なつくとたのもしいそんざいです 時刻は、午後3時15分になろうとしている。 一度腕の時計に視線を落としてから、男は再び双眼鏡を目に当てる。 (もうすぐ、だ) 事前の情報では、もうじき“標的”が姿を現す。 “標的”は現在、男が監視している日興連の有力者の邸で交渉の最中だ。交渉ごとの内容について男は知らないし、事前の情報にも無いので知る術はない。ただ、今日この時刻にこの場所へ“標的”が来るという情報のみが予め分かっている。そうして、予定ではじきに会見を終えて、“標的”が現れ、玄関から5メートル程歩いて待たせてある車に向かうはずだ。 男の役目は、その機を逃さずに“標的”を狙撃することだった。 <ヴィスキオ>の<王>の暗殺。 それは、男の所属する犯罪組織が追い詰められて打ち出した打開策だ。 その打開策の実行を命じられたとき、男は組織が自分に死を命じたのだと悟った。 第3次世界大戦の頃、男は軍で狙撃手をしていた。自惚れるのではないが中々腕は良く、大戦後は狙撃手としての能力を買われてCFCの軍に在籍した。そのまま何も無ければ安定した生活が保障されたのだろうが、内戦が起こって全てが崩れ去った。 CFCと日興連による内戦開始当初はCFCが優勢だったが、水面下で勢力を伸ばしていた麻薬組織<ヴィスキオ>が日興連に加担することにより力の均衡が逆に傾いたのだ。 <ヴィスキオ>は、日興連に資金や武器を援助した。果てはその流通を一手に握っていた麻薬であるラインを、兵士の身体能力強化のために提供までした。そうやって日興連に“貸し”を作り、<ヴィスキオ>は今やニホンを実質的に支配できる程の力を持っている。 男が在籍したCFCの軍部は、敗けて解体された。 仕事も地位も失って、男に残ったのは妻と娘だけだった。 その家族を養うために、ある犯罪組織に狙撃の腕を売り込んだ。男もできることなら真っ当な仕事を得たかったが、内戦後の不景気の中仕事を探すこともままならない。その上、旧CFCは軍部がやや横暴であったため、元軍人は敬遠された。そんな状況では、他に選んではいられなかった。 そうして仕事を得たはいいが、今度はその雇い主である組織が危なくなってきた。 組織は<ヴィスキオ>が流通を独占するラインを密かに手に入れ、別ルートで売って利益を上げようとした。 それが、<ヴィスキオ>の<王>の逆鱗に触れのだ。 <王>は組織の人間を皆殺しにすることはなかった。が、組織が活動できないよう力を削ぎ、真綿で首を絞めるにも似た真似をしている。恐ろしさの度合いで言うなら、一思いに斬られるよりもじわじわ絞め殺される方が恐怖を感じる間が長い。そうして、その間に組織は暴発し――<王>の暗殺を計画したのだ。 全く馬鹿げた話だ、と男は思う。 男が見る限り、<王>を殺しても組織が浮上する望みはない。それ程に力を削がれている。けれども、組織の者は気付かない――否、気付いたとしても無抵抗で終わりたくないだけか。そんな意地など捨てて、国外逃亡すればまだ生命は助かるかもしれないというのに。下らない、 (そう分かっていて実行する俺も同類か) 内心で自嘲して、男は左手で胸元をまさぐる。そうして、首から掛けたロケットに触れ、握り締めた。その中には、娘の写真が入っている。 「――、――」 祈るなんて殊勝な性格ではないが、近い気持ちで妻と娘の名を呟く。 二人は今、組織の監視下にある。組織は、男に暗殺を実行させるために二人を脅しの材料にした。まだ妻も娘もそのことを知らないし、男が暗殺を実行すれば(それが失敗であったとしても)組織は二人に危害を加えないと約束は取り付けてある。だから、二人はこのまま無事であるはずだ。 けれども、最早自分は二人には二度と会えないと男は悟っている。 何といってもニホンを実質的に支配する<ヴィスキオ>の<王>を狙撃するのだ。成功でも未遂でも、男は追っ手から逃げのびることはできないだろう。また、奇跡的に生命があっても追っ手の危険がある以上、妻や娘に近付くわけにはいかない。 (みんなで逃げちまえばよかったな…) こんな状況になる前に、家族で国外逃亡でもすればよかった。組織から追っ手が掛かるだろうが、それはそれ、皆で一緒に死ぬのなら離散よりは悪くない気もする。どうせ今言っても全ては遅いのだが。 男は妻と娘の姿を一度思い描いてからロケットを放し、双眼鏡の先にある邸に意識を集中する。 そのとき、監視している邸で動きが起こった。 邸の扉が開き、内部から数人が現れて玄関に並ぶ。