ふたりきりの孤独
戦況は、敵味方入り乱れて混戦の様相を呈している。 ぐるりと見渡せば、人、人、人。さすがにまだ敵と見方を取り違えることはないが、もう日も暮れようとしている。辺りが暗くなれば、同士討ちも免れえないだろう。その前に、退却の指示が出るか――。 焦る気持ちでそんなことを考えながら、コノエは再び周囲を見渡した。いつも背を預けて闘う相棒の姿が、見えない。混戦の最中ではぐれてしまったのだ。相棒のライは、コノエなどより余程傭兵としての経験が豊富で、単独でも決して弱くはない。けれど、コノエは一つの不安を抱いていた。 ライは、血に酔うという性質を持っている。 それは幼い頃魂深くに根付いた彼の業のようなもの、箍が外れればどこまでも血の温もりを求めて殺戮しようとする。けれど、その性質はコノエと組んでからは随分薄らいでいるようだし、たまに血への欲求が暴走することがあってもコノエの声で正気に戻ってくれる。 今、コノエが不安に思うのは、2人が契約して参戦したこの場に隣国の<竜騎士>が来ているという噂があるからだ。<竜騎士>は、大層強いらしい。そして、ライは強者と闘うときほど、血の衝動への箍が外れやすくなる。もしもライと<竜騎士>がコノエの目の届かないところで出会ってしまったら――と思うと、気が気ではない。 早く見つけなければ、と思ったときだった。 (――っ…!) ぞくりと肌が粟立つような殺気を、感じる。それも2つ。 2種類の激しい闘気と殺気が混じりあい、辺りを突風のように吹き抜けていく。その現象を理解できるのはある程度実力のある者だけだが、他の一般の兵士たちも「何か」は感じ取って、一瞬怯えたように身を竦めている。 コノエは、闘気と殺気の中心を目指して走った。中心にいるのはライと誰かなのだという確信を持って。けれど、敵と味方の兵士が彼らには正体を感じ取ることの出来ない「何か」の圧迫感から逃れようと、出鱈目な方向に逃げ惑うのが邪魔をして容易には進めない。見たところ、辺りには味方の兵の進退を指揮する指揮官もいないようだ。そのことが違和感としてちらりと頭を掠めるが、今はそれどころではなく、コノエはひたすら走る。 と、唐突に人の波が途切れて視界が開けた。 双方の砲撃と魔法とで焦土と化した野の一角で対峙する、2人のシルエット。 そのうち片方は白銀の髪をなびかせたコノエの相棒・ライだった。一分の隙もなく長剣を構え、凍りついた湖面を思わせる碧眼で真っ直ぐに相手を見据えている。 対する相手はライとは真逆で、黒髪に赤い双眸といった容貌。片刃で細身の珍しい格好の剣を手にしてはいるが、構えはせずに下ろしている。顔には余裕を――或いは、高揚を?――示す笑みが浮かんでいた。 その笑みを見た瞬間、ぞくりとコノエの背を何かが走り抜けた。 駄目だ。ライは勝てない。 反射的に思う。決して相棒の実力を信じないわけではない。ライは強い。それでも、あの男には勝てない。だって、あの男は闘うことに歓喜している。己の業に苦しむライとは、精神面からして全く異なっている。けれど、ライがあの男のようでなくて良かったと、コノエはむしろ安堵した。殺すことに躊躇いがあるからこそ、ライは正気でいられるのだから。 とはいえ、このままではライは強者と闘う喜びに我を忘れ、血を求め始めるだろう。 その前に、あの男はまともに闘って敵う相手ではないと気付かせなければ。 「――ライ!!闘うな!…そいつと闘っちゃだめだ…ライっ!」 必死に叫ぶが、砲声や怒号に紛れて声が届かない。 そうするうちに、とうとう対峙する2人が動いた。相手の男が舞っているのかと思うほど優雅な動きで、ライに斬りかかる。ライが長剣でそれを受け止める。刃を合わせ始めた2人の周囲に、時折、火矢や砲弾、魔法などか落ちるが、双方構う素振りもみせない。 これでは、近づけない。 (仕方ない…!) 唇を噛みつつコノエは、“歌う”姿勢に入った。 コノエはもともと魔術師としての素質を持っている。