双忍






 春休みが明けて新学期が始まった日の朝のこと。鉢屋三郎は実家からの文を受け取った。開いてみれば、中に書かれているのは忍文字。たかが子どもとの文の遣り取りの内容を、忍文字を使ってまで秘匿せねばならないものか、と思わないでもない。しかし、三郎の実家――忍集団・鉢屋衆の総本家たる実家にとっては、どんな些細な事情さえも漏らさず忍ぶのは当たり前のことだとされていた。ゆえに、三郎は両親の真実の顔さえ知らない。それが当然の世界で生まれ育ってきた。
 それでも、忍術学園に入ってから、随分と世間並みの感覚を身に着けることができた。鉢屋衆宗家の掟のため、素顔を晒せぬ自分を構わずに受け入れてくれた友人たちのおかげで。今となっては、十になる前の自分が如何に奇妙な環境にいたのか、三郎は理解している。そして、いずれはその奇妙な環境の中に戻らねばならないという現実も。
 実家からの文は、まさにそのことについて触れていた。

『――あと二年』

 父の流麗な筆跡で綴(つづ)られていたのは、ただその一言。しかし、三郎にはそれが何を意味するのかが分かった。あと二年とは、取も直さず自分が忍術学園に在籍していられる年数のこと――そして、鉢屋衆に戻るまでの猶予の期限を意味する。
 忍術学園を卒業する生徒の進路は様々だ。自らを売り込んで、或いは勧誘を受けて、大名に仕えたりどこかの忍軍に属したりする。もちろん、中にはフリーの忍となる者や、忍にならずに世間の中で暮らす場合もないではない。
 ただ、三郎の場合はそうした一般の生徒とは事情が違っている。
 もともと鉢屋衆の出の三郎は、本来ならば忍術学園へ忍の技を習いに来る必要はなかった。そうでなくとも、実家で十分に教わることができただろう。にもかかわらず、学園に入学したのは父の命があったからだ。
 忍集団というのは、閉鎖的な存在である。忍は様々な秘密を知り、己の存在すらも秘匿して雑草として生きるものなのだから、当たり前といえば当たり前のことだ。人が増えれば秘密は漏れやすくなるし、集団が開放的になればなるほど秘密を持つことは難しくなる。だが、閉鎖的であるということは、外界からの刺激を受けにくく、時流に合わせて変化しにくいということだ。変化を止めれば集団は硬直的になり、時代に対応できなくなって滅びるしかない。忍集団のそうした欠点を理解していた父は、三郎に姿を映す相手を見つけることと新たな忍びの技を持ち帰ることを命じて忍術学園に送ったのだった。
 六年経てば必ず鉢屋衆に戻るように、と言い聞かせて。
 約束のうちの一つ、姿を映す相手はもう見つけた。同室の不破雷蔵――恋仲でもある彼の姿は、すっかり三郎に馴染んでいる。皆からは『ろ組の名物コンビ』とさえ呼ばれるようになった。
 あと二年とは父との約束の期限でもある。
 残りの期限を報せる文は、実は毎年、新学期の始まる日に届いていた。これまで、三郎は特に何も考えずにその文を受け取ってきた。馴染んでみれば忍術学園は楽しい場所であるが、鉢屋衆に戻ることは三郎の中で決定事項だったからだ。他に望むべき進路もなかった。――今までは。
 しかし、今年は父の文を見た瞬間、思わず息を呑んでしまった。咽喉元にひやりと冷たい刃を突きつけられたような気分になる。とっさに、脳裏に浮かんだのは一年生の頃からの同室の親友で、三月(みつき)ほど前に恋仲になったばかりの不破雷蔵の顔だった。
 残り二年の猶予が過ぎたとき、雷蔵と離れなければならない。雷蔵と一緒にいることができなくなる。――果たして、自分はそれに耐えられるのだろうか、と。


