灰色の雲に覆われた空の下、ひょろりとした潅木が疎らに生える荒野が広がっている。
 そんな寒々しい風景を背に、女が一人近付いてくる。粉雪混じりの風がいいように髪を乱していくのも気にせず、

 『…――、――』

 硬い表情で何事かを呟いてから、堪えるように唇を引き結んだ。
 彼女が発した言葉は、残念ながら記録に残されていない。そのとき、音声認識システムは大破していたからだ。他のシステムも殆ど同じような状態で、僅かに破壊を免れたコンピュータの一部の中に、将来俺のベースとなるまだ人格を持たないAIが辛うじて生きていた。
 不意に女の背後から男が2人現れた。
 片方の男は銀髪で、硬質で冷たい印象さえ与える青い瞳で女の背を見ている。もう片方は黒髪で、こちらはひどく心配そうな表情を浮かべていた。見事に対照的な2人だった。
 『――』
 『――…』
 男たちは共に一言ずつ女に声を掛けたが、彼女はどちらの言葉にも頑なに首を横に振った。そして、何かを決心したように不意に瞳に強い光を宿し、こちらに手を伸ばす。その動作の拍子に、女の目の縁に溜まった涙がすっと頬を伝っていく。
 重力に従って涙の粒は地面に落下し、乾いた土に染みた。

 あぁ、彼女の手を取ることができたらいいのに。
 彼女の手が触れる瞬間に、俺は――まだ人格を持たなかったにもかかわらず――そう思った気がする。 


 これは俺がこの世、つまり現実世界に実体を伴って存在するようになるより半年前の記録だ。
 人間は自身の経験が脳の内部に保存されて取り出すことはできないのに対して、俺のようなAIは自分が人格を持って存在する以前の記録にもアクセスすることができる。それは人間がテレビで過去の映像を見るのと同じで、感情も実感も伴わない記録にすぎない。
 ただ、俺はこの荒野での記憶こそ俺自身としての最初の“記憶”ではないかと思う。
 それでも、まだ生まれるには時が足りなかった。
 俺はこの後6ヵ月の間、あの曇り空の下で涙を見せた彼女の手で、コンピュータの胎内で育まれることになる。いつか、現実世界で彼女の手を取るときのために。





I'll be your mother someday




 西暦は遥か昔に過ぎ去って、宙暦107年6月。
 夏にオリンピックを控えて世間が盛り上がる頃、私は世間の流行に背を向けるようにパソコンに向かっていた。
 仕事のために外出する以外は、プログラムを設計してひたすら打ち込む。ニュースなど碌に見もしないので、オリンピックに出場する選手のことなど全く把握していない。もっと世間に目を向けろと同僚に諭されもしたが、構いはしなかった。


 私の職業は<ハンター>と呼ばれるもので、上司が1人と同僚が2人いる。ハンターというのは、依頼を受けて惑星や宙域に赴き、指定された動植物や鉱物などを採取してくる仕事である。
 といっても、地球外の動植物や鉱物を持ち込めば地球の生態系が壊れる可能性があるので、持込は国際条約で厳しく制限されている。そのため、控えめに言っても依頼の8割くらいは非合法のものになってしまう。そんな事情から堂々と看板を出すこともできないので、私の勤める会社は表向き宇宙空間での運送業ということになっている。
 ハンターは、どちらかといえば裏の世界に属する仕事であるから、商売敵ともなれば文字通りの意味で潰しあう熾烈な競争が行われる。そうでなくとも、未開の惑星や宙域に赴くだけでもどんな危険があるかわからない。
 そういう厳しい仕事の合間を縫って、身を削る勢いでプログラミングに没頭する私に、同僚の一人は有り難い言葉をくれた。「つまらないことは止めてしまえ。でないと死ぬぞ、おたく娘」。そのとき以来、彼とは冷戦状態が続いている。
 もう一人の同僚はもっと優しくて、度々私を気遣ってくれた。けれども、言葉にはしなくとも“もう止めた方がいい”と思っているようである。

 春になる頃からは、私は半ば意地になって日々キーボードを叩き続けた。


***


 6月12日。
 とある惑星での大きな依頼を済ませて、私と同僚はまとまった休暇に入ったところだった。ハンターは結構不安定な仕事で、(実力次第でだが)舞い込む依頼一件あたりの報酬は大きいものの、依頼が来ないときは全く仕事がない状態になってしまうこともある。その間、ハンターとして多少名の通っている同僚2人は、個人で依頼を受けているようだった。
 私はといえば、ハンターとしては無名で実力も無いので、大抵は会社に出て事務処理や副業(?)の運送などを手伝っている。けれど、今回はプログラミング作業を進めるため社長に頼んで休むことになっていた。
 そんな折、同僚の一人が私を訪ねてきた。


