溶ける、零れる、落ちる 2 1. 翌日、11月17日。 我が社の社員はそろって宇宙港に来ていた。年末が近付いて舞い込む依頼が増えており、私たちはこれからそれぞれ仕事に赴くのである。 今回はいずれも太陽系外へ出る必要の無い仕事ばかりなので、三手に分かれての行動となる。ライとコノエは土星付近の廃棄された研究用コロニーでデータ回収を行う。アサトは先日持ち帰った依頼の品を依頼主へ届ける。バルドと私はといえば、火星都市<プロメテウス>で常連客を訪問する予定になっている。 顧客と会うというので久し振りに袖を通したスーツは少し窮屈で、落ち着かなさを誤魔化すように裾を直しながら私は隣を歩くコノエの様子を伺った。真っ直ぐに前を見る横顔は、僅かに硬いようにも見える。今回のように手分けしてする仕事はコノエは初めてであるから、少し緊張しているのかもしれない。 そんなことを考えていると、私の視線に気付いたコノエがこちらを見た。 「…どうかしたのか?」 「ううん。コノエ、緊張してるのかなって」 「そう見えるか?そういうわけじゃないんだけど、何て言うか…」 ゆらりと彷徨ったコノエの視線が、前方にあるライの背中で止まる。 なるほど。私は何となくコノエの緊張の理由を納得した。 ライは一緒に仕事をするならこれ以上望みようのない程の相手だが、どうにも愛想がなくて困る。私も入社したての頃はライと組む度、どうコミュニケーションを図ればいいのかと頭を抱えた記憶がある。 「まぁ、そこは慣れで何とかなるから…そのうち」 「そういうものなのか…?」 疑わしげにコノエが首を傾げたとき、ライが足を止めて振り返った。冷ややかな視線が私に、次いでコノエに投げかけられる。 「じゃれ合っている暇があるなら早く来い。遅れる」 「あ、あぁ…」 頷いたコノエがライの元へ走っていく。ライとコノエが乗るべき便は、もう時が迫っているのだ。並んで搭乗口へと歩いていく2人の背に、私は急いで「行ってらっしゃい」と声を掛ける。すると、ライは振り返らずに「あぁ」と頷き、コノエは振り向いて手を振った。 「行ってくる」 思わず笑い返してしまうくらい綺麗に、コノエは笑ってみせた。 *** まだ私とバルドが乗る便にまでは時間があった。私たちのんびりとアサトを見送ってから、火星行きの航宙船へと乗り込む。機内は平日ということもあって、比較的空いているようだった。乗客の中には、仕事らしいスーツ姿の客もちらほらと見えている。私とバルドも、出張か何かのように見えているのだろうか。――普段はスーツを着ないものだから落ち着かず、私はそんなどうでもいいことを考えてみる。 今回こそ私も同行しているが、今まで我が社の営業活動はバルドが殆ど単独で行っていた。ライとアサトは現地で依頼の品を採取する仕事が殆どである(というか、基本的にハンターの仕事はそれなのだが)。私は現地へ行く仕事の他に会社の事務処理もしているが、営業に携わったことはない。今まではギリギリの人数で他に仕事の振り分けようが無かったからだが、コノエが加わったおかげで少しゆとりができた。そこで、コノエに専ら私が行っていた現地での仕事――たとえば非公開とされる未開惑星や宙域のデータを集めてきてナビゲートしたり、廃棄コロニーのシステムに侵入してデータを回収したり――を振り分け、私がもう少し会社に関連する仕事に携わるようになったのだ。 とはいえ、私は営業はこれが初めてだった。緊張の度合いからすれば、コノエのことを言えた義理ではない。そう思って苦笑しかけたとき、 「緊張してんのか?」隣の座席に座るバルトがこちらを見る。 「えぇ、結構」 バレてしまったかと苦笑しながら頷くと、バルドは「ま、固くなりなさんな」と軽く言った。そして、何かのついでのように「ところで、」と言葉を継ぐ。 「ところで、コノエと暮らすについて、アンタの答えは出たのか?」 「私の、…?」 不意打ちの質問。予測もしなかったので、ただ間を繋ぐような呟きしか出てこない。 