solitude6




 気がつけば、雷蔵は闇の中に立っていた。周囲には星のような光がいくつも瞬いている。雷蔵はその場所に心当たりがあった。
 ――これは、この間、夢で見た空間か……。
“守護者”を名乗る少年に出会った、あの不思議な空間にまた来てしまったのだろう。
「――誰か、いるんだろう……?」
 そう呼びかければ、背後に人の気配が現れる。雷蔵は驚くこともなく、後ろを振り返った。そこには、一度、夢の中で合った伊賀崎孫兵がいた。彼の傍らには、本部に姿を見せた少年――左門もいる。
「君たちは……仲間だったんだな。“守護者”だというから、そうかもしれないとは考えていたけれど」
「僕たち“守護者”は、今のところ、六人いるんだ!」左門が言った。
「今のところ六人って……。じゃあ、増えたり減ったりすることもあるのかい? “守護者”はどうやって選ばれるの?」
 興味を引かれて、雷蔵は尋ねた。左門が元気に答えようとする。それを制して、孫兵は曖昧に微笑した。
「“守護者”は最初から、“守護者”としてこの世界に生じるんです。それに、今のところ六人といっても、そのうち二人は眠りについています」
 一緒に来てください、と孫兵は頼んだ。どこへと雷蔵は尋ねかける。しかし、それより先に左門が右手を小さく振った。途端、三人の周囲に青白く輝く数式のようなものが現れる。次の瞬間、雷蔵たちは先ほどと似たような――けれど、どうやら異なるらしい場所にいた。左門の能力は空間移動――小平太の<思考する装置>“指し示すもの(エンブレマ)”と同類のようだ。
「あれを――」
 孫兵は真っ暗な空間の一点を指さした。そこには大きく重そうな金属製の扉があった。奇妙なのは、その場に存在するのが扉だけという点だ。扉から入っていくべき建物はどこにも見当たらなかった。
 扉は少しだけ開いている。
 その前で、紫色の長い髪の少年がひざまずいていた。少女と見間違えそうな優しい容貌の彼は、少し開いた扉の前で懸命に祈っているようだ。
 左門は少年の傍へ駆けていった。慰めるように彼の肩を抱く。
「あの子はどうしたんだい?」雷蔵は尋ねた。
「彼は三反田数馬といいます。あの扉は、この世界の中枢。そして、あの中には僕らの仲間――数馬の親友と恋人が眠っているんです」
「恋人……。数馬の“つがい”ってこと?」
「僕ら“守護者”には、あなた方のオメガやアルファにあたる副性はありません。もちろん、“つがい”の絆というものも存在しませんが……それでも、大事な相手は大事な相手です」
「副性がないのか。発情期に苦しまなくてもいいなんて、少し羨ましいな」
 雷蔵が言うと、孫兵は少し寂しそうに笑った。
「僕らは、あなた方が羨ましいかもしれません。生まれたときから結ばれるべき相手が定まっているということは……一人ではないという保障があるのと同じですから」
「結局、何事も善し悪しということだね……」
 そうため息を吐いたときだった。ギギギと目の前で少しだけ扉が開いた。わずかな隙間から、青白く輝く大きな水晶のようなものが見えた。その中には、少年が一人、目を閉じて眠っていた。
「……彼やもう一人の仲間は、どうして眠っているの?」
「世界を維持するためです」謎かけのような言葉を、孫兵は真面目な表情で呟いた。
「それって、どういう意味?」
「不破雷蔵。あなたは疑問に思ったことがありませんか? たとえば、あなたの<思考する装置>“謎(エニグマ)”は他者に幻影を見せる。あなたの仲間の善法寺伊作の“癒すもの(メディクス)”は、他者の傷を治癒する。自らの体内に飼っているナノマシンが、どうして他者に影響を及ぼすことができるのか」
 確かに孫兵の言う通りだった。
