あるていどのきけんをかくごしましょう





 部屋に満ちる静けさに波紋を投げるように、コンコンとドアをノックする音が響く。その音に、シキは読んでいた本から顔を上げ、僅かに眉をひそめた。
 ベッドサイドのテーブルに置いてある時計を見れば、時刻はもうすぐ午後11時になろうとしている。この時間に緊急の用件ならば、こんな風に直接部屋を訪問するのではなく、内線の電話が使用されるはずだ。普通に他人を訪問するには、午後11時という時間帯はあまり常識的とは言えない。
 一瞬居留守を使おうかとも考えたが、ドア越しの廊下に感じる気配はそのような扱いを出来る相手のものではないことも分かっている。結局、シキはため息を吐きながら腰を上げた。
 ドアを開けると、予想通りというべきか、廊下に立っていたのは若い女だった。とはいっても、年相応の色気は全く無い。むしろ、まだ大人になりきらない小娘といったほうがまだ相応しい。けれど、その小娘こそが現在の<ヴィスキオ>の<王>であり、シキの雇い主であることは紛れもない事実だった。
 シキはボディガードという仕事の性質上彼女の傍に居る時間も長いので、初めてその事実を知った人間の驚き様をもう何度も目にしている。皆、女にニホンを支配する程の組織のトップが務まるわけがないと考えていることは明らかだ。けれども、それは間違いだった。世間知らずのように見える彼女が見た目通りではなく、苛烈な面を隠し持っていることをシキは知っている。そうでなければ、Nicolウィルスを含む血筋とはいえ、<王>になることはできなかっただろう。
 「こんな時間にすみません。もうお休みでしたか?」
 彼女――は、シキを見るなり真っ先にそう謝った。
 「いや。それよりも、この時間に俺に何の用だ」
 「それは――ご迷惑でなければ、中で話しても構いませんか。あまり廊下で話すような内容でもありませんから」
 「お前は…<王>としての自覚が足りないだけかと思っていたが、自分の性別についても自覚が足りないようだな。深夜に迂闊に男の部屋へ入るものではないだろう」
 「勿論、分かった上で言っているのです」
 そう言って、は静かに微笑んでみせる。こんな風に不意に普段とは異なる顔を見せるから、女は理解しがたい。シキが微かに戸惑いを覚えながら戸口から身体をずらすと、はするりと猫のようにシキの脇をすり抜けて室内へ入った。


 「…何もない部屋ですね」
 室内を一瞥して、は呑気に感嘆している。
 殺風景な部屋である自覚はあったたが、以前なら今のように一つ所に留まること自体がなかった。ボディガードとしてに雇われる際に<城>の中に与えられたこの一室は、シキにしてみれば、生活に必要なものは全て揃っている。はて、それほど感嘆されるような状態だろうか、と疑問に思う。けれど、それは口には出さず、に用件を言うように促した。
 「それで、用件は何だ」
 「――幹部連中に早く子を作れと言われました」
 「それなら相談する相手を間違えている。お前の“愛人”に言うべきことだろう」
 「アキラとは、一緒にいてもうすぐ2年になります。一向に子が生まれないので、幹部連中も焦っているのでしょう。今ではNicolの保菌者は私だけになってしまいましたから。他の男を用意するから、と再三言われたので、自分で選ぶと宣言したんです。子ができない原因は私にあるのに、無駄なことを…でも、それ以外彼らを納得させる方法がなかったんです」
 事情を話す声は、内容とは不釣合いな程に穏やかだった。
 話している間中、は部屋の奥へ進むことはせず、戸口を入ったところに佇んでいた。彼女は、今日の仕事を終えて一旦自室に戻ったのだろう、いつものパンツスーツではなく私服らしいワンピースを身に着けている。そうしていると年相応の普通の娘のようで、普段よりも無防備に見えた。
 「それで、俺のところへ来たというわけか」
 「はい」
 「それは、明らかにボディガードとしての職務の範囲外だがな」
 「すみません。けれど、あなた以外にはいないんです。幹部たちが勧めるのは皆、幹部たちの息の掛かった者ばかりでした。<ヴィスキオ>内の特定の派閥に力を与えることは、避けなければなりません。けれど、いくら派閥に属さないからといっても、並大抵の男を選んでは、いずれ幹部連中に取り込まれるか殺される。…でも、あなたなら自分自身を守る力がある」
 そこで、俯きがちに話していたは顔を上げて、真っ直ぐにシキを見つめた。静かな面持ちではあるが、双眸にだけは苛烈な色が宿っている。火のように揺らめくそれに惹かれて、シキは彼女の瞳に見入る。
 「――本当は、子どもなんていらないんです。力ある派閥など目障りなだけ。だって、私は<ヴィスキオ>を終わらせるのですから」
 瞳の中の火を揺らして、は嫣然と微笑んだ。どこか泣いているような、途方に暮れているような笑顔だった。