何となく私とコノエが同居し難くなって以来、バルドは私たちが落ち着くまでという約束でコノエを居候させてくれている。出て行くとき、コノエは私に“男として見てほしい”というようなことを告げた。つまりはそれこそ私たちが同居し難くなった原因で、いずれ私はその求めに答えを返す必要がある。 だが、単純に再び私たちが同居するかしないかということに関しては、答えを出すのは私ではなく、出て行ったコノエの方であるはずだ。 「それは、私ではなくてコノエの問題でしょう?」 「いや。コノエの問題であり、アンタの問題でもある。アンタも分かるはずだ。今までの関係では、コノエはアンタのところに戻れないってな。コノエはもうアンタに望みを伝えててるんだろ?なら、あとはアンタがそれを受け入れるか、入れないかってだけの話だ」 「私は…」 言葉を切って、息を吐く。 力を抜いてシートに身を沈め、窓の外に目を向ける。宝箱にぎっしり詰まった宝石をぶちまけたような星の海は、今は美しいというよりは喧しく見える。そうして窓の外を眺めながら少し考えたが、上手く取り繕う言葉も当たり障りの無い理由も何一つ思いつかなかった。 そこで、仕方なく私はバルドを見ないままに本心を口にした。 「私は、コノエが嫌でないならいつでも戻って来たらいいと思ってる。そうなっても、私はきっと今まで通り接すると思う」 「弟みたいに扱うってことか。だが、極端に言っちまえば、コノエはアンタを抱きたいと思ってるんだぞ?一緒に暮らしてて――コノエはそんな奴じゃないが、仮の話として――アンタに無理強いするかもしれない」 バルドの言葉は、どこか確認するようだった。 仮に、コノエにそういう欲求があったとして、そうなったとして、私はどう思うだろうか。どうするだろうか。どうするべきかという模範解答は思い浮かばないのに、誰も納得させられないような私の本心からの答えは意外にすぐ傍にあった。私は無造作にそれを言葉に乗せる。 「それはそれでいいの。そうなっても、今まで通り接する自信はあるから」 「今何て言った?それはそれでもいいって、アンタ…」唖然とした表情を浮かべたバルトは、しかし、すぐに脱力してシートにもたれかかる。「自分で言ってる意味分かってんのか?この場合、それは両思いっていうんだぞ?躊躇ってないでさっさと素直になりゃいいのに…」 「…そういうことじゃないよ」低く呟く。 コノエとそうなるならそれでもいい。それであの子を繋ぎとめられるなら、この身など差し出してもいい。 そう思うものの、やはり、それではあまりに卑怯だと思った。 それに、たとえ肌を合わせたとしても、コノエに恋愛感情を抱けるかどうかは、また別の話だ。“愛している”と認めればその分だけ、きっと弱くなる。一人で生きていけなくなる。そんな風に変化した自分を私はきっと許せないから、今までの関係であろうと必死になっている。 と、そこまでバルドに説明する気にはなれず、ただ一言だけ言った。 「私が言ったこと、誰にも言わないで」 2. 火星都市<プロメテウス>での仕事は順調に進んだ。名のある学術研究施設のある<プロメテウス>には、未開惑星や宙域を専門とする研究者など我が社の常連客が多く存在する。到着したその日のうちに数件の常連客を回り終え、その日の夜(といっても地球標準時間によるのだが)は<プロメテウス>で宿泊した。 翌日、11月18日は依頼を受けるための面会があるだけで、夕方頃には地球に帰り着く予定であった、が。 朝、ホテルのロビーで待っていると、いつになく硬い表情のバルドが姿を見せた。 質問をする間も私にくれず、バルトは予定変更を告げてチェックアウトの手続きをする。手続きを終えて外へ出ると、表には既にタクシーが待機していた。タクシーは予めバルドが連絡しておいたらしい。行き先も既に告げてあるようで、運転手はバルドを確認しただけで、私たちが乗り込むとすぐにタクシーを発車させた。 