 ピンポーン。
 滅多に鳴ることのない玄関のベルが鳴ったのは、昼過ぎのことだった。作業を中断させられて顔をしかめながら出れば、黒髪の同僚がドアの外に立っている。驚いて、私は彼をリビングへと通した。
 「どうしたの、アサト」
 インスタントコーヒーを出しながら尋ねれば、彼は困ったように笑った。
 「どうもしない。ただ、がどうしているか気になっただけだ。――ライは、食事も睡眠も摂らずに乾涸びているんじゃないかと言っていた」
 「ライ…」
 私は思い切り顔をしかめた。
 いくらなんでもそれは酷い。私だって20代の女性なのだ。肌のことも気になるので、食事も睡眠も一応摂っているし、入浴は毎日きちんとしている。テレビや雑誌はもう半年まともに見ていないので流行について行く自信はないが、健康体であるとは自信をもって言える。
 「期待に添えなくてライには申し訳ないけど、私は大丈夫。今の休みのうちに、頑張ってプログラムを完成させてしまおうと思ってる。ライは名指しで来た依頼を受けているのでしょう?アサトも何か余所の依頼を受けるの?」
 「あぁ。明日にはこちらを発つつもりだ」アサトはそう頷いてからふと真顔になった。「――、これからしばらく顔を合わせることがないが、無理はしないでくれ。あのときのことを気にしているのなら、そんな必要は、」
 「気にしているわけじゃない。私はしたいことをしているだけ」
 あのとき、曇り空の下でそうしたように、私は首を横に振って見せた。


 私がプログラミングを続けているのは、AIである。
 AIのプログラムとはいっても、0から始めたわけではない。以前私たちが仕事で使っていた小型宇宙艇に積まれていたコンピュータのAIがベースで、私はそれをアレンジしているのだ。その宇宙艇自体は、半年ほど前に依頼で赴いた惑星で商売敵の手によって既に破壊されてしまっている。私たち3人のうち私だけがその場に居合わせたのだが、荒事は専門外であるために商売敵を阻止することが出来ず、ただ破壊の場面を見守るしかなかった。
 そのときの悔しさといったら、他に無い。仕事のときはライとアサトと私の3人で組むのだが、ライとアサトが荒事担当で、私はオペレーターや情報分析のようなことをするのが常となっていた。そういう分担上、その宇宙艇のコンピュータはまさに相棒であったのに、私は守ることもできなかった。
 大破した宇宙艇をそのままスクラップにすることが忍びない。そこで、私は僅かに生き残っていたコンピュータに入っているプログラムをアレンジして新たなAIに作り変えることを思いついた。社長であるバルトに頼んで僅かに生き残っていたコンピュータのAIのプログラムを自宅のパソコンに移し――今に至る。


 「私の我が儘で心配をかけてごめんなさい。でも、もう少しで完成するの。――ほら」
私は手を伸ばしてテーブルの隅に押しやっていたディスプレイをアサトの方へ向けた。画面の中では、白い毛並みに耳と尾の先だけ茶色い仔猫が丸くなって眠っている。そっとスペースキーを押すと、猫は起き上がって大きく伸びをした。
 「鈎尻尾…」
 仔猫の動きに合わせてゆらりと揺れた尾の先を見て、アサトが呟く。
 プログラムしたAIに猫の姿を与えたのは、単に人格を持つ存在であるとイメージしやすいからである。私がネット上で見つけてきた猫をモデルにしたのだが、人格を持った“彼”は鈎尻尾に関して少し複雑な思いを抱いたようだった。可愛いのに。
 「これがの作ったAIなのか…」
 「作ったというか、スクラップになった宇宙艇のコンピュータのAIをちょっと補修しただけ。また何かの形で一緒にいられたらいいなと思って。――名前はコノエというの」
 『…?』
 仔猫の横に小さなウィンドウが出現し、文字が表示される。私はキーボードを引き寄せて、応じる言葉を入力した。
 『起こしてごめんね。今アサトが来ているから、コノエと会って欲しくて』
 『アサトが?』仔猫は気配を探すように背を伸ばし、ぴんと耳を立てる。『そうか。初めまして、アサト』
 「俺のことも分かるのか?」アサトが目を丸くする。
 「えぇ。アサトだけじゃなくて、バルトやライのことも知ってる。私が教えたし、今ではコノエも自分でネットに潜って情報を学習してくるから、他のことも色々知っているはずよ。――話してみて」
 ぐいっとキーボードをアサトに向かって押しやると、おずおずとアサトはキーを叩く。キーボードとディスプレイを使った会話を続けるうちに、アサトの顔には驚きと喜びの混じった笑顔が浮かんでいた。何だか、生まれた我が子に初めて対面した父親のようで、私は少し可笑しくなった。