ただ、取り扱うのが味方への支援に特化した魔法のみの<賛牙>というタイプの魔術師であり、そうと知れれば悪用される可能性が高いために普段は剣士で通していた。 コノエが支援魔法を使うのは、ライにだけだ。一般にあまり知られていない事実だが、<賛牙>は普通の魔術師のように生来備わった魔力だけで、支援魔法を使うことはできない。魔力と、己の心で魔法を使う。そのため、心から支援したいと願う相手でなければ、魔法を発動する――“歌う”ことはできない。そして、“歌う”ためには、戦場の最中で精神集中を行わなければならない。 想う心と生命を預けるに足る相手がいてこそ、初めて<賛牙>の魔法を発動させることができるのだ。 “歌え”ば、ライはコノエの“歌”で正気に戻るだろう。 ただ、“歌”を発動する瞬間コノエは全くの無防備になってしまう――それも、敵の最中、砲弾や魔法の炸裂する戦場の真ん中で。 (それでも、“歌う”しかない。――ライと生き残るためには、それしかない) コノエは一つ息を吸い、目の前の戦場から意識を自分の内側へと向ける。 ライと共に生き延びたい――その願いから、幾つかの“音”が生まれる。 “音”を拾い上げ、“旋律”を見出す。 複数の“旋律”を紡ぎ合わせて、声なき“歌”へ育て上げる。 そして、あと少しで、ライに届く“歌”を解き放てるというところまできたとき。 意識の大半を内側へ向けたコノエの視界の端に、飛来する無数の火矢が映った。飛んでくる方向からして、コノエの味方である者たちの放った火矢だ。指揮官だけ退却して前線が混乱したのは、味方の一部を囮に敵の頭を叩くためであったらしい。 このままでは、火矢がコノエのいる場所を直撃するだろう。頭の片隅で理解するが、とっさに動くことができない。 「――ラ…イ……」 思わず相棒の名を呟いた瞬間、視界に跳び込んで来たシルエットがあった。 小柄な少年のような、敵とも味方とも知れない誰か。その身体がしなやかにしなり、携えていた身の丈ほどもありそうな長剣を振るう。それは、まるで少年が剣に操られながら舞っているような、奇妙な光景だった。しかし、彼は決して剣に振り回されているわけではない。その証拠に、コノエに向かって飛来した火矢がことごとく斬り伏せられて、ばらばらと地に落ちる。 火矢の雨が止むと、少年は剣を振るうのを止めて佇んだ。そして、不意にこちらを振り返る。その瞬間、コノエは外界に向けたままの意識の欠片で、思わず息を呑んだ。 少年かと思ったその人物は、若い女だった。 甲冑を身に着けてはいるが、よく見れば丸みを帯びた体つきをしている。彼女はコノエを見てちょっと驚いた顔をしたが、次の瞬間、はっと剣を交えるライと黒ずくめの男に視線を向けた。コノエもつられて視線を向ければ、拮抗していたはずの2人の闘いは、黒ずくめの男が押し始めている。 男は闘いながら、まだ笑みを浮かべていた。 それも、殺し合いを心から喜ぶ、ぞっとするような凄艶な笑みを。 女はその光景に怯えるでもなく、憂いの表情を浮かべて口を開く。「――――!」唇を動かして何ごとかを叫んでいるようなのだが、何も聞こえては来ない。ちがう。聞こえないのではなく、声自体が発されていないのだ。 (――話せない、のか…) コノエがそう思ったとき、彼女がはっと振り返った。その双眸が、再び飛来する火矢と砲弾を見つけて、さっと怒りに燃え上がる。『自分の味方を見殺しにする気なの?』唇の動きだけでそう呟き、彼女は再び身体をしならせ、舞うように剣を振るった。 しかも、今度はただの剣撃ではない。振るわれる剣の一閃に、炎の気が混じっている。炎の気は剣圧に乗ってコノエを飛び越え、飛んできた砲弾や火矢を一瞬にして焼き尽してしまった。そして、その証拠とでもいうかのように、燃えカスがコノエの周囲に降ってくる。 (――そんな…嘘だろ…) 火や風や水には気というものが存在する。魔術師はそれを利用することもあるのだが、もちろん、利用するには魔法という形式に変えなければならない。