Another day comes-1 20代になってから何度目かの秋、私は生まれて始めての入院をした。 平均よりはやや健康で、学生時代は保健室のベッドを使ったこともなかった私は、以前から(不謹慎な話ではあるが)少しだけ入院に憧れのようなものを抱いていた。もし、普段の状態で入院することになれば、物珍しく思って楽しむ余裕もあっただろう。けれど、人生とは間の悪いもので、このときはそのような気分になれないくらい落ち込んでいた。 少し前、私は世間を騒がせたサーバーテロ騒動に巻き込まれ、仕事と住まいを一度に失ってしまったのである。 大学卒業後、私は親元に戻らずそのままトウキョウで職を得た。就職先はコンピュータ関連の、銀行やお役所などにもシステムを提供している会社だった。 後になって分かったことだが、一部の社員はかねてからそのような社会的に影響の大きい得意先に目をつけ、システムを提供する際に手を加えて外部からコントロールする糸口をつけていたのだという。その細工を利用して、先日世間を騒がせたサイバーテロ騒動が起った。 騒動が起こった当初、警察は私が犯行に関わっていると見なして拘束しようとした。というのも、 私は会社勤めをする一方でこっそりネット上で情報屋を副業にしていたせいで、警察は犯人グループに自分の会社の情報を売り渡したと思い込んだ(これは完全な誤解で、確かに私は情報を手に入れるためにハッキングなど違法行為もしていたが、情報を渡す先は慎重に選んでいた)。犯人グループは私が彼らのの情報を手に入れて警察に情報提供しようとしていると――こちらも――誤解して、私の口を封じようとした。そんな風にして、私は運悪く騒動に巻き込まれ、生命を狙われながら右往左往する羽目になったのである。 結局、私の疑いは晴れた。騒動の最中自分の身を守るために銃を撃ったりしたことも、正当防衛として不問にされた。だが、それでも全てが元通りとはいかない。私のアパートの部屋は犯人グループの手で爆破されてしまっていた。勤めていた会社は、一連の騒動の責任を取って倒産することになった(社員が多数の人を生命の危険に晒す行為を行った罪は、当然ながら脱税などの不正よりも重く、吸収合併しようという他企業もいまだに現れていない)。 事態が収束しても、私はそのまま日常に戻ることができなかった。 サイバーテロ騒動の終わりに左足を銃で撃たれ、入院することになったのである。原因が原因である上に事情聴取などもあったせいで、私は入院した数日間を非日常の延長のようだと感じた。一方で、時間は穏やかに過ぎていき、私は会社勤めをしていたころの日常でもテロ騒動に巻き込まれて過ごした非日常でもない中途半端な位置で――どうしていいのか分からなくなった。 トウキョウには、もう家も仕事もない。退院したとして、このままここで新しい生活を始めていけるだろうか。そう思い、私は不安になった。大学生の頃から一人暮らしをして、就職も自力で見つけてきたはずなのに、今はどうしていいか分からない。 *** 銃で撃たれたというと大層に聞こえるが、私の入院はほんの数日のことだ。 そして、退院を明日に控えた日、私は珍しい見舞い客を迎えることになった。 うとうとしていた午後3時頃、病室を訪れたのはサイバーテロ騒動の渦中で偶然から行動を共にしていた人物だった。また事情聴取なのか、とぼんやり思いながら、私は彼の名を口にした。「シキ警視」そう言うと、彼は眉をひそめた。 「警視は余計だ。警察関係者でもないお前が階級を付けて呼ぶ必要はない。誰かに吹き込まれでもしたか」 「事情聴取に来た刑事さんが言っていたものですから、うつってしまったみたいで。すみません。あなたも事情聴取に来られたんですか?」 「それは俺の仕事ではない。第一、事情などお前から聞くまでもなく知っている」 なるほど、行動を共にしていたのだから当たり前だ。納得すると何だか可笑しくなってきて、私は重い気分を抱えながらも少し笑った。けれど、笑ったのが気に入らなかったのか何なのか、シキは不機嫌な表情になった。 「腑抜けた顔をするな」 唐突にそう言って、シキはこちらを睨む。 前後の文脈も何もない言葉だが、一瞬、私は途方に暮れてうずくまっている自分を見抜かれたような気がした。浮かべた笑いが自然と消えていく。見抜かれている気はしたが、だからといって“どうしよう”などとシキに相談するような真似は出来ないし、また、その筋合いもない。私はただ平静を装って言われた意味が分からない振りをした。 ほんの数日行動を共にしたからといって、甘えが許されるほど私はシキに近くない。 それに、たとえそうできたとしても彼に弱みを見せたくはない。 数日間傍にいて、私は彼に惹かれるようになった。でも、恋人になりたいというのは少し違う。対等の人間であると認められたい、そんな背伸びする子どもみたいな感覚。だから、サーバーテロ騒動の最中、生命を狙われながらも彼の手伝いをしたのだし、今途方に暮れていても平気な顔をしていたいのだ。 「…これからどうする気だ」先程の言葉を説明するでもなく話を変え、シキはそう尋ねてくる。 「特にどうするとは決めてないですけど…一度親元へ戻ろうかと思ってます。仕事も住むところもなくなったし、これといってここに残る理由もあてもないですから。今度は地元で就職します」 勿論サイバーテロに巻き込まれないような会社にね、と笑う。すると、シキは更に不機嫌な表情になったので私は内心怯んだ。今まで自覚していなかったが、私の笑い方には他人を極端に不快にさせる何かがあるのではないかと急に不安になってくる。 と、不意にシキがこちらに手を伸ばす。思わず私が身を硬くすると、シキの手が顎を掴んで強引に顔を上向かせた。 「腑抜けた顔を晒すなと言っている。お前のその顔は見るに耐えん。…あてがないというのなら、ちょうど良い、うちに来い」 「え?」 「家政婦として雇ってやる」 「は??」 見るに耐えない顔だと言われたことに対して怒るよりも、シキの申し出に対する驚きの方が勝って、私は目を丸くする。口も“は”と言ったままの形で開きっぱなしだとは分かっていたが、状況を理解するのに頭が忙しくて閉じる余裕がない。 まず浮かんだのは、どうやらシキは独身らしいのに家政婦が必要とは一体どんなところに住んでいるのか、ということだった。それから、家事を自分でできないくらい警視とは忙しいものなのかとか、そもそも家政婦なんて贅沢ではないのかとか、次々に疑問が浮かんでくる。 何をどこから尋ねたらいいのかと私が迷っていると、シキはベッドの傍にあるテーブルの上の果物籠に手を伸ばした。最初に事情聴取に来た警察関係者が置いていったものである。シキはその中から無造作に林檎を1つ掴むと、それを開いたままの私の口に押し付けた。 「あ!?あああー…!?」 押し付ける力は然程でもなかったが、予想外のことであったため、一瞬顎が外れるのではないかと焦る。目を白黒させる私を見ながら、シキは意地の悪い笑みを浮かべた。 「間抜けな顔だな。お前にはそちらの方が似合いだ。…先程の腑抜けた顔よりは余程いい」 だからといって、この扱いはないだろうに。 私は少しむっとしながらシキの手から林檎を奪うと、自棄になって、皮を剥きもしないまま自分の歯型が残る林檎の表面に歯を当てる。がりりと齧った果肉は固いけれど、十分に甘かった。 End. |