Another day comes-4





 カーテンの隙間から差し込む朝の光を浴びた華奢な肩は、何故か情欲よりも食欲を掻き立てた。
 抱き寄せて口付けて痕をつけるよりも、歯を立てて柔らかな皮膚を噛み破って溢れ出る血を舐め取りたい。起きぬけの頭でぼんやりとそんなことを考えてから、シキはベッドの上で起き上がって緩く頭を振った。馬鹿馬鹿しい。そんなことをして、一体何になるというのか。見た目がいくら甘そうだとはいっても、口にすればそれは紛れもなく人肉で――多分、他の動物よりうまいということもないはずだ。
 隣でそんなことを考えていると知れば、本人は必ず怯えて半泣きになるだろう。ふつりと腹の底から込み上げた苦笑をため息に替えて吐き出し、シキは隣に眠る娘を見下ろした。彼女が口にした先を誘う言葉を言質にして、思う様その身体を抱いたのは昨夜というより最早今日のことだ。明らかにそうした行為に慣れきっていない彼女は、終わってじきにくたりと眠り込んだので、いまだ衣服を身につけていない。本来なら艶めかしいはずの光景なのだが、寝顔が無防備に安心しきっているせいか、眠る姿は何か微笑ましかった。むしろ、可笑しかった。
 少し手を伸ばし、指先で頬に触れる。
 柔らかい、と当たり前のことを安堵するように思う。あるべきものが欠けることなく在るべき場所にあるという充足感が緩やかに胸を満たしていく。

 そんな風に思うのは、きっと、一度失いかけたことがあるからだ。

 1ヵ月前のテロ騒動の混乱の最中、偶然から重要参考人であると行動を共にすることになった。は犯人グループから生命を狙われたので、当然、シキは立場からして彼女を守る義務が生じる。それなのに、は犯人グループの意図を阻むために自ら進んで危険に身を晒し、拘束されることになった。
 身を守る術も持たない民間人が馬鹿げた真似をするのを止められなかったことは――たとえその行動が事件解決に一役買ったにしても――自分の失態であったとシキは感じている。その失態の結果が、の左腿に残る傷痕であり、以前病室で目にした別人のように沈んだ自身だ。そんなものは、たとえ最早に対する責任がないとしても、目にするのは我慢ならなかった。そして、そんな風に何がしか心に掛かる部分が残っている以上、の一件はシキの中で取り戻すべき失態であり続けている。目を離せば危険に巻き込まれて傷を負うのだから、いっそ目の届くところに置く方がまだ、心穏やかでいられるというものだった。
 それに、巻き込まれなくとも、危険の種は向こう側からやってくる。
 テロ騒動の折、ハッカーとしての優れた能力を示したを欲しがる者は案外多い。そのことを、シキは知っている。


***


 「話は聞いているぞ」

 エレベーターに乗り込んできた女は、出し抜けにそう言った。真っ直ぐに前を向いた女の視線の先でゆっくりとドアが閉まり、上昇が始まる。女は一度もシキを見ようとしなかった。真っ直ぐにドアを見つめ続ける女の横顔は無表情で、能面のような美しさがそこにある。女は名をエマといい、シキの同期にあたる。先頃のテロ騒動を受けて発足したテロ対策室に配属されたばかりで、このところ顔を合わせることは少なくなっていた。
 「話?何のことだ」シキは彼女と同じく前を向いたまま応じた。
 「国民番号0723175、“”…あのサーバーテロ事件の関係者を囲い込んでいるのだろう」
 「テロ対策室は余程暇らしいな。時間を持て余して庁内の職員の私事まで調べ上げているとは」
 「馬鹿を言え、仕事は山積みだ。――彼女はニホンでは前代未聞のテロ騒動の関係者だからな、どうしてもしばらくは動向を見守らざるをえない。それに、対策室はサイバーテロ分野の専門家として、彼女を欲しがっている」
 他の人間を当たれ、と言い掛けてシキは思い留まった。他がそう簡単に見つからないという現状はシキ自身も知っている。
 10年前に終わった第3次世界大戦のため、世界中の殆どの国が技術力の水準を落とした。以前なら容易に生産可能であった精密機械が生産できなくなり、機械化・効率化の進んでいた社会生活もかなり水準が後退した。後退の程度は国によって差があるのだが、敗けたニホンはその度合いが著しく、その上敗戦後数年は列強の支配下で思うように復興が進まなかった。
 新たに水準を引き上げるのではなく以前の水準の回復ということで、一旦回復が始まればその速度は速かったが、それでもコンピュータや携帯電話などが一般に出回り始めたのはこの3年ほどのことだ。専門家は、そう多くない。教科書的な知識を持つ学者ならいても、コンピュータとネットの裏側の知識を有して様々な危機に対応できる人間は殆ど見つかっていない。そして、は1ヵ月前のテロ騒動に巻き込まれることで、本人が意図しないうちに“その方面”に詳しくなってしまったのだ。適任といえば適任なのかもしれないが――

