おくることば





 梅の花が咲く頃。
 鉢屋三郎は夜が更けてもなお、委員会室で仕事をしていた。この時期、学級委員委員会は忙しい。六年生が卒業してしまうためだ。最上級生の卒業から新学期までの期間、さまざまな学園の事務を取り仕切りながら、守りが手薄になるこの学び舎を守るための算段をつけるのは、学級委員委員会の仕事だった。
 委員会室には三郎しかいない。同じ委員会の尾浜勘右衛門は、先ほど学園の事務室に資料を取りに行くからと出て行ったままだ。この進み具合では今夜は雷蔵の待つ自室に戻れないかもしれない、と三郎はため息を吐いた。
 そのときだ。感覚が微かな気配を捉えた。
 ――誰かがいる。勘右衛門ではない、誰かが。
 三郎は静かに懐のひょう刀に手を触れた。事の成り行き次第では、すぐに応戦できる構えを取る。しかし、感覚におぼろげながら触れて来る相手の気配には、殺気や敵意のようなものは含まれていないようだった。
「誰だ」三郎は鋭く尋ねた。
「私だ」
 答えて障子を開けたのは、六年生の七松小平太だった。卒業を控えた彼の顔は、学園で過ごしていたときよりもいくらか精悍になったかのように見える。じきに世に出て行く者としての自負がそうさせるのかもしれなかった。
「七松先輩……」三郎は身体ごと、七松へと向き直った。
「さすが、次期六年生だけのことはある。気配を殺した私の存在を感じ取れるとはな」
「まだまだ先輩方には及びませんよ。それより、先輩が学級委員会室においでとは珍しいですね。いったい何のご用で?」
 七松は大股に委員会室に入って来て、畳の上にどっかりと腰を下ろした。
「鉢屋、私たちは明日、卒業する」
「存じております」
「うん。だからな、お前に説教をしに来たんだ」
「はぁ」
 三郎はわけが分からず、曖昧な返事をした。
 お説教ということは、自分が何か悪いことをしたのが前提だ。悪戯は……日課のようにしている。だけど、このところは卒業を控えて忙しい六年生相手にはしていない。いや、少しだけしたかもしれない。だが、とにかく七松相手に悪戯をしていないことは確かだった。七松はおおらかで、たとえば自分以外の――他の生徒相手への悪戯まで咎めて小言を言うような性格ではなかった。
 だとしたら、何のお説教だ?
「へへへ、今、何の説教をされるのかと不審に思っているだろう?」
「そりゃあそうですよ。心当たりがないのですから」
「そうだろうな。今宵、私がお前に伝えに来たのは説教というか……そう、お前に贈ることばだからな」
「贈ることばだなんて改まって。先輩らしくないですよ」
「私もそう思う。……だが、まぁ、これは忍術学園の伝統なんだ。卒業生は次の六年生に対してことばを贈り、卒業する。五年生と六年生だけが知る伝統だ」
「へぇ。先輩のときは、何を言われたんです?」
「私か? 私はな……突っ走らずに周囲を見なければ死ぬぞと言われた」
「――……。先輩、その助言、守ってます?」
「もちろん――守るわけがないだろう!」七松は胸を張った。「だいたい、突っ走るななんて助言はつまらん。私にとっては“いけどん”であってこそ、生きている意味があるんだからな!」
 三郎は思わずズッコケそうになった。
「……自分すら守らない助言を後輩になさるんですか!」
「うん。だって、そういうものだろう。先を行く者は、後ろに付いて来る者が転ばぬかどうか心配してしまうものだ。たとえ、そいつらが本当は自分で自由に走り回れるって分かっていても、そうせずにはいられない。我が子が大人になっても守ろうとする母親と同じ……それが情というものだ」
 そう言った七松は、穏やかに微笑していた。見たことのない大人びた笑み。その表情に、三郎は不意に強く時が流れ去ろうとしているのを悟った。五年間を同じ学び舎で過ごしたこの先輩も、じきに行ってしまうのだと。途端、身を切るような寂しさがこみ上げて来る。
 お前は案外、寂しがり屋だからね、と笑う雷蔵の傍が急に恋しくなった。二人でしとねに潜り込んで、境界線も分からなくなるほどにくっついていたい。そうしなければ、きっとこの身を削がれるような寂しさは消えないだろう。
 しかし、この場に雷蔵はいなかった。少しの肌寒さを感じながら、三郎は七松を促した。
「それで、先輩は私にどんな助言をくださるのですか?」
「あぁ、それだ。お前、不破と双忍になるつもりなんだろう?」
「えぇ。……本来なら一人で行動する忍が二人で組むのは不利だ、無理だと仰せになるおつもりですか?」
「いいや。私はそんなこと、少しも考えちゃいない。双忍たることの難しさは、それを目指しているお前と不破が最もよく知っているだろうさ。――実はな、長次は今、不破のところに行っているんだ。もちろん、私と同じ目的で」
