・夢要素はありません


思い出だけがうつくしく





 日が沈み、夜になったトシマの通りは閑散としていた。
 夜のトシマは、日のあるうちより一層危険だといわれる。自らの腕っ節のみを頼りに昼間は街中で小競り合いを繰り広げる連中も、夜は廃墟で息を潜め、或いは中立地帯に身を寄せて過ごす。昼間の勢いそのままに夜の街を闊歩する者は、たいてい生きて朝を迎えることがなかった。そういうことを肌で感じ取ることのできる者だけが、トシマで生き残ることがでるのだ。

 けれど、これは一体どうしたことだろう。

 怪我と熱のために鉛のように重い身体を引きずって路地を進みながら、リンは微かな違和感を覚えていた。
 たしかに、今は夜。日が暮れてから、もう数時間は経っている。それでも、夜とはいっても今ほどの時刻ならばまだ宵の口で、常ならば街のあちこちで人の行き交う気配が感じられるはずだ。出歩くことのできない真に危険な時間帯は、深夜から明け方にかけて。トシマの住人なら皆そのくらい承知している。
 それが、今は全く人の行き交う気配が感じられない。
 まだ宵の口だというのに、皆夜更けであるかのように息を潜めている。そして、それはおそらく最近現れた50度のラインの適合者とも言われる殺人鬼とも無関係ではないのだろう。
 タグを奪わず、イグラに参加しているかどうかにもこだわらず、手当たり次第に惨殺するというその男。その出現は、口では無秩序とはいっても、実際には<ヴィスキオ>の作ったルールの下にあったトシマの街を今までにない混乱に陥れた。そういう存在が現れたことこそイグラの終わりを示しているのではないか。
 源泉が常々言うように、日興連とCFCの内戦が始まるから終わるのではない。主催の<ヴィスキオ>が終了を宣言するから終わるのでもない。イグラという“祭り”が終わるべき時期に来ているのだろう。殺人鬼の出現に、リンはそんな予感を抱いた。
 どんなものでも永久に続くことはなく、いつか終わりが来る。第三次大戦の終結、かってはBl@sterと呼ばれなかった単なるストリートファイトのシステム化、それにペスカ・コシカの解散…ここ数年、さんざんある種の終わりを目の当たりにしてきたリンにとって、その予感は既に肌に馴染んだものだった。
 何かの終わりを目にする度に、いつも多少の痛みは感じた。
 だが、今度ばかりは何の感傷もない。
 イグラなど、終わるならば終わればいい、と頭の片隅に冷えた感情が横たわっている。けれど、イグラが終わるならばその前に1つだけ、果たすべきことがある。それは、もうじき実現するだろう。そのことを確認するように、リンは自分の衣服のポケットに触れた。布越しに指先に硬い金属の感触が伝わると同時に、チャリと微かな金属音が耳に届く。
 ポケットの中にあるのは、タグだった。
 Jが3枚にAが2枚、これでフルハウス――<王>に挑む権利となる。


 ほとんど壊滅に近い形でペスカ・コシカが解散した後、リンがトシマへ来たのはイグラが目的ではない。単にトシマにシキらしき男が出没するという情報を得たからであって、イグラへの参加は食べていくための手段に過ぎなかった。
 もとより、腕っ節の強さには自信がある。適当にイグラの試合をこなして食べるに困らない程度にタグを稼ぎ、あとは時折現れるシキを追うことだけに専念していた。それが。

 “いまだに俺を追っていたか。それほど立ち合いを望むなら、いっそ他の輩のようにタグでも集めて挑めば良かったものを。それで俺を倒せれば、下らない弱者の集まりの頂点に立てるぞ?お前は好きだろう…弱者同士馴れ合うのが”

 先日、初めて刃を交えたときにシキから投げかけられた言葉。それでシキこそ<王>なのだと知った。その瞬間は、今まで気付かなかったこと悔しく、歯噛みしたいほどだった。最初からそうと知っていれば、あやふやな噂を頼りにシキを追うのではなく、どんなことをしてでもタグを集めただろうに。
 けれど、ペスカ・コシカ壊滅の夜以来初めてシキに挑み、これが最初であると同時に最後になるだろう、とそのときリンは思っていた。なぜなら、少なくともどちらか片方が果てるまで殺し合う――自分もシキもそうすることでしか納得できない性分であることは、よく分かっている。そんな局面で、今更過ぎたことを後悔していても意味がない。
 だから、考えてもみなかったのだ。まさかアキラに止められるなんて。その後、もう一度シキと立ち合う機会はあったものの、それもアキラとに阻まれてしまった。それに、シキが2度にわたって自分を見逃したことも予想外だった。
 ともかく、死を覚悟してまで挑んだ仇討ちは、蓋を開けてみれば自分もシキも生命あるままに終わっている。再び挑もうにもシキは神出鬼没で、下手をすれば邂逅すらできないまま内戦が始まるかもしれない。
 と、すれば、残された手段は1つだ。

