たぶん、お互いさま
1. 八月。忍術学園の夏期休暇の最中、不破雷蔵は宿場町の旅籠にいた。休みの間だけ、旅籠で雇われているのだ。図書委員会の後輩・摂津のきり丸が言うところの『あるばいと』というヤツである。 比較的、裕福な豪農の家の出の雷蔵は、本来、短期の雇われの仕事をする必要はない。忍術学園の生徒の中でも恵まれていることに、休みには暖かく迎えてくれる家があるし、そこに帰省すれば不自由のない暮らしが待っている。これまで、雷蔵は何の疑問もなく長期休みの間は実家に帰っていたものだった。 だが、少し前の実技の時間に同級の鉢屋三郎と本気で闘ってから、雷蔵の中で何かが変わった。もっと技を磨きたい、忍として認められたいという願いが強くなってきたのだ。もはや休暇にのんびりと帰省するような気にはなれなかった。これから、どう頑張ったところで一年半ほどしか残っていない学園生活――その中で、自分はどの技を磨いていくのか。雷蔵は迷いに迷った。自分は戦場で闘う戦忍よりも、人々の間に紛れ込んで情報を聞き出す順忍に向いているらしい。教師にも言われたことがある。そこで、ようやく決心がつく。 ――変姿の術を練習しよう。 同室の三郎の得意とする変姿の術は、大衆の間に紛れ込むために重要な術だった。順忍ならば必要となるだろう。練習して損はないはずだ。決して、三郎が得意な術に自分も習熟しておきたいという理由ではなく――。こうして、雷蔵は夏期休暇中、自分以外の人間になりすまして働くことを決めたのだった。 「――いらっしゃいませ。さぁ、こちらへどうぞ」 雷蔵は快活な声で挨拶して、客を旅籠へと案内した。いつもより所作に気をつけて、丁寧に敷居をまたぐ。今の雷蔵は、不破雷蔵ではなく『お雷』という名の娘である。変姿の術の中でも細かな気遣いを要する――そうであるがゆえに大雑把な自分が苦手とする――女装を磨くために、雷蔵は娘と偽ってこの旅籠に雇われていた。 そもそも、こういう旅籠は女手を多く必要とするものだ。雷蔵――『お雷』に与えられた仕事は、客の案内から食事の世話、風呂焚きなど多岐にわたった。毎日、目が回りそうな忙しさである。それを所作に気をつけて、女性らしい仕草で行わねばならないのだから、気疲れすることこの上なかった。 しかも、である。 「女中さん、あんた、かわいらしいねぇ」 表通りから旅籠の中へ案内しかけた客が、さりげなく腰をなで回してくる。雷蔵は内心、げんなりした。三郎には授業の度に女装が下手だと嗤われたものだが、こうやって妙なことをしてくる客はけっこう多い。変姿の術の専門家たる三郎の助言は的確だろうから、おかしいのは客たちの目だ。皆、どこに目が付いているのやら分かったものではない。 「まぁ、お客さん。お上手ばっかり」 雷蔵は愛想笑いをして、さりげなく客から身体を遠ざけた。その後も幾度か忍び寄ってくる手をかわしながら、部屋までの案内を済ませる。それくらいのことは、忍術学園の実技の授業に比べればたいして難しくはなかった。 「それでは、どうぞごゆっくり」 不埒な行いに及ぼうとする客を、雷蔵は何とか笑顔で部屋にたたき込むことに成功した。早くも刻限は夕飯時に近づきつつある。雷蔵は食事運びの手伝いをしようと、台所へ足を向けた。 そのときだった。 ざわざわざわ。俄かに表が騒がしくなる。雷蔵は不思議に思って、玄関へ出た。そこでは、身なりのいい武士たちがぞろぞろと、部屋へ上がる準備をしていた。他の女中たちが慌ただしげに、彼らが足を洗うための水桶を抱えて走り回っている。雷蔵はそのうちの一人を呼び止めた。 「ねぇ、あのお侍さんたちはどうしたの?」 「あぁ、あの方たちは備前のお殿様のご家来衆らしいよ。旅の途中で予定が狂ったらしくって、今日はうちでお泊まりなんだって」 「へぇ……」 雷蔵が女中と話し込んでいると、年かさの女中がぴしりと言った。 「二人とも、口じゃなくて手を動かしな。お雷は台所へ行って、料理の追加を頼んできておくれ。――さぁ、働く働く!」 