solitude2


注意
※鉢雷ベースですが、こへ雷、こへ鉢の描写があります。
(特にこへ鉢はキス程度の接触がありますので、苦手な方は閲覧を控えてください)
※食満伊の記述があります。




 その夜、雷蔵は教えられたばかりの三郎の端末のアドレスにメッセージを送った。二人で会いたい、という内容のメッセージだ。
 三郎が望んだように彼のファミリーが七松ファミリーと同盟を結ぶとすれば、最終的にボス同士が会見をする必要がある。とはいえ、先方のボスがどんな人物なのかはまったく分からない。そのような相手を小平太に近づけるわけにはいかなかった。いずれボス同士の会見を行うとしても、それはまだ先の段階の話。まずは連絡役である雷蔵と三郎が話を詰めなければならないのだった。
 メッセージを送ると、すぐに三郎から返信があった。
《――明日、午後五時に遺跡で》
《了解》
 雷蔵は返信して、端末を閉じる。窓の外を眺めると、眼下に無数に散らばる街の明かりが見えた。
 高層ビルのほぼ最上階の資料室から見下ろすと、まるで宝石箱を地上にひっくり返したかのようだ。美しい、けれども、どこか乱雑な光景。この無数の光の下のどこかに、鉢屋三郎がいるのかもしれない――。
 雷蔵は長次と小平太から教えられた三郎の経歴と噂を思いだし、ため息を吐いた。便利屋時代から腕利きと評判だった男。気むずかしい性格だが、その分、実力がある。そして――同性、異性かまわぬ遊び人。
 彼が様々な相手に身を任せたのだと思うと、なぜか雷蔵は平静な気分ではいられなくなる。もっと三郎に近づいてみたい、彼のことを知りたい、とほとんど衝動に近い強さで心が求めるのだが、その一方で意識のどこかが警鐘を鳴らす。三郎にのめりこむな、と。
 迷い癖のある雷蔵だが、他人のことでこんな風に思い悩むのは初めてのことでどうしていいのか分からなかった。ほぅ、と思わずため息を吐く。
「――どうした……? 鉢屋三郎との接触が不安か?」自分のデスクで仕事をしていた長次が、静かに尋ねた。
「いえ……。そうではないのですが……」雷蔵は振り返って答えた。
「ならば、どうした?」
「何というか……三郎のことを考えると、どうも落ち着かなくて」
 その言葉を聞いて、長次は眉をひそめた。
「……雷蔵。いつかお前には“つがい”の相手が現れるだろう。しかし、それは同じオメガの鉢屋三郎ではない。いくら三郎に惹かれたとしても、その感情は――“つがい”の絆の前では意味を持たない」
 だから三郎に恋をするなという警告か。あるいは、一過性のものと分かっている恋に現を抜かすくらいならば、我が身を大切にせよという忠告か。おそらく、長次の言葉にはその両方の意味が込められていたのだろう。
 アルファとオメガの“つがい”の絆は、何よりも強いとされる。“つがい”は多くのアルファやオメガが生涯をかけて追い求める相手であり、ベータの憧れの対象だ。雷蔵もまた、オメガとして生まれたからには、実感がわかないながらも“つがい”の相手を夢想してみたこともある。
 そう。三郎に惹かれている気がするのは、きっと自分の錯覚だ。オメガである自分にも三郎にも、別に“つがい”の相手はいるはずなのだから。そう心に言い聞かせて、雷蔵は長次の言葉に頷いた。