 現在の通説では、<思考する装置>の効果を発揮するためのナノマシンが、宿主の体内で増殖して空中に飛散し、周囲の空間や他者に影響を及ぼすといわれている。だが、果たして宿主が体内で生み出して放出したナノマシンだけで、そんなことが可能なのだろうか――? たとえば、雷蔵の“謎”は少なくとも三十メートル四方に幻影を見せることができる。その空間のすべてに、自分が生み出したナノマシンを放出しているとは、正直、考えにくい。
「孫兵の言うとおりだね」
「では、こう考えてみてください。ナノマシンはあまねく空気中に存在する。それらは、皆、一つの巨大なネットワークによって結ばれている、と」
「そうか! すべてのナノマシンが一つのネットワークで結ばれているなら、話は違ってくる。僕らが<思考する装置>から発した命令は、ネットワークを通じてナノマシンたちに届けられる。そうして、ナノマシンが命令通りの現象を発生させようと動くんだ……」
「その通りです。そして、この場所――僕らは“世界樹(セフィロト)”と呼んでいますが――はナノマシンを結ぶネットワークを仮想空間として示しています」
 雷蔵は改めて周囲を見回した。けれど、周囲は真っ暗で、ナノマシンたちの痕跡はちっとも見えない。
「真っ暗だけど……」
「えぇ。この空間が真っ暗なのは、ナノマシンたちのネットワークが枯れていきつつありからです。現在、ナノマシンたちは、そして世界は、一定の情報の中でループしながら、少しずつすり減っています」
「すり減る?」
「今の人類は“大破壊”の遺産で生き延びているだけです。あるのは人々の小競り合いと、日常ばかり……何か新たなものが生み出されているわけではない。空気中のナノマシンは、こうした周囲の情報をネットワーク上でずっとやりとりしてきました」
「でも、情報というのは、やりとりする内に少しずつ劣化していくものだ。それですり減っていると言ったの?」
「そうです。このままでは“世界樹”のネットワークはすり減って、発展しないままに枯渇してしまう。そこで、僕ら“守護者”のうち二人があぁして意識を眠らせ、ひたすらネットワークの維持に力を使うことにしたんです」
「なぜ、そんなことを僕に――?」
 雷蔵が尋ねかけたそのときだった。前方の扉の隙間から光が溢れた。つかの間、その光は周囲の闇を照らし出して、真っ暗な世界の本当の姿を写しだし、すぐに消える。
 やがて、扉の隙間を抜けて、一人の少年が姿を見せた。赤茶色の髪に、男らしい顔立ち。いかにも快活そうな容貌をしている。
「作ちゃん……! 目覚めたんだね!」
 扉の前にいた数馬は、泣き出しそうな声で叫んで赤茶色の髪の少年に抱きついた。二人の背後で、左門も嬉しそうにその様子を見つめている。
「何があったんだい……?」雷蔵は尋ねた。
「眠っていた仲間のうちの一人……富松作兵衛が目覚めたんです。あなたのおかげです」孫兵は謎めいたことを言った。
「僕は何もしていないけれど」
「ご自分では、そう思われるかもしれません。けれど、あなたは鉢屋三郎を受け入れることで、世界に対して心を開いた」
「僕が心を開いたとして、それが“世界樹”のネットワークにどう関係するの?」
「人々は脳に埋め込まれたチップや体内に取り込んだナノマシンを通じて、実は“世界樹”のネットワークにつながっているんです。まして、あなたは礎たる方。あなたが心を開いたことで、ネットワークは少しだけ広がることができたのです」
 孫兵がそう言ったときだった。目覚めたばかりでぼんやりした様子だった作兵衛が、急に悲鳴のような声を上げるのが聞こえた。
「藤内っ! 藤内が……」
「作ちゃん……? 藤内が……藤内がどうしたの……?」数馬が不安そうに尋ねる。
「藤内が、悪夢に囚われたっ!」
 作兵衛は怯えるように叫んだ。その言葉を聞いて、雷蔵の傍らの孫兵がはっと息を呑む。「悪夢に……? 本当なの?」と数馬は青ざめ、その後ろにいた左門は厳しい顔で唇を噛んだ。
「……悪夢に囚われるって、どういうこと……?」
