望みの涯はいまだ遠く





 うららかな春の午後のこと。尾浜勘右衛門は所属する学級委員長委員会の委員会室にいた。委員会活動の時間なのだ。
 だが、活動とはいっても、学級委員長委員会の仕事のほとんどは、顧問である学園長から指示される。学園長の指示がなければ、茶菓子など持ち寄って雑談するのが常だ。それでも普段はこの春に委員会に入ってきた可愛い後輩らの手前、先輩風を吹かせてみることもあるのだが。一年生二人が校外学習に出掛けている今日、尾浜はだらけきっていた。行儀わるく胡座などかいて、ぱりぱりと煎餅をかじる。
 ふと見れば、縁側近くで大福を口にしている鉢屋三郎も、後輩らの前では見せないような気だるげな面持ちをしていた。だが、実のところは三郎はだらけているのではない。まったく別の理由から不機嫌なのだ。ただ己の気分をあからさまに他人に知られることを好まない三郎は、気だるげなふりをしてみせている。
 三郎の不機嫌の理由について、尾浜は煎餅を咀嚼しながら考えるともなく思いを馳せた。発端は十日前のことだ。突然、ある実習計画が発表されて、五年生を動揺させた。い・ろ・はの組を越えて六つの班を作り、班ごとに行う実習だ。ここで生徒らが泡を食ったのは、班分けに親しい友人やよく実技で組む級友同士が決まって別々の班に入れられていた点だった。
 実戦さながらの実習は、一年生の遠足とはわけが違う。馴染みの相手と組みたいという思いは、ただ仲のいい友達とくっついていたいというような簡単な話ではない。実戦の場で息が合わない者同士が組めば、互いの生命が危険にさらされると皆、知っている。
 だが、教師らは五年生の馴れ合いとも言える心情を一蹴した。
『忍は、城仕えであろうとなかろうと、いつも決まった相手と組めるとは限らない。馴染みの薄い相手と組むのがどういうことか、この実習で理解せよ』
 それが教師らの言い分だった。
 尾浜は一番仲のいい久々知兵助と班が分かれた。もちろん、三郎も二人して『双忍』呼ばれるもう片割れの不破雷蔵とは班が異なる。それこそが三郎の不機嫌の理由に違いない。三郎が言ったわけではないが、尾浜はそう確信していた。
 ――大好きな雷蔵と離れたくないなんて、お前、三つ四つの童じゃないんだぞ。
 尾浜は内心ため息を吐きながら、三郎に声を掛けた。
「……あのさ、そんな顔して食べて、大福おいしい?」
「――別にいつもと同じ味さ。大福は大福。煎餅の味はしない」三郎がつまらなさそうに答える。
「いっそ煎餅味の大福なら良かったのに。そしたら、さすがにお前もびっくりして、その辛気くさい顔を止めるだろ」
「どんな顔で食おうが、私の勝手だろうが」
「いいや。大福に失礼だ。うまいものはうまそうに食わないと」
 三郎は手の中の大福を眺めて、ちょっと申し訳なさそうな表情になった。ひねくれているくせに根はやけに素直な男だから、尾浜の言葉で大福への同情心が湧いてきたのかもしれない。けれど、結局のところ素直ではない彼は、再び気だるげな顔に戻って大福を口に運んだ。それでも少し反省はしたのか、文机に寄り掛かって姿勢を崩していたのが、きちんとした正座になっている。
 生意気だが可愛げがないわけでもないのだ、三郎は。
 尾浜はこみ上げてきた笑いを堪えながら言葉を続けた。
「……雷蔵と別の班になったのが、そんなに嫌か?」
「――そりゃあ、そうさ。不破雷蔵のあるところ、鉢屋三郎ありなんだから」
「だけど、先生が言ってたことは正しいよ。三郎だって、この先いつでも雷蔵と組めるわけじゃないんだ。別の相手と組む練習をしておいて損はないだろ? まさか、雷蔵がいなけりゃ生きていけないとでも言うんじゃないだろうな」
 からかいを含んだ尾浜の言葉に、三郎は真面目な顔で首を傾げた。束の間、沈黙が落ちた部屋に戸を開け放した縁側から庭の桜の花びらがふわりと舞い込んでくる。たたみや文机に散らばった薄紅の花びらを目で追った三郎は、やがて口を開いた。
「……ちょっと違うな」
「何が?」尾浜は尋ねた。
「私は雷蔵がいないと生きていけないんじゃない。雷蔵が想ってくれているなら死んだっていい、という方が近いかな。雷蔵のために死ぬか、雷蔵と共に死ぬか、雷蔵に殺されるかいずれかなら、私はきっと幸せなんだろうと思う」
「どうして、そこまで……」
 思わず呟く。それを聞いた三郎は笑みを浮かべた。舞い散る桜のように儚げな笑みだった。
「だって、他でもない雷蔵が私を想ってくれるんだぞ。それだけで、もうこの世の未練などなくなってしまうさ」