「「はぁい」」 雷蔵は話をしていた女中と声をそろえて、返事をした。こういうところでは、年長の女に逆らうべきではないとこの仕事をするうちに学んだのだ。雷蔵はすぐさま台所へと向かった。 やがて日が暮れると、武士たちの一行は宴を始めた。酒を大いに頼み、唄い、踊りのどんちゃん騒ぎだ。やがて、そのうちの一人が置屋へ走り、遊女を呼びにいった。 この宿場町は、京ほどではないにせよ、京への街道筋にあって古くから賑わう地所である。遊女も、きちんとした置屋ならば、芸事を修めた格式ある者が多かった。宿屋で下働きをしながら春をひさぐ飯盛女とはわけがちがう。 一刻ほど後、かわいらしい女童に付き添われて、美しく着飾った遊女がしゃなりしゃなりと道中を歩いてきた。宿屋の玄関で彼女を迎えた雷蔵は、その顔を見るなりはっと息を呑んだ。 美しい女である。 切れ長の瞳に、濡れ羽のような黒髪。遊び女らしく白粉を塗り重ねた顔は、行灯の弱い光の下でも整っているのが分かる。形のよい彼女の唇は鮮血のように鮮やかな紅で彩られていた。 じりり、と胸の奥が焦がれるような感じがする。それに気づいて雷蔵は焦った。いくら美しい女だからといっても、相手はこの宿場町でもおそらく最高位に近い遊女のはずだ。雷蔵を含めて並の男では、恋仲になるどころか、一夜すら共にできないだろう。そんなことは承知のはずなのに――どうして、こんな風に心動かされるのか。 女中の“お雷”として遊女に丁寧に対応しつつも、雷蔵は自分を戒めようと拳を握りしめた。そのときだ。 ちらり、と遊女がこちらを一瞥した。 途端、雷蔵は悟った。――この遊女、三郎の変装だ。根拠がどうとか理屈がどうとか、そういう問題ではない。ほとんど本能の部分で、雷蔵は遊女の正体に確信を持っていた。 ――お前、何やってるんだよ。 そんな言葉を込めた視線を、遊女に投げかけてみる。三郎は? ――いや、違うのだろうか? ――それでも三郎に思える遊女は、雷蔵の視線を無視するかのように、さっと前を向いた。早く案内せよというように、彼女はしゃなりしゃなりと歩き出す。雷蔵は慌てて遊女の前に立ち、彼女を座敷へと案内した。 宴の騒ぎのうちに、夜は更けていく。 給仕として幾度となく侍たちの座敷を訪れた雷蔵は、妙な違和感を覚え始めていた。侍たちの立ち居振る舞いや雰囲気が、どこか普通ではないようなのだ。ただ、はっきりとした根拠は分からない。こうなると、生来の悩み癖でぐるぐると考え込んでしまう。 (――僕はどうしたらいいんだろう? 違和感の原因を確かめるべきだという気もするけど、でも、何もないのかもしれない。そもそも、忍務でもないんだし……。でも、どうにも嫌な予感がしないでもない……っていうか、あの三郎が変装しているような遊女も何だか怪しいし……。うーん……) どれほど考え込んでいただろうか。気づけば、雷蔵は下げた膳を持って廚へ戻るところを、客間の並ぶ一角まで来てしまっていた。 今宵、宿の客入りはそこそこといったところだ。閑古鳥が鳴くほどではないが、全部の客間が埋まっているわけでもない。雷蔵が通りかかった辺りは、空いている――はずだった。 ところが。 誰もいないはずの客間から、かすかな気配を感じた。よくよく耳を澄ましてみれば、衣擦れの音も聞こえてくる。不審に思った雷蔵は、慎重に障子を引いた。細く開いた隙間からのぞき見る。開いたままの雨戸から月明かりが差し込む室内で、折り重なった影がうごめいていた。 「――ふっ……っ…………ぁ」 押し殺したあえかな喘ぎ声が聴覚に触れ て、雷蔵はそこで何が起きているのかを悟って赤面した。たぶん――というか、十中八九、この空き間で行われているのは、重大な謀ではない。秘め事ではあるのかもしれないが……。とにかく、詮索するのは無粋だろう。 仕事に戻らなくては。 ひとり気まずい思いで雷蔵は踵を返した。そのときだ。ぐぃと肩を掴まれて、思わず声を上げかける。しかし、暗闇から伸びてきた大きな手が雷蔵の口をふさいだ。 