「藤内は、その精神で“世界樹”のネットワークを支えていました。しかし、作兵衛が言うには彼の意識は悪夢に落ちてしまった。……つまり、藤内の支えは実質上なくなって、作兵衛も目覚めた今、“世界樹”のネットワークは不安定になってしまう」
「それって……」
 さらに雷蔵が尋ねようとしたときだった。孫兵が不意に目を閉じる。彼の肩を這っていた蛇がスルスルと空中を泳ぎだし、赤く輝きながら彼の周囲を巡った。
 蛇が泳ぐ円の中で、孫兵は目を開いた。その瞳が蛇と同じように赤く輝いている。彼は遠くに呼びかけているようだった。
『三之助。すぐに藤内の元へ行ってくれ。今、藤内の《座標》を教える。――え? 人間と交戦中? それよりも藤内を頼む』
 孫兵が言い終えると、蛇は再び彼の肩に“着地”した。何事もなかったかのように、その肩を這い始める。孫兵は一度、瞳を閉じ、再び開いた。彼の虹彩もまた、普通の色に戻っている。
「今、何が起こっているの?」
 雷蔵は尋ねた。孫兵は深刻そうな表情で口を開く。
「このままでは、“世界樹”のネットワークが死んでしまいます。そうしたら、あなた方の《思考する装置》が使えなくなるだけじゃない。もっと恐ろしいことが起きます」
「それって、どんな――」
「――本当は、あなたの完全な覚醒を待つつもりでしたが、そうも言っていられません。今からあなたにこの“世界樹”の秘密をお教えします。あなたに果たしていただきたい役割も」
「僕が何かしなくてはならないっていうの?」
「えぇ……。できれば、世界のために。ですが、この“世界樹”の仮想空間から出たとき、あなたはここで聞いたことのほとんどを忘れなければなりません」
「なぜ」
「“世界樹”の秘密を知る者は“守護者”のみ。僕ら“守護者”は人間ではありません。あなたが秘密を知ったまま、現実世界へ戻れば人間ではいられないのです」
 孫兵は雷蔵に向かって手を伸ばした。その手を伝って、蛇がするすると雷蔵に近づいてくる。雷蔵を真っ直ぐに見据えて、蛇はチロチロと赤い舌を出した。
 その赤さに、雷蔵は目眩を覚えた。くらりと意識が傾ぐ――。


***

 夜半。鶴町伏木蔵はひとり、黒木ファミリーの本拠地を抜け出した。何かに呼ばれているような気がして、胸がざわざわしていたのだ。
 伏木蔵の<思考する装置>には、他人の心の奥深くに潜る能力がある。そのせいか、伏木蔵は幼い頃からたまに声なきものの声を聞いたり、存在しないはずのものに呼ばれたりすることがあった。また、直感も鋭い。
 幼い頃はひどく疎ましかった能力。けれど、庄左ヱ門に見いだされてから伏木蔵は自分の能力を他人の心の奥深くの傷を癒すために使うようになってから、少しだけ自分の能力に誇りが持てるようになった。現在、黒木ファミリーでは、同い年の乱太郎と共に医務室に属して、一つ年上の川西左近から教わりながら人を治癒している。
 人の心に潜る能力があると分かると、大抵の人間はイヤな顔をするものだ。けれど、乱太郎や左近、黒木ファミリーの仲間たちは当然のように伏木蔵を受け入れてくれていた。伏木蔵も仲間たちを自分の居場所だと感じている。
 だが、伏木蔵は時折、自分でも意図しないままに心の暗い部分に足を踏み入れてしまうことがあった。ふとした拍子に感じ取った誰かの心のせいか、あるいは、声なき何かが呼んでいるのか――何がきっかけになるのかは、自分でも分からない。けれど、暗い部分に落ちてしまうと、伏木蔵は自分の意思とは裏腹に、皆の輪から外れるような行動を取ってしまうのだった。
 今もそうだ。
 本拠地の学校の校舎の中は暖かいのに、仲間たちがいて安全なのに、伏木蔵はふらふらと寒い闇の中を進んでいる。まるで引かれるように、人気のない遺跡の方へ向かっていく。
 遺跡はしんと静まり返っていた。ファミリーの支配地域と違って、遺跡はどこの支配下にも属さない。この場で何かあっても、誰も駆けつけてくれないかもしれない。