 <王>戦の挑戦者として、シキに挑む。

 そのことを思いつくと、リンはもう躊躇わなかった。
 眠るアキラからタグを盗み、ひとりで身を潜めていた廃墟を出て<城>へ向かった。いつもならさほどでもない<城>への道のりも、今は熱とその原因ともなったシキの刀を受けた左腿の傷のために、歩みが遅れがちになる。足を引きずって歩きながら、リンは反抗した自分をそれでも見放さずに看病してくれたアキラのことを思った。目が覚めて、リンが消えた上にタグもなくなったと分かったとき、アキラはどう思うだろう。どんな表情をするだろう。
 いっそのこと、最低な奴だと見限って欲しい気がした。
 優しくされたり信頼されたりするよりは、その方がずっと気が楽だ。少なくとも、いつか拒絶されるのではないか、と怯え続けなくてもいいのだから。そう思いながらも、リンは僅かに胸が痛むのを感じた。
 ふと、昔のペスカ・コシカ時代の仲間たちとのことが思い出される。
 彼らのことが何より大事だった。それは今でも変わらないし、あの頃に戻りたいとも度々思う。けれど、一方で今の自分を誰かに受け入れて欲しいと願う自分がいることにも、リンは既に気がついている。その願いは、時折リンのなかで大きく膨れ上がって、息をすることさえ苦しくなるのだ。
 死んだ仲間たちの時間はもう進むことがないのに、自分の時間は進み、変化しようとしている。そのことがひどく厭わしくて、復讐だけを見ようとした。けれど、自分が変化しようとしていることに気付かない振りをするのは、もう難しかった。

 本当は、アキラに自分を受け入れて欲しかった。
 トモユキにペスカ・コシカの話を聞かされても態度を変えず、罵って反抗しても自分を見捨てなかったアキラに。それだけ自分の汚い部分を見せても離れていくことのなかったアキラなら、あるいは仲間になれたかもしれない。

 試しに、少しだけそんな思いを抱くことを自分に許してみる。復讐のことは決して諦めるつもりはない。けれども、自分の中にある願いを見据えるだけでも、案外息が楽になった気がする。
 ふ、と胸に溜まった息を吐き出して空を仰げば、流れる雲の切れ間に月が出ているのが分かる。
 星は、ひとつも見えない。
 そういえば、ペスカ・コシカが襲われたあの晩も、星は出ていなかったとリンは思った。暗い夜道だというのに、明かりといえば所々まばらに佇む古びて切れかけた街灯と、時折雲の切れ間から顔を見せる月の細々とした光だけ。その弱弱しい光を頼りに、閉鎖された高速道路を駆けていったのだった。いつもならそうでもないのに、あの日は終点の仕切りの柵までがやけに遠く感じられた。
 やっと辿り着いたときには、全てが終わっていた。
 足元のアスファルトにはおびただしい血が流れ、弱い街灯の光で、細い流れが幾つも出来ているのが見える。他に立っている者もいないその場に、影よりもなお黒い姿が唯一佇んでいて――。
 過去の光景がまざまざと脳裏に蘇える。憎しみの炎を再び胸に抱きながら前方に視線を戻したとき、待っていたかのようにゆっくりと1つのシルエットが路地の中央に歩み出るのが見えた。


