うつくしくないのはわたし



 宙暦107年8月某日。
 地表と宇宙空間にある宇宙港を結ぶ巨大エレベーター<シャフト>のターミナルは、いつになく混雑している。子どもたちの夏休みのためか、親子連れの旅行客の姿が目立っていた。
 賑やかなターミナルのロビーの片隅、比較的人の少ない一角にあるソファにコノエと私は座っている。ターミナルのゲートを出る手続きを、まとめて引き受けてくれたライを待っているのだ。
 私たちは今日仕事を終え、宇宙から戻ったばかりだった。2時間ほど前に宇宙港に辿りつき、そこでまだ用のあるアサトとバルドと別れ、少し前の<シャフト>便で地上に降りてきた。そのままターミナルを出て帰途に着ければ楽なのだが、残念なことにすべての利用客は<シャフト>の乗り場と降り場で計2回手続きをすることになっている。地球の物質を宇宙に持ち出すことで、また宇宙の物質を地球に持ち込むことで起こる危険を予防するための措置だった。
 ライはその手続きを3人分まとめて引き受けてくれている。ただ、カウンターの混み具合から見ても、まだいくらか時間が掛かりそうだった。


***


 のんびりと雑踏を見ていると、不意にことりと肩に重みが掛かった。あれ、と思い振り返ろうとすると、
 「ん…ごめん…」
 すぐに重みが取り除かれる。見れば、隣に座ったコノエがうつらうつらと眠たげな様子を見せていた。
 コノエはハンターの仕事に加わるようになってまだ間もないので、今回の大掛かりな依頼で疲れているに違いない。それでもこの場で眠るのにはためらいがあるらしく、落ちそうになる瞼を懸命に押し上げている。
 「少しなら眠っていいよ。後で起こしてあげる」
 そっと声を掛けるが、コノエは必死に目を開けようとしながら首を横に振った。それでもそうする傍から眠りに引き込まれ、瞼が閉じてしまう。支えを失った身体がくらりと揺らいで、私にもたれ掛かってきた。
 「――…あ、…ごめん、俺…」
 「いいよ。ライが来たら起こすから」
 「でも…」
 遠慮して起きようとするコノエを、私は逆に手を伸ばして引き寄せた。
 すると、コノエはやはり睡魔に負けたらしく、こちらに身を寄せたまま身体の力を抜く。無意識に安定のいい場所を探しているのか、私の肩に乗せた頭を2、3度擦り付けるように動かしてから大人しくなった。
 安らかな寝息を聞きながら、私は雑踏に視線を戻す。と、ちょうどそのときロビーの柱の前に立つ女の子の姿が目に入った。彼女は、20歳くらいだろうか。<シャフト>は初めてなのか、戸惑いと好奇心の混じった目で周囲を見回している。
 その様子に、ふと2年前の自分のことを思い出して懐かしくなった。
 かつては、私もあんな風だったのだ。


 私は普通の家庭で生まれ育ち、一度は普通の会社に就職した。旅行でも仕事でも宇宙に上がったことはなかったし、今の仕事のような違法行為とは無縁だった。護身術さえ知らないという意味においては、“か弱い”と言っても良かっただろう。
 2年前転職して、生まれて初めて私は宇宙に出た。
 ハンターとしての最初の仕事のとき、私はいつも外から眺めるばかりだった現代版バベルの塔みたいな<シャフト>を使って宇宙港に上った。現代では個人にしろ航空会社にしろ宇宙船の発着は宙港のみに限定され、我が社も含めて中小企業も全て宙港に自社の宇宙船を置くのだということもそのときに知った。
 それが今では当たり前のように宇宙に上がるし、ハンターとして多少の違法行為なら平気で行いもする。改めて振り返ると、随分と“遠く”へ来たものだ。――そう気付くと、不意に過去にも現在にも違和感を覚えた。

