斬りかかってきた男のナイフを刀で受け止める。しばらく刃を合わせていると、不意に相手に大きな隙ができる。
 その一瞬を捉えて、シキは刀を持つ手に少し力を加えた。
 もともと相手は戦闘慣れした人間ではない。容易く体勢を崩して転倒し、痛みに身を強張らせる。そのために、男はひどく無防備な状態になっていた。
 シキは男に近付こうと一歩踏み出したが、そのとき間近で微かな物音がして、足を止めた。

 からん。

 前触れもなく、身に着けていた十字架のロザリオの鎖が切れて、足元へ落ちてくる。落下して硬質の音を立て、そのままアスファルトの上を滑って、地面に散らばる廃材に紛れる。

 それは、まるでシキを咎めるようなタイミングだった。




どこにでもゆくがいいよ




 シキが訪れたとき、その部屋に人の姿はなかった。

 本来ならば、ここには先日拾った男がいるべきである。
 “いるべきだ”というのは、別にシキが監禁しているから在室して当然という意味ではない。男は昨夜ラインの禁断症状を克服したばかりなので、体力的に動くことは難しい――はずなのだ。  だが、もう動き回っている。
 シキは先程この廃墟の廊下を歩いてきた際に、空き部屋の中を何やら家捜ししている男の気配を察知していた。なので、どこに行ったのかと疑問に思いはしないが、
 (とことん非常識な奴だ)
 などと、自分のことは大いに棚に上げた感想くらいは持った。
 何せ、シキが斬った傷跡がすぐに塞がる。自分は女で過去の人間だと主張する。自分を殺しかけた人間に礼を言う。…とにかく例を挙げればきりがない。
 それでも、部屋の奥へ歩いていき、木箱の上に手付かずで残されたものを見たときには流石にシキも眉をひそめた。水やソリド、タグ、更にはナイフさえも木箱の上にきちんと残されているのだ。

 旧祖の現状から言って、武器も持たずに歩くのは自殺行為にも等しい。

 シキは自分が先日拾った男をどうするか、決めかねている。どうすると言って、もとより殺すつもりで拾ったのだが、男はシキが予想した存在とは異なるので扱いかねている。
 仮に、そのまま男がふらふらと外へ出て勝手に死ねば、それはそれで処分する手間が省けるというものだ。
 シキは当初、男がラインの禁断症状に耐えきれば、自分に刃向かってくるものと思っていた。というのも、突然得体の知れぬ他者の支配下に置かれるのだ。軍で戦時教育を受けた者――特にイグラに参加する程度に腕に覚えのある者ならば、当然、力で自分を支配する者を排除しようとするだろう。
 けれども、その男はそうしなかった。どうしようもなく呑気で、自分を脅かす可能性のある者を事前に排除しようという考えを持たない。そこが普通のイグラ参加者とは異なる部分であり――シキにとっては殺し甲斐のない相手だと言える。
 だから、放っておけばいい。
 放っておけばいいのだが、

 「チッ」

 男の気配が外へ向かって動き出したとき、シキは小さく舌打ちをして、木箱の上のナイフとタグを掴むと部屋を出た。


***


 本当に、放置しても構わなかったのだ。
 そうすれば、殺す価値のない者を始末する手間が省ける。けれど、そう思う一方で自分が拾った者を<難民>などに容易く食い散らかされることも不快ではあった。だから、抗うための手段として男にナイフを与え、後は好きにさせればいいと思ったのだ。
 その意思が変化したのは、どの時点だったのか。
 昨夜ひどく不安そうにシキに縋る様子すらあった男が、去る意思を見せた時点か。
 或いはもう少し以前だったのか。
 それはシキにすら分からない。が、男を目の前にしたとき、シキはナイフを持とうがどうしようが男は旧祖では生き抜けないことをはっきりと確信したのだ。

 この獲物は解き放てば遠からず他者に食われるのだ。
 それ位なら今ここで引き裂いてしまえばいい。

 シキは常日頃、自分が殺す相手に強さを求める。相手が弱ければ殺す価値すらないとも思う。けれども、このときの衝動は、常日頃の価値観を越えて込み上げてきたものだった。
 その衝動のままに、ナイフを取ることを拒む男に刃を向けた。


***


 一度は衝動のままに闘いに持ち込んだものの、途中からは高揚した気分は消えていた。
 男はシキの暴力に対して、話にならないほど無力だった。けれども精神的には屈した様子を見せなかった。シキに対して口ごたえするというわけではない。ただ、恐怖も苦痛も見せずに真っ直ぐにシキを見るというだけの、ひどく無力な抵抗にすぎない。
 その男の眼差しに、どこか見覚えがあるような気がした。
 そのことが興味を引いて、シキは男を殺さずに戯れのような軽さで刃を合わせた。そしてその後に男を突き放したときである。
 からん。
 小さな音を立てて、首から掛けたロザリオの片方が落ちる。そのままロザリオは地面に散在する廃材の中に紛れたが、シキは特に執着しなかった。
 もともと意味があって身に着けていたわけでもない。
 ただ、ロザリオが落ちたタイミングには、どうも因縁めいたものを感じた。



 “――誰かを悲しませるようなことは、してはいけないわ”

 よくシキにそう言った女のことを思い出す。
 その女――シキの母親はそう諭しはするが、叱ることはなかった。優しかったというよりは、弱かったのだとシキは思っている。
 彼女の夫、つまりシキの父親にあたる男は軍の幹部だった。さらに自分の妻に対してはいわば<暴君>であったが、彼女は従順に夫に従った。そういう、自分の意に反した要求に従うときの彼女の表情に、あの男の眼差しは似たところがある。
 軍幹部の妻という地位にあるには弱すぎた彼女は、それでも心の底では納得しかねたらしく、時折“争いはいけない”など息子に言って聞かせた。けれども、彼女の言葉はシキにしてみれば無力で無意味だった。
 その女が、いつもロザリオを身に着けていた。だから、ロザリオが落ちたタイミングがまるで弱々しく自分を咎めるかのようで、因縁めいたものを感じたのだ。

 どのみち、男を殺す気はなくなっていたので、シキはそのまま刀を鞘に戻した。


***


 「これは、シキさんのものでは?」

 ごく呑気な調子で男は、地面から拾いあげたロザリオをシキに向かって示してみせた。 
 つい先程、男には去るように言った。にも関わらず未だに自分を殺しかけた相手の前に留まり他愛のない会話などしている辺り、普通の神経ではない。
 (案外、これはしぶとく生き残るのかもしれんな…)
 呆れるように思いながら、シキは男の手の中にあるロザリオを見た。再び取り戻したいと思うほど、それに執着を感じてはいない。捨てておけと言っても構わなかったのだが、気がつけば何となく、
 「預けておく」
 と言っていた。
 それを聞いて男はいろいろと思うところがあったようだが、シキが日没の近いことを告げれば、慌てて別れを告げて去っていく。
 シキは遠ざかって夕闇に紛れていく男の背をしばらくの間見送った。


 今は、どこへでも去ればいいのだ。
 どうせここを去ったところで、旧祖という檻の中に閉じ込められていることには変わりないのだから。
 ロザリオを“預ける”と言ったが、再び男に会うことがあるとはシキは思わない。
 けれど一方で、あの男は自身の言葉通りに律儀に、自分を探してロザリオを返そうとするだろう、と確信していた。
 





End.
配布元:『ivory-syrup』より
「どこにでもゆくがいいよ」


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