いまはただおやすみ 暗闇の中、リンはゆっくりと瞼を上げた。 成り行きで世話することになった相手と、今晩一夜限りと見つけた廃墟に潜り込んでどれほど時が経っただろうか。手を伸ばせば届くほど傍でしていた寝難そうな身じろぎの音はいつしか止み、今は穏やかな寝息が耳に届く。 は眠ったようだ。 ソファの上でリンは静かに上体を起こし、少し身を捩っての方に身体を向ける。暗くて彼の様子をはっきりと見ることはできないが、その肩が相変わらず穏やかな呼吸に上下しているのが分かった。 (無防備だなぁ…)リンはの肩先まで手を伸ばしながら思う。 無防備すぎて、今なら容易にできてしまうだろう――を捩じ伏せることも、生命を奪うことさえも。そして、イグラに参加するような者の大半は、そう思うだけでなくて確実に実行するだろう。 「俺はそういうのヤだからしないけどさ…やっぱり気を許しちゃダメだよ、」 息だけで呟いて、眠るのジーンズのポケットをまさぐる。そこからタグの束とロザリオを引き出すが、は少し身じろいだだけで起きる気配はなかった。 そっと離れてもとの位置に戻り、リンはロザリオを手に取り指先でなぞってみる。暗くてよく見えないが、指先から伝わる感触では装飾の少ないやや無骨な形状をしているらしい。表面の凹凸の具合から文字か何か彫られているようだが、触れた感覚だけでは何も分からない。宗教的なものではなく、単なる装飾品としてどこにでもあるようなロザリオだ。 “これはただ預かってるだけだ。俺のものじゃない” ロザリオについて尋ねたときのの言葉が、預かりものという単語が、妙に頭に引っ掛かっている。 このトシマに来てから何度となく見かけたシキの姿。その胸元にあったロザリオ。必死でシキを追ってきたせいだろうか。のロザリオを見たときに、ごく自然にシキのことを連想した。これはシキのロザリオではないのか、と。 ――明らかに、考えすぎだ。 ロザリオを弄りながら、リンは自分に言い聞かせる。こんなロザリオはどこにでもある。もとの持ち主がシキだとどうして断定できようか。それ以前に、あのシキが他人に情をかけるような真似をするはずがない。 それでも“もしかしたら…”と考えるのは、が何処とはなしに似ているせいかもしれなかった。そう、似ているのだ――いつもロザリオを身に着けていたシキの実母に。 *** シキの実母――リンの父の正妻にあたるシズという女性は強いひとだった。 父親と母親と彼女と。3人とも既に亡いが、3人のうちひどく儚げであった彼女こそ、実は誰よりも強かったのではないかとリンは思う。 リンの父親は軍の幹部で、母親のトモエは地位の低い軍人の娘であった。愛人として邸に迎えられる以前は、トモエ自身も軍にいたことがあるらしい。彼女は、実子のリンから見ても子どもっぽく勝気な性格であったから、愛人になるよりは軍に留まった方が幸せだったことだろう。 その母親が妻子ある男の愛人になったのは、本人の意思というよりも実家が地位の向上を望んで我が娘を差し出したというのが本当のところであるようだ。リンは使用人たちの噂話からそれを知ったが、悲しむよりも何よりもまず納得のいく思いがした。 トモエには、正妻よりも己が夫を目の敵にしている節があったのだから。 正妻であるシズは、財界有力者の娘だった。 少女の純粋さをそのままに大人になったような彼女は心優しく、愛人として夫婦の間に割り込む形になったトモエやリンにも暖かく接した。ただ、その優しさのために自分の夫が幹部として軍の暗部ともいうべき役目に携わることに、ひどく心を痛めていた。 父親はいっそ冷酷ともいえる程厳格で、軍での役目に全てを捧げていた。その忠誠ぶりときたら、リンの腹違いの兄で嫡子でもあったシキを躊躇いなく激戦地に送り込むほどである。“せめて息子だけは”という妻の懇願も聞き入れることもない。