相当侵食されていると思う、心の奥の奥まで



 朝方から雲行きの怪しかった空は、夕方になるに至って雨を落とし始めていた。
 シキは3日前から留守にしている。今日こそ帰ってくるのだろうかと思いながら、アナウンサーが午後9時を告げたところで私は今まで聞いていたラジオの電源を切った。私たちが秋の終わりに身を落ち着けたこの家にはテレビはない。もとより仮初めの住まいのつもりであったから家具を買い揃えるようなことはしないし、何より私もシキも特にテレビがなくても不自由ではなかったからだ。
 (ラジオの天気予報、雨は一晩降り続くって言ってたな…)
 古びた家の中にさぁさぁと染み入ってくるような雨の音に耳を澄ましていると、不意に玄関の扉が開く音が聞こえた。シキだ。そう思うが早いか、私は行儀悪く寝そべっていたソファからぱっと起き上がると、乾いたタオルを手に玄関へと走っていった。


 案の定玄関を入ってきたのはシキで、私が駆けつけたときには玄関の扉を閉めて鍵を掛けているところだった。まともに雨に遭ったのだろう、シキの髪からもコートの裾からもぽたりぽたりと雫が落ちて玄関のコンクリートに丸い染みを作っている。
 「おかえりなさい」
 片手で乾いたタオルを差し出しながら、もう片手でそっと刀を取り上げる。シキはごく当たり前のように、私に刀を委ねてくれた。
 「どうした。主の帰りが待ち遠しかったか」揶揄いの気配を含んだ声。
 「…――心配してたよ、怪我してないかとか」そう答えるのが、私の精一杯だ。「そのままじゃ風邪を引くから、お風呂に入ったら?そろそろ私も入ろうかと思ってお湯張ったばかりだし。着替えは入れておくから」
 先に立って家の奥へと歩いていきながら言うと、背中から「あぁ」と返事の声が追いかけてくる。そこで私は居間へ刀を置き、寝間着を持って風呂場へと行った。最早シキは風呂へ入ったものと思って遠慮なく脱衣所の扉を開けると、シキはまだそこに立ち尽くしていた。
 「うわっ」驚いて間の抜けた声をあげ、慎ましく視線を逸らしかけたところではたと気付く。彼はまだ全く衣服を脱いでいない。「…って、いつまでも濡れた服だと風邪引くでしょう?早く入ったら、」
 急かす言葉の途中で、不意にシキが手を伸ばす。え?と思ったときには既に遅く、逃れる間もなく私は彼の腕の中にいた。しっかりと抱き締められて密着した部分から、すぐに濡れそぼった衣服の水分がこちらへ移ってくるのが分かる。けれど、湿気を移されたことに顔をしかめることも、怒ることも、私は結局できなかった。
 雨の匂いよりも、シキの匂いよりもずっと強い、血臭。もう逃亡生活で馴染みになったはずだったが、久し振りに嗅いだそれに私はとっさに怯んでしまった。
 しばらくして身体を離したシキは、何を思ったか私の衣服に手を掛けた。
 「!?――なっ、…シキ、お風呂入るんじゃないのっ!?」
 「あぁ、入るさ」
 「なら、私は関係ないはずっ」
 「何を言っている。お前も入るのだろう」真顔で当然のように言ってから、シキは意地の悪い笑みを唇に乗せた。「いつまでも濡れた衣服では風邪をひくぞ?」
 先程の行動はそういうことだったのか。一抹の悔しさを覚えるものの、抵抗したところで敵うはずもない。私は深く吐息を吐くことで悔しさを押さえ込むことに成功する。ここでこのまま風呂に入ったとして、着替えも何もない私は後でタオル一枚でそれを取りに走らなければならないわけだが、仕方のないことだ――諦めの心境でそう自分に言い聞かせた。


