君と私のシーソーゲーム(五年生時)




 その日は何でもない日だった。本当の本当に何の記念日でもなかった――はずだ。
 雷蔵と三郎が恋仲になったのは、四年の春頃のこと。初めて口を吸ったのもその頃だし、枕を交わしたのは冬の終わり。友達になった日? ……そんなの、一年のときにいつの間にかなっていたのだから、記念日なんて分かりっこない。雷蔵にしてみれば、その八月二十八日は一年のほとんどの日と同じく、何の節目でもない日だった。
 八月二十八日ともなれば、夏休みも終わり間近。帰省した生徒たちは学園に戻りはじめているが、まだまだ学期中に比べると静かな方である。
 雷蔵は毎度のことながら、三郎と共に学園に居残っていた。途中、盆の数日だけ帰省したくらいだ。実家の家族には寂しがられて申し訳なく思ったが、五年生となれば何かと多忙だった。委員会の用事もあるし、鍛錬や学問もせねばならない。何より、相方である三郎は基本的に休み中も学園に居残り組なので、彼を一人にしておきたくなかった。そんな理由で、早々に実家から戻ってきてしまったのである。
 そんなわけで、八月二十八日、雷蔵はのんびりと学園に帰ってきた生徒たちの気配を感じながら生活していた。その日の夜のことだ。湯を使って部屋に戻ると、三郎が面を被っていた。一年の最初の頃、まだあまり変装をしていなかった彼が使っていた狐面である。さらに、雷蔵ではない別の誰かの変装をしているのか、髢も普段とは違っていた。ふわふわとして量のある雷蔵ような髪ではない。真っ直ぐで艶やか。もしかすると、六年生の立花の変装をしているのだろうか。
 だけど、なぜ? 雷蔵は思わず戸口で首を傾げた。
「それ、懐かしいお面だね。いったいどうしたんだい、三郎?」
「雷蔵。ちょっとここへ来て、座ってくれないか」
 三郎は問いには答えずに、自分の前の床を示した。わけが分からないまま、雷蔵は部屋に入った。大人しく、三郎の前に座る。
 そこで、三郎は自分の面に手を掛けた。ぱっと外れた面の下から現れたのは、見たこともない少年の顔だった。切れ長の目に整った顔立ち――上品そうに見えるのに、その容貌はどこか悪戯好きな狐の子のような印象を与える。
「たいそう男前だね。で、これは誰の変装なんだい?」雷蔵は尋ねた。
「変装じゃないよ」三郎が言う。
「え?」
「変装じゃない。これが私の素顔だよ」
「へぇ、三郎の素顔か……――って、素顔……!?」
 さらりと何でもないことのように明かされて、雷蔵は文字通り床から飛び上がった。あたふたと慌てて身振り手振りをした末に、両手で自分の目を覆ってしまう。
「さぶろうのばかっ。何でいきなり素顔を明かすんだよ!」
「どうして怒るの?」
「だって、素顔を明かさないっていうのがお前の信条だろうに」
「雷蔵ならいいよ」
「お前はよくても、僕は駄目なの」
「何で?」
「何でって……分からないけど」