***


 深夜。執務室に入ってきた人の気配に、小平太は顔を上げた。現れたのは、長次だった。コーヒーカップ二脚を乗せた盆を両手に持っている。
「お! 長次、ちょうどいいところに来たな。ちょっと休憩したかったんだ」
 小平太は書類を脇に押しやりながら笑顔を見せた。長次はそれにひとつ頷いて、歩み寄ってくる。寡黙な彼そのままの、足音のない静かな歩みだ。
 デスクの前まで来ると、長次は小平太に片方のカップを差し出した。小平太はそれを受け取って、口をつける。当たり前のように小平太のコーヒーにはミルクと砂糖がたっぷり投入してあった。
 快活で体力は人一倍――どころか二倍、三倍くらいはある小平太だが、それでもファミリーのボスの立場はやや荷が重い。デスクワークが多い上に、多方面への気遣いが必要となるせいだった。疲れてくると、小平太は甘いものがほしくなる。物心つかぬ頃から共に生きてきた長次は、そんな小平太の好みを熟知していた。
 もちろん、他の幹部も大切な仲間だ。だが、小平太にとって長次は己の魂を分けたといっても過言ではない大切な存在だと言える。ファミリーと支配地域を守るため、強く何者にも屈しないボスとして常に振る舞わなければならない小平太にとって、長次は唯一、心おきなく甘えることのできる相手だった。
「ちょーじ、疲れた」
「あぁ……。そうだな。お前はボスとしてよくやっている」
「よくやってると思うなら、頭でも撫でてくれー」
 小平太はバタリとデスクに突っ伏した。長次が律儀に頭を撫でてくれる。小平太は目を閉じて、その感触を感じた。
 柔らかに髪を梳く長次の手が心地いい。何だか眠くなりそうだ。そう思ったとき、ふと長次の声が降ってきた。
「――小平太、雷蔵のことだが」
「んー?」
「雷蔵を鉢屋三郎との連絡役に指名して、本当によかったのか?」
「……何が言いたい?」
 小平太は閉じていた目を開いた。少しだけ視線を上げて、長次を見る。しかし、彼は相変わらずいつもの無表情だった。
「……雷蔵は鉢屋三郎に惹かれているようだ。何か間違いでもあったら――」
「何の間違いがあるって言うんだ、長次? 雷蔵も鉢屋三郎もオメガだ。“つがい”にはなり得ない。――そうだろう?」
「あぁ……。そう、だな。――だが、“つがい”にはなれないと知りつつ、二人が想い合うようになったら、どうするんだ?」
「――雷蔵が鉢屋三郎と接触することに関して、確かにさまざまなリスクはある。だが、私は連絡役が雷蔵であることこそ、鉢屋のファミリーと繋ぎをつけるのに必要な要素だと思ってるんだ」
 先ほどの甘えた声音はすっかり消して、小平太は理性的な口調で考えを説明した。
 まず、三郎ほどの男が属するファミリーの存在が、これまで知られていなかったという点。これは、ファミリーが新興で無名だったという単純な話ではない。三郎や彼の仲間の便利屋を幹部としたとなれば、それなりに噂が出回るはずなのだ。噂にならなかったのは、ひとえに彼らがファミリーの存在を隠してきたためだろう。
 その秘匿されたファミリーの代表者として、三郎は雷蔵に接触してきた。雷蔵ならば連絡役となる資格があると、彼らが判断したらしい。となると、雷蔵以外の者が連絡役になれば、彼らは再び身を隠してしまうかもしれない。それゆえ、連絡役は雷蔵であることが望ましいのだ、と小平太は言った。
 それから、ふと思いついて付け加える。
「――それに、雷蔵をあいつに渡すつもりはない。そんなことは許さない。雷蔵は……私の“つがい”だからな」
 小平太はにやりと笑ってみせた。見る者がまるで獅子のようだと形容する表情。同時に一瞬だけ溢れだしたアルファ特有の支配的なフェロモンに、長次はわずかに後ずさる。ベータである彼にはアルファのフェロモンは威圧感を覚えるらしい。
 長次はため息を吐いた。それから、静かに告げる。
「小平太……。それでも、雷蔵はオメガとして未覚醒だ。雷蔵が覚醒して、お前を“つがい”と認識するまでは手を出さないという約束を忘れるな」
「分かっているさ」
 小平太は重くなった空気を振り払うように、快活な声で言った。しかし、心の中では付け加える。
 もしも――万が一、鉢屋三郎が雷蔵に手を出すようならば約束は守らないかもしれない、と。なぜなら、アルファとオメガにとって“つがい”の相手を求めることは、抗いがたい本能なのだから。