 まるで自分と周囲の世界が薄い皮膜で隔てられるような感覚。

 過去へ戻りたいわけでなく、現在を嫌うわけでもない。ただ、あの平凡な過去がこの現在へとつながっていることが、信じられないような気がした。いつか、あるとき目が覚めたら現在は消えうせて、私はまだ普通に会社勤めをしているのではないか。ハンターの仕事も、仲間も、夢なのではないか。そう思って、ふと怖くなる。
 私は小さく息を吐いて、そっと肩に乗せられた頭に顔を寄せた。柔らかな髪が頬を撫でるのを感じながら、ひどく安らいだ気分になって目を閉じる。
 コノエと現実世界で出会ったときから、私は母親のように彼を守ろうと決めていた。けれど、時折その存在に守られているのは、実は私の方ではないかと思うときもある。
 たとえば、今のように。


 「――まるで母子だな」
 不意に静かな声が降ってきて、私は目を開けた。見れば、すぐ目の前にライの姿がある。
 「…手続き、終わったの?」
 問えばライは無言で2枚の紙切れをこちらに突きつけて寄越す。私とコノエの手続き終了を示す控えの紙だ。私はそれを受け取って、バッグの中へ仕舞った。
 「ありがとう。私たちの分まで任せてごめんなさい。カウンターが混んでいて、大変だったでしょう?」
 「いや」
 「待ってね。今コノエを起こすから、」
 「構わん。そのままでいい」
 私を制して、ライは軽々と眠るコノエを抱き上げてしまう。あまりに自然な動作だったので、しばらく何が起こったのか理解することができなかった。我に返ったときには、既にライはコノエを抱いたまま歩き出していて、私は慌ててその背を追った。


***


 ターミナルを出ると、地球の夏らしい日差しと暑さが一気に襲いかかってくる。
 久しぶりに感じるその苛烈さに私は一瞬怯んだが、ライは空調の効いた室内にいるように涼しげな様子だった。暑くないのだろうかと内心首を捻っている私に構わず、さっさとタクシーを呼び止めている。
 私たちが後部座席に乗り込むと、40代くらいの運転手は一瞬怪訝な表情をした。
 20代の男女と10代の少年。親子というには年齢が近く、兄弟というには離れている。その上、3人ともおよそ血縁を感じさせるような顔立ちはしていない。傍から見れば結構奇妙な3人なのかもしれない。けれど、運転手は何も尋ねなかった。無駄に威圧感のあるライの眼差しに怯んだのに違いなかった。
 ライは私にだけ行き先を告げさせた。自分はどこへとも言わない。
 タクシーは滑るように走り出し、30分ほど後に私のアパート付近の狭い路地で止まった。ライはそこで眠るコノエを抱いて降り、タクシーを帰してしまう。最初からコノエをアパートまで運んでくれる気だったらしいと気付き、私はライにありがとうを言った。


 「…それで、こいつをどこに下ろせばいいんだ」
 玄関を入ったところでライが尋ねるので、私は先に立ってライを寝室へと導いた。
 「ここに寝かせて」
 寝室に入り、一つしかないベッドを示すとライは数秒考えるようにベッドを見てから、おもむろにそこへコノエを下ろす。次いで先程通ってきた居間を振り返り、更に寝室の四方に視線を投げてから、何だか釈然としない表情になった。
 「ありがとう」
 「いや。――それより、これはお前のベッドじゃないのか?他にベッドはないようだが…」
 言われて私はライの釈然としない面持ちの理由を理解した。
 このアパートの間取りはもともと一人暮らし用で、居間兼食堂兼台所の他には寝室に使っているこの部屋しかない。どこをどう探しても他にベッドはないので、不思議に思ったのだろう。
 ぽんぽんとコノエが眠っているベッドの端を、私は静かに叩いて見せた。
 「そう、ベッドはこれだけよ」
 「…普段コノエはどこで眠っている?」
 「ここ」
 もう一度静かにベッドの端を叩くと、ライは眉をひそめた。
 ライの反応は、まぁ、当然だ。私だって毎日コノエと同じベッドで眠るのが正常だとは思わない。ただ、言い訳は許して欲しかった。
 今でこそよく眠るコノエだが、同居し始めた当初は非常に寝つきが悪かった。身体を得るまではAIというプログラム情報体であったため、“眠り”の定義は理解しても身体感覚としての“眠り”をまだ知らなかったのである。そこでお手本のつもりで私が日々添い寝するうちに――何となくそれが当たり前になってしまった。
 「…まさか風呂も一緒に入っているんじゃないだろうな」
 「まさか」ライの呆れ声に、私は首を横に振る。「いつもじゃないわ。コノエが水を怖がった最初の2回だけよ」
 「お前は…」
 少し苛立ちを含んだ声音をライが発したとき、ベッドの上のコノエが僅かに動いた。――起こしただろうか。思わず2人とも黙ってコノエの方に視線を向ける。けれど、コノエは目覚める様子もなくそのまま眠り続けた。