 七松はそっと、彼の同室で雷蔵の委員会の先輩にあたる中在家長次のことを打ち明けた。彼が雷蔵にするであろう忠告の内容まで。それによれば、中在家は雷蔵に覚悟を問うつもりらしい。本当に双忍として生きていけるのか。その覚悟を。
「では、先輩はどんな助言を?」
「私はな、お前に信じろと言う!」
 短く力強い言葉。三郎は意外な台詞に目を丸くした。
「信じるって何をですか?」
「お前を。それに、不破を。――他には何もないだろう?」
「はぁ……。ですが、忍というのはそもそも仕事柄、疑って勘ぐってこそのものですから」
「もちろん、そうさ。だが、お前と不破は普通の忍になるんじゃない。双忍になるんだ。忍の世界は闇の世界。裏切りと疑いに満ちている。そうでなければ、生きていけぬ世界だ。長くいれば、どうしても疑い深くなる。己も愛する者も、信じられなくなるかもしれぬ。だからこそ、お前は自分と不破を信じろ。生命を賭けてでも信じろ。――これが私の助言だ」
「先輩……」
 いつになく真摯な七松の言葉がまっすぐに三郎の胸に落ちてくる。なぜ七松がその助言をしたのか、三郎には理解ができた。幼い頃からほとんど一人前の忍として完成していた三郎である。忍として、感情を切り捨てることはたやすい。難しいのはむしろ、己の想いを優先することだ。
 雷蔵と恋仲になったのは、おそらく、若さと未熟さゆえ。そのおかげで、自分の中に出来上がっている忍としての心の壁を乗り越えて、彼を愛することができた。だが、今後、忍として完成されていけば、自分はどうなるか。心は冷え切って、いずれ雷蔵さえも信じられなくなるかもしれない――双忍の道を選ぶにあたって、その恐れは常に三郎の心にあった。七松は、それを見ぬいていたらしい。乱雑そうでいて、野生の獣のように勘の鋭い七松らしかった。それに、放っておくこともできるのにわざわざ助言するとは――彼もまた、自分の先輩なのだなと納得する。
 六年生たる者は、これほどまでに後輩のことを気に掛けているのだ。
 果たして、春からの自分にそれが可能だろうか――と、三郎は尊敬の思いで七松を見つめた。ところが。
「――と、まぁ、つまらん話は置いといてだな」七松は急に意気揚々とした笑顔になり、片膝を立てた。「鉢屋、卒業の祝いに素顔を見せろ」
「げっ。いい話をしてたのに、台無しじゃないですか。お断りします」
「そう言うなって」
「嫌ですったら、嫌です」
「いいだろう、減るもんじゃなし」
 七松は身を乗り出した。
 ――このままでは危険だ。
 予感を覚えた三郎は、さっと立ち上がった。背後の窓を開け放ち、さっさと庭に飛び降りる。春になりきらぬ庭先はしんと冷えていた。夜空には、円い大きな月が掛かっている。忍にとっては忌むべき月明かり――その下で、三郎は七松を見据えた。
「素顔を見せるのは、雷蔵だけと決めています」
「それでは私がつまらん。卒業前にその素顔、見せてもらうぞ!」
 七松は苦無を構えて、飛びかかってきた。さすがに速い。だが、三郎とて負ける気はなかった。庭石を蹴って、背後の松の木の枝へと飛び移る。
「そんなに見たいのなら、腕ずくでどうぞ!」
「望むところだっ!」
 叫びあっていたのが聞こえたのか、図書室の窓から雷蔵と中在家が顔を出した。
「騒がしいと思ってたら、三郎、何してるんだよ!」
「ごめん、雷蔵! だって、七松先輩が君にしか見せたことのない素顔を見るって言って聞かないもんだから――」
「――それは……ぜひ、見てみたいものだな…………」
 雷蔵の隣で中在家がぼそっと呟く。雷蔵はぎょっとして自分の先輩を振り返った。
「な、中在家先輩?」
「――……その夜練に……混ぜてくれ……」言うが早いか、中在家は庭に出て来た。
「先輩方……そんな卒業前夜なんですから、どうか……」雷蔵は三郎に加勢すべきか、騒ぎを止めるべきか迷ってもごもごと言っていた。が、六年生二人がかりで三郎が窮地に立たされるのを見るや否や、庭に飛びだしてきた。「駄目です! 三郎の素顔は暴かせません!」
 そこへ、潮江に追い立てられた尾浜と立花に追われる久々知もやって来た。最後に食満と善法寺の不運な出来事に巻き込まれかけた竹谷も逃げてきて、六年生対、五年生の賑やかな戦いに発展する。
 最後の夜練は、五年生担任の木下が騒ぎを聞きつけて叱りに来るまで続いた。
「まったく、皆さびしいからとそろって最後の最後に騒ぎをおこしよって。いつまで経っても変わらん仕方のない奴ばかりだ」
 お説教の最後に呟いた木下の声音は、ひどく暖かかった。



pixiv投下2014/03/21

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