せねばならぬいわれはない
「はい、どうぞ」 現代で再会して間もないうちに、雷蔵は私に一個の小箱を渡した。かわいらしくラッピッグされ、リボンを掛けられたそれはおそらく――バレンタイン・チョコだろう。 「え? あの、これ……」私は戸惑って小箱を見つめた。 「三郎にだよ」 雷蔵ははにかんだ笑みを浮かべた。丸い瞳が柔らかく細められ、唇には穏やかな笑み。もともと優しそうな印象の顔が、いっそ天使のように見える。その表情に、かつて――数百年も昔に見た彼の照れたような笑みが甦ってきて、切なくなった。 前世で私が愛し、共に生き、置いていかなければならなかった人。死の間際に、彼のこの笑みを思い出して、身を引き裂かれるような切なさを覚えた。そのときのことまで、まざまざとフラッシュバックする。私はとっさに、言葉を発することができなかった。それをどう思ったのか、雷蔵は穏やかに話を続ける。 「三郎、今でも甘いもの好きでしょ? 僕も好きだけど。前世ではこういうのなかったけど、現世にはいっぱいあるから。いい時代になったものだよね」 「あ、あぁ……。そうだね」 頷きながらも、私は戸惑っていた。 忍であった前世の記憶を持ったまま現代に転生して十八年。大学に入って、私は前世の最愛の人であった不破雷蔵と再会した。幸いに――か、不幸か――彼もまた先の世の記憶を有していて、互いに惹かれ合うようになるのに時間はかからなかった。 けれど、こうしていざ告白されてしまうと、私は身が竦むのを感じた。今は心のままに雷蔵がほしいと強請れた昔とは違う。愛する者を置いていくのがどういうことか、嫌というほど知ってしまっている。 雷蔵の想いを載せた小箱を見つめながら、私はそれに手を出していいのかとためらった。だって、前世でいまわの際に私は――雷蔵を我がものとしたことを後悔していたのだから。 私が雷蔵と肌を合わせたのは、まだ忍たまの頃だった。確か五年生になっていたはずだ。 始めて雷蔵のことを意識したのは、まだほんの二年のとき。当時、私はすでに四六時中、学園の誰かの変装をして過ごすようになっていた。普通、自分の顔を模されて、困惑しない者はない。それを承知で、私は戯れに雷蔵に『ちょっと顔を貸してくれないか?』と尋ねてみた。彼を困らせようとして。けれど、彼はひどく無造作に、筆でも貸すかのような調子で『いいよ』と頷いた。そのときの衝撃は忘れられない。以来、私は雷蔵に関心を抱くようになった。 雷蔵への関心は、すぐに好意へと変わった。私はさりげなく彼の傍にいて、友人になった。けれど、まだ足りなくて、彼にまとわりつくうちに皆から親友同士だと認められるようになった。それでも私は満足しなかった。もっともっと雷蔵が欲しい、近くにいきたい――心がいつもそう叫んでいた。だから、ほとんど駄々をこねるようにして、雷蔵と恋仲になったのだ。 恋仲になって間もないうちに、私は雷蔵にしとねを共にしてくれるように頼んだ。といって、ただ快楽に興味があったわけではない。私とて男だから、肉の欲はある。けれど、雷蔵に対して感じているのは、そんな生やさしい欲求ではなかった。雷蔵の身体がというより、彼の魂が欲しいのだ。彼が永遠に私のものであってくれれば、身体を繋げることはさして必要ではなかった。極端な話、情欲など遊女相手に解消しても、自ら処理しても構わないくらい優先度の低い問題だった。 けれど、世の中の人々は様々な物質で結びついている。金で、血で、肉体で。雷蔵に魂だけ欲しいと言ったって、一般的にそういう関係を続けていくのは難しそうだ。最初は雷蔵も心をくれるかもしれないが、いずれ物質で結びつく相手ができたとき――しとねを共にする女が、或いは血を分けた子どもができたとき、雷蔵はそちらに心を奪われてしまうかもしれない。 そんなのは嫌だ。だから、私は雷蔵との関係に名を付けることにした。言葉は一種の呪いであり、名を与えればそれに縛られることになる。私は雷蔵のすべてを手に入れるために、彼と恋仲になって、身を繋げることを請うたのだった。 雷蔵は―― 『いいよ』 あっさり頷いてくれた。まるで私に顔を貸すと言ってくれたときのように。違うのは、恥ずかしそうに頬を染めて、うつむきがちだったところだけ。でも、そんな彼もかわいらしくて、私は胸が熱くなったものだ。 