 なぜだろう? 雷蔵は内心、首を傾げた。どうして自分が三郎の素顔を見てはいけないのか。今では顔を貸している時間は、雷蔵が一番長いだろう。将来を双忍として生きると誓いあった仲でもある。三郎の素顔をみておいてもいいはず――なのだが、どうしてか雷蔵はそんな気にはならなかった。おそらく、長く共にいるうちに、三郎の素顔が誰にも知られていないという事実は雷蔵の誇りにもなっていたのかもしれない。
「ねぇ、雷蔵、目を開けてよ。私は君にはいつか素顔を明かすつもりだったんだよ。だって、将来は双忍として生きる約束をしたんだから、知っていてもらう必要がある」
「そ、れはそうかもしれないけど……。何で今日みたいな何でもない日に明かすんだよ? もっと卒業した節目とか、明かすのにふさわしい時期があるだろ?」
「もったいぶりたくなかったのさ。私が皆に素顔を隠しているのは、雷蔵も知っての通り素顔そのものがどうこうという理由じゃないんだ。ただ変装名人としてどこまでやれるか……それを試したいから明かさないだけ。――だからね、もし君に素顔を明かすなら、何でもない日にしようと思っていたんだよ」
「今日がその日ってこと?」
「そう。風呂上がりに顔を作ろうとしていて、ふと、雷蔵に明かしておこうかなって気になっただけの日」
「何だよ、そのいい加減な理由」
「ねぇ、雷蔵。そろそろ目を隠しているその手を下ろしておくれよ。せっかく素顔を明かしたんだから、見ておいて」
 三郎の口調に懇願するような色が混じる。きっとこのまま目を瞑っていたら、三郎を傷つけてしまうだろう――。そう思った雷蔵は、仕方なしに両手を下ろした。ゆっくりと目を開けば、行灯の明かりに照らされた三郎の秀麗な顔立ちが目に入ってくる。
 まるで玻璃の器のように完成されたその顔は、目が合うとにっこりと微笑してみせた。格好いい――けれど、どうも違和感がある。雷蔵は普段のように微笑を返せず、その場で固まっていた。
 そんな雷蔵を不審に思ったのか、三郎が眉をひそめて手を伸ばしてくる。
「どうしたの? 雷蔵」
 三郎の指先が頬に触れそうになった刹那、雷蔵は思わず身を引いていた。急に二人の間に距離ができ、三郎の指先が空を切る。雷蔵は自分の反応が信じられず、三郎は雷蔵の態度に驚いて、互いに呆然と見つめあうことになった。
「あ……さぶろ……。ごめ……これは、その……違う……」
 うわごとのように切れ切れと、雷蔵は自分の行動を説明しようとした。が、三郎は聞かなかった。さっと雷蔵から離れるや否や、狐面をひっ掴んで戸を開ける。白い寝間着のまま、三郎は夜の庭へと飛び出していった。
 残されて慌てたのは、雷蔵である。自分が変な反応をしたせいで、三郎が傷ついてしまった。そのことを後悔する。けれど、何度考えてもあの瞬間、自分は身を引かずにはおられなかっただろう。だって、触れてこようとした手が三郎のものではなく――別の誰かのように感じてしまったのだから。
 普段の雷蔵の変装も素顔も、いずれも鉢屋三郎には違いない。そのはずなのに、どうしても別人のように思ってしまう。
(――僕は変なんだろうか……)
 悩みながらも、雷蔵は三郎を放っておくことができなかった。彼の後を追って、夜の庭へと出ていく。夏草の匂いを胸一杯に吸い込んで、気の早い鈴虫の音を聞きながら、雷蔵は三郎の後を追った。