タクシーは、地球上ではまだ多い地上走行するガソリン式自動車とは違って、車体が宙に浮いて走行するエアカーだった。地球以外のコロニーや惑星上都市では、ガソリン式自動車が禁止され、大気汚染の心配のないエアカーが推奨されているのである。タクシーは走り出したが、エアカーの特徴として走行の際の振動は全く無かった。私も窓の外を見てようやくタクシーが動き出したことに気付いた程である。 「それで、バルド…何があったの?」 窓の外の景色が流れている様を見るともなく見てから、私は尋ねた。 すると、バルドはちらりと座席に取り付けられたインターフォンを見た。 タクシーは運転手の安全のため、前方の座席と後部座席が強化ガラスで完全に仕切られた形が一般的になっている。客が行き先を告げるためのインターフォンを通さない限り、余程の大声でもなければ後部座席の声が運転手に届くことはない。バルドは、そのインターフォンがオフになっていることを確認したのだろう。 「、落ち着いて聞いてくれよ。――コノエが拉致されたと、今朝ライから連絡があった」 「コノエ、が…?」 何かの間違いではないの?単にちょっとどこかの店に寄っただけでもなく? 根拠もなしに拉致と判断して騒ぐことなどライには有り得ないのに、私は分かり切ったことばかり確認していく。そうするうちに、ようやく思考が事態に追いついて来る。最初に宇宙港で行ってきますと手を振ったコノエの笑顔が、次いで最悪の事態の想像が浮かんできて、「そんなの嘘だ」と私は呟いた。 バルトは険しい表情で首を横に振る。 「事実だ。ライ宛にメッセージが送られてきたらしい。送り主は…フラウドだ。コノエの身柄を預かっていると言ってきた」 「フラウドって、まさか…」 同業者の間では知る人ぞ知る凄腕の<ハンター>である。その鮮やかな手際と、必要とあらば惑星一つ吹っ飛ばす程の容赦の無い仕事ぶりで、ハンターの中でも最上クラスに入っている。そのレベルからすれば遥か雲の上の存在であるフラウドだが、どういうわけかライと因縁があって、時折ライにちょっかいを掛けているようだ。 先の冬に我が社の小型宇宙艇を大破させたのも実はフラウドであったから、私は既に面識がある。私は記憶の中からフラウドの顔を引き出しながら、強い危機感を覚えた。 フラウドなら、ライで遊ぶためなら多分何でもする。コノエの拉致だって、狂言などという中途半端なことはしないだろう。それは、実際に対峙したことがあるからこそ生まれる確信だった。 「――分かっているとは思うが、この件は警察沙汰には出来ん。俺たちで動くしかない」 バルドに言われて、私は頷く。 警察沙汰には、“出来ない”というより“しても仕方がない”のである。 拉致されたコノエは、アンドロイドである。近年、人工知能の“人権”は人間と同等に保護されるべきという合意は出来つつあるが、それは未だ理想でしかない。現実はまだそこまで理想に追いついていない。アンドロイドは必ず所有者を登録しなければならないし、人間との婚姻も認められない。たとえここで通報したとしても、警察が誘拐事件としてすぐに動くかどうかも怪しい。 それに、警察が動いたとしても、最上クラスのハンターの尻尾を掴むことは難しいだろう。警察を撒くなどフラウドには容易いことのはずだ。 結局、バルドの言う通り私たち自身が動くのが最善であるに違いなかった。 「ライとコノエは土星軌道上のコロニー<エンブラ>から、付近の宙域に漂う廃棄コロニーへ向かう予定だった。だが、<エンブラ>到着後コノエが姿を消してライのところにメッセージが届いたんだ。ライはフラウドとコノエはまだ<エンブラ>の内部にいると考えて足跡を追っているが…今のところ何も出ていないらしい」 「そんな…他に手がかりは――ないのね」 有ればとっくにライが当たっているはずだ。そう思いながら俯いたとき、バルドが「いや」と言った。ひどく慎重な声音だった。 「無いわけでもない。ただ取り出せないってだけでな」 「取り出せない?どういうこと?」 