***


 翌日の夕刻。雷蔵は遺跡の図書館跡で三郎と会っていた。三郎の属するファミリー――黒木ファミリーというのだそうだ――と七松ファミリーの同盟について話し合うためである。しかし、双方の望む条件は食い違っていた。
 七松ファミリーの慣例として、同盟を結ぶ際にはまず小平太が相手のボスと会う。互いの信頼関係を確認するためだった。同時に、小平太は対面した相手をほとんど野生的ともいえる勘によって測ってもいる。この勘が意外によく的中するのだ。どれほど好条件の同盟であっても、小平太が相手のボスにいい印象を抱かなかったときには、裏切りに遭ったこともあった。
 今回も小平太からの指示は、相手の危険性を測ると同時に会見の日時を詰めよというものだった。
 だが、三郎はそれに難色を示した。まずは同盟を結ぶ確約がほしい、というのである。その保証を得てからなら、ボス同士の会見には是非にも行いたい、というのだが――。
「七松ファミリーとしてはそれは受け入れられないよ。先例がない」
 雷蔵の言葉に三郎は眉を下げた。今日も今日とて、彼は雷蔵の顔を模している。雷蔵は彼の表情を見ながら、自分の困り顔もこんな風なのだろうか、と取り留めもなく考えた。
「そこを何とかならないだろうか、雷蔵。我々のファミリーは新興で、まだ基盤が弱い。万が一、表舞台に顔を出して何かあったら――」
 三郎の言葉には、わずかに懇願の響きがあった。飄々としている風に見えて、彼はボスに心から忠誠を捧げているのだろう。
 雷蔵は三郎をいじらしく感じた。けれど、雷蔵もまたファミリーの幹部だ。己の感情よりも、ボスとファミリーを最優先に行動しなければならない。
「三郎、悪いけど、ボス同士が最初に会見をするのが七松ファミリーの同盟の条件だ。僕もお前たちのファミリーにとって物事がよく運ぶように便宜を図ってあげたいけど……そのためにはボス同士の会見が前提なんだよ」
 それに、と雷蔵は付け加えた。
 同盟が成立すれば、黒木ファミリーは七松ファミリーという強大な後ろ盾を得ることになる。少々のことでは生命を狙われなくなるはず。今、危険を冒したとしても、後にその分の利益はたっぷり戻ってくるだろう。
 雷蔵の主張に三郎は考え込む様子を見せた。
「少し、考えさせてくれないか? 私自身は君の提案はこちらにも利益が大きいと思うが……私の一存では決められない。持ち帰って、幹部とボスに相談したい」
「いいよ」頷いてから、雷蔵はふっと笑みを浮かべた。「あのね、僕はお前の味方になりたいと思ってる。そのことを忘れないで」
「うん。ありがとう……」
 ふわりと素直な笑みを浮かべて、三郎は頷いた。


 その帰り道でのことだ。
 遺跡の図書館の前で三郎と別れた雷蔵は、真っ直ぐに帰路についた。街外れの寂れた路地を進みながらも考えるのは、何とか黒木ファミリーのボスが会見に出てきやすい状況をつくれないかということだ。
「うーん……。先に同盟の確約っていうのは難しいだろうし……。となると……うーん」
 名案も浮かばないまま、頭をひねり続ける。そうやって考えごとに集中していたがために、雷蔵は忍び寄る気配に気づけなかった。
 ぶわり。
 背後で殺気が膨れ上がって、初めて雷蔵は敵の存在を悟った。ほとんど反射的に“思考する装置(シンキングデバイス)”を起動する。それと同時に、地を蹴ってすぐ脇の小道へ飛び込んだ。
 だが、敵は雷蔵が逃げたことに気づかない。細いナイフのようなもので、雷蔵のいた場所を刺し貫く。と、そこに生じていた“不破雷蔵の幻影”がサラサラと銀色の砂になって崩れ落ちた。雷蔵の“思考する装置”〈謎(エニグマ)〉によって生み出された幻影である。
 路地が暗いだけに引っかかってくれた。しかし、明るければ敵も雷蔵と幻影の入れ替わりに気づかぬほど鈍くはないだろう。夜だったのが、かえって幸いした形だ。
 雷蔵の〈謎〉は幻影を生み出す能力を持つ。攻撃よりも守備や攪乱に適した“思考する装置”だ。とりあえず、最初の一撃は回避した。だが、手の内を知られて、隠れるもののないこの場所では、ここからが本当の正念場だと言える。
 相手に先制を奪われた今、主導権をこちらに取り返さなければならない。雷蔵はすぐに相手を攻撃せず、路地を駆けだした。が、相手の方がひと呼吸早い。
 シュッ。風を切る鋭い音と共に、肩に痛みが走る。手探りで確かめれば、何か麻酔銃の麻酔のようなものが突き刺さっていた。
 毒、だろうか――?
 じわりと身体が熱を帯びはじめて、雷蔵はギクリとした。このままこの場で毒に倒れて死ぬのかもしれない、そう考えると腹の底からヒリつくような焦燥がこみ上げてくる。何度、戦いの場に立っても克服することのできない、死への恐怖だ。
 熱さはどんどん身体に広がっていく。ドキドキと鼓動が速くなる。このまま心臓が停止しいてしまうのかもしれない。飛びかかってくる敵を見つめながらも、雷蔵は恐ろしくて動くことができなかった。
 世界の物音が消えて、まるでスローモーションのように流れていく。瞬きした、その目蓋の裏にふと面影が浮かび上がった。自分の――否、自分を真似ている三郎の姿。その刹那、死の恐怖を乗り越えて、切なさが湧きあがってきた。
 知りたい。もっと三郎に接してみたい。――だから、死にたくない。まだ生きていたい。
 何よりも強くそう感じた、その刹那。音と感覚が身体に戻ってきた。雷蔵は上着を手探りした。内側のポケットの中で、指先に丸く硬いものが触れる。それを取り出して、雷蔵は相手に向かって投げつけた。
 途端、投げつけた球体から閃光が溢れでる。以前、同僚の立花仙蔵からもらった目くらましだ。仙蔵の“思考する装置”〈炎(フラムマ)〉は自在に爆弾を生み出すことができる。その練習にと彼が作り出した試作品の一つとして、分けてもらったのが思わにところで役にたった。
 予想外の反撃に敵はうめいて顔を押さえた。雷蔵はその隙に逃げ出した。目くらましの閃光を承知していて、あらかじめ目を閉じていたのだ。
 熱を帯び、次第に動きが鈍くなる身を叱咤して、雷蔵は裏通りを歩いていく。やがて、ふらふらになりながらも目の前に見えた七松ファミリーの拠点の一つに駆け込んだ。
「ら、雷蔵っ……!?」
 仲間の一人が中に入ってくるなり、うずくまってしまった雷蔵に慌てる。しかし、雷蔵は何も言うことができなかった。いよいよ身体が熱っぽく、息苦しくてそれどころではなかったのだ。
 慌てふためく周囲の物音を意識の遠くに聞きながら、雷蔵はやはり自分は死ぬのだろうかと考えた。