それからも共に過ごした。一緒に卒業して、双忍として生きてきた。恋仲という呪いで縛ったがために、雷蔵は私だけのものでいてくれた。それらの幸せな記憶は、思い出すだけで胸を暖めてくれる。 けれど、けれど。 コホッと小さく咳を一つ。それだけで、咽喉をせり上がってきた血が、口の端から溢れ出る。頬を伝う血の感触はべたべたしているけれど温かくて。その温度をよすがに頬に触れる雷蔵の手の温もりを思いだそうとした。 ここは戦場の最中。遠くに近くに刃鳴りやら断末魔の悲鳴やらが聞こえる。それなのに、仰向けの姿勢から見上げた空は青く澄んで晴れ晴れとしているのが何だかおかしかった。 何をしているのだろうと思う。こんな青い空の下、戦をしている強者どもはいったい何なのか。家を背にして、愛する家族から離れて何をしているのだろう。それに私は、雷蔵から離れて何を死にかけているのだろう。こんなに気持ちのいい日なのに、愛する者の傍にいないなんて。私も含めて、人というものはまったく仕様のない生物ではないか。 腹にできた傷口から血が流れ出ていく。身体にはもうあまり力が残っていないけれど、私は懸命に顔の筋肉を動かして、自嘲の笑みを浮かべた。 この戦場に、雷蔵はいない。私たちは双忍として生きてきたけれど、いつも二人一緒に仕事ができたわけではなかった。今、雷蔵は別の依頼を受けていて、ここから遠く離れた堺にいる。『お土産を楽しみにしていてね』そう笑って出かけていった彼の顔が、目に浮かんだ。 忍として生きるからには、とっくの昔に死ぬ覚悟はできていた。ただ心残りなのは、雷蔵を残していくことだ。彼の魂を欲しいがために、他の誰にも与えまいとするがゆえに、私は恋仲という呪いで彼を縛った。双忍として生きるために、彼に家族を捨てさせた。そうして、雷蔵を手に入れたのである。 それなのに、私はここでひとり死ぬ。雷蔵を残していく。私が他のすべてから雷蔵を奪ったがために、彼はこの後、ひとりぼっちになる。死ぬことよりも、何よりも、そのことだけが辛い。 もしも、奇跡が起こって二度目が許されるならば、私は――。 その、二度目である。再会した私たちはやはり惹かれ合った。けれど、私は雷蔵からのこの告白にどう答えていいのか分からなかった。 前世で私は雷蔵の魂までも自分のものにしたくて、恋仲という呪いで縛り付けた。室町のあの頃は衆道も一般的であったから、男同士であってもさして問題なかったということもある。だが、今生の現代では、世の中の風潮が変化してきているとはいえ、男同士の関係はまだ多少、奇異な目で見られるだろう。それに、二度も雷蔵を独占してしまって、彼から妻や子を――家庭を持つ幸せを奪ってしまってもいいものか。 私は雷蔵の傍にいられればそれでいい。それは、どうしても彼で肉の欲を晴らしたいといいうのでないなら、友人として一緒にいるのでも構わないのではないか。傍にいるのに、恋人でなければならないという決まりはない。ましてや、身体を繋げねばならぬいわれなどあるまい。 ――だったら。 私は意を決して、口を開いた。友人でいようと雷蔵に告げるつもりだった。けれど。 「三郎、お前、妙なことを考えているね」 不意に雷蔵が言った。天使のごとき笑みは微妙に変化して、何だか威圧感のようなものが加わっている。一見は無害で柔らかい、けれど威厳と有無を言わせぬ剛毅さを感じさせる雰囲気――きっと雷蔵は喜ばない印象だろうけれど、まるで女帝。力ではなく、その笑顔と眼差しだけで私の上に君臨する。それでも、私は彼に支配されることに歓喜さえ覚えてしまう。 今もほら、恐怖ではなく期待のようなもので背筋がぞくぞくする。情欲なんてどうでもいいはずなのに、彼は簡単に私のそれを煽るのだ。だが、今それを表に出すわけにはいかない。幸いにして、演技は得意中の得意。私はさりげなく困惑している顔を作った。 「……妙なことって?」 「お前の考えそうなことは分かるよ。だって、前世であれほど共に過ごしたんだから。……お前、今生でも僕と恋仲になっていいものかと、悩んでいるんだろう」 「それは……。だって……」 言い当てられて、私はうつむいた。違うのだととぼけることも可能だが、そんな小細工は雷蔵に通じないと分かっていたからだ。 