その態度ときたら、まるでシズに当て付けるかのようですらあった。 そのせいだろうか、リンの母親は正妻を“シズ様ジズ様”と姉のように慕い、夫から庇おうとした。 厳格で冷淡な父親。己が夫を嫌い、正妻をこそ慕う母。優しく儚げで、無力な正妻。 そのように見えた3人が、実はその通りではないと、いずれ知れることなのだが。 *** 第三次世界大戦におけるニホンの敗戦が確定して数日後、リンは母親とシズと共に邸へと戻った。 大戦の末期、“もしものとき”に備えて国民のシェルターへの避難が命じられていた。敗戦によってその避難命令が解除され、シェルターの外へ出ることが出来るようになったのである。 邸は、首都圏ではなく少し郊外にあるため、空襲を免れてそのまま残っていた。それでも、長い間管理する者もなく荒れてはいる。その上、邸の内部には戦時中の空襲を恐れなかった輩が踏み込んだ痕跡もある。シズとトモエ、それに一緒に戻ってきたごく少数の使用人は、荒れた邸を片付け始めた。 そこへ、長いこと軍の施設に詰めたままであった父親が戻ってきた。心労が重なったせいだろうか、いつも厳格な父親があの日ばかりはやや悄然としていて、驚かされたことをリンは今でも覚えている。 父が戻ると“大人の話だから”とリンを除け者にして3人は書斎に籠ってしまった。 誰も構くれないので拗ねたリンは、いっそのこと立ち聞きしてやろうかとも思った。けれど、よく考えれば父親は武術に長けているし母親にもその心得がある。気配に気付かれ、叱られるのがオチだ。 立ち聞きを断念して、リンは久しぶりの邸内を歩き回ることにした。 季節は春、それも珍しいような晴れの日である。気持ちの良い日差しの下、無秩序に伸びた庭木の隙間を潜り抜け、一面に落ち葉の浮く池に石を投げ込んだりした。 そうしながら、義兄が家に戻ってきていたら良かったのにと思った。 従軍した義兄シキは、戦場で負傷してまだ入院している。年齢の離れた兄であるから、たとえ戻ったとしてもリンと遊んでくれるわけではない。それでも、気に掛けてくれて、困っていればそれとなく助けてくれる。そんなシキは、リンにとって遊んでくれて楽しいというよりは、憧れその背を追うべき相手だ。たとえ構ってもらえなくとも、傍にいてくれるだけで何となく嬉しい。 (しばらくはこの家の子がオレだけなんて、つまんないや…早くシキ兄様が帰ってきたらいいのに) 義兄はもう子どもというべき年齢でもないのだが、リンはそんなことを思った。 確かにシキはもう子どもではないが、どうせ父もシズもリンの母親でさえも彼を子どもとして扱う。年齢は関係ないから同じことだ。一般的とは言い難い家族関係ではあるが、これからは家族一緒にいられるのだと信じて疑いもしなかった。 *** もう日が暮れるという頃になって、ようやく“大人の話”は終わったようだった。シズがリンの名を呼びながら、邸の方からやってくるのが見える。 「シズ様」 返事して駆け寄ろうとしたリンは、けれど、いつもと違う様子に足を止めた。 リンの方へ歩いてくるシズの表情が、いつになく厳しい。その上、左手に手荷物を持ち、空いた右手で――トモエの手を引いている。トモエは、昼間の様子とはうって変わって悄然として、シズの後ろで顔を伏せている。普段ならば物静かなシズを引っ張っていくのがトモエの方であるのに、そのときばかりは普段の2人の立場が逆転したかのようだった。 「リン、急なことだけど予定が変わったの。今日はこの家を出て、余所に泊まりましょう」 突然シズに言われて戸惑い、リンは自分の母親の様子を伺う。が、トモエは何か別のことに気を取られているようで、顔を伏せたままこちらを見ようともしない。 「母さん…?」 遠慮がちに声を掛けると、弾かれたようにトモエは顔を上げた。けれど、その目はリンを見ようとはしない。そのままシズに詰め寄るようにして、彼女は訴え始める。 