Another day comes-2
朝、目が覚めたら見慣れぬ場所にいた。 つい昨日までいた病院の一室ではない。ホテルや旅館などの宿泊施設でもない。当然ながら、爆破されてしまった私のアパートでもない。どこかの家の居間らしき場所で、私は毛布を被ってソファに横になっていたのだ。 「!??」 驚いて跳ね起き、立ち上がろうとした。が、左腿が痛んで立つことまでは出来ずに終わる。不用意な動作のせいで起こった痛みの波を、身体を折り曲げてやり過ごす。そうして一息ついたところで、私は昨夜のことを思い出した。ここへ来たのは日付が既に変わる頃で、飛び入りの私が使える状態の部屋はなくて、結局毛布だけ借りてこのソファで休んだのだった。 改めて、少し落ち着いた気分で周囲を見渡す。 部屋には、今は私の他に誰もいない。居間といっても特に何があるわけでもない室内は広く、あまり生活感を感じさせない。ソファに向かうようにテレビが置かれていたが、今時家庭にあるものよりやや古い型に見える。しかも、リモコンが近くに見当たらないから、この家の住人は殆どテレビをつけることもないのかもしれなかった。 (確かに、あの人はテレビ見なさそう…) そんなことを思っていると、僅かに軋みながら曇りガラスを嵌めたドアが開き、この家唯一の住人であるシキが入ってきた。居間の壁の時計は6時45分を示していたが、もう出勤するらしくスーツ姿でコートを手にしている。彼が起きて出勤のための準備をしている間、呑気に眠りこけていたのかと何だか申し訳ない気になる。 「おはようございます」 取りあえず挨拶するが、シキは何か奇妙なものでも見る表情をしただけでさっさと用件に入った。 「仕事のことだが、やり方はお前に任せる。足も治り切らないうちから無理をしろと言うつもりはない。だが、自分の寝る場所くらいは作っておいた方がいいだろうな。今日もソファで眠りたいなら話は別だが。…1階の和室なら比較的片付けやすいだろうから、そこを使いがいい」 それだけ言うが早いか、シキはこちらに背を向けて居間を出て行ってしまった。 見送らなければと思ってソファから立ち上がると、また左腿が痛んだ。舌打ちしたい気分で左足を庇いながら居間を出て、廊下を歩く。じれったい程ゆっくりとしか歩けず、ようやく玄関の上がり口までたどり着いた目の前で扉が閉まるところだった。 「行ってらっしゃい!」 閉まっていく扉の隙間に投げつけるように少し張り上げた声は、届いていたただろうか。外を窺い見る間もなく、バタンと大きな音を立てて扉が閉まる。その扉を見ながら、私は昨夜初めてここへ入った経緯をぼんやりと記憶から引き出した。 *** 私が病院を退院したのは、昨日のことである。 前日にシキから家政婦にとの話を聞いてはいたが、その返事をしないままに退院の日が来た。そして、私は当初の予定通りに親元へ戻るつもりでいた。 確かにシキの提案は、嬉しかった。新しい生活を始めようと思う気力を私にくれた。けれど、提案自体を受け入れることはできなくて、結局私は帰ることを選んだ。 当日に申し込んだため、地元へ戻るためのバスは夜遅くに出発する便になった。 退院してからの時間を買い物などで潰して(左腿を庇って歩くしかないのでちょっとした買い物にも普段の数倍の時間が掛かった)、私はバスターミナルへ向かったのだが――途中で拉致されてしまった。 比喩でも冗談でもない。本当にあれは拉致だ。 徒歩でターミナルに向かっていたところ、傍の道路を走っていた車が急に停まり、ドアが開いたかと思うと伸びてきた手に車内に引き込まれていた。不自然な体勢で助手席に収まった私の上に身を乗り出して誰かがドアを閉め、すぐに車が走り出す。まさかサーバーテロ騒動の犯人グループでまだ逮捕されていない者がいたというのか。背筋も凍る思いで恐る恐る運転席に目を向けると、そこにいたのはシキだった。 「なんで…警察を辞めて誘拐犯に転職でもしたんですか?」 恨みをたっぷり詰め込んだ私の言葉に、シキは軽く肩をすくめた。 「転職などしていない。お前を誘拐したところで大した金にはならないからな、警視庁で給料を貰う方が割に合っている」 「だったら、どうして」 「お前が黙って逃げ出すからだろう。雇ってやると言ったはずだ」 「それは聞きましたけど…お返事しないままでしたけど、その話はお断りします」 昨日の提案は、彼自身の必要性からというよりも、私への気遣いから出ているように思えた。けれど、もう気遣ってもらわなくとも私は新しい生活を始めていける。何より、女が一人暮らしの男の家に身を寄せるというのは、実体がどうあれ周囲からは同棲とも見られかねない。今は勤め先も持たず、地元も遠く離れた私には傷つく世間体など無いが、警視庁でそれなりの地位にあるらしいシキはそう気楽にもいかないはずだ。 そのことを婉曲に説明すると、シキは小馬鹿にしたように嗤った。 「世間体?下らんな。口さがない連中には好きなだけ言わせておけばいい。それに、お前を気遣ったというのは勝手な思い込みだ。