「……そっかー。三郎はそんな風に思ってるんだ」
 尾浜の話を聞いた不破雷蔵の第一声は、ひどくのんびりしたものだった。とてもではないが、生命がけの恋を捧げられているとは思えない態度だ。尾浜は意外な気がして、雷蔵に尋ねた。
「雷蔵は知らなかった?」
「三郎の口から聞いたことはないなぁ。……まぁ、何となくそうじゃないかなとは思ってたんだけど」
「じゃあ、雷蔵はどうなの?」
「どうって?」
「三郎が想ってくれるなら、もう死んでもいい?」
「まさか、そんなわけないよ」
 ごくあっさりと雷蔵は否定した。何というか素っ気ない。しかし、こんな風でも雷蔵が三郎と恋仲だということは、本人たちも認める事実だった。尾浜は俄かに三郎が可哀想になってきた。おそらく一生、雷蔵には打ち明けないであろうくらいに深い三郎の彼への愛情を本人に聞かせたのは、どうしても彼に三郎の想いを知っておいてほしいと思ったからだというのに。
 正直、今は恋愛談義などしている場合ではないのだが、こんなときでなければ第三者である尾浜が三郎の気持ちを雷蔵に告げることは信義上、許されないだろう。尾浜は不器用すぎる三郎の雷蔵への想いに何が何でも報いてやりたくなって、問いを重ねた。
「雷蔵は三郎のこと、好きじゃないの?」
「そりゃあ、大好きだよ。大好きだから、僕は三郎を守りたいし、共に生きたいし、彼と笑い合っていたい。それが僕の幸せなんだってことはね、迷うまでもなくもう答えが出ているんだ」
 雷蔵は確信に満ちて言った。そうしながらも、彼の手はてきぱきと尾浜の傷を手当していく。
 今は実習の最中だ。
 五年生の今回の実習で、尾浜の属する一班は合戦場でにらみ合う城と城のうち一方への潜入を課された。そこで、班の皆と共に足軽に変装して忍び込んだまでは良かったが――その後は不運が重なった。馴染の薄い班の仲間同士、連携が上手くいかずにばらばらになってしまったのだ。更に、尾浜は城付きの忍に潜入がばれて追いかけられることになった。それでも何とか逃げ延びたが、途中、身を掠めた手裏剣にどうやらしびれ薬が塗ってあったらしい。合戦場からさほど離れないうちに、人家も近くにない荒野の真ん中で動けなくなってしまった。
 五年生ともなれば、ある程度の薬物耐性は身につけている。手裏剣に塗ってあったしびれ薬もどうやら致命的な効果はないようだ。これが学園内の実技の授業時間であれば、今の尾浜のような状態はさほど問題にはならなかっただろう。保健室へ行って手当てしてもらえばいい。しかし、ここは学園の外だった。しかも、敵陣が近い。受けたしびれ薬はさほどきつくなくとも、動けない尾浜の状況は生命取りだった。
 そんなところへ、偶然、二班に属するはずの雷蔵が現れたのである。聞けば、雷蔵の班は合戦場の印を取る――つまり、戦力分析をするのが課題だったらしい。だが、彼も仲間からはぐれてさまよっていたということだった。
 だが、雷蔵だっていっぱいいっぱいの状況のはずだ。とても尾浜を助けている余力があるとは思えない。尾浜は雷蔵に、自分を置いて去るように言った。それなのに、雷蔵は尾浜を助けるのだと言って聞かなかったから――学園で雷蔵を待つ三郎がどれほどの思いでいるのか話して聞かせたのだ。
 尾浜の話を聞いても、雷蔵は頑固だった。
「……三郎が死を見ているとしても、雷蔵は二人で生きたいと思うの?」
「そうだよ。僕は二人で生きる道を選ぶ。たとえ三郎が死に惹かれるとしても、僕が引きずっていくよ。だって、僕のために生命を捨ててもいいくらいだって言うのなら……三郎(あれ)は僕のものだもの」
 雷蔵の言葉に、尾浜は感心して――いっそ泣きたくなった。
 きっと雷蔵が三郎の想いの切実さを己のもののように感じ取ることはないのだろう。三郎が雷蔵の想いの毅(つよ)さを測りきることもできないように。雷蔵のような相手に惚れた三郎を祝福すべきなのか、同情すべきなのか、尾浜は分からなかった。だが、一つだけ確実なことがある。雷蔵と生きる間、三郎は幸せだろう。たとえ彼自身が定義する幸せとは異なるにしても。
「――雷蔵は強いね。戦ばかりのこんな世の中で、忍なんて人でなしの技を学んで……でも、生きることに倦んだりはしないんだね」
 尾浜の言葉に雷蔵はきょとんとして、それからすぐに微笑した。荒れ果てて躯の転がる荒野に不似合な、うららかな春の日差しを思わせる穏やかな微笑だった。
「……だって、他でもない三郎がいるんだもの、倦み飽くにはこの世はまだとても美しいよ」
 雷蔵の視線は荒れ果てた野に萌え出た若葉や春の花に注がれている。つられて草花へ目を向けた尾浜は、ふわりと野を渡る風に湿気を含んだ土の匂いが混じっていることに気付いた。郷里や学園の畑で春によく嗅ぐ匂いだった。
 ――どんなに死地に近かろうと、ここは草木も生えぬ煉獄ではないんだ。
 そう思ったら、涙があふれ出て来る。雷蔵は、男としての矜持を傷つけまいとしたのか、尾浜の涙に気付かぬふりをしてくれた。
 やがて、尾浜が落ち着くと、雷蔵は動けないでいる尾浜を移動させると言った。尾浜が置いていってくれと頼んでも頷こうとはしない。結局、身体の自由が利かない尾浜は、雷蔵の為すがままに背負われることとなった。
「さて、と」荒野の先を見据えて、雷蔵が呟く。

「生きて、帰るよ」

 その言葉に込められた力強さに、強烈な安堵がこみ上げて来る。尾浜は雷蔵の肩を掴む手に力を込めた。死を覚悟したつもりでいたが、本当は自分もまだ生きたがっているのだと思い知らされた気がした。



pixiv投下2013/07/25

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