火の気や水の気を魔法にせずそのまま利用するなど、到底できることではない――彼女自身がその気を帯びているというのでもなければ――しかし、そういう存在は伝説に語られる竜くらいのものだ。 (竜って…まさか…) あることに思い至ったとき、コノエに顔を向けた彼女が何ごとかを言った。 『――今のうちに、早く』 唇の動きが、そう告げる。彼女は敵方のはずだが、自分を助けてくれるつもりらしい。そう理解したコノエは、攻撃されても彼女が守ってくれるという、根拠のない確信に身を委ねて、意識を完全に外界から切り離す。ひたすら自分の内に生まれた“歌”へ意識を向け、一気にそれを育て上げた。 “旋律”が、声なき“歌”が内側で大きく膨れ上がる。 極限までそれが育ったとき、コノエはそれをライへ向けて解放した。 *** 淡い緑の光が、ふわりと対峙していた男に纏わりつく。 (――これは、<賛牙>の“歌”か…) 一瞬シキの思考が闘いから外れた瞬間、ひとつの“声”が意識に跳び込んで来た。 『戻って…シキ…』 契約を交わし、魂で繋がるただ一人の存在の呼ぶ声。それも、ひどく疲労している。意識を凝らして彼女の存在を感じ取れば、契約してシキの心臓と共に宿すことになった竜の力を使ったらしい。竜が生まれながらに宿す火の気は、人の身で使うには強すぎる代物だ。使い方を誤れば<契約者>たる彼女であっても、焼き尽くされてしまう。 使うなと言ってあるのに、とシキは小さく舌打ちし、地面に膝を突く白銀の髪の男へと視線を向けた。 「ヒトの身で俺とここまで渡り合うとは、大したものだ。決着を付けたいところだが、そうはいかんらしい」 「逃げる気か…」 「見逃してやる、と言っている。それにひとつ忠告しておくが、貴様も傭兵なら雇い主は選ぶことだな。傭兵を囮に背中から矢を射るような雇い主は碌でもない…そんな仕事を請けては、貴様ほどの傭兵の名折れになるぞ」 「――…」 白銀の髪の男は隻眼でシキを睨みつけていたが、やがて、静かに剣を下ろした。その動作を見届けてから、シキも刀を鞘に戻す。 2人の殺気と闘気が消えると、強すぎる殺気のために皆近寄れず敵味方の空白地帯になっていたその場所に、双方の兵がなだれ込んでくる。人の壁に遮られながら、なおもこちらを見つめている隻眼の視線を感じながら、シキは踵を返した。 己の<契約者>の気配を辿り、火矢や砲弾の炸裂する戦場の最中にその存在を見つけ出す。 剣を振るって味方を火矢から守っていた彼女の腕を捉えると、そこから異様に高い体温が伝わってくる。竜の力を使ったために、炎の気の熱に中てられてしまっているのだろう。 『――シキ…良かった、声が届かなくて、怖かった』 「ここはもういい。お前はこれ以上闘うのは無理だ。後方へ下がるぞ」 『だけど、まだ…』 『<竜騎士> のお前が倒て代わりになれる者はいない。<竜騎士> が倒れれば、士気が下がる』 さすがにそれは周囲の兵士に聞かせるには得策でない内容で、シキは声に出さずに思念だけでそのことを伝える。そして、彼女を抱き寄る。その次の瞬間、足元から生じた炎がシキの身体を包んだ。 炎はぱっと大きく膨れ上がり、やがて生じたのと同じように唐突に消える。次の瞬間、そこにいるのはシキではなかった。代わりに、そこから背中に若い娘を乗せた黒竜が翼を広げて飛び立つ。 黒竜は火矢や砲弾の飛び交う空中を旋回すると、敵方の後方へ真っ直ぐに向かって行った。そして、空中のある一点で静止し、地上へ向けて炎を吐き出す。黒竜の吐き出した炎は敵の魔術師の隊列を焼き払い、傍にあった砲台にも延焼して砲撃を沈黙させた。 唐突に止む魔法と砲台による攻撃。それが黒竜の行いであると知った味方のあちこちで、歓声とも鬨の声ともつかぬ叫びが上がる。それでも、地上のことなど関知しないといった態度で黒竜は悠然と空中を旋回し、砦のある東の空へと飛び去ったのだった。 *** 夜になると、まだあちこちで行われていた小競り合いも、粗方収束したようだった。兵士の大半は根拠地である砦に帰還し、砦の敷地内に設営した天幕で夜営の準備を始めている。 