***


 猶予のことは、三郎の頭から離れなくなった。そうはいっても、考えたところで何か解決方法が見つかるわけではない。
 そもそも、三郎が離れがたいと思っていても、相手の雷蔵がどんなつもりでいるのかも分からなかった。恋仲であるとはいえ、自分たちは所詮は子を成せぬ男同士である。それなのに、雷蔵の行く末までもを望むことが、果たして許されるのか。そう思わずにはいられない。
 答えの出ないまま、日々は過ぎて初夏になった。三郎が迷っていようと、日々の生活は構わずに進んでいく。五年生となれば、本職の忍の忍務ように危険な実習も入ってくる学年である。初夏のその日、三郎たち五年生は初めて実戦さながらの実習に出ることとなった。
 時は夜。ちょうどいいことに、月は出ていない。三郎たち五年ろ組の課題は、戦をしている城の片方の陣地に近づき、様子を探って来ることである。ちなみに、もう一方の陣営の調査は久々知や尾浜ら、い組の生徒の仕事だ。
 戦をしている陣営の調査は、昼間ならば四年生以下でも何度も経験していた。それだけに、やり方の分かった忍務だといえる。ただ、これまでと違うのは、闇の中であること。闇は姿を隠してくれるが、同時に昼間のような見通しは利かないということだ。陣営の状況を探るには、より近づく必要があった。
 それでも、ろ組の面々は上手くやってのけた。接近しなければ忍務を果たせないという点を逆手に取ることにした。三郎を初めとして変装の上手い生徒が楽人に化け、勝ち戦を祝う楽を披露するという名目で侵入することにしたのだ。
 今回の三郎たちはもちろん偽の楽人であるが、実際に合戦場の陣営に楽人が招かれたり、自ら来たりすることは珍しくなかった。楽は娯楽の少ない合戦場で兵らの数少ない楽しみの一つになる。また、楽人たちにしても、大名に取り入っておくことは、決して損にはならないためだ。ゆえに、さほど怪しまれることなく潜入することができた。
 忍務は滞りなく進んだ。
 楽人としてひとしきり楽を演奏しながら、陣営の状況をつぶさに観察した。そうして、頃合いというところで演奏を終えて、陣営から辞する。外では、万が一の場合に備えて、残りのろ組の生徒たちが森の中に潜んでいた。彼らと合流して成功を伝え、共に退避の準備に掛かる。
「――お疲れさま、三郎」
 三郎が楽人の衣装から替え衣を使っていると、待機組だった雷蔵が傍へ来た。ふわりと笑む顔に、無意識に張りつめていた心がほっと解けていくのを感じる。同時に、再び三郎の脳裏に父の文の内容が蘇った。
 ――あと二年で雷蔵と離れることになる。だけど、私は雷蔵の笑顔なしに生きていけるんだろうか。
 先のことを考えて、つきんと胸が痛みを訴えた。そのときだ。
 不意にごく間近で殺気が膨らむのを感じた。気配に敏い三郎がこれほど近づかれるまで相手に気付かないということは、まずあり得ない。そのあり得ない事態に、とっさに反応が付いていかない。
≪――敵襲! 五年ろ組、全員、退避!≫
 三郎が素早く矢羽音を飛ばすのと、苦無が飛んでくるのがほぼ同時。忍が追ってきたらしい。攻撃を受けることは簡単に予想できたが、学級委員長としての三郎は皆を指揮する役目がある。我が身よりも仲間への警告を優先したため、飛んでくる苦無が上手く避けられない。
 ――命中する。
 痛みに備えて、三郎は息を詰めた。けれど。数瞬経っても痛みは訪れない。はっとして見れば、目の前に雷蔵が立ちはだかっていた。三郎の嗅覚が土と草木の匂いに混じる微かな血の臭いを察知する。雷蔵は負傷したのかもしれない。
 ――私を庇って……? 負傷した……?
 一瞬のうちに、これまで実習で経験したことのない混乱が三郎を襲う。ほとんど衝動的に、三郎は懐の?刀(ひょうとう)に手を伸ばしかけた。自分で退避を指示したくせに、冷静な判断ができなくなっていた。雷蔵が負傷したかもしれないというその一事だけで。
 ≪三郎! 退避だろ!≫
 雷蔵が矢羽音で叱咤して、振り向き様に三郎の腕を掴んだ。苦無を打って敵をけん制しながら、三郎を引っ張って先に逃げた級友たちを追い始める。そこでようやく、三郎も我に返った。
 そうだ。本職の忍とまともにやり合って勝てるわけがない。逃げて忍務をまっとうするのが最善の道だ。
 三郎は雷蔵に襲い掛かろうとしていた忍に向かって、?刀を打った。それでも追いすがってくる忍たちへ、不意に現れた数匹の山犬が吠えて噛みつく。二人の窮地を見て取った級友が、得意の獣遁を仕掛けてくれたらしい。ようやくのことで敵の忍の手を逃れて、二人はその場を後にした。


