僕よりもお前に近い人(六年生時)





 雷蔵は三郎と共に、夜の闇の中を駆けていた。おつかいという名の、かなり危険度の高い忍務である。
 忍術学園の六年生ともなれば、こうしてほとんど本職の忍さながらの忍務を命じられることも珍しくなかった。三郎や雷蔵だけではない。誰もが経験する道であった。忍務は危険だが、六年生はたいてい生還している。それができない者はこれまでの五年間に脱落するか、鬼籍に入っているかのいずれかだ。
 ――そうはならないように、生き延びなくては。
 雷蔵は背後を振り返った。星明かりの下、自分たちを追ってくる敵の忍の姿がおぼろげに見える。追いつかれて、盗んできた密書を取り返されないようにしなければ。雷蔵は密書をしまった懐を押さえた。
 そのときだ。ひゅん、と風を切る音がする。手裏剣か戦輪か何かだろう。
《――三郎っ! 後ろ》
 雷蔵は矢羽音で三郎に呼びかけた。すぐに先を行く三郎が答えを返してくる。
《跳ぶぞ、雷蔵。あの木を足場にするんだ》
《了解》
 答えた瞬間、目の前の三郎の背中が大きく飛び上がった。雷蔵もそれに続いた。ひときわ張り出した松の木の幹を踏んで、月のない夜空に身を投げ出す。
 刹那、眼下に夜の帳をまとった野の光景が広がった。さわさわと夏の夜の風が草木を揺らしている。吹き抜けていく風の向き、地形、敵の位置。目と耳と肌で感じた情報が雷蔵の脳裏で形を成していく。それらが事前に下調べしたときに見た地図の情報と一体化して、囲碁盤を作り上げた。多大な情報を読み解く技能に特化した図書委員会直伝の情報解析術である。
 雷蔵は盤面を読み解いて、素早く矢羽音を発した。
《三郎! この風向きを利用して、霞扇で敵を向かえ撃つ》
《了解。君を援護する》
 着地するや否や、三郎は大きく身をしならせて、敵へとひょう刀を投げた。手裏剣や戦輪とは異なる独特の軌道を描くそれが、先頭の敵に命中する。
 その隙に着地した雷蔵は、懐から薬を仕込んだ扇を取り出した。舞の動作の一部のように素早く広げた扇で敵へと風を送る。背後から吹いてきた風が、雷蔵の術を手伝ってくれた。空気の流れに乗って、保健委員が持たせてくれた秘伝の薬の粒子が敵に向かっていく。
「ちっ、しびれ薬か」敵が舌打ちする声。
 けれど、全員に効果があったわけではないらしかった。耐性をつけていたのか、敵の一人が突出して忍刀で斬りつけてきた。術のために前に出ていた雷蔵は、距離が近くなりすぎて跳びのくことができない。
 そのとき、ぐいと身体を引っ張られた。ガキッ。耳元でけたたましい金属音があがる。見れば、雷蔵を抱き寄せて庇った三郎が、苦無で忍刀の一撃を受け止めたところだった。とはいえ、苦無で忍刀と鍔競り合うのはいかにも苦しい。三郎はじきに押されがちになる。
 敵は己の有利を悟ったのか、忍刀を構えなおした。新たな斬撃を幾度となく繰り出してくる。三郎が苦無で応戦する合間を縫って、雷蔵は相手の懐に飛び込んでいった。
「何っ……?」
 まさか密書を持つ者が自ら近づいてくるとは予想外だったのか、敵が驚きの声を上げた。そこに一瞬の隙が生まれる。雷蔵は素早く相手の鳩尾に拳をたたき込んだ。相手が痛みに体勢を崩したところを狙って、さらに足払いを掛ける。
 敵はその場に倒れ込んだ。
 


***


 追っ手を撒いた雷蔵と三郎は、川の畔まで逃れてきた。
「……雷蔵、少し休んでもいいかい?」
 三郎が提案するのへ、雷蔵も頷く。
「もちろんだよ。……僕も水、飲みたいし……」
「それはよかった」
 そう言うが早いか、三郎は川縁にしゃがみこんだ。その様子に、雷蔵は彼が傷を負ったのかと慌てた。
「だ、大丈夫、三郎? 怪我したの……?」
「平気だよ。少し掠めただけだから。……でも、ちょっと失礼。驚かないでおくれよ?」
 三郎は顔に手をやり、ずるりと面をはがした。へわふわと量の多い雷蔵の髪を模した髢も取ってしまう。さらりと真っ直ぐな彼自身の黒髪がこぼれ落ち、川の上を渡る湿った風に舞った。
 いったいどうしたというのか。
 雷蔵はぎょっとして、三郎の行動を見守った。
「さ、ぶろ……?」
「あぁ、雷蔵。驚かないでおくれと言ったのに」
「そんないきなり素顔をさらしたら、びっくりするよ」
「ごめん。敵の手裏剣が顔を掠めてしまって、面が裂けたんだ。さすがに本職の忍びだね。上手く避けたつもりだったんだが」
 それでも、三郎が変装をすっかり解いてしまうことは滅多にない。もしかして、面が破損しただけではないのだろうか。不安になって、雷蔵は三郎に手を伸ばした。肩を掴んで振り向かせ、両手を頬にあてがって顔をのぞき込む。弱い星明かりがもどかしくなって顔を近づければ、普段は面で隠されている彼の滑らかな頬が切り裂かれ、血が滲んでいた。
「三郎、怪我してるじゃないか!」
 雷蔵は思わず声を上げた。自分でも意図したより動揺した声音になってしまう。
 三郎は宥めるように頬にあてがった雷蔵の左手に触れ、ゆっくりと手の甲を撫でた。緩く弧を描く唇で、雷蔵は彼が微笑んでいるのだと分かった。見なれぬ素顔の上に乗ったその表情は、しかし、確かに三郎が日常の中で時折見せる笑みだった。
 これは自分の好きな三郎の笑い方だ。雷蔵の顔を模しているのに、雷蔵にはできない表情。三郎が変装用の面の下に隠している彼の優しさがこぼれだしたかのような柔らかな微笑だ。
「大丈夫だよ、雷蔵。かすり傷だ。毒も受けてない。出血はもう止まってる」
「だけど」
「そんなに不安そうにしないで。これくらいのかすり傷、君だってよく作ってるじゃないか」
「お前の場合はもし傷のせいで変装に支障が出たらと思うと、心配で。お前が変装名人だっていうのは、双忍である僕の誇りでもあるから、守りたいんだ」
「それは光栄」
 にやりと三郎が笑う。おそらく彼なりの照れ隠しなのだろう。けれど、分かっていても茶化すような態度に、雷蔵は思わずむっとした。ぐいと三郎の顔を引き寄せて、自分も彼の方に身を寄せて、傷のできた頬に唇を寄せる。まだ薄く血の滲む傷口に、そっと舌を這わせた。
「ら、雷蔵……!?」
 三郎が動揺したように身動きする。けれど、雷蔵は構わずに三郎の傷口を端から端までゆっくりと舐め、おもむろに顔を離した。
「……あの……らいぞ……いまの、は……」
「消毒だよ」雷蔵は人差し指でトンと三郎の胸を突いた。「いいかい、ここにいるのが僕の愛しい人だ。僕はお前が大切だし、守りたい。だけど、僕よりもお前の近くにいるのは、お前自身なんだよ? だから、お前が僕の大切な人を守ってくれなくちゃ。傷を甘く見るなんて、僕が許さないぞ」
 その言葉に目を見開いた三郎は、すぐに満面の笑みになって雷蔵に抱きついた。


pixiv投下2013/08/28

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