にわかに活気づく砦の敷地を見下ろしていたシキは、やがてバルコニーから砦の内部へと入った。階下の喧騒を背に、石造りの階段を上っていく。砦の3階部分に至ると辺りは静かになり、暗い廊下の先のある一室だけ、扉の隙間から明かりが漏れている。 部屋には、がいるはずだった。普通なら彼女も一般の兵と共に野外で夜営するところなのだが、砦まで辿り着いた直後に倒れてしまったのだ。そのため、砦の内部に彼女のために用意された一室が、この部屋だった。 と、不意にその扉が開き、初老の男が俯きがちに室内から出てきた。扉を閉めたところで男――軍医はシキに気付き、目礼した。 「黒竜殿」 「の様子を見に来たか」 「はい。ですが…様は、ヒトの身ではあり得ないほどの高熱を出されている。この砦の守備隊長殿から、誰よりも様への処置を優先するようにと命じられましたが、とても私には手に負えない」 「あれは単に竜の気の熱に中てられただけのこと。明日にでも回復しているだろう。守備隊長には、案ずるなと言ってあったのだがな。そうは言っても、貴様らにとっては大事な<竜騎士>――女神の力を顕現する存在だ、今万が一のことがあっては困るという気持ちは分かるが。…守備隊長の命はもういい。あれの症状は、貴様ではどうしようもないことだ。看病も要らん。俺がここにいる。貴様は、他の負傷兵を診てやれ」 「そのように致しましょう」 軍医は一礼すると、階段の方へと歩いていく。それと入れ替わりのように、シキはのために用意された部屋へと入った。 先程軍医が診察していたためか、ランプに火が入れられて室内が明るく照らされている。見れば、部屋の奥に置かれた簡素な寝台の上に、人一人分の毛布の丸まりがあった。シキはそこへ、足音もなく歩いていく。 寝台の傍まで来ると、目の前の壁にの長剣が立てかけられている。 シキは手を伸ばし、その鞘越しに刃に触れる。剣に息づく魔力の、静かな波動がしんと掌に伝わってきた。が炎の気を刃に伝わせても乱れることのない波動、そして、折れることのない鋼――さすがに名剣と呼ばれるだけのことはある、とシキは納得する。 シキが剣の扱いを教え、シキの動きをなぞるように上達した娘は、あるときを境にシキの真似をやめた。 きっかけは、時が経つにつれてシキとの魂の結びつきが深まった彼女の気が、シキの本性と同じく炎の性を帯び始めたことだった。彼女の振るう剣がその気の苛烈さに耐え切れず、ことごとく朽ちてしまうのだ。ならば朽ちない剣をと探し求めて得たのが、彼女の身の丈ほどもあるこの長剣だった。以来、彼女の剣の扱いは、この長剣に沿うように形成されてきたといってもいい。 そして、今、彼女の剣技を見る者は言う。 まるで、剣と踊っているかのようだ、と。 (踊っているというのは、結局、剣にいいように扱われているのと変わらんが…振り回されていたころよりは、余程、マシになったとは言えるだろうな) シキがため息と共にそんなことを考えていると、剣から笑いのような細波のような波動が伝わってくる。この剣は造られてヒトの手を渡り歩く間に、人格とはいかないまでも意思に近いものを持つようになっている。だからこそ、かなり剣の上達したでも、容易に扱いきれるものではないのだ。 剣から手を離すと、シキは静かに寝台の端に腰を下ろした。 そうして横たわるの顔を覗き込むと、固く閉じていた目が薄っすらと開いてシキを見上げる。その瞳が、熱に潤んでいる。更に、頬には赤みが差し、胸は荒い呼吸にせわしなく上下していた。 『…シキ…退却は、無事済んだ…?敵は…?』 「兵士は大半が砦に帰還した。敵は、陣地を捨てて撤退し始めたらしい。まぁ、こちらの辛勝と言えるだろう」 『そう…』 「あとは守備隊長なり他の者なりがやるだろう。お前が気に掛ける必要はない」 『そう、だけど…でも…』 「戦場でも言ったが、お前が倒れれば士気が下がる。気を遣うのなら、早く回復してやることだ」 『――…そうね』 頷いたが目を閉じる。シキは手を伸ばし、彼女の額に掛かった髪を払った。