俺が“雇ってやる”と言ったのは、提案ではない。お前に選択権は無い」 ということは、あれは命令だとでもいうのか。私がシキから命令されるような根拠は無い。確かに無いはずなのだが…あまりにも迷いの無い口調で言われると、何となく自分の認識が間違っているような気がしてくるものだから恐ろしい。 言い合いとも何とも言えないような会話を続けて私の気力が尽きてくる頃、シキは前触れも無く閑静な住宅街の中で車を停めた。「着いたぞ」そう言って、視線ですぐ傍にある一軒の家を示す。 その言葉に促されるように窓に顔を寄せ、月明かりと街灯の光を頼りに、私は一つも灯りの点いていないその家を見た。建てられて、20年くらいは経っているだろうか。小じんまりとしたその家の様子が何となくシキと結びつかない。 「ここがあなたの家なんですか?一人でここに?」 「でなければ、家政婦など探しはしない」 確かに、シキはなかなか多忙そうだし、マンションやアパートではなく一戸建てで一人暮らしでは掃除などの手も回らないだろう。それにしても、どうしてまた便利なところに部屋を借りるでもなくこの家で暮らしているのか。余程尋ねてみようかと思ったが、何か事情があるのかもしれないと思い直して私は口を噤む。 立ち入ったことを聞くのは失礼だろうと思ってのことだが、シキは私の疑問を感じ取ってか特に拘るでもなくその事情を口にした。 「昔、ここで暮らしていた。大学に入るときに俺はここを出たが、残っていた母親が死んで空き家になってから、また住むようになった。通勤できる範囲にあるのに、ここを遊ばせて余所で部屋を借りるのも無駄だからな」 常識が無いように見えて案外普通の感覚を持っているのだな、と私はシキを見ながら失礼なことで感心した。同時に、何だかしんみりした気分になって黙る。家政婦の話はやっぱり断るべきだと思うものの、どう話を持っていけばいいのか分からない。 「でも、私が居候したら、近所の人に変な誤解をされると思いますよ?」 「させておけばいいと言っただろう」 「恋人にも誤解されますよ?急にそういう展開とかになっても女の人連れ込みにくいだろうし」 「何を想像しているか知らんが、お前に心配される筋合いはない」 「じゃあ、私が“雇われます”と返事しても本当にいいんですか?家事とかあまり上手くないですけど」 「最初から雇うと言っているだろう。そこで何故俺に訊く」 「…どうしていいか分からないんです。家も職も失くして地元へ戻ろうとしてるときに、人から住み込みで家政婦をして欲しいと言われたのは初めてのことで。知り合いにもそういう人はいなかったし。やってみたいって少し思うんですけど、何だかいろいろ問題があるような気がするし」ぼそぼそと泣き言を言ううちに決心がついてくる。私は言葉を切って顔を上げ、シキと視線を合わせた。「だから、臨時の家政婦として置いて下さい。何日か様子を見るってことで」 私が言い終えると、シキは「前置きが長すぎる」と苦々しげな口調で駄目だしをした。 こうして、私は臨時家政婦になった。 *** 一日は、あっという間に過ぎていった。 使っていいといわれた部屋を片付けて、台所や居間など立ち入っても問題なさそうな場所を掃除して、洗濯をして、買い物に行って。家政婦とは普通どのような仕事をするのか詳細は分からないものの、こうだろうと思いつく範囲のことで出来ることをする。けれど、元々家事に慣れているわけでない上に足を庇いながらなので、とにかく時間が掛かる。 気がつけば、もう夜だ。夕飯の支度を終えて脱力していると、玄関の扉が開く音が聞こえた。私は立ち上がって玄関へ向かおうとするが、相手の方が行動が早い。居間のドアを開けたところで、廊下を歩いてきたシキにぶつかりかけた。 「うわっ…ごめんなさい」ドアの取っ手に縋って何とか体勢を立て直すと、 「不用意だな。怪我を増やしたいのか」と呆れた声が降ってくる。 「私だって好きで怪我してるわけじゃありません…。ところで、ご飯出来てるんですけど食べます?」 これでお風呂と自分を選択肢に入れたら有名なあの台詞だなと惚けたことを思う。次第に何だかこの状況が恥ずかしくなってくるが、耐え難いほど羞恥心が強くなるよりも先にシキが口を開いた。 「待っていたのか」 “何を”という言葉が全く抜けているので、“待っていた”が何に掛かるのかは分からない。けれど、最初からシキの帰りを待つ気でいたし、支度がぎりぎりになったのでまだ夕食を食べていないのも事実だ。だから、私はシキの言葉に頷いて、準備をしようと台所へ向かいかける。そこであることに気付き、私は足を止めてシキを振り返った。 「お帰りなさいって、そういえば言ってませんでしたよね?…お帰りなさい」 そう言うとシキはまた朝と同じ奇妙なものでも見る表情をしたので、私は何となく思いついた。彼もこういう挨拶は言われ慣れていないのかもしれない、と。普段は自信に満ちているこの人でもこんな些細なことで戸惑うのか思うと可笑しくて、私はシキに背を向けた後で少しだけ笑った。 End. |