 熱い……。身体が燃えるかのようだ。
 あまりの苦しさに雷蔵は目を開けた。頭上にあるのは、真っ白な天井。雷蔵は手を伸ばしてみる。視界に自分の腕が映った。
「……僕……死んで、ない……」思わず呟く。
「――目が醒めたんだね、雷蔵」
 優しい声音と共に、穏やかな面差しの青年が顔をのぞき込む。柔らかく波打つ黒髪を肩で緩く束ね、白衣をまとっていた。七松ファミリーお抱えの医師、善法寺伊作である。
 熱に浮かされた雷蔵が必死に駆け込んだのが、伊作の診療所だった。だが――この部屋の風景は違う。伊作の診療所ではなく、本部の医務室のようだ。
「どうして……本部に……?」
「雷蔵の疑問はもっともだ。だけど、その前にまず、今の君の状態について説明しよう」
「僕は襲われて、毒を受けて……」
「大丈夫。君は毒に犯されてなどいない。君は今、発情期が来ているんだ。さっき血液検査をしたけど、どうやら発情誘発剤を打たれたらしいね」
「はつじょう、き……? 僕、が……?」
 雷蔵は呆然として、脱力した。
 自分がオメガだということは知っていた。けれど、普通のオメガより発情期が遅れていたために、自分には来ないのではないかと考えていたのだ。油断していたがために、発情抑制剤も服用していなかった。
 まさか、こんな形で発情期が訪れるなんて。呆然として真っ白だった頭に、やがて悔しさが生まれた。
 敵は自分がオメガと知って、発情抑制剤を使ったのだろう。そのことが許せない。だが、それ以上にオメガという副性のために、こうも簡単に無力化されてしまう自分こそ、許すことができなかった。
「……くそぅ……」雷蔵はきつく拳を握りしめて呟いた。あまりの悔しさと怒りに、普段は使わないような荒れた言葉が出てくる。雷蔵は握りしめた拳で乱暴ににじんだ涙を拭った。「――くそっ……! 僕はどうしてオメガなんだろう? どうしてこの世にオメガなんて性別があるんだろう……?」
 伊作は雷蔵の拳にそっと触れた。慰めるように、労るように固く閉じた指を一本ずつ開いていく。
 ふと雷蔵は彼もオメガの副性を持つのだということを思い出した。
「――すみません……」
「いいんだよ。僕もオメガとして、雷蔵と同じように考えたこともあるからね。でもね、たとえオメガたることにハンデがあったって、オメガとアルファとベータ、この世に三種の副性があることにはきっと意味がある。オメガだからこそ、できることがあるんだって。僕はそう信じてる」
 そう言う伊作の言葉は、穏やかながらも力強かった。強固だから強いのではなく、柔らかくしなやかだからこそ壊れない毅さ――まさにオメガらしい強さだ。雷蔵は伊作を眩しく感じた。けれど、自分自身は到底、その境地には至れない。いまだにオメガであることを恨むばかりだ。ますます自分が情けなくなる。
 そんな雷蔵に、伊作は優しく微笑んだ。
「時間が経てば、いずれ雷蔵もオメガであることを受け入れられるようになるよ。だって、君の場合はすでに“つがい”の相手が見つかっているんだから」
「えっ……!?」
 自分に“つがい”がいる――?
 オメガとアルファの“つがい”は本能で引き合うものだという。けれど、雷蔵は今までそんな感覚を覚えたことはなかった。
 戸惑う雷蔵に優しく微笑して、伊作は医務室の戸口へ向かった。ドアを開けると、そこに小平太が立っていた。
 その姿が目に映った瞬間、ビリリと強い電流のようなものが身体を駆け抜ける。身体はますます熱を帯びて、しかも、昂ぶっていた。本能が、他の誰でもなく小平太を求めている。伊作に言われるまでもなく、雷蔵は自分の“つがい”が小平太なのだと感じた。