***


 「――そんな身体でどこへ行くつもりだ…リン」
 その声には聞き覚えがあった。「トモユキ…」闇に慣れた目に、特徴ある明るい色の髪が見えてくる。リンは足を止め、注意深く間合いを開けてトモユキと対峙した。
 死んでも弱味は見せたくない相手だが、体力の落ちた身体では歩いてきて乱れた呼吸を抑えることもできない。はぁっはぁつ、と抑えようもなく零れる自分の呼吸の音が、やけに耳につくように思えた。
 「そんなに警戒するなよ。尾けてたわけじゃない。そこのビルの上から、仲間がふらふら歩いてくるお前を見つけたんだ」
 言いながら、トモユキは視線で脇にあるビルの一つを示した。見れば、そのビルの2階にごく小さな明かりや、人影が見え隠れしている。北区にいるとばかり思っていたが、トモユキのチームは今日はそのビルを塒にしているらしい。
 「そんな身体でどこへ行こうってんだよ。もう夜も遅いのに。50度の適合者の噂くらい、聞いてるだろ?――お前無茶してるとマジで死ぬぞ」
 「お前には関係ない。放っておけばいいだろ…俺は、“裏切り者”なんだから」
 「っ…――とにかく、一緒に来いよ、リン。今日はそこのビルで休めばいい。いっそ、また昔みたいに一緒にチームやって、イグラを勝ち上がらないか?」
 「…馬鹿じゃないの。もう昔には戻れないんだよ。ペスカ・コシカも、カズイや死んだ奴らも、もう戻ってこない。俺とお前だって、あんなことがあったのにまた何でもない顔して昔みたいに一緒にやっていくことなんて、出来るわけがないんだよ。加減分かれよ…そういうとこが甘いんだよ、お前」
 何だか妙な雰囲気だった。
 これまでなら、トモユキがペスカ・コシカ壊滅のことについてリンを責め、リンがそれに耐えるという構図だったはずだ。それなのに、今日はトモユキが気遣うような言葉を言う。
 自分と同様にトモユキも変わり始めているのかもしれない、と不意にリンは感じた。
 ペスカ・コシカ壊滅から時が経ち、トモユキにも少し冷静になる余裕が生まれ始めているのだろう。ショックから立ち直り、新たな自分のチームを昔のペスカ・コシカのようにしようと、意気込んでいるのかもしれない。
 かつてのリンなら、許せないと思っただろう。けれど、今は自分もトモユキも生きている以上変化するものなのだ、と妙に落ち着いた気持ちでそれを受け入れることができる。それでも、トモユキと自分は違う。血のつながった兄に仲間を殺された、その上リーダーであった自分には、カズイや他の死んだ仲間たちに対して責任がある。
 「俺は、ケジメをつけに行く。どけよ」
 歩み寄りながら、低い声で言う。けれど、トモユキは動かなかった。
 「駄目だ。お前を死なせるわけにはいかない!」

 「どけっつってんだよ!!」

 ここにきて初めて声を荒げながら、リンは容赦ない殺気を叩きつけた。
 そこまでしたのは、これが初めてだった。たとえ関係が悪くなっても、仲間だったという意識はリンにもトモユキにも残っている。そのため、どれだけ口論してもまさか殺し合いになることはなかったし、本気の殺気をぶつけたこともない。
 初めてリンの殺気に接したトモユキは、呆然としたままよろめくように道を開ける。すると、遠巻きにこちらを見守っていた数人から、ざわりと驚く気配が伝わってきた。見れば、成り行きを見守っていたのは、皆生き残ったペスカ・コシカのメンバーだった。解散の後、トモユキのチームに入ったらしい。
 リンは彼らを順に一瞥しただけで声は掛けないまま、足を引きずって歩き始めた。ゆっくりと歩いて動けないでいるトモユキの脇を抜け、少し進んだところで足を止める。
 「お前の言うとおり、俺は裏切り者だよ。何度も言ったように、一人だけ逃げたわけじゃない。でも、リーダーなのに…チームの皆を守らなきゃいけないのに、信頼を裏切った。お前は、リーダーになったからには、どんなことをしてでも自分のチームを守れよ」
 「リン…お前…」
 「ごめんな、お前らを守れなくって」
 肩越しに振り返って微笑むと、こちらに向けたトモユキの顔が泣きそうに歪むのが見える。情っけない顔。心の中で毒づきながら、リンはトモユキと昔の仲間に背を向けて、ビルの合間にのぞく<城>だけを見据えて歩き始めた。


***


 <城>へ辿り着くと、門を警備していた黒服たちは、リンを見て肩に掛けていたライフルを構えた。顔に出た不審の色を隠しもせず、ぶっきらぼうに「何の用だ」と尋ねる。
 リンはゆっくりとポケットの中からタグの束を取り出し、警備の黒服に示した。
 「<王>に挑戦する」
 はっきりと口にすれば、黒服たちはしばらく待てと言い慌てて<城>の建物へ入っていく。リンは夜になって不気味な<城>を見上げた。


 “死んでもいいなんて投げ遣りな気持ちで勝てる程、甘くはない”

 不意に、あの人の形見のロザリオとの強い眼差しを思い出す。
 どんな思いで、シキはロザリオを預けたのだろう。
 2度もリンを見逃したことといい、ロザリオのことといい、シキとは思えない行為だ。リンの記憶にあるシキは、もっと非情で恐ろしくて、人間味がないはずだった。ペスカ・コシカ壊滅の晩は、いっそ化け物にすら見えた。それなのに、今シキらしくないと思える行動に妙に血の通った人間の気配を感じる。
 シキもまた、変わりつつあるというのか。変えたのは――。

 「ついて来い」
 不意に黒服が<城>の中から現れ、ぶっきらぼうに言う。リンはその言葉に頷きながら、先ほどまで頭を占めていた考えを振り払った。血も涙もないはずの仇にも、情けはあり、気に掛ける人間がいるなんて、気付きたくはなかったのだから。






End.
配布元:『is』より
「思い出だけがうつくしく」

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