「ライのところへは、メッセージと一緒にディスクが送られてきたんだ。暗号でセキュリティが掛けられているが、フラウドのメッセージの内容から察するに、ディスクの中身はコノエの居所であるらしい。――如何にも奴が好きそうな遊びだろ?」 「ゲームなんかしてる場合じゃないのに…!」私はフラウドの顔を思い浮かべて唇を噛む。腹立たしいことだが、いない相手に苛立っても仕方がないと思い直して息を吐き出した。「それで、ライはもう解析を?」 「いいや。10分の時間制限を越えればデータが破壊されるらしい。ついでにディスクのデータのコピーも出来ん仕組みになっているようだ。そうでなければメールでデータだけ貰ってアンタが解けばいいんだが。――こうなったら、アンタが<エンブラ>へ行くか、あっちでそういう技術のある奴に解かせるか、どちらかしかない」 最上クラスの<ハンター>の仕掛けた暗号を解く?私が? そんなこと、出来るはずがない。これが単なるゲームならまだ乗ってみてもいい。だが、他でもないコノエの身がかかっているのである。勝てる見込みも無い賭けをするわけにはいかない。 けれど、他の誰かに任せたとして、その誰かが必ず暗号を解いてくれるという保障もないのである。私でも、他の誰かでも、ディスクの解析に失敗する可能性が同じだとしたら。 考えたくない事態だが、自分以外の人間が解析に失敗してコノエを救う可能性が潰えるとしたら、私はそれを受け入れることができるだろうか…?いっそ私が解析していればと後悔するのではないだろうか。 私が考えている間、バルドは黙っていた。行けとも行くなとも言わない。 「私に、ディスクを解析する資格があると思う?」 思い余って尋ねたとき、窓の外の風景が停止した。 タクシーが、指定した行き先に到着したらしかった。 *** 数時間後、私は土星軌道上のコロニー<エンブラ>へと向かう航宙船の機内にいた。バルトが手配したタクシーが真っ直ぐに向かったのは宇宙港で、既に必要な航宙船の便のチケットも取得済みだった。 バルドは、返事を聞かないうちから私が<エンブラ>へ行くと予測していたのである。 そのことに気付いたとき、私はひどく複雑な心境になった。もし違う答えを出したらどうする気だったのだろう、と今更にして思う。だが、結局私は<エンブラ>に行くことを決めたし、こうして決断から即座に行動することが出来たのはバルトの予測のおかげには違い。 だが、バルド自身はまだすべきことがあるからと<プロメテウス>に残った。 『いいか、アンタは実力がある。いつもアンタはライやアサトと比べて自分を卑下するが、あいつらにはあいつらの、アンタにはアンタの得手がある。…フラウドに挑戦する意思がアンタにあるのなら、他の誰よりもディスクの解析はアンタがすべきだ』 シートに身を預けて目を閉じると、宇宙港で別れ際にバルトがくれた言葉が蘇ってくる。 (私がフラウドの仕掛けに太刀打ちできるわけないよ) 普段ならば、私は必ずそう言うだろう。否、今も言えるものならそう言いたい。だが、コノエの身柄がかかっている以上私は逃げ出すことはできない。 自信など全くない。 それでも、コノエのこととは別なところで、フラウドに――最上クラスのハンターに挑戦してみたいと思う自分が、実はいる。先の冬の件に対する意趣返しというだけではない。困難な事柄や自分より強い者に挑んでみたい。そんな欲求を持つのはきっとハンターとしては自然なことで――それがなければハンターなどやっていけない。そういう職業だ。 3. 「<エンブラ>へは、仕事で?」 デッキから自分の座席に戻った途端に声を掛けられ、私はぎくりと動きを止めた。 見れば、隣の席の男がこちらへ顔を向けている。年齢は、30代くらい。深い湖水の色に似た青緑色の双眸と燃え立つような赤毛、彫りの深い顔立ちは王侯貴族であるかのような優雅な印象を与える。 「仕事、のようなものです」私は数秒間沈黙した後に、やっとぎこちなく頷く。「あなたはご旅行なのですか?」 