・夢要素はありません


正しい大人になりたい





 子どもの頃からアキラばかり見ていた。
 傍に居られないと不安で、笑ってくれると何よりも嬉しくて。
 アキラがいれば、他の何も、誰もいらないと思えた。


 ケイスケは夢を見ていた。ずっと昔、まだ孤児院にいた頃の夢を。
 いつものように他の子ども達にいじめられ、泣きながら庭の茂みの奥深くへと進んでいく。孤児院には多くの子どもがいて一緒に育てられていたから、そんな風にでもしないと一人になることが出来ないのだ。そうやって、庭の外れまで歩いてきたところで、アキラと出会うのだ。
 今もそうだが、あの頃からアキラはどこか超然としたところのある子どもだった気がする。
 あの年頃の子どもは(ケイスケ自身も含めて)とかく友達同士で固まることを好んだものだが、アキラはそうでもなかった。無理をして皆に合わせることで仲間に入ろうとすることはなく、一人になっても特に不安そうでもなかった。そんなところが羨ましかった。
 だから、あのとき逃げ込んだ孤児院の庭の片隅で、偶然出くわしたアキラに声を掛けられたときは、本当に驚いた。ケイスケがよくいじめられていることは知っていたはずだが、それでもアキラは尋いてくれたのだ。「どうかしたのか」と。
 普段なら、他の子どもにはあまり関わらないアキラが。そのことが嬉しかったし、何だかほっとした気分になった。そのときから、アキラへの憧れは更に増して、じきに自分もアキラみたいになりたいと思うようになった。
 あるとき、そういう気持ちをアキラ本人に告げたことがある。あのときアキラは何と答えたのだったか。思い出そうとするけれど、思い出せない。記憶を探っても蘇ってくるのは、何故かトシマで喧嘩別れした晩のことばかりだ。

 そういえば、いつからアキラは自分を鬱陶しく思っていたのだろう。
 どう振舞えば、アキラは喜んでくれたのだろう。
 どうしたら、アキラの傍にいられるんだろう。
 アキラ――。

 不意に脳裏に血の海に横たわるアキラの姿が閃く。血の気の無い頬、閉ざされた瞼、白い肌に映える赤い血――そこにもう生命はないのだと、はっきり見て取れる。

 あぁ、これで俺だけのものになる。


***


 「…!」
 声にならない悲鳴を上げながら伸ばした手が空を掴む。勢いよく身体を起こした途端額から濡れた布が滑ってきて、膝の上へ落ちる。ぎくりとしてその布を引っ掴んだところで、ケイスケはようやく我に返った。恐怖と興奮で荒くなった息を整えながら顔を上げ、ゆっくりと周囲を見回す。
 薄暗くてかび臭い室内は、もう長いこと使われた形跡がない。トシマでは珍しくもない廃墟のうちの1つなのだろう。ケイスケは、家具も備品もないがらんとしたその部屋の床に横たわっているのだった。不思議なことに、何故か身体には毛布が掛けられている。自分で掛けた覚えはないから必然的に誰かが掛けてくれたことになるが、それは誰なのか。アキラに「イライラする」と言われてホテルを跳びだして…それからどうなってここにいるのか、思い出すことができない。
 それに、さっきの妙に生々しい夢は何だったのだろう。夢は隠れた願望を現すのだと聞いたことがあるが、あれがそうだというのか。(ちがう…そんなはずない…)
 頭を振って、ケイスケはそろそろと起き上がった。
 ともかく辺りの様子を見てみようと思いつき、目に付いた扉へ向かってふらふらと近づく。よく見ていなかったので、足元に転がっていたペットボトルを踏んでしまった。グシャリ、と予想外に大きい音と共に、力の入りきらない身体が傾ぐ。その様子を、まだどこか目覚めきらないケイスケの頭は、他人ごとのように捉えていた。
 と、すぐに部屋に1つしかないドアがガタガタと揺れ始めた。揺れる――ちがう、揺さぶられている。物音を聞きつけて、誰かがこの部屋に入って来ようとしているのだ。
 だが、一体それは何者なのか。
 転んで床に両手両膝を突いたまま、ケイスケは顔を上げた。建て付けの悪いらしいドアは、既に細く開き始めている。隠れるべきか、という考えが一瞬頭を過ぎるが、咄嗟のことで身体は動かなかった。第一、この狭くて何もない部屋の中では、隠れる場所もない。