その動きに、“標的”が姿を見せる瞬間が近いことを知る。男は双眼鏡をおいて狙撃用のライフルに手をかけ、取り付けてあるレンズに目を当てた。 レンズ越しに、とうとう<王>が邸から出てくる様子が見えた。 *** ――あれが、<王>か。 黒い衣服に身を包んだ姿は、一見頼りない程に細っそりとしている。到底ニホンを支配するような強大な権力を負っているのだとは想像も付かない。 そんな感想を男が抱いていると、<王>が唐突に振り返った。 視線が、合った。 そう思うのは錯覚であって、男と<王>を隔てる距離を考えればあり得ない。それに、もし<王>が狙撃手の存在を知っていれば、とっくに男は取り押さえられているはずなのだ。けれど、<王>は確かに男のいる屋上の辺りを見上げている。<王>の視線が自分に向けられているという感覚が拭いきれない。 そのとき、強烈な殺気が背に叩きつけられた。 (!?) かつて戦場で度々感じた感覚。男は反射的に振り返ろうと顔を半分ほど動かし、そして、風に翻る黒い裾を視界の端に辛うじて捉えた。 完全に背後を確認する時間は、与えられなかった。突然背後から痛みが身体を突き抜け、男は急速に喉を競り上がってきたものを吐き出す。視線を落とせば胸元が吐いたばかりの血で染まり、鳩尾の辺りから男を背から貫いた刃の切っ先が見えていた。 「…あ…」 刃を目にして男は自分の死を悟る。そうして、痛みに四散する意識の中、 (…かおがみたい) と思った。 思うように動かない身体に命じて、男は胸元のロケットを手に取る。それは吐き出した血で汚れていて、何か神聖なものが汚されたような気分になり、子どもが泣くように顔を歪めた。 震える手でロケットを開こうとするが、手が滑って開かない。 そのとき、身体を貫いていた刃がずるりと抜けていき、支えを失って倒れこむ。身体の下に暖かなものが広がっていくのを感じながら、意識を失った。 *** 血を滴らせる刀を一振りして雫を払い、シキはそれを鞘にしまった。足元にできた血溜まりの中には、屋上に潜んでいた狙撃手が転がっている。その傍らの血に浸りきらない地面から男の持ち物らしき鞄を拾い上げ、中身を探った。 鞄には大したものが入っていたわけではない。ソリドに水のペットボトル、双眼鏡――収穫と言えば、手帳くらいのものだろうか。使い古されたその手帳には、家族と思しい写真が数枚挟まっている。そういった意味のなさそうな頁を飛ばして後半にあるアドレス帳を開くと、幾つかの連絡先が書かれている。 その連絡先の相手に、シキは心当たりがあった。 最近<ヴィスキオ>に刃向ったために潰されかけている組織とつながりのある者の名だ。どうやら<王>の暗殺により保身を図ったらしいが、無意味なことこの上ない。その組織の取り潰しは<王>の意向である以上に、既に<ヴィスキオ>の意思として動いている。<王>が死ねば混乱はあるが、今更<ヴィスキオ>がその意思を変えることはないのだ。 「下らんな…」 呟いた声は、風に紛れていく。 と、そのとき、一つの気配が屋上へと上ってくるのがシキの意識に引っ掛かった。気配は殺気を帯びおらず、特に警戒しているわけでもない。狙撃の現場に来るには平静すぎて場違いなほどだ。その呑気さに軽く疲労感を感じながら、シキは気配の持ち主が姿を見せるのを待って振り向いた。 「馬鹿が。ひとりで何をしに来た」 吐き捨てるように言えば、屋上に上がってきた若い女――はシキを見て瞬きを一つする。年相応、もしくはそれ以上にあどけない仕草だ。 年の頃は22、3歳といったところだろうか。黒いパンツスーツを身に付けているが、それがまだ馴染みきっておらず、新社会人といった風に見える。そんな格好で顔色一つ変えずに血臭の濃いこの屋上に立つ姿は、異様だ。 が、シキもも今更そういうことには頓着しなかった。シキにしろ、にしろ、薄暗い道でそれなりの死線をくぐってきている。この場に転がっている狙撃手も、さぞ驚いただろう。――こんな小娘が<ヴィスキオ>の<王>であることに。 「あなたの様子を見に来ました。部下からあなたが突然行ってしまったと聞いて、何かあったのかと思ったものですから」 カツン、とパンプスのヒールを鳴らしてが近付いてくる。 その言葉が、先程自分が投げつけた罵りへの返答だと気付いて、シキは舌打ちした。先程の言葉はの行動の意図を問うたのではない。狙われた本人が供も連れずに一人歩きしていることへの非難だ。