僕が生きていくのに必要なもの





 その日は朝からからりと晴れて、爽やかな陽気だった。
 あまりに気持ちの良い気候なので、いっそ大掛かりな掃除をしようと思い立ち、私は普段なら起きないような早朝から仕事に取り掛かった。この家は総じて持ち主の方針で殺風景なほどにものがないけれども、ここで生活している以上やはりいくらかは散らかって埃も溜まってくる。衣類を洗濯機に放りこんで、私はそれぞれの部屋を掃除していった。
 ただ、1箇所だけ避けた場所がある。私の主にあたる人の部屋だった。
 主――マスターと呼ぶのが普通だが、私はそう呼ぶなと言われている――は、ある軍事企業に雇われてエンジニアをしている。もともと仕事場のことを話す人ではないし、兵器の開発に携わるからには職業上の秘密もあるだろうから詮索しないが、何か大きなプロジェクトでもあるのか彼はこのところ多忙だった。帰宅は大抵日付が変わってからで、週のうち何日かは帰らない日もあった。
 それがようやく一段落したのだろう。昨夜いつもより早く帰宅した彼は、シャワーだけ浴びると何も食べないままぱたりとベッドに倒れ込んでしまった。驚いて様子を見に行った私に、辛うじて翌日は休みだと言ったのが、まさに遺言のような有様だった。そんな遺言だったら、かなり情けないけれど。
 主は普段何かあっても表情ひとつ動かさないひとだし、帰宅したときも普段と変わったところはなかったが、余程疲れていたのだろう。とにかく目が覚めるまでは、起こさないでおこう。あとで彼が起きてきたときのために、何か食事を用意しておこうか。そんなことを思いながら、手を動かす。
 私はアンドロイドだ。20代の女性の姿をしているけれど、この世で目覚めたのはほんの数ヶ月前のこと。こんな風に掃除を、或いは料理を、今まで経験もないのにできるのも、プログラムの一言で片付けようと思えば片付けてしまえるが、不思議といえば不思議だった。
 人に姿を似せて作られ、人工知能を与えられ、まるで人のような顔をしてここに居る。けれど、人ではない。私にはある生身の女性の記憶が焼き付けられているので、思い出もあれば他のアンドロイドよりも複雑な感情表現もする。私の場合、掃除や料理の仕方は人工知能ではなく、彼女の記憶の中から引き出されている。
 最初、私は自分のことを人間だと固く信じていたほどだ。
 それでも、私は彼女とは違う。それが分かったから、私は記憶の中にある私のオリジナルをまねようとすることをやめた。自分のものだと思っていた経験が、思い出が、自分のものでないという事実を受け入れることは、なかなか辛いことだった。

 キッチンを掃除していると、ふいに一つの記憶が浮かんだ。
 両親と弟、それに私――いや、オリジナルが共に掃除をしている光景だ。多分、年末の大掃除だろう。両親の脇を逃げていく弟を、彼女が追いかけて叱っている。その賑やかな様子に、ぼんやりとした寂しさが込み上げてくる。
 私にも、私自身の記憶があればいいのに。

 そのとき、ドアの開く音がして、私ははっと我に返った。いつの間にか流し台のテーブルの間のさして広くもないスペースにしゃがみこんで、これではまるで一人きりのかくれんぼでもしているみたいだ。
 そう思ったとき、頭上に影が落ちた。
 顔を上げれば、シキがこちらを見下ろしている。まだ眠いのだろう、その表情は隙をみせない彼にしては珍しく、ぼんやりとしたものだった。
 「おはようございます、シキ」
 「…何をしている」
 「キッチンの掃除を」
 答えを聞いて、シキは僅かに眉をひそめた。何か気に障ることでも言ったか、と私は俄かに不安になってくる。沈黙に耐え切れず、掃除をしては駄目でしたかと尋ねようとしたとき、不意にシキが声を発した。
 「――目が覚めて、」
 「はい」
 「姿が見えないから気になった」
 「……!」
 その言葉に、何故か急に頬が熱くなるのを感じた。
 確かに、普段私は彼の部屋で寝起きしているので、目が覚めていなければ、気にはなるだろう。精巧なアンドロイドはまだまだ一般的には贅沢品で、高価で取引されるため盗難にも遭いやすいのだから。彼が気にかけたのはそういう理由からだと分かっているのに、それでも嬉しく思わずにはいられなかった。だって、今のシキの行動ではまるで私自身が必要とされているように、勘違いできる。
 けれど、さっきの言葉にどう応じればいいのか、と私が戸惑っていると、シキはくるりと私に背を向けて、ふらふらとキッチンを出て行ってしまった。
 一体何だったのだろう。
 呆然としながら、私はシキを追って寝室へ向かう。案の定彼はそこにいて、またベッドに倒れこんだまま、眠っていた。さっきのは、きっと寝惚けたための行動だったのだろう。いつも泰然としている彼の何だか妙に幼い一面を見た気がして少し嬉しくなる。
 ベッドの脇に跪いて覗き込めば、思ったよりもあどけなくて安らかな寝顔がそこにあった。シキはとにかく隙を見せることを嫌うひとで、同じベッドで寝たとしても大抵私より先に起き出すほどだ。今まで寝顔など見たことはなかったから、これは新しい発見だった。
 ――少しだけ、ここにいたい。
 そう思い、私はベッドの側面に背を預けるようにしてフローリングの床に座り込んだ。床は当然ながら固く、ひんやりしているけれど、固さも冷たさも不快ではない。むしろ心地いい。目を閉じると、シキの密やかな寝息と時折布が擦れ合う微かな物音だけが耳に届く。


 あぁ、そうか。さっきのシキの言葉は、今こうしている瞬間は、他の誰のものでもない私だけの記憶なのだ。いつか未来に「こんなこともあったね」と彼に言えるときが来るなら、それはどんなに幸せなことだろう。
 シキは法律上私の所有者として登録されているから、この先も私は彼と共にいることになる。ひとつひとつ、新しい記憶を積み重ねていくことができる。“所有者”という言葉は、自分が人間ではなくアンドロイドなのだと明示するものに思えて、ずっと嫌いだった。
 けれど、今はそれが彼の傍にいる権利であるなら――受け入れられる気がした。





End.
配布元:『is』より
「僕が生きていくのに必要なもの」

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