 「断る」

 あっさりと言い切ったところで、エレベーターが目的の階で停止してドアが開いた。もう話すことはないとばかりにシキが歩き出すと、エマが背後から追ってくる足音が聞こえる。
 「断るって…貴様に断られる謂れはない…!彼女は成人で、自分の意思を持っているんだぞ?」
 「それがどうした?」
 歩みを止めて振り返ると、エマは首を横に振ってため息を吐いた。「貴様、彼女を意思のない人形か何かと思っているだろう…最低だな」同じ女性として同情したのか、いつになく言葉に感情を込めて嘆いてみせる。
 シキは数秒間エマの顔を見ていたが、やがて視線を窓の方へと向けた。
 警視庁の庁舎はトシマの中心部にある。立ち並ぶビルの背後に日没で次第に暗い色に沈んでいく空と、それに負けじと光を放つ街の明かりが無数に見える。1ヵ月前、この夜景は発電所のシステムダウンのために真っ暗になった。それは、第3次大戦を戦場で過ごしたシキにとっては別にどうということもない光景であったけれども、シェルターの中にいて戦場を見なかったらしいはひどく動揺していた。放置しては傷つき死ぬ人間が多く出る――その認識が彼女を犯人グループに立ち向かわせたようだった。
 エマの話がの知るところとなれば(といってもシキは教えるつもりはないが)、彼女は承諾するかもしれない。或いは、断るかもしれない。忌々しいことにの考えは予想がつかないが、それでも只一つ分かることはあった。
 「いくら俺が阻もうが、あれは本当に必要だと判断したなら自分の意思を通すだろう。意思を持たない?意思のない人形の方がまだマシだ」少なくとも、こんな風に思い通りにならない苛立たしさを覚えることはなくなる。
 ぽつりと零すと、エマがはっと顔を上げる様子が窓ガラスに映った。エマは驚いた表情で窓ガラスに映るシキの顔をしばらく見ていたが、やがてふと表情を和らげた。滅多に表情の変わることのない白い面に、ここ数年の短くない付き合いの中でも見たことがないような柔らかな笑みが浮かび上がる。
 一体なんだ、とシキは怪訝に思い眉をひそめた。
 「まぁいい、一つ貸しておいてやる。彼女が貴様のもとに居れば、少なくとも、下手な犯罪組織に利用される気遣いが要らないのは確かだからな。居所が分かっていれば、必要なときに呼び出すことは容易い」
 「何が貸しだ」
 窓ガラス越しの含みのある視線を遮断するようにシキが目を閉じると、エマは機嫌のいい笑い声を零して踵を返す。「彼女が逃げ出さないようにしろよ。といっても貴様の性格では不安だが。何なら、いっそ、愛しているとでも言っておけばいい」好きなように言い捨てて、階段の方へと歩いて行った。


***


 (――逃げ出さないように、か)
 先日のエマの言葉を思い出し、ベッドの上で一人嗤った。
 たとえ縛り付けたとしても、の意志が固ければきっと意味はない。

 “必要ない。責任なんて、取って欲しくない”

 静かに、けれどはっきりと口にしたの眼差しの強さを思う。
 かってテロ騒動の最中にも見たことのある、あの決意を内に秘めた眼差し。怪我を負って別人のように弱くなったと思ったのは、実は誤りだったのかもしれない。たとえ表面上どう見えようと、彼女の本質は変わることなく頑なで強かなのだろう。
 昨夜、彼女は自分の傍から去る意思を示した。きっと、その性質の頑なさでもってそれを実行するだろう。そう思うと、充足感が指の隙間から零れ落ちていくような気がして、そんな自分に苛立ちを覚える。一体何故、赤の他人にこれほどまでに感情を掻き回されなければならないのか。苛立ちを抑えて、シキはベッドを抜け出した。
 衣服を身につけ終えてからふと見れば、ベッドのシーツの上に白い布が長く伸びている。何かと思いながら左手をベッドの上について右手を伸ばすと、それはの左腿に巻かれていた包帯だった。昨夜、銃創に響かないようにを膝の上に乗せる姿勢であったにも関わらず、行為の最中からそれは些細な動きで緩み始めていたが、すっかり解けてしまったらしい。
 手に取った包帯の端を軽く引くと、その動きを感じたのか眠っていたが身じろぎして薄く目を開けた。眠たげな眼差しが、ゆっくりと彷徨ってからシキの上で停止する。叩き起こしてやろうとシキは思ったのだが、実際に出たのは「まだ眠っていろ」という言葉だった。そして、は分かったのか分かっていないのか、子どもじみた素直さでひとつ頷くと再び目を閉じた。その安堵しきった様子に、苛立ちを洗い流すように穏やかな感情が湧き出してくる。何かに誘われるように閉じられた目蓋に唇を軽く当て、離れた。
 余所へはやれない、そう思う。
 
 “いっそ、愛しているとでも言っておけばいい”

 (馬鹿馬鹿しい)
 脳裏に蘇るエマの言葉を嗤い飛ばして、シキは静かに部屋を出た。
 愛を囁く自分など想像するのも願い下げだ。に――そして、今まで寝たほかの女にも――エマの言うような感情を持ったことはない。ただ、に関しては他の誰よりも最早自分の生活に入り込んでしまっている。居なくなれば在るべきものが欠けた違和感を覚えるだろうし、生活面で少し不便になる。手放したくない理由は、それだけのことに過ぎない。





End.

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