 伏木蔵にはある程度、護身術の心得があった。武器も携帯している。だが、<思考する装置>が攻撃型ではないため、戦闘はそれほど得意ではない。遺跡の中に入るべきではない――そう思うのだが、踏みとどまることはできなかった。
 誰かに必死に呼びかけられているような気がするのだ。
「夜の遺跡なんて、すっごいスリルぅ……」
 自分を茶化すように呟いてみる。恐怖は少しも収まらないけれど、伏木蔵は遺跡の中を歩いていった。そうして、二十分ほど経っただろうか。伏木蔵はやがて遺跡の奥のある建物にたどり着いた。崩れかけの研究施設か何かの建物の中から、呼び声が聞こえる気がする。
 伏木蔵は慎重に中に入っていった。
 ――誰か……僕の声を、聞いて……。
 呼び声はそう言っているかのように思える。声は地下から聞こえているようだった。
「夜の廃墟の地下室とか……本気ですっごいスリルぅなんだけど……」
 かなりためらったものの、伏木蔵は小さなライトを手に、地下への階段を降り始めた。呼び声の主を放ってはおけなかったのだ。
 なぜなら、呼び声の主はひとりだった。どうしようもなく、孤独だった。皆の中にいてもときどき、抗いようもない孤独を感じることのある伏木蔵は、だから、ひとりぼっちの呼び声の主を一人のままにはしておきたくなかった。
「これで、僕の勘違いだったら……僕ってすっごい馬鹿かも。――だけど、もしそうだったら……ひとりぼっちの子はいないってことだから、それはそれでいいか……」
 伏木蔵は呟いた。階段に反響したその声が、思いの他、寂しそうで意外に思う。黒木ファミリーが自分の居場所だと分かっているのに、それでもまだ孤独を感じているなんて――自分はどれほど我が侭なのだろう。そう思って自嘲の笑みを浮かべたときだった。
「ふ、伏木蔵っ……!」
 背後で名前を呼ばれて、伏木蔵はぎょっとして振り返った。見れば、階段の入り口から左近が顔をのぞかせている。誇り高そうな切れ長の瞳と整った顔立ちを不安げに強ばらせて、闇に震えながら、それでも彼はそこにいた。
「左近先輩……どうしてここに?」
「お前が夜中に一人で出ていくから、気になったんだよっ。よ、夜遊びならお説教してやろうと思ったけど……こんな危険なところにく、来るなんて、何を考えてるんだっ」
 叱りながらも、左近の目はひどく心配そうだった。
「ごめんなさい。僕、誰かに呼ばれてるんです。だから、行ってあげないと……。左近先輩は先に帰っていてください」
「で、できるわけ、ないだろっ……!」左近は今にも階段から落ちそうな足取りで、何とか伏木蔵の傍まで降りてきた。「呼ばれてるんなら、さっさとソイツを見つけて帰るぞ。僕も手伝うから」
 左近の行動にぽかんと口を開けていた伏木蔵は、じわりと胸に嬉しさがこみ上げるのを感じた。自分はときどき、どうしようもなくひとりになってしまうけれど、こうしてつなぎ止めようとしてくれる人がいる。気を配ってくれる人がいる。そのことがひどく有り難かった。
「じゃあ、行きましょう、先輩」
「待てよ、伏木蔵。……手を……」
「てを?? 何ですかぁ?」
「手を繋いどこう! 言っとくけど、僕が怖いからじゃないぞ。お前がはぐれるといけないからな」
 言いながら、左近は左手を差し出してくる。伏木蔵は少し笑って、その手を取った。小さな子どもみたいだけれど、繋いだ手の温もりが何だか嬉しい。
 二人は階段を降りて地下の廊下にたどり着いた。床に転がる廃材をまたぎながら、奥へと進んでいく。
「まだ先に進むのか……?」左近はこわごわと尋ねた。
「もう少しだけ」
 伏木蔵は頭に響く声なき声に耳を澄ましながら答えた。相変わらず、声なき声は途切れがちに伏木蔵の脳裏に響いている。
 ――誰か……誰か……ここへ来て。
 ――僕の存在に気づいて……。
 もうすぐ、君を見つけるから。伏木蔵は心の中で語りかけて、廊下の突き当たりにある扉の前に立った。
