彼女が握る弱味について
衣擦れの気配で薄く目を開けると、寝室はすでに明るくなっていた。その明るさから逃れるように寝返りを打ち、ベッドから脱け出そうとしている相手に手を伸ばす。腰に腕を回して引き寄せると、相手は一瞬逆らう素振りを見せたが、すぐに小さくため息をついた。 「――シキ、起きているのでしょう?離してください」 咎めるというよりは、呆れているような声音が、頭上から降ってくる。 のそういう声音は、嫌いではない。今でこそこうして手を伸ばせば届く距離にいる彼女だが、そうなるまでに互いに散々意地を張り合って、拒絶し合ったこともある。そんな経緯があるからなのだろう、は今でも好意や愛情を素直に表すことは少ない。多くの場合は、素っ気ない態度でこちらに返してくる。 けれど、こうしてシキが甘えるような態度を取るとき、は呆れた顔を作って、それを受け入れるようになった。今は、そこまでが彼女の精一杯なのだということは、シキも理解している。物足りないと感じるときも、ないわけではない。けれども、彼女を傍に置けるようになるまでの、散々拒絶に遭った経緯を思うと、焦っても仕方がないという気もしてくる。いつか時が経てば、彼女も今よりは素直になれるだろう、と。 それはともかく、今はまだ起きたくない。 ニホン国総帥の多忙さは異常なほどで、国際情勢に動きのあったここ数日は、ほとんど眠る間もなく働き詰めだった。nicolの保菌者になって以来、シキは常人離れした体力と精神力を持つようになった。数日働き詰めたところで、体力が切れることはまずない。それでも、可笑しな話だが、集中力や思考力は体力云々とは無関係らしく、確実に鈍って来る。また、シキに従わなければならない総帥府のスタッフも、疲労する。 ようやく事態が落ち着いてきた昨日、秘書であるアキラの計いで、今日の午前中はシキはオフということになった。睡眠は昨夜からの数時間で十分に足りているが、せっかくのオフ。どうせならばこのまま――このところ忙しくて接する機会のなかったと、寝床の中でのんびりしていたいと思う。ほとんど私人としての時間を持てないニホン国総帥職だが、その程度のことは許されてもいいだろう。 そう思いながら、腕の中のを少し強く引き寄せる。はやんわりと抗ったが、結局抗いきれずにシキの傍へ倒れこんでしまう。 「もう、起きたいのですけれど……子どものような真似はやめてください」シキがの身体を腕に抱きこむと、彼女はため息混じりに言った。言葉は咎めるものだが、その声は微かに笑みの気配を含んでいる。「今日は、やけに聞き分けのないことをなる。……このところ、お忙しそうでしたし、疲れていらっしゃるのですね」 「……あぁ、少しな」柔らかな笑みの気配に促され、シキはふとそう零した。 「でしたら、もう少しお休みになって下さい。私は……ここにいますから」 は片肘をついて半身を起こすと、掛け布団越しにシキの腹部を軽く一定のリズムで叩く。まるで子どもをあやすような行為だが、不思議と腹立たしいとは思わない。そのうち、軽く与えられる一定のリズムに引き込まれ、シキの意識は緩く眠りに引き込まれていく。 実のところ、半日のオフを寝て過ごしたいわけではない。と過ごしたいと思っていた。 (――だが、まぁこれも悪くはないか) そう思ったときだった。 不意に、機械音のメロディが部屋に流れる。発信源は、ベッドサイドのテーブルに置いたシキの緊急連絡用の携帯だった。 それは数十年前――の生まれた時代に流行した曲で、着信音として設定したのはだ。あるとき、彼女がこの携帯に興味を示したので渡したところ、着信音を通常のものから変更なれていたのだった。特にシキはこだわりがないのだが、周囲の総帥府に詰める高官たちの携帯の着信音と区別しやすいということで、そのままにしている。 優しいメロディラインのその曲が、静かな寝室に鳴り響く。 と、が素早く手を伸ばしてテーブルから携帯を取り上げ、シキへ差し出した。 受け取って画面に表示されたアキラの名前を確認してから、通話ボタンを押す。すると、聞きなれたアキラの声が真っ先に、オフを邪魔したことへの謝罪を告げた。それを、構わないと言い、シキは先を促す。 アキラの用件は、先日からの国際情勢の動きがこちらに有利に向いてきていることを告げるものだった。更に流れを引き寄せるには、今からでもニホンも動かなければならない。そのためには、国家元首であるシキ自らが対応しなければならないことがある。 通話を切ると、シキはため息をついた。 「オフは、取り消しだな……せっかくお前といられるというのに、嫌になる」 「そう仰らずに、行って下さい。私は自分の仕事を投げ出さない人が好きです。あなたの仕事は、この国の人を幸せにできる仕事。それを見守るために、私はここにいるつもりです。――私との時間は、またいつでも作れるでしょう?あなたは自分の仕事を優先させなければ」 にっこり微笑みながら告げられるその言葉に、シキは思わず別の意味でため息をつく。昔に比べて、いろいろな意味で、は強くなったものだ。が、ため息をついたのはそちらへではない。尻に敷かれているのも、案外悪くはないと思いかけている己こそ――本当に、どうしようもない。 「……どうしました?笑っていらっしゃるようですけど」 「いや、何でもない。……仕方ない、面倒だが、お前が言うなら起きなくてはな」 「えぇ、そうして下さい」 シキの大儀そうな言い方が可笑しかったのだろう。は小さく笑って頷き、労わるようにシキの額に軽く唇を触れさせた。 End. 戻る |