「――静かにしろ」押し殺した男の声と共に、たくましい身体が押しつけられる。「騒ぐなよ、娘。騒いだらお前の細い首をへし折ってやるからな」 それは不可能だろう、と雷蔵は冷静に考えた。自分を押さえつけているのが何人かは見えない。だが、どんな屈強な男だろうと、そいつが若い娘だと思っている雷蔵は、実のとこ鍛錬を積んだ忍たまなのだ。そうそう簡単に殺されてやるはずもない。 とはいえ、忍にとって肝心なのは、誇りをかけて討ち死にすることではない。たとえ侮られても、泥を啜ってでも生き延びることこそが忍びの道というものである。雷蔵もそのことは学園の教師たちから骨身にたたき込まれていたため、あえて相手の誤解を解こうとはしなかった。 あくまで娘と思いこませたまま、慎重に反撃できる隙を探す。 「お前も聞いただろう? 我が殿は遊女に相手をしてもらっている最中さ。俺も女を買いに出かけようかと思ったが、ちょうどお前がいたというわけさ。なぁ、相手をしてくれるだろう?」 どうやら侍は、間者を警戒していたわけではなかったらしい。すでに頭の中は交合のことでいっぱいらしく、着物越しに雷蔵の腰をなで回した。布越しに触れているのが男の尻だとは微塵も気づかないらしい。 雷蔵は内心、ため息を吐いた。 ――付き合うふりをして、隙を見て気絶させるか。 そう思って、頷く。 「……そうかそうか。なら、どこか別の間を探そうか」 男は雷蔵の手を引いて歩きだした。そのとき。先ほど衣擦れの音が聞こえていた間の障子が開いて、着物の乱れた遊女が出てきた。大きく開いた胸元や少し乱れた髪が、ぞくりとするほどに色っぽい。彼女は男と雷蔵を見て、すぅっと目を細めた。帯に挟んでいた扇を手にして、口元を隠す。 「二人して、どこへお行きなの?」 「さっきあんたも行ってたところさ。極楽だよ」侍はにやついた口調で答えた。 「そう。だったら……一人で行きな」 遊女は侍に向けて扇の風を送った。つんとした匂いが鼻について、雷蔵は扇に薬が仕込まれていたのだと悟る。匂いからして、雷蔵にも耐性のある弱い眠り薬のようだった。 案の定、侍はぐにゃりと力を失って、その場にくずおれてしまった。 2. 「もしかして、三郎……?」 雷蔵は小声で尋ねた。すると、遊女はにやりと笑ってみせる。顔立ちこそ美しい女のものだが、人を食ったようなその表情は確かに鉢屋三郎だった。 「お前、どうして……?」 《――シッ。話は後だ》雷蔵の問いに、三郎は矢羽音で返してきた。極秘の忍務の最中らしい。きっと女装も忍務の一環だったのだろう。《雷蔵、取りあえず逃げるぞ》 《逃げるって。僕はここで働いてて、お給金もまだ……》 《のんびりしている暇はないんだ。面倒事に巻き込まれたくはないだろう?》 三郎に急かされて、雷蔵は女中姿で着のみ着のまま、庭から脱出した。何も悪いことはしていなかったのに、これでは自分が曲者みたいではないか、と思わないでもない。一方、本物の“曲者”である三郎はといえば、まだ用があるからと宿屋に残った。 そうして、雷蔵は通りを走り、三郎に教えられた店に駆け込んだ。そこは宿屋や茶店に遊女を送り出す置屋だった。が、ただの置屋でもなかったらしい。三郎に言われた通りに店の主に伝えると、彼は心得たように頷いて雷蔵を奥の間へと案内した。白粉や香の匂いが濃く残るその場所は、実際にこの店の遊女が使っている控えの間のようだった。 雷蔵はもの珍しく部屋の中を見回した。鏡台には様々な化粧道具が散らばっている。化粧道具は同室の三郎のものを見慣れているが、遊女の控えの間の道具はまた違う印象があった。化けるためではなく、装うための道具。その一つ一つも、女性が好むように美しい塗りや細工が為されていた。 雷蔵はひどく新鮮な気持ちで、鏡台におかれた紅筆を手に取った。自分も女装のために紅筆を使ったことはある。だが、今、手にしている細い紅筆を使って三郎が遊女の扮装をしたのだろうかと思うと、腹の底でぞろりと熱が蠢くような感覚があった。 (三郎相手に、何を考えてるんだ、僕は!) そう思うのに、誘惑に勝てない。