くもり、のち晴れ、のち雨





 会社を出るとき降っていた雨は、電車に揺られて自宅近くの駅に着く頃にはほとんど止みかけていた。電車から降りてホームに立ったときそれが分かって、私は少しほっとする。
 朝、天気予報を無視して傘を持たずに出てしまったのだ。比較的距離の近い会社から駅まではまだいいが、少し歩かなければならない駅から家までの帰り道もひどく降っていたら困るところだった。今は実家を出ているので、実家で暮らしていた学生時分のように家族に迎えに来てもらえはしないのだ。

 否、迎えに来てもらえないことはないだろう。

 私のアパートには、現在同居人がいる。雨がひどいなら、電話をすれば、傘くらい持ってきてくれるだろうとは思う。ただ、家族のように気安く頼みごとをできる相手ではないから、しないだけで。
 家族でも恋人でもなくて、気安く接することも出来ない――何が楽しくてそんな相手と同居しているのだろう。大体、一緒に暮らしていたって、お互い遠慮することばかりなのだ。今日も帰ったっていつものようにお互い話題に困って、気詰まりな思いをするに決まっている。
 小さくため息を吐きながら、私は少しだけ過去の自分のお節介を思い出して後悔した。



 父方の叔父が亡くなったのは、3ヶ月ほど前のことだ。
 叔父はまだ独身で、生前の本人の意思でもあったので、葬儀はうちの家族と親戚だけでひっそりと行われた。その後、叔父の家を片付けに行く両親にくっついて手伝いに行ったところで、私は彼に出会ったのだ。
 もう主の戻ることはないがらんとした家の中で、彼はひとり主の帰りを待っていた。
 叔父は誰ひとりとして彼のことを話していなかったので、彼を見た両親はすっかり驚いてしまい、その場はひどい混乱状態になってしまった。救いだったのは、私が彼について――というよりは、彼のような存在について多少の知識があったことだろう。

 けれど、知らなかった。
 まさか、叔父がボーカロイドを所有していたなんて。

 ボーカロイドとは、人間の歌声をリアルに再現するための装置。
 かつてPCのソフトとして発売されたものが人気を呼び、今ではPCのソフトに加えてアンドロイドタイプやバイオロイドタイプも発売されている。ソフトもそれなりにいい値段をしているのだが、アンドロイドやバイオロイドとなるとかなりの高価で、とても気軽に手出しできるようなものではない。まぁ、叔父は音楽関係の仕事をしていたから、普通の人以上にボーカロイドには興味があっただろうし、購入していても不思議ではないのかもしれないが。
 それでも、ボーカロイドを知らなかった両親はすっかり頭に血が上ってしまい、彼をどう扱ったらいいのかと頭を悩ませた。親戚と相談して、製造元に返品するか、或いは売るかという話にもなった。とにかく、あまりボーカロイドについて知らないせいか、自分たちは関わりになりたくないという様子だった。
 私は両親や親戚に反対した。
 ボーカロイドは人工的であっても人格を与えられた存在なのだ。売ったり返品したり、まるでモノのように扱うのはひどい。けれど、両親や親戚にとっては、成人していても私の意見は結局子ども意見でしかなく、聞き入れてはもらえなかった。
 状況を打開したのは、叔父の遺言だった。
 自分の財産について一言も指示しなかった叔父は、けれど、彼のことだけはきちんと遺言に残していた。姪――つまり私――が承諾するなら姪に譲る、と。
 勿論、私は承諾した。


 思えばあのとき、私にあったのは正義感と意地と、処分されようとする彼への憐憫だけだった。自分の行動が間違っていたとは思わないけれど、人(というのは少し違うかもしれないが)ひとりを自分の生活に受け入れるには、軽率すぎたかもしれない。
 天気に思考が引きずられているのか、鬱々とそんなことを考えながら改札を出る。
 と、電車が到着した直後とあって混雑する改札の手前に、見知った姿があった。青年というにはまだ幼い、けれど少年というわけでもない、微妙な年頃の容姿。
 どうして、と呟きかけるが、それよりも彼が私を見つける方が早い。
 「…っ!」
 私に気付くと、彼はぱっと笑顔になって駆け寄ってきた。その手には、傘が握られている。
 「コノエ…どうして」今度こそ、私は声に出して言った。
 「迎えに来たんだ。が朝、傘を持っていかなかったみたいだから」
 「ありがとう。でも、気を遣わなくてよかったのに」
 素直にありがとうで終わらせればいいのに、余計なことまで言ってしまう。
 だけど、言わずにはいられない。
 だって、叔父が所有者であったなら、コノエはボーカロイドらしく生きることができただろう。少なくとも、今は私と家事を折半したりしているけれど、そんなことしなくていいはず。叔父となら、こんな風に余計なことに気を遣わず、歌のことだけ考えていられただろう――。
 「気を遣ったわけじゃない。アンタが雨に濡れないようにって思って来ただけで…家を出るとき降ってなかったから、つい1本しか持ってこなかったけど」
 コノエはそう言って、しゅんと肩を落とす。
 確かに彼の手にあるのは傘1本だけだ。帰るとき、もし雨本降りだったら相合傘でもしなければならなかっただろう。だけど、そんなの小さな失敗で、そこまで気を落とすほどのことでもない。
 私は小さく笑ってコノエを促した。
 「気にすることないよ、今はほとんど降ってないもの。今のうちに帰りましょう」