 違う、そんな風に笑うんじゃない。
 <王>は痛みも悲しみも感じない戦闘機械であるべきなのに。
 そうでなければ、殺す意味もないのに。

 唐突に込み上げた苛立ちに駆られて、シキはの肩を掴んだ。そのまま乱暴に壁に押し付けて、唇を奪う。は先程の平静な態度とは裏腹に、口付けの間怯えたようにしきりに身動ぎをしていた。けれど、はっきりとした抵抗は示さなかった。恐らくできなかったのだろう。Nicolウィルスの保菌者である彼女が本気で抵抗すれば、シキといえども無事では済まない。双方そのことは分かっている。
 長い口付けを終えて離れると、はそのまま座り込みそうになった。手を伸ばしてそれを支えようとすると、一瞬ぎくりと身を強張らせる。それでも、シキの腕の中に収まった彼女は、顔を上げてシキを見た。その面には、はっきりと躊躇いと恐れの色がある。
 大抵のことでは動じないが、こんな風に動揺を表に出すことは珍しいことだった。
 ――いつもの平静さを崩してみたい。跪かせてみたい。
 じりじりと衝動が込み上げてくる。シキは彼女の手を緩く掴み、部屋の奥へ誘った。振りほどこうとすれば容易くできたはずだが、彼女は結局そうはせず、ベッドの前に来ると自らそこに腰を下ろした。そうして、真っ直ぐにシキを見上げてくる。その眼差しを受け止めたまま、シキも彼女を見下ろした。

 「…茶番に付き合わされると分かった上で、私を抱いてくれますか」

 一瞬見せた年相応の動揺をすっかり押し隠し、ははっきりと口にした。日興連の幹部と対峙し、時には国外の要人さえ相手にする<王>としての毅然とした面持ちで、けれど、誘うように手を差し伸べる。シキはその手を取りながら、彼女の傍に腰を下ろした。
 「<ヴィスキオ>内部の権力争いなど俺には関係ない。だが、お前のその取り澄ました顔がどこで崩れるかに興味がある…それだけのことだ」
 「…それは、どういう意味ですか」
 「さてな。それは自分が一番よく分かっているんじゃないのか」
 言いながら肩を掴んでベッドに押し倒して覆いかぶさると、はまた顔を強張らせた。内心の怯えを表に出すまいと平静を装っているのだろうが、シキを見上げる双眸ははっきりと動揺を映している。
 シキはもう一度口付けようとして思い留まり、の首筋に顔を埋めた。案外柔らかな肌からは、香水ではなく淡い石鹸の匂いがする。鎖骨を唇でなぞって辿り着いた咽喉もとの皮膚に軽く歯を立てると、不意に彼女が呟いた。
 「そのまま、咽喉を食いちぎって殺してくれたらいいのに」
 「獣の真似事は断る。第一、本当に<ヴィスキオ>を潰す気ならば、お前は生きていなくてはならないだろう」
 「ええ、勿論今殺して欲しいというのは冗談です。でも、いつか死ぬのならあなたかアキラに殺されたいというのは本当。そうでもしなければ、<王>なんて、碌な死に方はできないでしょうから」
 「俺はともかく、お前の愛人はそんなことを望んではいないだろうがな」
 「…そうでしょうね。アキラは私ではなく“Nicol”に惹かれている。彼には敢えて“Nicol”を絶やすような真似はできない、でも」

 私は、もう普通に戻りたい。出来ることなら、“Nicol”とは関わりなく生きたかった。

 声のない吐息だけの呟きに、シキは顔を上げた。
 見れば、彼女は耐えるように唇を引き結んで固く目を閉じていた。


***


 が夜中に時折シキの部屋を訪れるようになって数ヶ月が過ぎた頃、<ヴィスキオ>の幹部の一人が死んだ。それは先々代のの父親の頃から仕えていた男で、先々代の死後真っ先にを<王>にと指示した<ヴィスキオ>の中でも類を見ない忠義者であったという。死因は、自宅の書斎での自殺だった。
 有力な幹部が一人欠けたことで派閥の勢力図が変わり、<城>はしばらく落ち着かない雰囲気であった。が、派閥に加わらないシキにとっては、日夜繰り広げられる権力闘争は興味の外にある。常に我関せずといった態度で、同じく勢力争いを無視しているに同行する日々が続いた。