「診療所から本部へ運んだのは、ここに君の“つがい”――小平太がいるからだ。あとは君たちに任せるよ」
 そう言って、伊作は医務室を出ていく。それとは入れ替わりに小平太が入ってきて、いつになく静かにドアを閉じた。珍しく慎重な足取りで歩み寄ってくる。
 雷蔵はベッドの上に起きあがた。身体が昂ぶって辛かったが、ボスに対する礼節を忘れるつもりはない。小平太を迎えて頭を垂れた。
「身体は辛いか?」小平太は気遣いに満ちた声で尋ねる。
「……いえ、平気です」雷蔵は答えた。精一杯の虚勢だった。
「無理をするな。……私がお前の“つがい”だということは分かるか?」
「何となくですが、感じられます……」
 小平太はゆっくりと右手を持ち上げ、雷蔵の額に触れた。熱を測るような、どうということもない仕草である。だが、小平太が肌に触れただけで、ぞくりと甘い痺れが身体に広がっていく。
 衝動的に、雷蔵は理性などかなぐり捨てて、小平太に縋りつきたいと感じた。その欲求を拳を握りしめることで、何とか押しとどめる。
 相手を求めているのは、雷蔵だけではないようだった。こちらを見下ろす小平太の双眸にも、飢えた光が宿っている。雷蔵はとほんど睨むようにその目を見つめた。
「雷蔵、私ならば、お前の熱を散らして発情期を治めてやれるぞ」
「――……いいえ、ボス。僕はあなたを敬愛しております。ですが……あなたの正妻は僕では務まりません」
「何を言う? お前は私の“つがい”だ」
「申し訳ありません。……でも、僕には自分がオメガだということが受け入れられません。正式にあなたの“つがい”になることも――正妻になることもできません」
 雷蔵の言葉に、小平太は雷蔵との接触を止めて右手を握りしめた。“つがい”と交わりたい欲求を押さえつけているのだろう。彼の目にいっそ凶暴なほどの情欲の影が閃く。
「なぜだ?」小平太は唸るように尋ねた。「お前が私を受け入れないのは、鉢屋三郎のせいか? あいつに心を奪われているのか?」
「違います」
 首を横に振る雷蔵に、小平太はなおも言う。
「三郎は、お前と同じオメガだ。あの男の“つがい”の話はまだ聞かないが、あいつと寝たという者は幾人もいる。お前が唯一じゃない」
「分かっています。それに、僕があなたとの“つがい”の絆を受け入れないことに、あいつは関係ない」
 小平太の指摘に痛みだした胸を隠して、雷蔵は冷静に答えた。が、小平太はなおも三郎を話題にしつづける。
「いずれ三郎にも“つがい”の相手が現れるだろう。そのときに、あいつが“つがい”ではなく、お前を選ぶと思うか? もし三郎が“つがい”の相手を選べば、お前は生涯、孤独だというのに?」
「ボス!」
 雷蔵はほとんど噛みつくように叫んだ。ボス相手に礼を欠いた態度ではある。しかし、もうこれ以上、小平太の指摘を聞いてはいられなかった。
 小平太の言葉は図星だった。自分は確かに三郎に惹かれている。けれど、どんなに惹かれたって、三郎と“つがい”にはなれない。今、小平太を拒んでしまったら、三郎に“つがい”が現れたときには自分は孤独になってしまう。そこまで考えて、雷蔵は自己嫌悪を覚えた。
 自分は片割れを得ることを当然として、物事を考えている。それはいかにも従属的な性質を持つオメガらしい思考だ。それでは駄目だと思った。三郎も小平太も、オメガもアルファも関係ない。自分が選ぶべきと思う道を選ばなくては。雷蔵は意を決して口を開いた。
「鉢屋三郎は、何の関係もありません。それに、僕はあくまであなたの部下です。それ以外のものには、なれません」
「――好きにするがいい」
 低く吐き捨てて、小平太は医務室を出ていく。雷蔵は昂ぶった身体を抱えたまま、彼が去るのを見送った。