すると、彼女が再び目を開けて、もの問いたげにシキを見る。どうしてそんな風に触れるのかと、声なき言葉にもされないものの、熱に潤んだ瞳が雄弁に物語っている。 けれど、問われてもシキにも答えることはできない。 ただ、時折意味もなく、彼女に触れたくなる衝動が訪れるだけだ。その衝動に名をつけるつもりはない。全てを言葉で括ろうとするのは、他者と共に生きるヒトの子の習性といってもいいだろう。単独で永いときを生きる竜は、感覚や現象をそれとして受け止め、敢えて言葉に押し込めることはしないものだ。なぜなら、言葉という枠に押し込めようとすれば、ものごとの真理の一面は必ず見えなくなってしまうのだから。 黙ったままシキはの目を見つめていたが、やがて、身を屈めて彼女の顔に顔を寄せた。そのまま口付けようとすれば、彼女が俄かに固い表情になって顔を背けようとする。 『――っ…何するの…!?』 「お前の中にある俺の魔力を貰う。竜に戻って消耗したのでな。それに、身体から俺の魔力が減れば、お前の熱も少しは下がるだろう。大人しくしていろ、口付けるだけだ」 『嫌だ。したくない』 ふるふるとは首を横に振る。シキはため息を付きたい気分になった。 このところ、彼女はシキに触れられることに抵抗を示すようになった。定期的に魔力を受け渡すために交わることには応じるが、それ以外の接触は避けようとする。とはいえ、決してシキを嫌悪しているわけではないということは、繋がった魂を通して時折伝わる彼女の感情からも明らかである。 今もそうだ。から伝わってくるのは、安堵と砂糖菓子のように甘やかな――おそらくヒトの子が恋情と呼ぶ感情。嫌悪がないのにどうして拒むのかと、シキには疑問と苛立ちを覚える。 「口付けを拒むなら、今、ここで抱く」 低い声で宣言すると、ぎくりとは動きを止めた。仕方ないというように、無言でそっと目を閉じる。緩く結ばれたその唇に、シキは自分のそれを触れさせる。舌を歯列の合間から差し入れて咥内をなぞりながら更に口付けを深めれば、の身の内にある己の心臓が生み出す魔力が流れ込んでくる。 思うさま貪ってから、シキはようやく顔を離した。呼吸の余裕を奪うような口付けについていけなかったのだろう、解放されたは荒く息をしながらシキを見上げる。その顔を見下ろすうちに、ふと思いついて、シキはぽつりと呟いた。 「やはり、いつもより口の中が熱いな…熱のせいか」 『――…!!』 途端、一気に頬に血を上らせたが、勢いよく壁の方を向く。 同時に強い羞恥の感情が伝わってきたが、これが初めてでもないのに今更何を恥ずかしく思うことがあるのか。ヒトの子というものはやはり分からない、と内心ため息をつきながら、シキはこちらに背を向けてしまった彼女の頭に触れ、子どもにするように撫でた。 「魔力が減って、少し熱が下がったようだな。お前はこのまま眠れ。俺もここにいる」 『本当に?』は肩越しに振り返って、探るような視線を向けてくる。『――いいのよ。私も子どもじゃないもの。一人で眠れる』 「弱っているお前に万が一のことがあっては、魂で繋がっている俺にまで降りかかる。己の弱味は己自身で守るしかない」 『もう、弱くない…――私は、自分の身は…自分で…守れる…』 口では反駁しながらも、魂で繋がる相手が傍にいる安堵には抗えなかったのだろう。繰り返し頭を撫でるシキの手が眠りを誘って、の目蓋がゆっくりと閉ざされていく。呼吸はじきに規則正しい寝息に変わると、シキは身を屈め、閉ざされた目蓋に触れるだけの口付けを落とした。 そして、ランプの火を消すために、静かに寝台から腰を上げた。 *** 空に丸い月が掛かっている。 すっかり闇に包まれた森の木々の合間にそれを見つけ、コノエは束の間ライの背を追うことも忘れて立ち止まった。ここしばらくある国の軍に雇われて戦場の喧騒の中にいたので、こんな風にライ2人とだけで静かな森を歩くのは久しぶりだ。 今回2人が雇われた軍は、傭兵が雇い主と契約するにあたって前提とする信用に反した。