「ここのような気がする……」
 伏木蔵はそう呟いて、無造作にドアを開けようとした。その瞬間、ドアの隙間から青い光が漏れだす。バタン、と勢いよくドアが開いた。
「あっ……!」
 左近が小さな悲鳴と共に、吹っ飛んでいく。彼は勢いよく背後の壁にぶつかったようだった。伏木蔵は慌てて彼に駆け寄ろうとした。しかし。

《――誰か、僕に気づいて》

 頭の中に響いていたのと同じ、切実な声が聞こえてくる。見れば、部屋の中央に設けられた大きなディスプレイに人の姿が移っている。ディスプレイに映し出されているのは、黒い髪に秀麗な顔立ちの少年だった。彼は胎児のように膝を抱えて身を丸め、固く目を閉じている。
《――僕は、いつまで眠っていればいいの? いったい、いつまでひとりで……? 嫌だ……ひとりは嫌だ……》
 ディスプレイの中で、少年が目を閉じたまま呟く。伏木蔵は思わず手を伸ばして、ディスプレイ越しに彼に触れた。
 バシッ。
 何かが弾けるような音と共に、強い電流のようなものが伏木蔵の身体を駆け抜ける。ディスプレイの中の少年がカッと目を見開くのが見えた。
「伏木蔵っ!!」
 悲鳴のような左近の叫び。繋いでいた手を強く引かれて、伏木蔵は左近の腕の中に倒れ込む。その直後、強い衝撃が二人を吹っ飛ばした。ドンッと何かにぶつかった感触。だが、自分がぶつかったにしては、さほど衝撃がない。
 目を開けた伏木蔵はハッとして身体を起こした。目の前には左近がぐったりと横たわっている。とっさの瞬間に彼が伏木蔵を庇ってくれたらしい。
「左近先輩……! 大丈夫ですか……」
 伏木蔵は気を失っている左近の反応を見ようと、必死に声を掛けた。その傍で強烈な気配がゾロリと動く。伏木蔵はおそるおそる振り返った。
 ディスプレイの中で眠っていた少年は、今や目を覚ましていた。開かれたその瞳は氷のように青く輝いている。彼は手を前に伸ばして、内側からディスプレイに触れるような仕草をした。
 バリン。
 ディスプレイに蜘蛛の巣状のヒビが入る。ディスプレイは呆気なく割れ、地面に落ちてしまった。少年はしずしずと優雅に外に出てくる。彼の瞳には何の感情も浮かんでいない。そのまま、ゆっくりと右手を掲げる。
 ――攻撃される。
 そう予感した伏木蔵は、左近の上に覆い被さった。身を固くして、痛みが襲ってくるのを待つ。けれど。
「――藤内っ!」
 不意に若い男の声がその場に響いた。肩越しに振り返れば、部屋の中央――ちょうど伏木蔵たちと青い目の少年の間に、光の渦が出現している。その中から、背の高い少年が現れるところだった。
「やめろ、藤内! お前、自分の役目を忘れたのか?」
 背の高い少年は詰問の調子で言った。
「三、之、助……?」
「あぁ、そうだ。俺だ。そんなことより、藤内、お前、こんなところに現れてどうするつもりだ?」
 背の高い少年――三之助は尋ねる。けれど、青い目の少年――藤内は、ぼんやりした顔で立ち尽くすばかり。
 藤内、と三之助は焦れたように一歩前で出た。その刹那。藤内は右手を大きく振った。それに呼応するように、彼の手から現れた青い光の帯が三之助に襲いかかる。三之助は身を低くしてそれをかわし、藤内へと迫った。
 その手が彼に触れる――かと思った瞬間。バシッ。鋭い音と共に、二人の間に青い光の壁が現れる。
「グッ……!」
 三之助は低く呻き声を残して、床に弾き飛ばされた。藤内はそれをじっと見下ろしている。
 ――次はこちらか。
 そう思って、伏木蔵は身震いをした。今の内に逃げなければならない。だが、気絶した左近を連れて、こっそりこの場を去ることは不可能だろう。
 ――どうすれば。
 そう思ったときだった。地下室の入り口に人影が見えた。その人影は、静かに、だが素早く伏木蔵たちに近づいてくる。伏木蔵は間近にやってきた相手を見て、声を上げそうになった。