***


 それからしばらく、雷蔵は自室に籠もることを余儀なくされた。アルファを受け入れない身体は終始、熱を帯びて、とてもではないが出歩ける状態ではなかったのだ。
 発情抑制剤は効かなかった。そもそも抑制剤は事前に呑んでおくものだ。本格的に発情してしまうと、どうしても効果が薄くなる。自慰もあまり発情解消にはならないらしい。たとえそれで本人は少し気が紛れるとしても。
 唯一、発情期をすぐに終わらせる方法があるとすれば、アルファとのセックスだけ。伊作は医者らしい率直さで、そう告げた。雷蔵はアルファとのセックスも自慰も拒否して、ベッドで丸まっていたが。
 その伊作は、雷蔵が引きこもってからというもの、何度も部屋を訪れていた。主治医として雷蔵の経過を見るためだが、それだけでもない。
「同じオメガのフェロモンはね、発情期にあるオメガを少し落ち着かせる効果があるんだ」
 ベッドの傍らで手を握りながら、伊作は言った。確かに、手当てという言葉が表すように、伊作に触れられていると少し熱っぽさが治まるようだ。発情期になってから、ほとんど食欲も湧かない雷蔵だが、彼が傍にいる間は何とか食事も摂ることができた。
「すみません……。ご迷惑をおかけして」
 雷蔵は謝った。自分の不甲斐なさに、涙がにじむ。「気を遣わなくていいんだよ」と伊作は優しく微笑した。が、ふと表情を曇らせる。
「雷蔵は……どうして小平太を受け入れないの? 彼が“つがい”だってことは感じられるんでしょ?」
「ボスのことは敬愛しています。僕はボスには自由でいてほしい。僕個人に縛り付けたくはないんです。……こんな気持ちは、たぶん、愛とは言わない。だから、“つがい”の絆は受け入れられません」
「そう……」
 伊作は同じくファミリーの幹部でアルファの食満留三郎と“つがい”だ。二人はごく当たり前に“つがい”として互いを支え合っている。きっと、彼らにとっては雷蔵の“つがい”の相手に対する感情は、理解できないだろう。
「僕は留三郎が大好きで、彼以外の“つがい”は考えられない。たぶん、留さんの方もね。正式に“つがい”の絆を結ぶ前から僕らはそうだった。……君のように本能と感情が解離してまったケースは、どうしたらいいんだろうねぇ」
 医者として、雷蔵の状態をどうにもできないのが悔しい、と伊作は唇を噛む。雷蔵は自分の我が侭で、多くの人間に迷惑をかけているのだと実感して、泣きたくなった。