コノエたちと何も知らない農村から集められた兵士たちを捨て駒にして、敵の先頭を叩こうとした。そのことを理由に予定よりも早く契約を打ち切って、軍を去ることになった。こうして危険な夜の森を歩くことになったのも、そのためだ。 おまけに、契約を途中で打ち切ったので、報酬も全額は受け取ることができなかった。 (あーあ、大損だ) そう思いながら、こんな踏んだり蹴ったりな状況でも、コノエは妙に自分の心が浮き立っているのを感じる。その理由は、あの陰気な軍から抜け出して、またライと共に旅することができるというのが一つ。そして、もう一つは――。 淡い紅に輝く炎の気を身にまといながら、剣と舞い踊る若い女。 コノエを見つめた彼女の眼差しの、凛とした意思の光。 それは、暗く血なまぐさい戦場の中で、はっと目を引くほど鮮やかで。 「――あの人が、<竜騎士>…」 「置いていくぞ」立ち止まったコノエに気付いたライが振り返る。「何をぼんやりしている。あの女が気になるとは、子どもが一人前に色気づいて」 「聞こえたのかよっ…そんなんじゃないからな!それに、もう子どもじゃない!」 「そうか?――いずれにせよ、あの女はやめておけ。<契約者>は最早ヒトとは異質の存在、想ったところで叶いはせん。叶ったところで、その関係は悲劇に終わる。…なぜだか分かるか?<契約者>には、誰よりも深く心を通わす相手――契約を取り交わした人外の存在がいるからだ。その人外の存在は、<契約者>が己以上に心許す相手を作ることを許しはしない。古来より、人より力があるはずの<契約者>の多くが、そのためにわが身を滅ぼすことになった」 「だから、そんなんじゃないって。ただ…あの人には、助けてもらった礼も言えなかったから、気になるだけだ」 そう言いながら、コノエはふと彼女のことを思った。彼女は、まだ若かった。普通の村や町の娘ならば、いわゆる適齢期といったところだろう。けれど、彼女は普通の娘のように普通の恋をすることはできない。それは、悲しいことではないだろうか。 いや。 あのとき、戦場で彼女がライと闘っていた男――後で黒竜へと変化した――に向けた眼差し。そこに宿っていた、憂いと気遣いと真っ直ぐに男へ向かう想いと。あれが恋とか愛とかいうものなのかコノエには分からないが、それでも、何よりも大切な相手へ向ける眼差しだということくらいは理解できる。自分がライを案じたように、きっと、彼女は契約を交わした黒竜を案じていた。 たしかに、彼女は普通の恋はできないのかもしれない。 それでも、あんな表情で想える相手がいるのならば――少なくとも不幸ではないはず。 そんな風に思いながら、コノエはライの顔を見た。眉間に皺を寄せている。もしかして、面白くないと思っているのだろうか。そう思うと、何だかんだで子どもっぽいところのあるライが微笑ましくなってくる。 「あんたが心配するようなことは何もないよ。俺はあんたの相棒だ。そのことが俺の誇りだ。あんたのため以外に歌うつもりはないし、歌えない」 コノエが言うと、ライは憮然とした面持ちのまま、くるりと背を向けてしまった。「――馬鹿者…そんなことは、知っている」振り向きもしないまま、ぽつりとそんな言葉を投げて歩き出す。絶対にコノエが追って来ないはずがないと信じているように、真っ直ぐに前だけを見て進んでいく。 もう付き合いが長いので、コノエにはそれが照れ隠しなのだということは理解できた。 (ほんと、素直じゃないな…) 小さく肩を竦め息を吐き、コノエはライの背中を追いかけた。 「なぁ、次の仕事どうしようか?」 「――俺たちが雇い主と揉めた噂が広がっているだろうからな、ほとぼりが冷めるまで傭兵は休業だ。しばらくは賞金首でも狩るか」 「うん、それがいい。軍の中で暮らすのも疲れるし、下手なところで雇われてあの人の敵にもなりたくないし」 「やはり…随分と気に入ったようだな、あの女が」 「気に入ったっていうか、共感するんだよ。お互い、相棒のことで苦労してるなぁって」 End. |