 万が一の合流地点として予め定めてあった河原にたどり着くと、ろ組の級友たちは既にそこに集まっていた。ざっと気配を数えるに、皆、そろっているようだ。そのことにほっとしながらも、三郎は隣の雷蔵から微かに漂ってくる血臭に気が気ではなかった。
「――三郎、雷蔵。大丈夫か?」明け始めた空の下、体格のいい背の高い影が近づいてくる。獣遁で三郎らを助けてくれた級友の竹谷八左ヱ門だった。嗅覚の鋭い彼は、スンと花を鳴らして苦い声で言った。「いや……怪我をしてるのか? どっちだ」
「僕……雷蔵の方だよ」雷蔵が正直に告げる。
「……雷蔵、ごめん。私のせいだ。傷は深いのか?」三郎は尋ねた。
「ううん。ちょっと掠っただけ」
 何でもない調子で雷蔵は答えた。が、その声音が微妙に普段と違っている。三郎は思わず手を伸ばし、雷蔵の腕を掴んだ。ぬるりとした感触が掌に触れる。おそらくは苦無か何かで装束と皮膚を切り裂かれたその場所に触れたのだろう。
「さぶろ……痛いよ」
「雷蔵。君、身体が熱い。……まさか、さっきの苦無は」
 毒が塗ってあったのか。そうと悟った瞬間、ざっと血の気が引く。
「だいじょう、ぶ……。ちょっとしんどいけど、たいしたことないよ。あまり強い毒じゃないみたい」
「おい、三郎。俺が雷蔵の傷を診る。これでも毒虫を扱うから、保健委員の次くらいには毒に詳しいんだ。……さ、お前は皆の様子を確認して、指示を出して来い」
 竹谷に促されて、三郎は頷いた。学級委員長であり、指揮者として定められている以上は、その役割を放棄することはできない。身を裂かれるほどの思いで三郎は雷蔵から離れ、級友たちの点呼に取り掛かった。