 「ケイスケ!?」

 ドアを開けて入ってきたのは、源泉だった。室内が薄暗いのではっきりとしないが、声や全体の雰囲気で何となく分かる。
 「源泉さん…どうして、俺ここに…?」
 「あぁ、意識を失ったお前さんを俺がここまで運んできたんだ。熱が下がって容態が落ち着いたかと思って目を離したんだが…大丈夫か?」
 「え、あ…はい…」
 源泉と知り合ったのはこのトシマで、それも数日前といったところだ。普通に考えれば親しいといえるほどの間柄ではないかもしれないが、外の常識の通じないこの街でいろいろと親身になってくれるので、自然と以前からの知り合いのような親しみを感じてしまう。ケイスケは源泉なら心配ないと思いながらそっと息を吐いたが、その後に続いて入ってきた人物を見て、ぎくりと再び身体を強張らせた。
 続いて入ってきたのは、源泉よりも更に大柄な男だった。
 「まだ症状が残ってるのかしら…?大丈夫?」
 男は優しげな声音と言葉遣いで言う。その声に、雰囲気に覚えがあった。リンに連れられて行った中立地帯のバーで会ったマスターではないのか。
 それだけではない。
 その後にも、自分はマスターと出会ったことがあるような…。

 カチリ、とパズルのピースのように記憶の欠片がはまる。
 抑えた照明とその中で乱舞する色とりどりの光。BGMの騒々しい音楽を掻き消すかのように、絶叫が上がった。ケイスケの目の前で、咽喉を切り裂かれた男が仰向けに倒れていく。咽喉を押さえた手の隙間から血が噴き出すが、室内が暗いためにその色は見えなかった。
 これではいけない、とケイスケは思う。
 これだけでは気付かないかもしれない。もっとよく分かるように、そうだ、このバーを血の色で彩らなければ。だって、これは“あいつ”へのメッセージなのだから――俺は強くなったんだよ、って。
 次の獲物を求めて、ケイスケは逃げ惑う客を追いかけようとする。
 けれど、誰もが我先に逃げようとする中、ケイスケの前に立ち塞がった者があった。
 “ちょっと、うちのお客に手を出してもらっちゃ困るわ――”

 一瞬、源泉の肩越しにこちらをのぞきこんでいるマスターの心配そうな表情に、かってバーで切りつけたときの苦悶の表情が重なる。今、室内は静かなはずなのに、どこからかあの晩の騒々しい音楽と絶叫が聞こえてくる気がする。
 (そうだ…アキラと別れてから俺は、ラインを使って…)そして。
 唐突に、頭にかかっていた霧が晴れる。今までにラインの力に頼って自分がしてきたことが、ありありと脳裏に蘇ってくる。
 「っ…うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…!!」
 咄嗟にケイスケは具合を診ようと額に当てられていた源泉の手を、勢いよく振り払っていた。そして、這うようにして源泉とマスターから距離を取ろうと後ずさる。そうやって逃げなければ、2人は自分を責めて攻撃するだろうと思ったのだ。
 「ちょっと、どうしたの!?」
 「おい、ケイスケ、しっかりしろ!!」
 源泉が叱咤するように言って、再び手を伸ばしてくる。ケイスケはその手も振り払い、自分を庇うように顔の前に両手をかざす。
 ふと見た自分の手が、一瞬、赤く染まっているような気がした。
 「ああああああぁぁぁぁっ…!!」
 次の瞬間、ケイスケは身体を小さく丸め、頭を抱えていた。
 人を傷つけ、殺した――その事実の重さをようやく実感する。その重さに今はただ恐れおののくことしかできず、他には何も考えられない。ひたすら身体を縮めて、呟いた。
 「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」
 誰に宛てるというわけではない。何を謝るというわけではない。ただ許されたい、自分が犯した罪の重さから解放されたいという一心だった。