言葉に込めたその意味が、見事に伝わっていない。 「<ヴィスキオ>の<王>が一人で出歩くな。お前に成り代りたい輩など、掃いて捨てる程いるぞ」 「ええ。でも、私は死にませんから」 普遍の真理を口にするような確信でもって言う。そして、はシキの隣まで来ると、血溜まりの淵に膝を曲げて屈みこんだ。 「大した自信だな。だが、ニコルウィスルの適合者も不死ではない。身体の損傷が一定以上になれば死ぬ」 検死でもするような姿勢のを見下ろしながら、シキは言った。けれども、は死体に気を取られて上の空で「ええ、そうでしょうね」と返すだけだ。この様子では何を言っても聞くまいと諦め、シキは女の行動を静観することに決めた。 しばらくは死体を見分していたが、そのうち死体の手の中にあるものに気付いたようだった。事切れた狙撃手が手にしているのは、ロケットだ。それは、シキも死体を検めたときに気付いた。そのロケットを、はじっと見つめていたが、やがて手を伸ばした。壊れ物に触れるように取り上げ、蓋を開けてロケットの中身を見た。 「…ニコルウィルスの保菌者は結局ただの人です。でも、あなたは以前、あなたの手で私を殺すのだと言いました。だから私は死なない」 ぱちん。 小さな音を立ててロケットの蓋を閉め、はシキを振り返って仰ぎ見る。その目はどこまでも真剣だった。 「あなたが他の者に私を殺させない。そうでしょう?」 「どうだろうな。その辺の雑魚に殺られる程度の者に、俺が自分で手を下すと思うか?勝手に殺られればこちらの手間も省けるというのに」 「それでは困ります。あなたを警備に雇った意味がありませんから」大して困る風も無く言っては眉をひそめて見せ、すぐにそれを打ち消すように微笑して立ち上がった。「とりあえず、給料分くらいは護って下さいね」 「仕事だからな」 呆れながらシキが答えてやると、は上機嫌に微笑を深くして、 「護って、そして、いつか殺して下さいね」 と言った。 そんな風だから、殺さないのだ――シキは思ったが、口には出さない。 は、揺らいでいる。ニコルウィルスが(もしくはそれ適合したことが)もたらす狂気のために、彼女は<王>として非情さを保っている。一方で、その生来の気質が甘いために、非情な自分を厭わしく思い、死を望んでいるのだ。 だからシキは、が完全に狂気に塗りつぶされて“あの男”のように戦闘機械と化すのを待っている。 そうでなければ、殺す意味がない。 *** 「さてと、面倒なご機嫌取りも済んだことですし、次に行きましょうか」 ごく軽い調子では言う。シキはその言葉に眉をひそめた。 「次?今日は旧日興連の隠居へのご機嫌伺いで終わりと言ったのはお前だろう」 「予定はそうでしたけれど。せっかくこんなご挨拶を頂いたからには、こちらも先方に顔を出しておかなくては」 顔を出す――つまり、狙撃手を差し向けた組織を潰しに行くのだとは言下に言っていた。 もとより、数日のうちにその予定はあった。それを今日に早めたのは、おそらく狙撃されたという程度の理由ではないのだろう。シキは、ロケットを握り締めたの手を見ながら苛立ちを感じた。 結局、この女はひどい偽善者だ。 残虐になるなら完全になってしまえばいい。中途半端に情など残しても、偽善にしかならないのだから。 そんなシキの苛立ちを知らぬ顔で、は「行きましょう」と言う。 それから何を思ったのか、すっと芝居じみた仕草で右腕を差し伸べた。何をするのかとシキが訝しんでいると、は血溜まりの真上で掌を傾ける。掌にはロケットが載せられていて、それは傾斜に従って音も無く滑り落ちていった。 ぱしゃん。 ロケットは軽やかな水音を立てて、血溜まりの中、事切れた狙撃手の顔の前に落ちた。 「先方に、一緒に来てもらえますか?」 言いながらも、シキがついてくることを知るかのように、は踵を返して屋上の入り口へと歩き始めている。その後姿にシキは眉をひそめた。 そうやって、が無防備に自分を信頼することに、むしろ屈辱に感じる。が、確かに彼女に雇われたのは自分の意思なのだから文句は言えない。ならば、今のこの立場の中で自分のいいようにするだけだ。 「お前の傍は平穏すぎて、腑抜けそうだからな。付き合ってやる」 彼女を追い抜かさぬように歩幅を抑えながら、シキはその後に続く。 そのとき、向かい風が吹きぬけ、生々しい血臭は幻のように儚く背後へ吹き飛ばされていった。 End. 配布元:『rewrite』“猛獣の飼い方10の基本”より 「なつくとたのもしいそんざいです」 |