***


 雷蔵が受けたのは、軽いしびれ薬だった。結局、彼は竹谷に背負われて学園へ戻り、大事を取って数日間、保健室に入院することになった。大事にいたらなかったとはいえ、三郎は自分の未熟さを後悔せずにはいられない。雷蔵が傍にいないことが不安で、度々、保健室に足を運んだ。そんな三郎を、雷蔵は苦笑しながらも許した。
『――三郎は甘えん坊だなぁ』そんな風に言って。
 いい年をして甘えん坊だと評されるのは恥ずかしいが、雷蔵に言われるのならばそれも悪い気はしないのだった。
 夕方。委員会の終わった三郎が保健室へ行くと、そこには曲者がいた。曲者のくせに茶など淹れてもらって、ちゃっかり保健室当番らしい善法寺や雷蔵と談笑なんかしている。漆黒の忍装束の合間からのぞく幾重もの包帯のおかげで、曲者の正体が知れた。タソガレドキ忍軍の忍組頭・雑渡昆奈門だった。
 曲者がいれば撃退するのが普通だ。しかし、雑渡は曲者であるにもかかわらず、堂々と正門から出入りしている。加えて、彼の来訪がかなり頻繁であるため、最初から雑渡の存在に頓着しない善法寺をのぞく上級生も、排除を諦めているのだった。どうせ排除しようとしても、悔しいことに学園の生徒の力ではかなわないというのも確かではあるのだが。
 三郎は雑渡を無視して、雷蔵の布団の側に座った。と、雷蔵がやんわり三郎の行動を咎める。
「だめだよ、三郎。お客さんには挨拶しないと」
「客? 曲者の間違いだろう。もし、雷蔵はばったり曲者に出くわしたとして、のんびり挨拶するのか?」
 三郎が言うと、雷蔵は苦笑した。
「挨拶するよ? 本物の曲者だったら、言葉じゃなくて武具での挨拶だけど。でも、雑渡さんは入門票書いてるし、お客さんだよ」
「君はそこの曲者に負けたのに?だいたい、それだって善法寺先輩から私たちの情報が漏れたせいじゃないか」
「あははは……。ごめんねー、鉢屋」
 雑渡の側で彼の包帯を巻き直していた善法寺が言った。いちおう謝ってはいるのだが、さして悪びれる様子もない。
 また、当の雑渡ものんびりと茶を啜(すす)っている。
「鉢屋くん。情報が漏れたと騒ぐが、あの程度の情報を敵に知られて負けるくらいならば、最初から勝てない敵だったということさ」
「何を偉そうに」
 三郎は舌打ちした。が、雑渡はあくまでも落ち着いている。
「そもそも、君らは勝負にこだわりすぎる。忍の世界に正心はあるが、王道はない。勝つことがすべてと考えていれば、見失うものもあろうさ」
 謎かけのような言葉だった。自分を煙(けむ)に巻くつもりかと苛立った三郎は言いかけた。
 しかし。
「三郎」雷蔵の声がやんわりと三郎を制した。「あのとき、君はともかく、僕は情報が漏れていてもいなくても、どうせ雑渡さんには敵わなかったよ。……五年生になって、術が上手くなって。何でもできるつもりになってたけど、思い込みだった。僕はまだまだ未熟だ」
 そう言った雷蔵の視線が、自らの左腕に落ちる。そこには寝間着の袖で隠れてはいるが、つい三日前の実習でできた傷があるはずだった。
 どうやら雷蔵は三郎を庇っていたとはいえ、痺れ薬の塗られた苦無を受けたことを、心苦しく思っているらしい。彼の曇った表情が、動けなくなって皆に迷惑を掛けたと物語っているのが分かる。
 ――違う。君のせいじゃない。悪いのは私……私のせいだ。
 しかし、さすがに雑渡や善法寺の前でそう言うわけにもいかない。喉元まで込み上げた言葉の代わりに、三郎は雷蔵の負傷した左腕にそっと手を触れた。
 そのときだ。不意に雑渡が
「鉢屋くん。前回の勝負のとき、君に言わなかった君の弱点がある」
「……」
 まだその話を続ける気か。三郎はうんざりしながらも、雑渡を振り返った。あまりぞんざいな態度では、雷蔵に注意されると思ったからだ。
「君の弱点とは不破くんに執着しすぎることさ。不破くんが傷つくだけで、君はすぐ動揺して冷静な判断力を失う。――忍たるもの“色”……すなわち情に溺れることなかれ。君の実力は忍たまとしてはたいしたものだが、君のその精神は忍に向いているとはいいがたいと思わないか?」
 三郎は思わず息を呑んだ。
 雑渡に指摘されたのも癪(しゃく)な話ではあるが、彼の言葉は三郎の悩みそのものを表していたからだ。あと二年足らずで雷蔵から離れなければならない――けれど、手離したくはない、という悩みを。
 三郎は何も言わず、そっぽを向いた。そんな自分に雷蔵が心配そうな眼差しを向けたのが感じられた。


