから、この廃墟の中に刺客や他の誰かが潜んでいることは有り得ない。私はともかく、シキが気配を読み違えることはまず無い。じっと息を詰めること数秒で、薄暗い物陰でごそごそ音がしたかと思うと猫が一匹這い出だしてきた。まだ仔猫だ。小さな身体に、薄暗い室内でもはっきり姿が見えるような明るい毛並みをしている。 シキは猫の姿を認めると、身体の緊張を解いた。 背中に触れる身体から緩やかに力が抜けていく。その過程をはっきりと感じて、私は何だか気恥ずかしくてどうしていいのか分からないような気分になった。考えれば可笑しな思い込みでしかないのだが、私はずっとシキは当たり前のように先回りして刺客や危険の気配を察していて、不意の危険に緊張することなどないのだろうと思っていたのだ。だから、背中ではっきりとシキが緊張する様を感じて――どんなときも顔色一つ変えない彼の内実を覗き見た気がして申し訳ない気がする。 「猫だったんだ…びっくりした」 間近にいるのが何となく気恥ずかしい。私は猫に興味を引かれた振りをしてシキの腕から抜け出し、猫に近付いていく。触れることはせず、1メートルほど距離をおいた場所で屈むと、猫は逃げ出さずにキョトンとした瞳でこちらを見上げた。しばらくそのまま見詰め合っていると、ゆらりと視界の端を尻尾が過ぎる。その尻尾に、私はぎょっとして声を上げた。 「お前、怪我してるの?その尻尾折れて…」 先端が少し折れ曲がった尾に驚き、私は猫に手を伸ばす。捕まえられかけたことに驚いて、猫はさっと物陰に逃げ込んでしまった。 「折れているわけではない。鉤尻尾といって、あれは生まれつきだ」 静かな声が届く。振り返れば、シキはまだ窓際にいてこちらを見ていた。気のせいだろうか、窓からの僅かな光の中で見る彼の表情はやや憮然としているようなのだが…。 「そうなの?良かった…」 「たかが猫一匹を心配してどうする」 「どうもしないけど、可哀想だもの。尾てい骨を打つのって結構痛いのよ?中々痛みも治まらないし。尻尾だって折れたらもの凄く痛いに決まってる」 「何故お前はそういう妙な経験ばかりしているのだろうな」シキは溜め息混じりに言って、すっと猫の消えた物陰に視線を向ける。「――だが、心配してやった割にお前は嫌われたようだ」 耳に届く声音は何だか満足そうな響きがあるような気がする。 はて、これは揶揄なのか何なのか。私は窓辺の弱い光の中に立つシキを見ながら、内心で首を傾げた。 End. 配布元:rewrite“好き過ぎる7のお題”より 「俺以外見るな」 戻る |