二人の間に沈黙が落ちる。しばらくして、雷蔵はふっとため息を吐いた。なぜだかいきなり手の中の小箱のリボンをほどき始める。次いで、ビリビリと無造作に包装紙を破った。 「雷蔵……?」 「三郎、お前ね、僕が気づいてないと思ってたの? 前世の頃から、お前、別に僕と寝たいと思ってなかっただろう? さしずめ、僕を独占したいから分かりやすく恋仲になってみただけだ」 「そ、それは……!」 「気に病む必要はないよ。僕だって同じだもん。お前を自分につなぎ止めておきたくて、身体を繋げた。……まぁ、それはそれで気持ちよかったからいいんだけど。とにかく、セックスは僕ら双方にとって、必須のものではなかったんだ」 まるで天使のような雷蔵の口から、直載な単語が出てきたことにたじろぐ。言葉が少し荒れるのは、雷蔵が怒っている証拠だ。 「雷蔵、すまない」私は思わず謝った。「昔は分かっていなかったんだ。雷蔵をつなぎ止めるのに精一杯で、恋仲として縛り付けたら雷蔵が妻も子も持てないと考えていなかった。……君をひとり置いていくことになるなんて」 「お前は今も分かってない。分かってないよ」 にこにこ威圧的な笑みを浮かべながら、雷蔵は小箱を開いた。蓋をテーブルの上に放り出して、箱の中に美しく並ぶチョコを一粒摘む。そうかと思うと、彼はそれを迷いなく自分の口元へ運んだ。がりりと白い歯を立てて、チョコの半分を噛じり取る。それから、雷蔵は真っ二つになったチョコの断面を私の方に向けた。茶色いチョコの断面に、ピンクやオレンジ、それに白の層が見える。どうやら果物のフレーバーのチョコだったらしい。 雷蔵はそれを示しながら、口を開いた。 「僕だって、お前を自分のものにしておきたかった。お前で肉の欲を晴らしたいというんじゃなくて、お前の存在を愛していたんだよ。……でもね、お前のことを愛しているならば、できる限り全部、知りたいじゃないか。このチョコみたいに中のイチゴやマンゴー味の部分だけじゃなくて、外側のチョコの部分も全部」 「全部……」 「そうだよ。恋人になるのにためらいがあるなら、別に僕らの関係に名前を付ける必要はない。でも、お前のことを欲するからには、お前の全部を知っておきたい。大事なのは、僕らの関係の名前じゃないんだ。僕もお前もお互いを欲していて、望むことが同じならいいんだ。友達として馬鹿話もするし、恋仲としてセックスもする。双忍としてお前を支えもする。それでも、まだためらう?」 「だけど、また私は君を置いて――」 いくかもしれない、と言い掛けたときだった。雷蔵がぽいっと残り半分のチョコを私の口に放り込む。果物とチョコの甘い味が口内に広がって、私は思わず口を閉じた。 「むぅ」 「置いていったとお前は言うけれど、前世でお前が死んでから、僕、幸せに生きて死んだんだよ。ひとりだったけど、お前といた記憶があったから、僕は幸せでいられた」 雷蔵は微笑したまま、思い出すように目を閉じた。天使だとか、そんなものを越えたいっそ神々しい表情だと思う。 私は不意に泣きたくなった。雷蔵が置いていった私を許してくれているというありがたさに。胸がいっぱいになって、とっさに言葉が出てこない。 その間にも、雷蔵は静かに言葉を紡いでいる。 「……ねぇ、三郎。僕たちは前世の記憶があるから、もう知ってしまっているよね。生きていくって少しずつ失っていくことだって。どんな人間でもすべてを得ることはできないし、何もかも持っているから幸せというわけでもない。それでも、前世のお前は死んでから、僕が生きている間ずっと幸せに思えるくらいの愛をくれた。記憶をくれた。妻よりも子よりも、何よりも、僕にはお前がくれたもので十分だったのさ。男同士だから、恋仲だから、友人だから――そんな常識にとらわれて、僕らの幸せを悲観しなければならないいわれはないよ」 「――……それならいいのだけれど」 私は泣きそうな声を叱咤して、ようやくそれだけを言葉にした。それ以上、何か言うことはできなかったので、私はテーブル越しに身を乗り出して雷蔵に口づけた。それから、唇を離す刹那、間近で見つめ合った彼の目に『今生でも傍にいていいか』と尋ねる。雷蔵は是と言葉を発する代わりに、もう一度、微笑してみせた。 pixiv投下2014/02/09 |