***


 「お前はコノエを何だと思っている?友人か弟か、それとも恋人か?」
 寝室を出たライは、開きっぱなしの戸口からベッドの方へ視線を向けた。
 恋人…思いもよらない単語が出てきて、私は焦るような気持ちになった。今までコンピュータおたくだの何だのとライには散々言われてきたが、そこにショタコンまで加わるのは勘弁してほしい。
 「恋人は違う。私は面食いだし、年下もいいと思うけど…私とコノエは外見だけなら10くらい違うのよ?いくら何でも、それは」
 「ならば我が子か?お前たちは時々、母子のように見えるときがある。…だが、お前はまだ未熟だし、どうしたってコノエの本当の母親になりきれるわけでもない。そのうちお前に想う相手ができたとき、いつまでもコノエと今のような関係でいられるわけではないだろう。いずれ離れるのだから、」
 「“いずれ”なんてないよ」
 「未来に絶対はない。人の心は変わるものだ」
 「それでも、“いずれ”なんてないよ」子どもじみた頑なさで告げた。
 ライは我が道を行くように見えて、案外常識人なところがある。先程の言葉も私を案じて言ってくれているのだろう。そう思うからライの言い方に腹を立てる気はないが、かといって肯定する気にもならなかった。

 結婚し、家庭を作り、子どもを産むこと。
 西暦の昔からあまり変わらない常識――普通とされる生き方。
 以前普通の会社に勤めていた頃には、自分もそんな人生を送るのだと信じていたし、そうしなければならないという義務感もあった。当たり前とされる生き方をすることが幸せなのだと思っていた。
 皆がそうするからという理由で、同年代の女の子のように男性と交際したこともある。(ライに言わせれば)コンピュータマニアの上に活字中毒という、およそ健全とかけ離れた自分の趣味は相手に隠して。けれど、親しくなれば趣味を隠し続けることは困難になって自然と私が距離を置くようになり、結局別れた。常に“普通の女の子”を演じるくらいなら――私が私でいられないなら――恋愛も結婚も必要ないとそのとき思ってしまったのだ。
 それは単なる我が儘だった。
 私は今の職場が気に入っている。他にも理由はあるが、何より自分が自然体でいられるからだ。過度に“普通の女の子”を演じる必要がない。ライやバルトやアサトが、私のあまり一般的でないかもしれない趣味を軽蔑することもない。恋愛感情ではないにしろ、私は昔の交際相手よりもライたちやコノエの方が、ずっと大切に思っている。普通を演じるために退屈な恋愛をする気はもうなかった。
 正直に言えば、恋愛などしないと決心することに躊躇いがないわけではない。恋愛を切り捨てるということは、その先にある結婚を切り捨てて、普通の生き方から外れるということだ。それは決まりきった型のない生き方をするということで、どんな未来に辿りつくか全く分からないのだ。そのことが、不安ではあった。
 ただ、将来のはっきりした未来と引き換えにしても、今の場所にいたかった。

 けれど、ライにそういう事情を説明する気はなかった。信頼しないわけではないが、説明したとしても分かってもらえる気はしなかったからだ。だから、私は説明する代わりに、ライに微笑してみせる。
 「意地になっているわけじゃないの。ライの言うことは、理解しているつもり。でも、やっぱり私はもう恋愛はしないと思う。ライたちやコノエといる方が恋愛よりも楽しいもの。私は今のままで十分満ち足りてる」
 ライはしばらく私を見ていたが、やがてふと視線を逸らして溜め息をついた。
 「お前はいつもそうだな…」
 「“そう”って?」
 「普段は頼りないくせに、いざとなると頑固だ。その上、重い言葉をあっさりと口にする」
 「そんなことないと思うけど…」
 思わず言いよどむ。ライの言うようなことを自分がしている自覚は、全く無かった。果たしてそうなのだろうかと疑問に思いながら、私は帰っていくライを玄関先まで見送った。