***


 「はすごいな」
 コノエとの会話を終えたアサトは、私に言った。けれど、今時人格を持つAIなど目新しくも無いので、なんだか何だか戸惑ってしまう。
 「これくらい普通よ」
 「そんなことはない。半年前、他のハンターがあの宇宙艇を破壊していったとき、俺もライもただ怒るだけだった。でも、は怒るだけじゃなくて、壊れたものから新しいものを作った。だからすごい」
 「本当にそんなことないよ。でも、ありがとう。コノエのプログラムを始めてから良くやったって言ってくれたのは、アサトが初めてよ。これは褒めて欲しくてしてることじゃないけど…嬉しい」
 そうか、と頷いて急にアサトが手を伸ばしてくる。何ごとかと思わず身体を強張らせていると、手は私の頭に辿り着いた。そのまま2、3度頭を撫でて、アサトの大きな手は離れていく。
 「――ライのこと、許してやって欲しい。本当のことを言うと、今日はの様子を見るためとそれを伝えるために来たんだ」
 「許す?」
 「が真剣にやってるのに、止めてしまえと言ったことをライは後悔してる。でも、悪気があったんじゃない。お前が仕事とプログラムとで無理をしているのが分かったから、言ったんだと思う。ただ、あいつには言葉が足りない」
 あまり饒舌ではないアサトにまで、言葉が足りないと言われるライ。可笑しくなって、私は少し笑ってしまった。
 「分かってる」
 「そうか、良かった。ライも喜ぶと思う。あまり怒らないが今回はずっと怒っていて、どうしていいか分からないみたいだったから」
 アサトが言うことは事実で、私はライと衝突したことが殆どない。ライの物言いはぶっきらぼうで、ときに冷たく聞こえることもあるが、癖なのだと知っているので大抵は受け流してしまう。私よりもアサトの方が、ライと衝突することが多いくらいだ。今回、ライと私の冷戦状態が続いているのは、単に慣れないことをしたので和解のタイミングがつかめないからだとも言えた。
 ライが困惑しているとはあまり思えないが、次に会うときには謝ろう。
 そう決心しながら、私は帰っていくアサトを見送った。


***


 それから2日後、私は完成させたコノエのデータをリークスという男に渡した。これは、コノエが現実世界に実体を伴って存在するために必要な措置だった。

 生身の身体を持つことを望んだのは、他でもないコノエ自身だ。私が与える情報を吸収し、広大なネットの情報に触れるうちに、どういう過程で彼がそれを望むようになったのか私には分からない。
 ただ、現代にはその希望を可能にするだけの技術があるのは確かだ。
 まだ西暦であった時代から製造されていたアンドロイドは、当初は言ってしまえば動く人形でしかなかった。人間のように思考し、行動しても、触れれば人間とは違う質感。だが、それも技術の進歩に伴って、今では人間と殆ど変わりないアンドロイドを造ることが可能になっている。有機的な生体部品で肉体を作り、脳の部分だけ機械化して、人格を持つAIを入れるのである。

 もっとも、私はコンピュータが処理を制御するプログラムの方が得意で、ハードウェアの方はあまりよく知らない。勿論、アンドロイドの身体を作り上げるような知識も技術も設備も持ち合わせるはずがない。そこで、我が社の社長にしてハード担当のバルトに相談したところ、紹介されたのがリークスだった。
 リークスは、その世界では有名なアンドロイド製作者なのだそうだ。人間と寸分違わぬ精巧さでアンドロイドを作る業が魔法のようだというので、ついた通り名が<魔術師>。ただ、腕は大変いいのに、本人が気難しく商売っ気がないために、依頼を請けてもらえることはごく稀であるらしい。
 だが、奇跡的にも私はそのリークスに仕事を依頼することに成功したのだった。