雷蔵は誘われるように紅筆でそっと自分の唇をなぞった。筆先に残っていた赤い紅が唇に移る。鏡を見ると、そこには初々しい姿に不釣り合いなほど艶めかしい赤の紅を指した娘が映っていた。 似合わない。けれど、これは――今宵の三郎の紅と同じ赤。雷蔵は宿屋で見た遊女姿の三郎を思い出しながら、無意識に紅を指した唇を人差し指でなぞった。 そのときだ。 「おイタはいけませんよ? 娘さん」柔らかく艶めかしい女の声音と共に、遊女が襖を開けてしとやかに室内に入ってくる。彼女はそこで急に男の声になった。「……紅を見て思いを馳せるほど、私が恋しかったかい? 雷蔵」 「……誰がお前を想っていたって?」 雷蔵は抑えた声で尋ねた。動揺を押し隠したつもりだが、どうも隠せている気がしない。現に遊女――に扮する三郎はくすりと余裕の笑みをこぼした。 「隠したって無駄だ。そんなカオをして、私を欺けると思うのかい?」 「そんなカオって、どんな顔だよ」 三郎は微笑したまま、顔を近づけてきた。あまりの距離の近さに怯んで、雷蔵は思わずあとずさる。背中が背後の鏡台に当たって、カツンと音がした。これ以上は逃れられぬという警告の音だ。 はっと息を呑んだ雷蔵に吐息が触れるほどに近づいた三郎は、たっぷり艶を含んだ声で囁いた。 「自分で分からないのかい? 抱いてほしいってカオしてるのが」 「だっ……! 抱いてほしい!? 冗談じゃない! そもそも僕らは不仲なんだぞ。なんでお前に抱かれたいなんて思わなきゃならない?」 「不仲? そうかもしれない、けど惹かれてることは確かだ。嫌よ嫌よも好きのうちって言うだろう」 ――僕とお前の件に関しては、嫌よは本当に嫌なんだ。 そう言い返そうとしたときだった。三郎がぐいと顔を近づけて、二人の間にわずかに残されていた空間を埋めてしまった。唇がぴたりと重なり合う。ちょうど開いていた唇の合間からするりと三郎の舌が滑り込んできて、口内を辿った。 三郎の好き勝手にさせておくのは癪で、雷蔵も舌を伸ばす。口内を勝手に辿る三郎の舌を阻むように、舌同士を触れ合わせて絡めた。そのぬめる感触に、ずくりと腰の奥で熱が生じる。 まずい。そう思ったものの、三郎との口づけがあまりにも心地よくて、やめるきっかけが見つからない。自分から相手の顔に手を添えて引き寄せ、口づけの興奮のままに結った髪をかき乱す。 がくりと本格的に膝に力が入らなくなる。そこで、ようやく、雷蔵は首をふって三郎の口づけから逃れた。自分の身体をまともに支えていることも難しくて、不本意ながら目の前にいる三郎の肩に額を押しつけて荒い息を繰り返す。遊女の着る豪奢な着物からは香と白粉の匂いがしたけれど、その下にあるのは確かに三郎の身体だと分かった。細身ながらも鍛えられた筋肉の感触と、トクトクと少し早い鼓動とが伝わってくる。結い上げた三郎の黒髪は今や解けて、肩口でさらさらと雷蔵の頬を撫でたていた。 ――髪……? ふと雷蔵は違和感を覚えた。変装をしている三郎は、かもじを着けているはずだ。それなのに、自分は口づけに夢中になってかなり乱暴に彼の髪をかき乱してしまった。かもじならば、ずれたり落ちたりしていてもおかしくはない。にも関わらず、三郎の黒髪は結い目が解けただけで、どこも不自然な様子はない。 ――ということは、もしかして、今の髪はかもじではなく三郎自身のものなのだろうか? いや、疑問点はそれだけではない。先ほどかわした口づけはかなり激しかった。雷蔵は三郎の顔に手を添えて引き寄せまでした。しかし、そのとき何も違和感を覚えなかった。触れた感触はどこまでも柔らかな肌のみ。三郎が仮面を着けているような感覚はなかった。 ぎょっとして、雷蔵はとっさに自分の目を両手で覆った。 「何をしてるんだい? 雷蔵」 「何ってお前、今、仮面を着けてないだろ。素顔に女の化粧をしているだけなんじゃないか?」 「あぁ、よく分かったね」 三郎はこともなげに言った。彼の平然とした様子に、かえって雷蔵の方が慌ててしまう。 