 湿気を含んだ風を受けながら、私たちは暗くなりかけた道を歩いた。
 一緒に暮らしてはいても、あまり互いのことを知るわけではないから、自然と2人とも黙りがちになってしまう。私は時折コノエの様子を見ながら、叔父のことを考えた。
 どうして、叔父は私にコノエを預けようと思ったのだろう。
 歌うこと。それこそがボーカロイドの存在意義であり、喜びなのだと聞く。所有者は彼らのための歌を作ったり、指導したりして、彼らの才能を伸ばすのが役目だ。
 だけど、私は音楽の知識などないから、叔父のようにコノエの練習に付き合うことはできない。作曲しようとも思わない。どうしても、そこまでの情熱を音楽には持てない。
 ただ、歌を聴いて無責任に「いいな」と思ったり「好きじゃない」と思ったりするだけ。

 「――私って、いいマスターじゃないよね」

 湿った風が、盛んに髪や衣服を弄って吹き去って行く。  雨の前の風というのは、どうしてこんなに何かが起こりそうな気にさせるのだろう。ざわざわとしたその質感に煽られるように、私はついそうコノエに言っていた。  唐突にコノエが立ち止まる。私は2歩ほど進んでしまったので、振り返ってコノエを見た。
 「…どうしたんだ?」
 「私はマスター失格だなって思ったの」
 「俺はそうは思わないけど」
 「でも、叔父さんみたいに、ちゃんと音楽が分かる人のところの方がコノエは良かったんじゃないかな。ちゃんとボーカロイドの価値が分かってる人のところなら、家事をしたりしないで済むし、ちゃんと歌にだけ専念していられる。そういう環境がコノエにとっては一番いいんじゃないのかな――って、ごめん変なこと言って。少し疲れてるんだと思う」
 「いや…。でも、俺は今が一番好きだ。歌う以外のこと、もっと知りたいと思う。 のところへ来て、歌だけじゃなくて家事とか色々するようになって分かったんだ。確かに歌だけに生きていれば、きっと技術は上手くなる。だけど、歌以外のこともして初めて分かることもあるから…が嫌でなければ、俺はのところにいたい。誰よりもに歌を聞いてほしい」
 「勿論、うちにいればいいよ」叔父の遺言でそうなっているし、私も今更コノエを放り出す気はない。
 「良かった」コノエは安堵したような表情で笑ってから、不意に神妙な顔をした。「――ところで、に言わないといけないことがあるんだ」
 「え、何?」
 「夕飯、この前教えてもらったカレーにしたんだけど、火にかけてるときに目を離したら…全部焦げた」
 「え…失敗したの…カレーで…?」
 あまり大きな失敗をするようなメニューでもないと思うのだが。
 しばらくの間私は呆然としていたが、ふと可笑しくなってふきだしてしまった。
 箍が外れたかのように声を上げて笑いながら、コノエの腕に跳びついて肩を軽く叩いた。 自分でもオーバーリアクションだと思った。だけど、コノエが料理に失敗したことが可笑しかったわけではない。表面的な会話でなく、自分の思うことをぶつけたのは多分今回が初めてで、それをきちんと受け止めてくれたことが嬉しくて、少し距離が近くなった気がした勢いでしてしまったことだ。
 コノエは私の笑いに少し引いているようだった。だけど、そんな風であってもここにコノエがいてくれて良かったと思う。少しだけでも分かり合えて良かったと思う。  私が片腕にしがみついて笑っている間、コノエは困惑気味にその場に突っ立っていた。
 きっと、私があまりに笑うものだから不快に思ったのだろう。
 ひとしきり笑い終えてから身体を離し、私はコノエに謝った。

 「あの…ごめんなさい。笑ったのは、別に馬鹿にしたからじゃなくて」
 「分かってる、ただ、びっくりしただけだから…」



 そのとき、ぽつぽつと大粒の水滴が落ちてきたかと思うと、見る間に雨が降り始めた。
 「あー、降ってきちゃったかー」
 「帰るの、間に合わなかったな」
 コノエはそう言って、広げた傘の柄をこちらへ差し出す。私はそれを受け取ってから、コノエの傍に並んで手にした傘を差しかけた。
 「俺はいい。アンタのために傘を持ってきてくれたんだから」
 「せっかく傘持ってきてくれたコノエが濡れたら、それだって意味がないでしょう。2人で入れば全ての問題が解決するよ」
 それから、しばらく私たちは黙って歩いた。もう沈黙が気詰まりだとは感じない。
 そして、アパートの前まで帰ってきたとき、コノエはぽつりと言った。

 「マスターは、のために歌を作ったんだ。俺がのところへ行くようにしたのは、その歌を贈るためだよ」
 「そう、なんだ…知らなかった」
 「本当はもっと早く言うべきだったけど、言えなかった。言ったら歌わなきゃいけなくなるだろ。だけど、その歌をちゃんとに伝わるように歌える自信がなかった。俺は正直ボーカロイドとしては歌が下手な方だし、その歌がどういう意味なのかもよく分からないから」
 それは一体どんな歌なのだろう。
 少し気になったが、私は追及しなかった。コノエに変なプレッシャーを掛けたくない。私にとっては、音楽は上手い下手ではなくて自分が好きかそうでないかという評価が全てだった。どんな名曲だろうと、小難しいことを考えずに気楽に楽しめればいいと思う。
 「それならコノエが歌いたくなったときに聴かせて。下手だから歌えないとかじゃなくて、取りあえず歌いってみようって思ったときに。私は今でもコノエの歌好きだから、きっと今その歌を聴いても好きになる気がする」
 「――なるべく…近いうちに、歌ってみる…」
 コノエは照れたのか、真っ赤になって俯く。街灯の光でその様子がはっきりと見える。
 私はその様子に少し笑いながら、冷蔵庫の残り物について考えた。


 焦げたカレーの代わりに、何を作ろうか。






End.

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