***


 この家の浴槽は一人で入る分には十分広いが、大人二人で入るとなると当然狭かった。
 「…こっちは見ないでね。私も見ないから」
 浴槽に浸かりながら地を這うような声音で念を押すと、シキは「今更だな」と溜め息をついた。
 「お前の身体はもう十分見知っているが」
 「それでも嫌だったら嫌だ」
 本当は、嫌だというよりは恥ずかしい。シキが見る分には構わないが、その視線を許容する自分がいるというのが居たたまれない感じがする。そういう心境を上手く言えなくて、私は子どものように嫌だ嫌だと繰り返した。
 そんな私に呆れたのか、シキは溜め息を吐くと湯の中でこちらに背を向けた。突然の行動に目を丸くしていると「これでいいのだろう」という声がして、そこでようやくシキが私の希望を酌んでくれたのだと知る。何だか信じられない思いで、私はありがとうと言ってみた。


 「――外、寒かった?」
 黙っているのも落ち着かなくて、私は聞くまでもないようなことを尋ねる。シキは寡黙なほうだが、一緒に居て沈黙が苦痛になることはない。だが、今ばかりは常とは違って沈黙が落ちると身の置き所がないような気分になる。
 「あぁ。だが、真冬ほどでもない」
 「そう…そうだね、まだ雪も降らないものね」
 言いながら、私は右の掌でシキの肩に触れてみる。しばらく湯に浸かっていたにも関わらず、まだ冷たい。雨に濡れそぼったのだから、冷え切っているのは仕方のないことかもしれない。そんなことを思いながら、掌を背中の方へ移動させる。すると、肩よりは多少高い体温と皮膚の下の骨格や筋肉の感触が掌から伝わってきた。
 綺麗な背中だ――目の前にあるそれを見ながら思う。
 追っ手の屈強な男たちを見慣れてしまえば、シキの身体はどちらかというと線が細いようにも思える。けれど、実際に見て触れれば必要な強靭さが無駄なく備わっていることが感じられるし、死線を潜り抜けてきたことを示す傷跡が幾つか残されてもいる。私はさらに掌を移動させ、左肩にある銃創に触れた。
 いつもならこの辺りで揶揄いのひとつも返って来そうなものだ。けれど、何故か今日に限ってシキは無言で、咎められないのをいいことに私は調子に乗って湯には浸かっていないその部分に唇を当てる。すると、再びシキの身体にいつもより強くまとわりつく血臭を感じた。
 「――何かあった?」そう尋ねたのは何となくのことで、答えを期待してはいなかったが。
 「いや。だが、そうだな…消すように依頼された者の傍に、若い女がいた。愛人だったらしい。わざわざ男が逃したというのに戻ってきて、俺に自分も殺せと言った。死に別れるくらいなら自分も後を追うと、そういう約束なのだと」
 「っ…」思わず息を呑んだ。

 ――私にはもう他に無いから、一緒に朽ちるだけになってもいいから傍にいさせて。
 以前シキが私を置き去ろうとしたとき、そう頼み込んだことがある。
 シキに殺して欲しいと頼んだ女性の気持ちは、よく分かる。

 じわりと胸から込み上げた何かを抑えて、私は背中からシキに抱きついた。肩に顔を埋めて悪趣味だと思いながらも問わずにいられない。
 「その女の人の願い、聞いたの…?」答えはない。私も改めて問う気にはならないで、しばらく沈黙が落ちる。
 「…お前は、俺より先に死ぬことは許さん。後に残ることもだ。あの男のように、俺はお前だけを逃したりなどしない」
 俺が死ぬときには、お前も連れて行く――かつて貰った言葉。けれど、今は最後の部分ばかりは憚るように押し黙って、シキは俯いて彼を抱き締めた私の腕に唇を押し当てた。そのまま腕の内側の柔らかい部分をきつく吸う。後で見たら痕になっているのだろう。

 「えぇ。そういう約束だもの――必ず守ってね」

 言い含めるように、私はシキの耳元で小声で念を押した。


***


 翌日、風呂場に長居したためなのかシキは熱を出した。
 私はといえば健康そのもので、「馬鹿は風邪を引かないというからな」などとシキに嫌味を言われることになったが、シキは長風呂に加えて雨に濡れてきた分があるのだからこのような結果も当然と言えるだろう。
 ともあれ、昨夜問答無用で衣服に湿気を移された私の恨みは大いに晴らされることになった。  





End.
配布元:rewrite“好き過ぎる7のお題”より
「相当侵食されていると思う、心の奥の奥まで」





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