***


 こうなることは分かっていたのだと言ったら、強がりになるだろうか。けれど、分かっていたというのは本当のこと。予想外なのは、分かっていたはずの雷蔵の反応に案外、衝撃を受けている自分自身の心の方だ。
 持ち出した狐面もつけないまま、三郎は校舎の屋根の上でぼんやりと星を眺めていた。いつもなら真夜中であっても素顔で外に出ようものなら、鍛錬中の同級生や上級生の格好の餌食になってしまうだろう。だが、夏休みでまだ多くの生徒が学園を出払っている今、忍にとってもっとも好ましい夜中にも鍛錬する生徒の気配は感じられない。
(……だいたい、私は雷蔵の懐が深くて、誰でも受け入れてくれるから好きになったわけじゃないんだ)
 三郎は着ける気もない狐面を弄びながら、ぼんやりと考えた。
 そうなのだ。
 同級生の多くは、三郎と雷蔵について勘違いをしている。三郎は雷蔵の度量が大きいから惚れたというわけではなかった。本当のところはその逆だ。三郎が雷蔵に惹かれたのは、ふわふわと人当たりのいい雷蔵の裡にひどく硬質な、まるで水晶の欠片みたいな“堅さ”を見いだしたためだった。
 基本的に、雷蔵は人当たりがいい。初対面の相手にもにこやかに話しかけ、いつの間にか相手の懐に入ってしまう。だが、それは他者から見た雷蔵の話だ。雷蔵自身は笑顔の下で初対面の相手に緊張しているし、人見知りだってする。ただ、それを表に出さないでにこにこしているから、誰も気づかないだけだ――三郎は雷蔵を観察した末に、そういう結論に至った。
 そうして、意外に人見知りする癖にこれという相手には無防備に近づいていって、仲良くなってしまう。三郎の場合もそうで、気づけば雷蔵がそばにいたという感じだった。そういうときだけは、雷蔵の人見知りもなりを潜めてしまうのである。
 人当たりがいいかと思えば、人見知り。一方では、ふっと他人と友達になってしまう。本当の雷蔵は臆病なのか物怖じしないのか、わけが分からない。そのつかみ所のなさこそが、三郎が雷蔵に惹かれる理由だった。
 仲良くなるだけでは物足りない。身体だけではなくて、雷蔵の心の奥深く――誰にも触れさせない芯の中にまで入り込んでしまいたいのだ。そうして、雷蔵にとってなくてはならない存在になれればいいと思う。素顔を明かしたのも、その手段の一つと言えなくもなかった。
(――だけど、それで私自身が傷ついていたら、世話はないよな……)
 ままならぬ自分の心に、自嘲の笑みとため息を一つこぼす。と、そのときだった。トンと背後で瓦が小さな音を立てる。馴染んだ気配が三郎の意識に触れてきた。
 ――雷蔵が追ってきたのだ。
「やぁ、雷蔵。迎えに来てくれたのかい?」
 三郎は星を見上げたまま言った。それには答えず、雷蔵は屋根の上を歩いてきて、隣に腰を下ろした。それから、謝罪の言葉を口にする。
「ごめんね、三郎」
「何がだい?」
「お前の素顔に戸惑ってしまったことさ。せっかく、お前が素顔を明かしてくれたっていうのに」
「謝るようなことじゃないだろう。気にしないでおくれ。……実はね、君が私の素顔に戸惑うだろうことは予想していたんだ。君って、ほら、実は意外と人見知りすることがあるんだもの」
「人見知りなんかしないよ。僕、人当たりはいいって言われる方だよ」
「隠しても分かるよ。私がどれだけ君のことを見てると思ってるんだい? にこやかにしてても、君が初対面の相手に向ける笑みは私やハチたちに笑いかけるのとはぜんぜん違うもの」
「そっかー。やっぱり三郎には分かっちゃうか」
 雷蔵は星空へと顔を向けた。その声音から察するに苦笑しているようだった。それから彼は三郎の方へ向き直って、言葉を継いだ。
「僕さ、三郎が『これが私の素顔だよ』って言ったとき、ちょっと寂しかったというか……悔しかったんだよね」
「悔しい?」
 思ってもみない言葉に、三郎は切れ長の目を見開いた。
「うん。だって、今のところ変装なら、誰の顔を借りたっていつも最後には僕の顔に戻すだろ? それがさ、何だかお前の特別って言われてるみたいで嬉しいんだ。だけど、どんなに頑張ったって、お前が僕と同じ顔をしているのはただの変装で、本当の本当に“戻る”のはその素顔。だから、何だか妬いちゃったんだよね……僕よりもお前に近い存在がいるっていう気がして」
 ――雷蔵は嫉妬したというのか。私の素顔に。
 そうと分かった途端、嬉しさがこみ上げてくる。三郎は思わず唇の両端を持ち上げて、微笑していた。
「君は可愛いな!」
 胸に雷蔵への愛おしさが満ちてきて、三郎は手を伸ばした。いつものように、何気なく雷蔵を抱き寄せて口づけようとする。けれど、彼はやっぱり僅かに身を引いて抵抗を示した。その仕草に、三郎は苦笑せずにはいられなかった。
「らーいぞ。口づけさせてはくれないの?」
「僕の顔をしたお前なら、いいよ。でも、素顔ではだめ。……だって、やっぱり素顔の三郎は三郎と別の人みたいな気がして……お前を取られた心地がするんだもの」
「素顔の私は君の敵なのかい? ……ならば仕方ない。素顔の私に恋仲らしい振る舞いをしてくれとは言わないから、取りあえず、敵意を解いてお友達から始めようじゃないか」
「――……それなら、いいよ」
 小さく頷いたかと思うと、雷蔵は膝立ちになって三郎に顔を近づけてきた。何度も吸ったことのある柔らかな唇は、しかし、三郎の口を素通りして上へと向かう。ちゅっと雷蔵の唇が触れたのは、三郎の額だった。初めて素顔に受ける唇の感触に、どきどきと鼓動が早くなる。
「三郎の素顔に、初めましての代わりだから……」
 ――雷蔵に素顔を受け入れてもらえた!
 嬉しくなった三郎は、戸惑う雷蔵を抱きしめてその頬に口づけを返した。


pixiv投下2013/08/28

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