 『いよいよ明日だね』
 コノエのデータを渡す前夜、私はキーボードにそう打ち込んだ。
 『ああ。――身体が欲しいなんて、我が儘言ってごめん』
 ディスプレイの中で仔猫がしゅんと耳を倒す。申し訳なさそうに垂れた尾が何だか可哀想で、私は仔猫を撫でてやりたいような気分になった。
 『我が儘だなんて、そんなことない。私もコノエが“こっち”にいたらいいと思うから』
 キーを叩きながら、私はコノエが得る身体のことについて考えた。
 全てを一任するというのがリークスの出した条件で、リークスがコノエにどのような姿を与えるつもりなのか私は全く知らない。人なのかもしれないし、動物なのかもしれない。
 そのことが少し不安ではあったが、それをコノエに告げる気にはならなかった。
 『次に会うのは1ヵ月後だね。そのときを楽しみにしてる』
 私は無邪気な言葉をキーボードに打ち込んだ。


***


 長めの休暇が明け、依頼を一件終わらせる頃にリークスとの約束の期日はやって来た。
 7月半ばのその日私はリークスの工房へ向かった。


 リークスの工房兼自宅は、最近ではあまりお目にかかれないような深い森の中にある。聞けば、その地域一帯が西暦の頃から開発禁止区域に指定されているのだそうだ。森の中には舗装された道が無いので、葉を茂らせる木々の間を徒歩で歩いた。
 工房に辿り着いた私を迎えてくれたのは、穏やかな雰囲気の赤毛の男だった。名をシュイといい、リークスの助手をしている。以前訪れたときにも会っているので、これが初対面ではなかった。
 「いらっしゃい。コノエを迎えに来たんだね。遠いところを徒歩で、大変だっただろう?」
 「いえ…歩くのは慣れてますから」
 私は苦笑した。
 今時の人間にはあまり長距離を歩く機会が無いのは事実だ。けれど、私は仕事上未開の惑星で荒野や森を延々歩いて移動することも度々ある。それに比べれば、この程度はまだ可愛いものだ。
 シュイは私を応接室に通してくれた。けれど、一向にリークスは姿を見せない。
 「あの、シュイさん、リークス先生はどうかされたんですか?」
 「仕事が完成した後、読めなかった本を読むと言って3日間徹夜したんだ。今はさすがに体力が切れたみたいで、眠ってる。せっかく来てくれたのにごめんね」
 そう言ってシュイが溜め息をついたとき、カタンと小さな物音が聞こえた。先程通ってきた廊下の方から音はしたようで、シュイは顔を上げてそちらを見ると、不意に優しい笑顔を浮かべた。

 「――入っておいで、コノエ」

 シュイが声を掛ければ、扉がゆっくりと開く。そして、12、3歳くらいの少年が、俯きながらおずおずと応接間に入ってきた。
 「――コ、ノエ…?」呟く自分の掠れた声に、私は唐突に緊張を自覚する。
 少年は顔を上げて私を見た。薄茶の髪と琥珀色の瞳。気の強さと繊細さを併せ持つ顔立ちが綺麗だ。――この子は大人になったらモテるだろうな。私は真っ白な頭の隅で、全くどうでもいいことを考えた。
 「」少年は私の名を呼んで、緊張で強張った表情の上に不安をよぎらせる。
 「は驚いてるだけだよ。さぁ、傍に行っておいで」
 シュイがそっと少年の背を押す。
 不安そうな表情で歩いてくる少年を見て、私はようやく我に返った。コノエはまだ現実世界に生まれて間もないのだ。それを私が不安にさせるような態度を取ってはいけない。
 「不安にさせてごめんね。ちょっと、そう、驚いただけなの。こうやって現実にコノエと会うのは初めてで」
 「…もしかして猫の方が良かったか?ごめん、。リークスは猫の身体にしようかって言ったけど、俺はどうしてもと同じ人間になりたかったんだ」
 「謝ることないわ。コノエが気に入っていて、自分らしいと思える姿ならそれが一番いいんだから――こちらの世界では初めまして、コノエ。これからもよろしくね」
 手を伸ばしてコノエの頭を撫でる。少しの間、コノエは黙って私のしたいようにさせてくれたが、やがてするりと抜け出して私の右手を取った。
 これは握手なのだろうか。
 まるで壊れ物に触れるような恭しさで、コノエの両手が私の右手を捧げ持つ。

 「初めまして、。こちらこそ、よろしく」

 何だか満足そうに、コノエは笑った。




End.
配布元:『ivory-syrup 』より
「I'll be your mother someday」

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