「いや…――友人、そう友人を迎えに来た」 男自身の態度は紳士的で、あからさまに警戒を見せることは失礼なようにも思えた。それでもそういう反応になったのは、男に対して警戒心を持ったからというより、生来の癖で――単に人見知りしてしまっただけのことだ。 けれど、男は気を悪くした様子も見せず、苦笑を浮かべて見せた。 「あぁ、すまない。突然声を掛けて驚かせてしまったようだな。――どうも君が落ち着かない様子なので具合でも悪いのかと気になったんだが」 落ち着かない。 確かにそう見えるだろう。航宙船内では乗客はデッキ以外の場所で自由に携帯端末を使うことができないようになっている。そこで私はライやバルドとの連絡のために何度もデッキと座席を往復している。必要あっての行動なのだが、気が焦っていることもあって、周囲から見ればさぞや落ち着かない様子であることだろう。 隣の席の客がそんな風では、男はさぞや迷惑に違いない。俄かに冷静になって反省した私は、男に頭を下げた。 「すみません、隣でバタバタしてお邪魔になってしまったようで」 「あぁ、いや、そんなつもりで声を掛けたわけではない。先程も言ったように、本当にどこか具合が悪いのではないかと気になっただけなんだ。ちょうど読書にも飽きたところだったしな」 「はぁ…」 言われて私は男の手元にある本の表紙に視線を落とす。何と言うことのない紙媒体の文庫本で、表紙に印字されているのは――『ロミオとジュリエット』。私は思わず表紙と男の顔を交互に見比べる。『ロミオとジュリエット』は古典だし教養として読んでいて損はないだろうが、恋愛話であると有名なせいか目の前の男には不釣合いな気がした。 そんな私の視線に含んだものを読み取ったのか、男は僅かな苦笑で応じるだけにして話を変えた。 「君の気懸かりは、余程のものなのだろうな」 「え?」 「不安そうな、だがそれに折れまいとする強い表情をしている。まるで引き離された恋人を追う女か、奪われた子を取り戻そうとする母親のような表情だ」 まるで暗示のような言葉。この男は何か知っている?俄かに警戒心が沸き起こるが、それを確かめる術もない。動揺する心を抑えて、私は無邪気に的外れな言葉を口にする。 「面白い喩えですね。でも、どうしてその2つが同列に並ぶんです?恋人同士の恋愛感情と親子の情とは別物のはずでしょう?」 「恋愛感情と親子の情とが必ず厳格に区別できるとは限らないはずだ。たとえば自分の子が愛した男の唯一の忘れ形見であったなら、母親が子に向けるのは純粋に親子の情だけだと言い切れるだろうか?」 「さぁ、それはその母親だけが知ることでは」 「君がその立場であれば?」 「――…」 男は笑みを湛えたまま、私を見ていた。明らかに答えを待っている。 やはり何か知っているのかもしれない。だが、このような抽象的な事柄について話したところで不都合になることは何もないはずだ。――そう思いながら、別段答える義務もないのだが私は口を開いた。 「私なら、敢えて自分の感情を取り出してみようとは思いませんね。いずれにせよ大切なことには変わりないですから。子どもは育てばやがて大切な相手を見つけるでしょう。母親は、そのとき、醜く引き止めないようにただ覚悟が出来ていればいいんです」 「ほう」男は一瞬目を瞠ってからまた笑顔になった。「なるほど、そういう考え方もあるな」 そのとき、添乗員がやってきて私に外部からの連絡が入っていることを伝えた。ライだろうか?男に断って席を立って再び戻ると、隣の席には誰も座っていなかった。さらには航宙船が宇宙港に到着するまで、誰も戻ってくることはなかった。 *** 火星を発ってから約4時間後、私の乗った航宙船は土星軌道上コロニー<エンブラ>へと到着した。西暦時代には何ヶ月と掛かったという地球―土星間。それに近い距離を僅か数時間で行き来できるのは、西暦末期に実用化された超高速航法のおかげだ。シートベルト着用のサインが消えるが早いか、私はさっさと航宙船を降りて手続きを済ませ、ロビーへと進んだ。 