***


 部屋へ戻ると、居間に眠っているはずのコノエの姿があった。寝起きというにはしっかりした表情で、椅子に座って私を待っているような様子である。
 「コノエ、起きたの?」
 「さっき起きた」
 「もしかして、話し声で起こした?ごめんね、」
 謝ると、コノエは大きく首を横に振る。そして、ぱっと顔を上げた。こちらを見上げてくるコノエは、何故か初めて会った日のように不安そうな表情をしていた。
 何か怖い夢でも見たのだろうか?琥珀色の瞳が不安定に揺れる様子を見ながら、思わず考える。そのとき、小さな声が耳に届いた。
 「――…いつか、…」
 「え?」
 「…は、いつか結婚、するんだよな」
 「ライとの話、聞いてたの?」
 「――ごめん。途中から目が覚めて、」
 ひどく申し訳無さそうにコノエが項垂れるので、私は気にしてないという風に苦笑してみせた。
 「別に内緒話じゃないからいいの。でも、それなら私が結婚とかはしないって言ったのも、聞こえてたでしょう?」
 「確かに聞こえてたけど、はやっぱり人間の女だから。ライの言う通り結婚するのが一般的なんだろうと思う」
 「一般的かどうかは関係ないよ。私は別に結婚する気はないもの。…そう言っても、コノエは信じてくれない?」
 ふるふると首を横に振って、コノエは椅子から立ち上がってこちらへ歩いてくる。何だろう、と思っていると、コノエはためらうように腕を伸ばして私に抱きついてきた。
 それはひどく緩やかな動作だった。避けようとか押し留めようとか意図すれば簡単にできただろう。実際、私は直前にはその意図を理解したが、どう反応していいか分からなくて寄り添ってくるコノエの身体を受けいれた。


 「――俺、何だか変だ。の言うことは信じてるのに、どうしてこんなに不安なんだろう?身体を持つ前は、こんなわけも分からないままに不安になることはなかったのに」

 まだ私より背の低いコノエは私の肩の辺りに顔を押し当てながら、ぽつりと呟く。ひどく不安そうな声だった。私は驚きに強張った身体を動かし、ややぎこちない動作でコノエの背に緩く腕を回してみた。
 「…身体を持ったこと、後悔してる?」
 そっと尋ねると、すぐにコノエは首を横に振った。その反応の速さに、私は少し救われるような気になる。
 と、不意にコノエが顔を上げて私の肘の辺りに手で触れた。
 「後悔なんてしてない。俺は、ずっと現実にの手を取ることを望んでたから。この手に触れることができたら、それで良かったはずなのに…俺、やっぱりおかしい。今は、と一緒にいられなければ嫌だなんて思ってる。結婚して、が他の誰かのものになるなんて我慢できないって」
 コノエの言葉に、私は思わず硬直する。
 これではまるで――告白みたいだ。けれど、コノエと私の間で恋愛感情が成立するとは、思えなかった。そのような感情を持つには、コノエはまだ幼いはずだ。
 私は、とっさに動揺などしなかった振りをして、コノエの頭を撫でた。
 「大丈夫、結婚なんてしないから。誰かのものになんてならないから」
 口に出してみると、何だかひどく子どもじみた言葉だった。
 こんな子どもじみた言葉で、コノエは本当に納得するだろうか。私が出した結論は、最善のつもりでいたけれど、単なる子どもじみた意地でしかないのかもしれない。けれど、意地だとしても頑なにそれを押し通す以外に自分を保つ方法を知らなかった。

 「誰かのものになんてならないから」

 繰り返しながら、私はコノエを抱く腕に力を込める。その身体がまだ離れずに腕の中にあることで、頑なな自分の在り方を許されているような気がしてくる。そんな安堵と、子どものように不安がるコノエに対するいじらしさを同時に感じていた。
 コノエの不安を宥める振りをしながら、このとき不安を打ち消すために縋りついているのは、実は私の方だった。




End.
配布元:『ivory-syrup』より
「うつくしくないのはわたし」


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