 そんなある日、珍しく昼過ぎで一日の執務が済んだを私邸に送り届けたシキが戻ろうとしていると、密かに後をつけて来る気配があった。尾行者は自身では気配を殺しているつもりなのだろうが、それでも僅かに殺しきれていない。そこで、シキは相手を誘い出すために、舗道を外れて敷地内の庭に踏み込んでいった。
 そうして庭の奥へ、10メートルほど進んだ頃だろうか。
 「どこまで行くつもり?」不意に背後の尾行者が声を発する。
 「さて、それは貴様次第だ。往来で仕掛けられても迷惑なのでな、いつ姿を見せるかと待っていた」
 シキが振り返ると、尾行者も庭木の陰から姿を見せた。
 まだ若い、少年を脱したばかりにも見える青年だった。青灰色の髪に鮮やかな碧の瞳をした青年は男にしては細身で、年と外見に似ず奇妙に艶やな雰囲気を身にまとっている。シキはすぐに青年の正体に思い当たった。まだまともに対面したことはないが、これがあの<王>の“愛人”なのだ、と。
 「よく分かったね、気配を隠してたのに。さすがにの警備をするだけのことはある」
 「あの程度で気配を隠したつもりか?殆ど素人同然だが」
 「それは自覚があるよ」挑発には乗らず、アキラは微笑みながらシキの言葉に頷いた。「所詮、俺の闘い方は付け焼刃だ。と暮らすようになって、いざというとき彼女を守るために覚えただけだから。それ以前は閉じ込められてモルモット扱いで、喧嘩どころか普通の暮らしもさせてもらえなかった」
 「自覚があるなら改善すべきだな。それで、用件は?」
 シキが促すと、アキラは微笑を絶やさないまま右手を胸元まで持ち上げた。その手には、拳銃が握られている。拳銃は安全装置が解除され、いつでも発砲できる状態だった。
 「悪いけど、あんたは目障りなんだ。があんたに抱かれることについて、俺はどうこう言うつもりはない。ただ――彼女は<ヴィスキオ>の<王>だ。絶対者でなければならない。そのためには、彼女を支配する者も彼女が頼りにする者も、いてはいけない」
 アキラの物言いに、シキはふと先日自殺した幹部のことを思い出した。

 その幹部は当初からを支持していたため、の側近の中でも特に発言力があった。
 また、その男は有力な派閥を形成しており、常識的には自殺など考えられない。
 だが、その男を殺害まではいかなくとも、自殺の引き金になったものがあるとしたら――。

 そんなことを考えながらシキは、口を開いた。
 「そうやって邪魔な者を消して、<王>をひとりにするのか。…そこまで強い女ではないぞ、アレは。2年も共にいてまだ分からないか」
 「煩い。お前に何が分かる?知った風な口を利くな」アキラは笑みを消し、無表情になった。
 「貴様たちの間に何があるかなど、知りたいとも思わん。俺は貴様にも<ヴィスキオ>にも興味などない。ただ、いずれ<王>と本気で闘いたいと思うだけだ。あとのことはどうでもいい」
 「なら、を支配しようとはしないことだ。彼女の傍には俺がいる」
 それだけ言うと、アキラはゆっくりと拳銃を下ろして踵を返す。庭木の陰に紛れるようにして遠ざかっていくその背中を見送って、シキは小さく息を吐いた。

 「アキラは“Nicol”に惹かれている、か…アレはよく分かっているな」






End.
配布元:『rewrite』“猛獣の飼い方10の基本”より
「あるていどのきけんをかくごしましょう」


未完です。いつか続きを書きたいけど、いつになるか分からないので以下あらすじ。
反転で見ることができます。とても泥沼悲劇かつ死にネタなので苦手な人は注意。
死亡キャラ→シキ・主人公(反転でキャラ名)

主人公の王としての権力は、派閥に支えられた不安定なものだった。幹部に世継ぎを望まれて断れず、主人公は愛人として派閥の影響下にないシキを選んだ。
nicolに惹かれ、絶対的な王としての君臨を望むアキラは、邪魔な幹部を自殺に追い込む。しかし、主人公はnicolの保菌者として王として生きるよりも、ただの人として生きたいと願い、自分を人として扱うシキに心を許していく。そうして調査の結果、アキラが幹部を自殺に追い込んだと知った主人公はアキラを拒絶し、アキラは城を去る。
主人公はアキラを拒んでしまったことに強い罪悪感を覚え、執務も手につかなくなる。
そんな主人公の状態を見かねたシキは、もともと死を望んでいた主人公に本気の殺し合いを申し込む。それに応じる主人公。手加減のない闘いの末、主人公はシキを殺して代わりに左腕を失い、決意をする。絶対的な王として君臨し、自分の代でヴィスキオを終わらせる――と。

一方城を出たアキラは、主人公がただの人として生きられないなら死にたいと願っていたことに気付き、王を狙う刺客となる。主人公を狙ったアキラは、シキの墓の前で彼女と再会し「必ず殺す」と宣言して去る。

一年後、主人公の生命を狙ってとうとう城に忍び込んだアキラは、彼女とその生まれたばかりの子どもに出会う。紅い双眸をした子どもを見たアキラは自分の娘だと言い、主人公にヴィスキオを捨てて三人で逃げようと告げる。主人公はそれに応じず、子どもを託してアキラを城から逃す。

三年後、王は暗殺され、その絶対的な統率を失ったヴィスキオも内部抗争の末につぶれる。
アキラは主人公から託された娘と共に外国にいて、そのニュースを知る。



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