そこに、見知った姿があった。 「ライ…!」 事前に到着時間を伝えていたとはいえ予想外で、私は目を丸くする。ライはコノエの行方を追うのに忙しく、フラウドの暗号のディスクはこちらから取りに向かうべきものとばかり思っていたからだ。だが、驚いて駆け寄ればライは周囲を圧するほどに不機嫌な表情――けれども知り合いが見れば他でもなく自分自身に苛立っているのだと分かる――で、私は彼も行き詰っているのだと察する。 念のため状況を聞いてみればまさに推測どおりだった。さすが最上クラスのハンターというべきかフラウドの痕跡の消し方はずさんなようでいて徹底的であるらしい。最早確実な手がかりはディスクの中身だけで、私が解けばすぐにその情報をもとに動けるようにと、ライは直接ディスクを届けに来たのだった。 「解けるか」 短く問われて、咄嗟に答えに詰まる。 普段なら『分からない』とか『自信ない』とか答えるところだ。実際今もそう言いそうになる。けれど、今はそれは謙遜ではなく責任や重圧から逃げるための言葉でしかないと思ったから、唇を噛んで内側に押し込めた。不安や恐れを押さえつけて、ほんの一瞬目を閉じ――昨日見たコノエの笑顔を記憶の中から掬い上げる。 逃げて保身を図っている場合じゃない。大切なもののために踏ん張ることもしないで守った自分なんて、きっと碌なものじゃない。 迷いを斬り捨てるように瞼を上げ、私はライの視線を受け止めた。 「そのために、全力を尽くす。だから、一緒に来て」 宇宙港の施設内にも、一般客が利用できるようにコンピュータの類は設置されている。今すぐそれでディスクを解析することも可能ではあるが、私はその方法では不十分だと思った。解析に使うツールは、既に別に考えてある。 ともかく宇宙港を出ようと出口に向かって歩き出したとき、聞き覚えのある声音が耳元を掠めた。おそらくは擦れ違い様に耳に吹き込まれた言葉を理解したのはたっぷり数秒経った後で、驚いて振り返ったものの声の主らしき人物を見出すことは出来なかった。 「…」 「どうした?」ライが足を止めて怪訝そうにこちらを見る。 「いいえ、何でもない」 首を振って私は再び歩き始める。けれど、最早視界の外にある背後の雑踏に、あの燃え立つような赤毛の持ち主がいるのではないか、あの深い湖水に似た青緑色の双眸が私の背を見送っているのではないか、そんな思いにとらわれずにはいられない。 あの一瞬、私は確かに聞いたように思ったのだ。 低く落ち着きのあるあの男の声で発された言葉は―― 『健闘を祈る』 このお話は未完です。続きを書く予定はありません。 代わりに以下反転で結末までのあらすじを書いています。 ライと合流した主人公は、自らの脳を直接コンピュータにつないでフラウドのディスクを解析する。ディスクからコノエの居場所を特定した主人公はその場所をライに伝え、ライがそこへ向かう。ライが出て行った後、ディスクの解析を終えて脳とコンピュータとの接続を切ろうとした主人公。だが、ネットを介してフラウドに呼ばれていることに気付き、危険を知りながらも呼び出しに応じる。 ネットの仮想空間でフラウドと対決する主人公。危うく意識を殺されかけるが、ネットにつないでいるフラウドの肉体の傍にいたコノエの機転で救われ、フラウドに傷を負わせることに成功する。 ライはコノエを救出に向かい、その場で仲間であるフラウドを助けに来たラゼルに阻まれる。ライはラゼルと闘って殺されかけるが、フラウドの異変に気付いたラゼルが闘いを切り上げ、助かる。ラゼルは仮想空間でダメージを受けて動けないフラウドを連れて去り、ライはコノエを救出する。 しばらく肉体の機能を停止させられて拘束されていたコノエは、そのまま検査と治療のためリークスとシュイの元へ送られる。数週間後、フラウドとの仮想空間での闘いでのダメージを癒した主人公がコノエを迎えに行って和解し、今度は恋人として再び二人で暮らし始める。 目次 |