「シズ様、シズ様…このままあの人の言うように行ってしまっていいのでしょうか。あの人を一人にするなんて、できません。たとえあの人が意思を変えず、共に死ぬことしかできないとしても、私は」 「言ってはいけません」ぴしりとシズは遮った。「…子どもの前です」 シズに言われて初めて、トモエはリンへと視線を向ける。リンの姿を捉えたその目がゆっくりと大きく見開かれ、目の縁に溜まった涙が頬へとゆっくり滑り落ちていく。つられてリンも母親の目を見つめた。困惑、恐れ、悲しみ――様々な感情が渦巻く中、一際強く浮かんでいたのは迷いであったのではないかと思う。 そのとき、背後が赤く染まった。 赤い炎が、その身で邸を絡め取るようにゆらりと立ち上ってきたのだ。 「燃えてる…」 思わず呟くリンの声に、トモエがギクリと身体を強張らせ、次の瞬間には彼女はシズの手を振り切って、と駆け出した。その反動でシズがよろめき土の上に膝をついたが、トモエは一度振り返っただけで真っ直ぐに邸へ――おそらくまだ内部にいる父の元へ走っていく。 「母さん!」 「駄目!」後を追おうとするリンを、まだ座り込んだままのシズの手が引き止める。「駄目よ、リン。行ってはあなたまで…」 「でもシズ様、母さんが」 「駄目よ、行っては駄目」 子どもが駄々をこねるような頑なさで言って、シズはリンを掴む手に力を込める。そのためにリンはその場に立ち尽くして、金色の髪をなびかせながら邸に飛び込む母親の後姿を見守るしかなかった。 きっと、シズの手は無理をすれば振りほどくことくらいできただろう。敢えてそうしなかったのは、シズの方が自分を必要としているような気がしたからだ。 トモエは、全てを振り切って火の中に跳び込んだ。一度だけ、こちらを振り返ったとき彼女の顔には迷いはなく、リンは――自分がいなくても母は“大丈夫”なのだろうと感じた。“大丈夫”でないのは、むしろリンの手をきつく握り締めて燃える邸を見ているシズの方だろう。 「生きなくてはいけないわ。死ぬのは簡単でも、生きていくのは大変なのよ。でもそこから逃げるわけにはいかない。だって負けたくないもの」 リンに、というよりは自分に言い聞かせるようにシズは呟いている。 何に負けるのか彼女は言わなかったが、リンは何となくその気分が分かる気がした。きっと辛いことに負けたくないのだろうと解釈して共感する。自分のように弱い者は、先を行く強い父やシキの背を追いかけ見ることしかできないから、せめて心だけは折れないように在りたいと思う――シズが言うのもそういうことなのだろう、と。 座り込む彼女の傍らに跪いて、リンは声を掛けた。 「シズ様、オレは行かないよ。一緒にシキ兄様を待っていようよ」 「えぇ、そうね。もうすぐシキも帰ってくるものね」 このとき初めて彼女はいつもの穏やかな笑顔を見せ、そっと母親がするようにリンを抱き寄せた。 *** 父は遠くにいることにしよう。トモエは彼を迎えに行ったことにしよう。 それが、いつの間にか2人の間で約束事になった。 父とトモエとシキを待ちながら、リンとシズは共に暮らした。以前のように大きな邸で使用人にかしずかれるような生活ではなくて、ごく普通の家庭のように慎ましい暮らしである。 もとは軍幹部の妻と子なのだから贅沢もできそうなものだが、父は先の戦争について責任を問われたためにそうもいかなかった。また、シズの実父も財界の有力者であるから頼ることもできたのだろうが、シズは援助を一切断って働き、苦労してリンを養った。そのために綺麗だったシズの手はあっという間に荒れたが、彼女は誇らしげに笑っていた。――『こういう手って、いかにもお母さんって感じで格好いいでしょう?』――そんなところは、苦労してもなお少女のようだった。 あるとき、リンがいつも彼女が身に着けているロザリオについて尋ねたとき、彼女はその荒れた手でロザリオを掬い上げて顔の前にかざした。 