「……ね、さぶろ。何か悩んでるの?」
 雑渡が去り、善法寺も保健室の隣にある調合室へ行ってしまって二人きりになると、雷蔵が尋ねてきた。その言葉に三郎は戸惑う。
「――……。何でもないよ」
「嘘。三郎は嘘が上手いけど、ときどきすごく嘘が下手。……僕、知ってるよ。春休み明けくらいから、三郎が何かに気を取られてること。実習の夜も、気配に気づくのが遅れたのはそのせいだったんじゃない?」
「雷蔵、何を根拠に……」
「僕はだてに三郎の同室で、親友で、恋人をやってるわけじゃないんだよ。分かるさ。もう五年の付き合いなんだし。……だいたい、三郎は毎日、僕の顔を観察してる癖に、自分が同じだけ見られてるとは思わないの?」
「! 君、そんなに私のこと見てくれてるのかい?」
「そうだよ。って、そんな嬉しそうな顔して。……本題はそこじゃなくて、君の悩み事だってば。ねぇ、僕に話せないような悩みなの?」
 尋ねられて、三郎は口ごもった。自分の事情を雷蔵に告げてしまえば、彼に選択を迫ることになる。自分と共に生きるか、それとも離れるか。しかし、自分で答えを見つけず雷蔵の判断にゆだねてしまうのは、あまりに無責任だ。それに、雷蔵があっさりと離れることを選んだら、それはそれで立ち直れる自信がない。
 自分の臆病さに辟易(へきえき)しつつも、三郎は打ち明けることができなかった。
 困り果てている三郎を見て、雷蔵はほうっとため息を吐いた。
「いいよ、言えないならそれでも。でもね、隠しごとは……寂しいよ。もしいつか僕に話してもいいと思ったら、そのときには教えてね。約束」
「う……うん。そうする」
 果たしてそんなときが来るのだろうか、と思いつつ三郎は頷く。それを見守る雷蔵は少し寂しげな目をしていて、ときどき下手だというこちらの嘘さえも見抜いてるのかもしれなかった。


***


 夕飯と風呂を終えて、雷蔵のいない部屋に戻る。灯りを点して座学の課題をすませた三郎は、寝る準備をしようと文机の前から立ち上がった。同室者のいない部屋はがらんとして、どうにも虚ろに感じてしまう。
 自分たちの年頃になれば、同室者の不在に寂しさより気楽さを感じる者もあるに違いない。けれど、三郎はそうではなかった。雷蔵も、三郎が学園長のお遣いで長く学園を空けて戻ったときには、寂しかったと言ってくれる。
 ――忍たるもの“色”……すなわち、情に溺れるべからず。
 三郎は脳裏で雑渡の言葉を繰り返した。
 分かっているのだ、そんなことは。それこそ、鉢屋衆宗家に生まれた三郎にとって、忍の心得は子守唄代わりのようなものだった。そのせいだろうか、忍術学園に入った頃の自分は、今よりも随分と忍らしかったように思う。
 素顔を見せず、狐の面を着けるか変装しているかの三郎を、級友たちは気味悪がった。けれど、それでも三郎は平気だった。友達になってくれる者がおらず、一人ぼっちでも寂しさを感じていなかったくらいだ。
 寂しさを感じないことが、忍としての強さだと信じていた。
 けれど。

『さぶろう』
 舌足らずの甘い声で三郎を呼ぶ同室者、雷蔵だけは皆とも三郎とも違っていた。級友たちが家など恋しくないと嘯(うそぶ)くところを、雷蔵は素直に寂しいと言う。気味悪がられて一人でも平気だと澄ました顔をしている三郎に、のほほんと笑いかける。けれども、寂しがり屋でいつも誰かと群れているかと思いきや、級友たちから孤立してでも三郎を庇う。何時間も一人ぼっちでも平気で、本を読んでいたりする。甘ったれなのか、飄々としているのかよく分からない。
 ただ一つ言えることは雷蔵がひどく素直で、妙な意地を張って自分の弱みを隠したりはしないことだった。三郎より不器用でできないこともあった雷蔵は、その度に素直に三郎に尋ねて来た。そんな風に自分の弱さを隠さない雷蔵の傍にいたから、自分に素直になることができた。
 寂しいければ、悪戯をして。雷蔵に甘えて。
 楽しければ、笑って。
 ときにはばかばかしいくらい他愛もないことで喧嘩をしたりもして。
 いつしか雷蔵のように素直に感情を出している自分に気が付いてから、三郎は日常に雷蔵の変装をするようになった。雷蔵が好きだから。ずっと居心地のいい雷蔵の傍にいたいと思ったから。たとえ自分の変装であっても――雷蔵の姿が自分のすぐ傍に、いっそ自分にあれば一人でいるときにも寂しさが紛れる気がしたから。
 いつからだか、そんな風に自分が変化していた。変えられていた――雷蔵によって。