 突然のことに源泉とマスターは困惑し、互いに視線を交わす。ケイスケの錯乱の理由が分からずどうしたものかと源泉も手を出しかねているのを見て、マスターは源泉をやんわりと押しのけ、ケイスケの前に屈んだ。
 「ちょっと、しっかりなさいな。せっかくラインの禁断症状を乗り越えたんでしょ?ここで錯乱してしまったら、せっかく助かった生命が勿体ないじゃない」
 抑えた声で言いながら、マスターはケイスケの肩を掴んで揺さぶる。
 すると、しばらく後に俯いていたケイスケが、のろのろと顔を上げた。


 目の前のマスターの表情を見上げて、ケイスケは奇妙に思った。
 マスターは今、必死の形をしている。恐ろしい顔――だが、怒っているわけではないことは、何となく感じ取れた。同じような表情を見たことがあるからだ。孤児のケイスケを引き取った家族で義母の関係になった女性は穏やかな人だったけれど、時折マスターと同じような表情で叱ることがあった。それは大抵、幼いケイスケが危険な場所で遊んだことがバレてしまったりしたときだった。
 義母は怒ったというより、心配したのだ。マスターも、まさかそうなのだろうか。
 「――し、て…」
 「えっ?」
 「…どうして…そんな風に言うんです…まるで心配してるみたいに…」
 「みたい、じゃなくて実際に心配してるのよ。あたしも、もちろんこのオヤジもね」
 「どうして…俺、源泉さんとだって知り合って数日だし、マスターに怪我させたし、ラインも使ったし…それに、人殺しだし…」
 とても心配してもらえるに値する人間ではない。
 ケイスケはそう伝えようとしたが、それを遮るようにマスターが声を発した。
 「誰かを心配するのに理由なんかないわ。誰かが困ってたら、自分に手を差し伸べる余力があるなら手を差し伸べるのが普通でしょ。若い頃はそういうのが格好悪いようにも思えたけど、年取ってくるとそうでもなくなってくるのよね…結局別のところで自分も誰かに助けられたりしてるわけだから」
 「だけど、俺…マスターに怪我させて、店を滅茶苦茶にして、お客さんたちを…」
 「そうね。だけど、あたしは責めないわ。あたしだって所詮麻薬の売人だし、前の戦争でも人を殺したもの。他人の罪を責められるほど潔白な身じゃないのよ」それからマスターはケイスケの肩に置いた手を頭に移動させ、ふっと柔らかな表情を作った。「人を殺してもね、時には誰も罰を与えてくれないことがあるのよ。勿論、死んだ人間に許してもらうことも出来ないしね。その罪を抱えたまま日常を生きるのは、罰されるよりも辛いし苦しいことかもしれない。それが何となく分かってるから、ケイスケはそんな風に怯えてるのね…その気持ちを忘れないことが、第一なんじゃないかしら」
 頭を撫でる掌は優しかった。その優しさとマスターの言葉に、ケイスケはふと思う。

 自分にはアキラしかいないと思っていた。
 けれど、自分がここにいるのは源泉が助けてくれたからだ。それに、以前怪我を負わせたマスターは、それでも心配してくれる。
 そういえば、昔だってそうだ。孤児院ではいじめられっ子ながらも友達になった子はいたし、先生たちも優しかった。引き取ってくれた義理の家族だって、実の子のように接してくれた。アキラだけいればいいと思っていた自分の周囲には、それでも多くの人がいて助けてくれていたから、今の自分がある。
 それは、自分が手にかけたイグラ参加者たちも同じだろう。アキラを守るために、アキラに強さを示すために、と理由をつけて物か何かのように躊躇いなく彼らを殺したけれど、彼らだって誰かに助けられて生きて、誰かの助けになっていたはずだ。

 「ごめんなさい」
 当たり前のことに気がついたら、自然にその言葉が零れていた。同時に、涙が溢れてゆっくりと頬を伝っていく。
 怯えるのではなく、自分の罪の重さから逃れようとするわけでもない。特定の誰に宛てるというわけでもなく、ケイスケは心からその言葉を口にした。