「これのこと?――これは、あなたのお母さんからもらったものよ。ずっと仲良くしていこうって約束した記念に。ほら、もう擦り切れてるけど“With every good wish…心から好意を以って”って裏に彫ってあるの」 「え?時々祈ってるけど、クリスチャンじゃないの?」 「いいえ。だって私が教会に行ったことないでしょう?何の神様に祈ってるかなんて、私も知らない。でも――祈りたくなることがあるから」 シズがにっこり微笑んだので、リンは思わず呆れる。見かけによらずというか、彼女はこれで案外強かな人なのだ。 「なんだ、そんな理由…オレ、聞くかどうかすごく迷ったのに…」 「ふふふ、ごめんね」 そう言って、彼女はまた少女のように笑った。 そのシズも、現在から2年前に病を得て死んだ。 結局、シキは最後まで戻らず、葬儀はシズの実父が遺体を引き取って行った。リンの元には彼女の僅かな持ち物が残ったが、その処分も全てシズの実父に任せた。 そうして、今度こそ本当にひとりになって施設へ入ったリンは、やがて仲間を見つけて施設を出ることになる。Bl@Sterに参加し始めたのは今となっては忌々しい話だがあの義兄の背に追いつきたかったからで、施設を出る頃には“雄猫”と呼ばれ恐れられるようになっていた。 仲間がいて、敵などはいと信じていたあの頃、自分はきっと一番自由だった。 ずっと追い続けたはずの背など気にならなくなっていた。 きっとあんなときは、もう二度と訪れないだろう。自分自身もうあんな風に自由になるつもりはない。 それが、大切なものを守れなかった自分への罰にもならない罰だから。 *** 決して力を持っているわけではないのに、物怖じせず進んでいくところ。 力が及ばないとしても、精一杯抗うところ。 優しく他人を気遣うところ。 顔立ちではなくその性格が、はシズに似たところがある。 一度は否定したものの、リンは実はシキがと接触したなら情けをかけることはいくらかありえる話だとも思った。シキは、確かに冷酷かもしれないが、情がないわけではないのだ。決して他のイグラ参加者が思うように、感情のない殺人鬼というわけではない。 そのことを、多分リンだけが知っている。感情のない殺人鬼ではなく、弱さも脆さも抱える人間だと知っているから――殺される確立は高くとも、その隙をついて一矢報いる機会があると分かっているから挑むのだ。 “ところで、あのときリンはロザリオのことで何か言いかけてなかったか?” “あれ、そうだった?何だったかな…思い出せないや” の方から向けられた、ロザリオの話題。 敢えてにロザリオを預けた人物を聞き出さなかったのは、万が一その元の持ち主がシキがであった場合のことを考えたからだ。もしもシキがに情をかけたのだと分かったときには、自分は容赦なくを利用するだろう。シキを斃す為に、そうしなければならないのだ。 けれど、一方でどこかシズを思い出させるこの青年に危害を加えたくはないとも思う。 だから――聞かないことにした。 「まったく、こっちの気も知らないで幸せそうに眠っちゃってさぁ…」 苦笑交じりに呟いて、リンは再びに身を寄せタグの束とロザリオを元のポケットに滑り込ませる。次いで、指先で悪戯に眠る彼の頬をつついてみた。 「ん…」 しかし、小さく呻いただけでは相変わらず眠り続ける。いよいよ毒気を抜かれて、リンは声を殺して笑った。こんな風に眠るときに他人を傍に寄せて穏やかな気分でいられたのは、まだ仲間が生きていた頃以来のことのような気がする。 にロザリオを預けたのが誰か知るときが来なければいい。 何かの予感のようにそう思う。 だから、いまは。 「おやすみ、」 リンは眠る青年の耳元で囁いて、自らのスペースに戻った。 End. 配布元:『ivory-syrup』より 「いまはただおやすみ」 |