「よく分かったね、じゃない! さっさと仮面を着けろよ」 「なぜ?」 「なぜって……。素顔を見せないのは、少なくとも学園におけるお前の信条なんだろ?」 「まぁ、そうだけど。ここは学園じゃないからね。……それに、私は別に君になら見られてもいいと思ってるけど?」 「僕は見るつもりはない」 「それじゃ、好きにしな。……私も好きにするから」 三郎がそう言った直後、雷蔵は両目を覆う手の甲に柔らかく濡れた感触が触れるのを感じた。ちゅっ、ちゅっとやんわり吸いつき、離れていく。それが三郎の唇だと気づいて、雷蔵はいっそう動揺した。 「やめろよっ」雷蔵は両手で目を覆ったまま、弱々しい抗議の声を上げた。 「嫌だね。私は好きにすると言ったろう?」 そう言いながら、三郎は雷蔵の身体を畳の上に押し倒した。シュルシュルと帯を緩め、あっという間に着物の前を肌蹴られてしまう。無防備にさらした胸元に口づけが降ってきて、雷蔵は思わず身体を跳ねさせた。 それでも、両目を覆った手は外さない。意地のようにそうしていると、三郎はふと愛撫の手を止めた。じっと雷蔵を見下ろしている、そんな気配を肌の上に感じる。どれくらいそうしていただろうか。 「強情だなぁ」三郎は呆れたように呟いた。それから、ひどく優しい声になって言う。「……――でも、そういう君が……好きだよ」 「っ……」 三郎の声を聞いた刹那、どんな愛撫よりも大きく鼓動が跳ね上がった。かっと身体が熱くなる。雷蔵は自分の変化に戸惑いながら、浅い呼吸を繰り返して内にこもった熱を逃そうとした。 けれども、そんな努力は焼け石に水でしかない。今や身体は火のようで、心の臓は飛び出してしまいそうなほど脈打っていた。熱くて熱くて、どうしていいのか分からなくて、勝手に涙がにじんでくる。 「雷蔵!?」 三郎はこちらの様子に気づいて、慌てた声を上げた。有無を言わせぬ力で雷蔵の顔を覆う手を取り去ってしまう。行灯の明かりを受けて、秀麗な彼の素顔が見えた。 「……どうして泣くの? 私に触れられるのがそんなに嫌なの?」 「っ……。分からないよ……わかんない」 「そう……。なら、それでいいよ」 宥めるように頷いて、三郎は雷蔵の目元に唇を触れさせた。温かく湿った感触に、彼が涙を舐めとったのだと分かる。 「お前は……ズルいよ……。ズルいから、嫌いだ」 「ズルい?」 「だって、そんな風にされたら……お前を好いてしまうじゃないか」 「私は雷蔵に好かれたくてやってるんだもの」 言葉遊びのように言いながら、三郎は愛撫を再開する。一度、目を覆う手を外してしまった雷蔵は、再び目隠しする気にもなれずに指先で畳を引っかいた。目を開けていると、行灯に照らされて重なり合う遊女姿の三郎と娘姿の自分はひどく奇妙だった。艶めかしい紅の着物と初々しい桃の着物が混じりあって、畳の上に衣の海ができている。雷蔵たちはその最中で埋もれるように抱き合っている――おかしな光景は、しかし、雷蔵の中の熱を妙に煽った。気がつけば、雷蔵は三郎にしがみついて彼の愛撫をどん欲に受け入れていた。 「らいぞ……。私を好いてよ……ねぇ……本当に、さ……」 身体を繋げる瞬間、三郎は喘ぐように懇願した。真実のこもった声音。しかし、雷蔵が答えるよりも早く、返事を阻むかのように三郎の熱が押し入ってくる。 初めて身体を開かれる痛みと衝撃に悲鳴を上げながら、雷蔵は三郎を掻き抱いた。頭の中では、彼への返答がばらばらの破片になって飛び散っている。雷蔵は懸命にその破片をかき集めた。 ――お前を好くなんて、まっぴらごめんだ。だって、お前は僕のものにはならない癖に。 3. 三郎は行為の後、ほとんど気を失うように眠ってしまった雷蔵の傍らにいた。彼の身体を拭ったり、着物を着せたりと自分自身も意外なほどに甲斐甲斐しく世話をする。最後に薄化粧に彩られていた顔を拭いてやると、ようやく普段のあどけない雷蔵の素顔が現れた。久々知のように分かりやすい美形ではないが、それでも彼は人を――少なくとも三郎を惹きつける面差しをしている。