 ――どうしても、私の我儘でも、雷蔵と離れたくはない。

 強烈にこみ上げてきた感情によって、胸が締め付けられる。いてもたってもいられなくなって、三郎は部屋を後にしていた。目指すのは保健室だ。
 雷蔵を困らせることになるかもしれない。逆に、あっさり断られるかもしれない。それでも、どうなってしまおうと雷蔵だけは譲れなかった。自分から手を伸ばすこともせず、すべてを腹に収めて卒業と同時に手を振って別れるなんて――そんなことは耐えられない。自分が臆病なことは知っているけれど、それでも雷蔵に拒絶されて痛みを負うことになるとしても、言わずにはいられないと思った。
 傷ついてもいい、覚悟を決めた。


「雷蔵っ!」
 保健室に飛び込むと、養護教諭の新野が詰めていた。新野は三郎に渋い顔をしてみせた。
「鉢屋くん、保健室で騒がない。それに、もう遅いですからお見舞いは――」
「新野先生」衝立の向こうから、雷蔵が穏やかな声を発した。「僕からもお願いします。少しだけ三郎と話させてください。たぶん、大事な用だから」
「……許可できません」
「先生、そこを何とかっ。雷蔵が言うように大切な用なんです……私にとっては」
 三郎は必死に新野に食い下がった。と、ふと新野が苦笑する。
「面会は許可できませんが、代わりに鉢屋くんには留守番を頼みましょう。私は調合室で寝かせてある薬の出来を確認してきます。その間、保健室で番をしていてください。何かあったら私を呼びに来るように」
 新野の申し出は、実質は面会許可のようなものだった。
「先生、ありがとうございます!」
 いそいそと雷蔵の側に寄る三郎に苦笑して、新野は静かに保健室を出ていった。
 二人きりになった部屋の中、三郎は雷蔵の布団の脇に正座した。しかし、大人しく姿勢を正してはおれず、身を乗り出すようにして雷蔵を覗き込む。
「らいぞ。……もしかして、眠ってた?」
「いや」雷蔵は布団の上に身を起こしながら、首を横に振った。「夕方、お前が帰った後に少しうとうとしたけど、今は起きてたよ。お前がまた来るような気がして」
「すごいな、君は。私の行動をお見通しなんだな」
「あはははは。神通力があるわけじゃないよ。ただ、お前は僕が『寂しい』って言うのに弱いって、知ってるだけ」
「あれ?そうだっけ?」
 雷蔵の言葉に三郎は首を傾げた。確かに惚れた弱みというやつで、三郎は雷蔵を悲しませたくないし、苦しめたくないと思っている。寂しがらせるなんて、もっての他だ。
 だが、それは強すぎる三郎の執着心から出た感情だった。まともに向ければ、雷蔵に息苦しい思いをさせることになると、承知の上だ。だから、恋仲になった今でも、三郎は雷蔵に執着心のすべてを見せたことはなかった――はずなのに。雷蔵は気づいていたらしかった。
「夕方、分かってて『寂しい』と言ったんだ。そうしたら、お前、隠し事を僕に打ち明けようって気になるんじゃないかと思って」
「……まったく君は普段、私のことを策士だと言うけれど、君の方がよほど策士だよ」
 三郎は呆れて言った。それでも、雷蔵は悪びれた風もなくふわりと笑う。
「そうだよ。僕は意外とたちの悪い奴なんだ……特にお前のことに関しては、ね。だって、質が悪くなってしまうくらい、お前が好きなんだもの」
 さらりとした告白に、不意打ちを食らった三郎は顔が熱くなるのを感じた。変装のおかげで頬の赤みは雷蔵には分からないかもしれない。けれども、化粧に覆われない耳や首筋が熱を帯びている様は、見えてしまうだろう。
 照れを隠そうとうつ向きながら、三郎は言い返した。
「わ……私は、雷蔵のことになるともっともっとたちが悪いぞ」
 だって、雷蔵の心を望んで恋仲になっただけでは飽き足らず、未来までも欲しがろうとしている。本当にたちが悪い。けれど――。
 そう思ったとき、そっと雷蔵の手が頬に触れた。視線を上げれば、彼はひどく優しい笑みを浮かべている。
「三郎がたちが悪くなるのは、それだけ僕を好いてくれてるからだろ? ね、何を悩んでいるの? 言ってよ、聞くから」
 睦言のように甘く、雷蔵が囁く。その声音の柔らかさに、腹の底からかっと衝動がこみ上げてきた。愛おしさだけではない。肌を合わせるときのような欲情とも違う。強いて言うなら傍にいるにもかかわらず、もっと雷蔵が恋しくなるような、愛おしさのような、欲情のような。すべてが入り混じって混沌とした衝動。
 その衝動に動かされて、三郎は頬に触れた雷蔵の手に自分の手を重ねた。そうして雷蔵の掌を自分の口元まで持っていく。武具を握るために固くなった掌の表面に、懇願するように唇を押し当てた。
「さぶろ……?」
「雷蔵。私、我儘を言いに来たんだ。むちゃくちゃで、最低な我儘だと分かっているけど、言わずにはいられないんだ」
「――それって、どんな?」
 尋ねる雷蔵の声は少しだけ緊張していて、彼もまた何かを覚悟しているのだと分かった。
「私は鉢屋衆の出だと話したことがあるだろ? 実は忍術学園に入るとき、父と約束したことがあるんだ。六年で外の世界の忍術を学んで、鉢屋衆に戻るって。だけど、私は君と離れたくない。だから――」