 その夜のこと。眠っていた雷蔵は、不意に傍らに人の気配を感じて目を覚ました。これほど近くに相手が来るまで気づかないとは、いまだ熱の治まらないせいで感覚が普段より鈍っているようだ。
「伊作、せんせ……?」
「残念。ハズレ」
 悪戯っぽい声音と共に、ベッドの上にボロボロと何かが降ってくる。傍らに立つ人物が、ベッドの上で手荷物の口を開いひっくり返したらしい。
 窓から差し込む月明かりの中、ベッドに散らばった品々が目に飛び込んでくる。奇妙な形をしたそれらが何なのか思い至って、雷蔵はベッドの上で飛び起きた。
 発情期の初め、アルファを受け入れないならせめて気を紛らわせるのに使うかと示された性具――いわゆる大人のオモチャというやつではないか。楕円形をしたローターに、ペニスの形状を模したバイブ。卵形に穴の空いたオナホ。しかも、どれも比較的、卑猥で悪趣味な形状のものばかり。
 雷蔵は傍らに立つ相手が誰なのか、顔を見るよりも前に悟って叫びかけた。
「っ……この、ば――」
 ――バカ野郎。何を考えてるんだよ、三郎っ。
 しかし、叫びは口に伸びてきた相手の手によって塞がれてしまう。雷蔵は相手を睨んだ。
 ベッドの脇に立つ人物は、伊作の顔をしている。しかし、その人物が空いている左手で自分の顔を撫でると、顔の表面が一瞬、銀色の液体に覆われた直後に変形して、雷蔵自身の顔に変わった。
「――らいぞう。せっかく監視の目を盗んで君に会いにきたんだ。静かにしてくれるかい……?」
 三郎を睨んだまま、それでも雷蔵はうなずいた。それを見て、彼はゆっくりと雷蔵の口元から手を離す。
「さっきのが、お前の“思考する装置”の力かい?」雷蔵は尋ねた。
「そう」あっさりと三郎は頷く。「“思考する装置”〈仮面(ペルソナ)〉――他者に変装する能力さ」
「その力で、ここまで忍び込んだんだね。いいの? 僕に自分の手の内を明かしてしまって」
「本当はよくないんだけどね。私の、君への信頼の証だと思ってもらいたいな」そう言いながら、三郎はベッドに腰を下ろした。その拍子に、ローターが一つシーツから床に転がり落ちる。けれど、彼は気に止めなかった。「君の端末にメッセージを送っても音沙汰がないから、心配してたんだよ。ここ数日、黒木ファミリーはなぜか、七松ファミリーの敵として扱われているし」
「えっ!?」そんなことは初耳だった。
「聞かされていないのか。私は君に危害を加えた――つまり、君に発情誘発剤を打って連れ去ろうとした疑いを持たれているみたいなんだ。もちろん、公式に発表はしていない。七松小平太がファミリーの幹部に君のことを話し、黒木ファミリーと敵対する意思を示したらしい」
「お前がどうしてうちの内部のことを知っているの?」
「私や黒木の他の幹部は、元は便利屋や情報屋として生きてきたんだ。甘く見てもらっては困るね」
 ということは、三郎の情報は信憑性が高いのだろう。雷蔵は考え込んだ。自分が引きこもっている間に、まさかそんなことになっているとは。これはなかなか深刻な事態である。
 小平太が幹部に黒木ファミリーと敵対する意思を示したということは、いずれ彼らを攻撃するということだ。もちろん、幹部たちの意見を聞いて、内部の意見を統一する必要はある。とはいえ、反対がなければ一週間ほどで組織全体が黒木ファミリーを敵と見なし、潰滅させる方向に動き出すだろう。
 そうしたら、新興の黒木ファミリーはひとたまりもないはずだ。三郎は飄々として見せてはいるが、ファミリーの危機を感じているからこそ、ここまで乗り込んで来たのだろう。そうでなければ、敵に回るかもしれない七松ファミリーの本部に忍び込みはしないはずだ。
「――僕、ボスのところへ行かなきゃ」
 雷蔵はベッドから起きかけた。三郎が雷蔵を抱きしめてそれを止める。彼は雷蔵をベッドに押し倒した。
「駄目だよ、雷蔵。そんな状態で部屋から出ちゃいけない。アルファに襲われるよ?」
「だけど……! お前たちは――少なくともお前は、僕を襲った犯人じゃない。だって、あいつはアルファだった! においで分かったんだ。体格だって、全然、違ってた」
「そうだね。でも、今はやめておこうね。……君の発情期がこの前に会った日からなら、すでに五日経ってる。もうピークはすぎて、明日くらいには終わるはずだ。行動するなら、それからでいい。今はもう、おやすみ」
「嫌だ! お前たちが疑われたままなんて、僕は――」
 雷蔵は三郎の腕の中で暴れた。と、三郎が目の前にズィっと殊更に卑猥な形状のバイブを突きつける。
「――らいぞ。ねぇ……眠れないのなら、その熱を散らす手伝い、してあげようか?」
 三郎は唇をつり上げて微笑した。ひどく艶めいたその表情に、三郎が自分を模した顔をしていることを一瞬、忘れて見とれてしまう。
 そんな雷蔵の視線を絡めとるように流し目を寄越しながら、三郎はゆっくりとバイブの表面に舌を這わせた。その光景を見ていられなくて、雷蔵はきつく目をつむる。それでも目蓋の裏には、なお濡れた舌の赤い色が残った。
 目を閉じても、もはや手遅れか。
 身体の芯に甘い痺れが広がる。性具ではなくて、小平太でもなくて――三郎が欲しいのだと身体の奥が疼く。“つがい”である小平太を拒んでおいて、なぜ同じオメガである三郎なのか。自分で自分が分からない。混乱のあまり、涙が溢れてきて雷蔵は両手で顔を覆った。
「――帰って、三郎」小さくそう告げる。
 けれど、三郎は離れなかった。雷蔵を抱きしめた手で背中を撫でる。
「ここにいるよ。同じオメガのフェロモンには、発情の鎮静効果があるんだ。だから」
「帰ってよぅ……」もはや涙声で、雷蔵はなおも訴えた。
「君の傍にいる。君が眠るまでいるから……だから、安心しておやすみ」
 雷蔵の願いを三郎は聞き入れず、背中をさすり続ける。いつしか雷蔵はその優しい感触に身を委ねて、眠りに落ちていた。