久しぶりに目にするその顔に、我知らず笑みがこぼれた。 実のところ、三郎はつい最近まで雷蔵を苦手だと思っていた。それなのに、どうしても気になってしまう相手だと。それが間違いだったと分かったのは、つい先ほどのことだ。 きっと、自分はごくごく最初から雷蔵を欲しがっていた。けれど、強すぎる執着は忍の三禁を犯すことになる。忍としての天賦の才があると評される自分が、まさか三禁に囚われるなんて認めたくなはない。そんなちっぽけな矜持のために、雷蔵のことなど欲しくないと自分の心を偽り続けていたのだ。 雷蔵を抱いた瞬間にそのことが分かった。分かって、しまった。 一度、気が付いたら、もう自分を欺くことはできなかった。同室で雷蔵の寝顔なんて見慣れているはずなのに、それでも安心しきった様子が可愛らしくて、愛しくて。思わず、髪を梳いてやって、閉ざされた目蓋に唇を落とす。 「すきだよ。君がすき」 ほとんど吐息みたいに囁くと、眠っているはずの雷蔵がゆっくりと目蓋を開けた。 「……さぶ、ろ……?」 「ここにいるよ。今はまだ、お休み」 「ん……。ぼくも……ぼくも、お前のこと……すきだよ」 花開くようにふわりと微笑んで、雷蔵はことりと眠りに落ちる。意外すぎる告白に、しばらく三郎はその場から動けなかった。雷蔵も少なから自分のことが気になっているようには感じたけれど――まさか、これほどまでにはっきりとした告白を聞くことができるなんて。 「反則だぞ、雷蔵。……まったく、君にはかなわないよ」 三郎は幸せそうにぼやいた。 翌朝。目覚めた雷蔵は自分が見慣れぬ部屋にいるのに気付いた。そこで一気に昨夜の記憶が戻ってくる。 (――僕、臨時雇いの宿屋から逃げてきて、しかも三郎と……!) 昨夜の交合を思い出した雷蔵は、勢いよく布団の上に起き上がった。熱を帯びる頬に両手を宛がったところで、自分の身が清められて新しい衣を着せられていることに気付く。抱かれることを“相手のものになる”とはよく言うものだが、三郎に隅々まで世話をされる自分はまさに彼のものになってしまったかのようだと思った。 そんな感覚が忌々しい――と言いたいところだが、何よりも嬉しさが勝っている。 (う……。嬉しいって、何だよ……!) 自分自身を叱ったときだった。 「何を百面相してるんだい? 雷蔵」 障子を開けて、三郎が入ってきた。遊女の化粧を落として、雷蔵と同じ顔に戻っている。それを見て、雷蔵はほっとしたような残念なような気持ちになった。彼の素顔を明るい日の下で見てみたかったような、やっぱり見たくないような。そんな感情を隠して会話を続ける。 「何って……。とにかく、説明してくれよ。お前はどうして、この宿場町にいるんだい? どうやら忍務だったようだけれど……」 「ちょっと実家絡みの忍務でね。そんなことより、雷蔵!」唐突に、三郎は雷蔵に詰め寄ってきた。布団の傍らに正座して、がっしりと雷蔵の肩を掴む。「私は決めたんだ」 「決めたって何を?」 「君が好きなんだ。将来は君と、双忍として生きていきたいていきたい!」 「そう……言われても……」雷蔵は驚いて答えた。 「ねぇ、頷いておくれよ。君なしの人生なんて、考えられないんだ。……君だって、私が好きだと言っていたじゃないか。だから、ねぇ」 三郎にまくし立てられて、雷蔵はおずおずと頷いた。勢いに負けたというのもあるが、やはり心の奥底に沈めた三郎への好意が大きかったせいもある。雷蔵の返事を知って、三郎はひどく幸せそうに微笑した。 ――だけど、本当のことを言うと、絆されるべきではなかったと雷蔵は思う。 自分では彼を繋ぎ止めることはできないと、薄々は感じていた。だから、きっと最初から望まぬようにと本能的に三郎を嫌いだと自分に言い聞かせていたのだろう。 後になって思えば、自分の本能的な判断はどこまでも正しかった。 それを無視したがために、まさかあんなことになるなんて。 1.2014/04/06 2.3.2014/04/27 |