 ――だから、卒業したら、私と来てくれないか。

 三郎はじっと雷蔵を見つめた。雷蔵は目を見開いたまま、しばらくの間、何も言わなかった。が、やがて、大きなその瞳の縁にじわりと涙の滴が盛り上がる。やがて膨らみきった滴は、ぽろりと伝いだした。まるで堰を切ったかのように涙は後から後から雷蔵の頬を滑り落ちていく。
 ――まさか、泣くほどに嫌だったのだろうか。
 不安になった三郎は、とっさに謝って自分の言葉を打ち消そうと口を開いた。その瞬間、どんと身体に衝撃が走った。肩を包んだ温かさと鼻先をくすぐる柔らかな髪に、三郎は自分が雷蔵に抱きつかれたのだと悟る。
「三郎……。ごめん、君にそれを言わせてしまって。だけど、僕は嬉しい……」
「う、嬉しい……?」
「うん……。だって、僕もずっと三郎といたいもの」
「そんな……いいのか? 私はきっと、ずっと君を縛り付けるぞ? 私と来るってことは、もしかすると、嫁を娶って子を成すこともないってことで――」
「それはお前も同じことでしょ? 僕の方こそ、お前にいつかできるかもしれない暖かな家庭を奪ってしまうことになる。それでも、三郎といたい」
「だけど……。それじゃ、君は世間並の幸せを手離すことになるぞ?」
「もう。三郎は、本当に僕と一緒にいたいの? そんなよくないことばかり言って」雷蔵はちょっと拗ねた声で言って、身を起こした。涙に濡れた――けれど、強い眼差しをして、三郎の目を覗き込んでくる。「世間並みの幸せ、それがどうしたって言うのさ」
「雷蔵……」
「世間並の幸せっていうのは、世間の多くの人の幸せかもしれない。だけど、それは僕の幸せじゃない。僕の幸せは君がそばにいることだよ」
「――珍しく……迷わないんだな。昼食にだって延々と迷う君が、将来の重大な決断を」
 三郎の言葉に、雷蔵はふにゃり泣き笑いの笑みを浮かべた。
「迷いたいよ、本当はね。こんなときこそ、迷うべきだと思うんだ。――でもね、頭で考えることとは裏腹にどうしようもなく決まってしまっているんだよ、ここがね」
 雷蔵は自分の胸をそっと押さえた。
 その姿に三郎はいてもたってもいられなくなる。「雷蔵、雷蔵。ありがとう……!」今度は三郎が、雷蔵に抱きつく番だった。




pixiv投下2013/04/27

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