***


 夜明け前。三郎は眠る雷蔵のベッドからそっと抜け出した。物音を立てずに、静かに部屋を後にする。
 本部を脱出しようと廊下を歩いていると、不意に殺気を感じた。とっさに隠れようとする。が、すぐに気づく。自分はこの殺気の持ち主にすでに捕捉されている、と。逃げても隠れても意味がない。ならば、なるべく相手を刺激しないのが賢明だ、と三郎は歩みを止めた。
「こんな時間にどこへ行く? 雷蔵――否、鉢屋三郎」
 廊下に面したドアが開き、現れたの小平太だった。しなやかな体躯に野生的だが整った顔立ち――“暴君”あるいは“帝王”とあだ名されるに相応しい風格がある。
 三郎はゆっくりと小平太を振り返った。
「私が侵入したことに、気づいていたんですか?」
「あぁ。うちのファミリーのセキュリティを甘く見てもらっては困る」
「私は泳がされていたというわけですか。寛大なご処置に感謝します」
「……雷蔵に会ったんだろう。あいつと寝たのか?」
 小平太は唸るように尋ねた。その目はそれだけで人を射殺せそうなほどの殺気に輝いている。
「嫉妬するくらいなら、どうして私の侵入を許したんです?」
 静かな声音で三郎は尋ねた。その瞬間。七松が床を蹴って飛びかかってきた。あっと思った瞬間には、すでに遅い。体術に自信のあった三郎は、しかし、呆気なく小平太に捕らえられ、壁に押しつけられていた。
 普段はボスとしてかしずかれている小平太だが、自ら戦えないわけではないのだと改めて思い知らされる。“暴君”でも“帝王”でもない。野生の獅子だ、と三郎は小平太に対する認識を新たにした。呼吸するかのごとき自然さで戦い、群を守る百獣の王なのだ、と。
 その“獅子”は今や、殺気を隠しもせず、三郎の咽喉元にナイフを突きつけていた。装飾的なペーパーナイフだが、小平太の手に掛かれば十分な凶器となりえるだろう。
「――雷蔵の匂いがする」
 不意に小平太は呟いて、ナイフごしに口づけてきた。三郎は為すすべもなく、彼に翻弄される。開いていた唇の隙間から、小平太の舌が侵入してきて口内を蹂躙した。
 まるで獣が獲物を食らうかのような乱暴な口づけ。しかし、いつしか身体は勝手に熱を帯びはじめていた。それは小平太も同じようで、昂ぶった熱を三郎の腰の辺りに押しつけてくる。
 このままここで犯されるかもしれない、と三郎は感じた。それでもいい。むしろ、そうされたいと自分の中のオメガが望んでいるのが分かる。ジンと身体の芯が疼いた。
 けれど。
 不意に小平太は三郎を突き放した。というより、うっかり熱湯に触れた子どもがびっくりして飛びのくような、そんな反応だった。
「――違う。お前は私の“つがい”じゃない」小平太が傷ついたように呟く。
「そうですね」三郎は頷いた。
「私の“つがい”は雷蔵だ。だが……雷蔵は私を拒んだ。“つがい”なのに。――それでも、私は発情期に苦しむあいつを見ていられなかった。だから、お前が相手ならば雷蔵は受け入れるんじゃないかと……」
「残念ながら、私はオメガです。オメガ同士のセックスでは、発情期は終わりません。……第一、雷蔵は私のことも受け入れませんでしたよ。今日はただ、彼が眠るまで傍にいただけです」
「たとえセックスしていないとしても、雷蔵はお前を自分の傍に近づけた。あいつは私よりお前を選んだんだ。――なぜだ? なぜ同じオメガのお前なんだ? 私は雷蔵の“つがい”なのに。私にはあいつに愛情を示す間さえ与えられなかった。発情期が来てオメガとして覚醒した雷蔵は、覚醒した瞬間にお前を選んだ。なぜだ?」
 誰よりも強いはずの獅子は、しかし、ひどく傷ついて混乱しているようだった。まるで泣き方も知らない幼子のように、呆然と突っ立っている。その手からペーパーナイフが滑り落ちて、耳障りな音を立てた。
「雷蔵を奪っていかないでくれ」小平太は呟いた。「……お前にはお前の“つがい”がいるはずだ。私から雷蔵を奪っていかないでくれ」
 奪うというのは、まったく見当違いの話だった。三郎は雷蔵に惹かれているが、恋仲になろうというわけではない。しかし、そう説明しても発情期の雷蔵に拒まれた傷に苦しむ小平太には届かないだろう。
 三郎は小平太の姿を見つめた。彼を哀れだとか間抜けだとか、そんな風には思えなかった。むしろ、もう一人の自分のようだと感じる。“つがい”の存在を知らず、ただ一夜の相手を求めていた自分。庄左ヱ門が“つがい”だと分かっても、その絆を信じきれないでいる自分。
 ――この人も私も雷蔵も、きっと同じ孤独と不安を抱えている。
 そんな確信を抱いて、三郎は小平太に歩み寄った。そっと彼を抱きしめる。先ほどとは打って変わって性的なニュアンスのない抱擁だ。三郎は自分の腕の中で、小平太が力を抜くのを感じた。
「――お前たちオメガは、恐ろしい」と恐れるもののないはずの“暴君”はため息を吐いた。「決して強いわけではないのに、折れない。支配者だと言われるアルファさえ懇願させ、ひざまずかせてしまう」
 三郎はそれには答えず、宥めるように小平太の背中を撫でた。






pixiv投下2014/08/31

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