 「ごめんなさい…」


***


 しばらく後、ケイスケは源泉のそばに座ってペットボトルの水に口をつけていた。
 ペットボトルは、源泉の電話を受けてマスターがわざわざ配達してくれたものらしい。「まったく、うちは出前はやってないのに」と憤懣やるかたない様子であったマスターは、少し前にホテルに新しく開店したという店に戻って行った。そのせいか、源泉と2人になった廃墟は静かで落ち着くといえば落ち着くが、少しもの寂しくも感じられた。
 源泉は黙って煙草を吸っていたが、ケイスケが水を飲み終えたのを見るとソリドを勧めてくれた。食べなければ体力が戻らないとは分かっていたが、ケイスケは首を横に振った。
 「ありがとうございます。でも、まだちょっと食べられなさそうなので」
 「あぁ、無理はしないでいい。ソリドは病人食としては、確かに、ちっとキツいからな。また食べられそうなら言ってくれ」
 「はい」
 そこで会話は途切れ、沈黙が落ちる。少し気まずさを感じたケイスケは黙って煙草を吸う源泉の様子を見ていたが、思い切って気がかりなことを口に出した。
 「あの…アキラは、どうしているか知りませんか?俺、最後にアキラを本気で殺そうとしたから、アキラはもう俺に会いたくないって思ってるかもしれませんけど…できれば、謝りたくて。それに、リンやさんにも心配かけただろうから…」
 「あぁ…」源泉は頷いた後、困ったように宙に視線を泳がせた。「実は、アキラとリンは…行方が分からん。アキラは今朝、ホテルで抗生物質を交換して行ったそうだが、それっきりだそうだ。も早朝にマスターに挨拶して店を辞めて行ったらしい」
 「そうですか――…俺、ただアキラを守りたくて強くなりたかっただけなのに、こんなことになるなんて。強くなりたいなんて、思わなければ良かったのかな」
 「…自分の大切なものを守りたい、そのための力が欲しいと思うのは自然な感情だと思うよ。ただ、大切なもの“だけ”を守ろうとすると、どうしてか守りきれないんだよな。――俺にも、覚えがあるよ。子どもがいてな、本当は軍事教育に出さなきゃならんところを、無理をして手元に残した。それでも、失った。だから、なんだろうな…生きてるなら子どもと同じお前さんたちの年代を見ると、ついお節介がしたくなる」
 あまりに無造作に明かされた過去に、ケイスケは一瞬何と言えばいいのか迷った。
 けれど、何を言おうかと思う間にも源泉はいつもの飄々とした態度に戻っていて、にやりと笑う。
 「それで、お節介ついでになんだが、アキラとリンを探そうかと思うんだ。は…まぁ心配ないだろうが、お節介ついでにお前さんとあの2人をここから逃がしてやりたい。もうじき内戦が始まるからな。ほら、袖擦りあうも多生の縁って言うだろ」
 「!!――あの、それ、良ければ俺にも手伝わせて下さい!」
 源泉の言葉を聞いた瞬間、ケイスケは思わずそう口にしていた。
 以前のように、アキラのためだけに願うのではない。自分はまだ生きていて、ここにいる。それなら、そして機会があるなら、誰かのためになることがしたかった。ライン中毒者になっていた自分を助けてくれた源泉ように、怪我を負わされたにもかかわらず心配してくれたマスターのようになりたいと思ったのだ。
 「身体なら、もう大丈夫です。今すぐにでも動けます。お願いします。アキラはもう、俺の顔なんか見たくないかもしれないけど…ずっと俺を探してくれた2人のために何かしたいんです。それに、源泉さんの手助けにもなりたい」
 源泉は唐突なケイスケの剣幕に驚いていたが、やがてふと息を吐いて笑った。

 「まだ自分のことしか見えてないガキだとばかり思ってたが、お前さん急にしっかりしだしたなぁ」





End.
配布元:『is』より
「正しい大人になりたい」

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