 忍んでやってきたのは、包帯を幾重にも顔に巻き付けた大人の男だった。普通と呼ぶには異様な姿である。相手が敵か味方かも分からず、伏木蔵は守るように左近を掻き抱いた。
「怖がることはない。私は君たちを傷つけるつもりはないよ。私は“守護者”を追いかけてここまで来たんだが……どうして君たちは“守護者”同士の戦いの中にいるんだい?」
「“守護者”って……?」
「知らないのかい? ここで戦っている二人のことさ。――さぁ、おいで。助けてあげよう」
「僕よりも、左近先輩が……」
「彼なら私が抱いていくよ。君はしっかりついておいで」
 伏木蔵はしっかり頷いた。それを見て、包帯の男は目を細める。包帯のせいで表情は分からないが、男は微笑したようだった。


***


 部屋の中にあった人間の気配は、いつからか消えていた。三之助は少しほっとして、自分の意識にかけていたリミッターを外すことにした。
 人間のいる場で本気の力を使えば、彼らを傷つけてしまいかねないため、これでも制限していたのだ。しかも、藤内の方は正気ではないらしく、遠慮のない攻撃を仕掛けてくる。さりげなく藤内の攻撃を彼らから外れるように誘導しながら戦うのは、いかに三之助といえども困難だった。おかげで、幾度か藤内の攻撃を受けてしまっている。さらさらさら、と少しずつ身体の中から力がこぼれ落ちていた。
 だが、これで全力を出すことができる。三之助はこの機会を逃すつもりはなかった。
「藤内、いい加減に目を覚ませ!」
 そう言いながら、三之助は攻撃を放とうとした。が、藤内はふと青い光の帯で身を包んで、空間を転移してしまう。三之助は小さく舌打ちして、自分も空間と空間の間を翔(か)けた。
 無自覚だが、皆が言うには方向音痴の気がある三之助は、そもそも、空間転移が苦手だ。だが、昔からの馴染みである藤内の気配を追いかけるくらいなら、迷うことはない。三之助は自信を持って、空間と空間の狭間の足を踏み入れた。
 その“通路”は青や白、緑など色とりどりに輝く文字列や数式、記号のループで構成されていた。現実空間というより、ナノマシンネットワーク“世界樹”の一部なのだ。
“大破壊”以降の長い年月の間に、すっかり見慣れたその通路を、三之助は翔ぶ。と、そのときだった。通路の周囲を取り巻いて規則的に流れていた文字列や数式、記号などがの動きが変化した。文字が停滞し、数式があちこちを飛び跳ね、記号が逆流する。異変を反映するかのように、“通路”は赤く点滅しはじめた。
 どうやらネットワーク“世界樹”そのものが、それを支えていた藤内の精神の変調に影響を受けてしまったらしい。変質しようとする仮想空間の中で、三之助は藤内の気配――彼の座標を見失ってしまった。
 そればかりか、藤内から受けた傷がジクジクと痛みを主張している。本来、“守護者”たる自分は“世界樹”とナノマシンに護られていて、多少の負傷は勝手に治っていく。だが、藤内のせいでネットワークが不安定になっている今このとき、“世界樹”やナノマシンの加護は得られなくなっていた。
 とうとう、三之助は苦痛のあまり、前へ進めなくなってしまった。空間を翔けるほどの力も失って、為す術もなく落下する。
 身体の下に湿った土の感触を感じて、三之助は自分が現実空間に出たことを知った。意識がもうろうとして、身体に力が入らない。それでも気配を探ってみるものの、藤内の存在は感じられなかった。
 ――あいつは行ってしまった。ひとりで行かせてしまった……。
 三之助は悔しさに唇を噛んだ。力の入らない身体では、そうすることしかできなかった。その間にも、意識は遠くなっていく。こらえきれなくなって、三之助はゆっくりと目を閉じた。


***


 伏木蔵たちは地下室から逃れて、外にいた。空を見上げれば星がいくつか瞬いている。生きて外に出られたのだと実感して、伏木蔵はほっと息を吐いた。
 そこで、ふと傍らに立つ男のことを思い出す。
「ありがとうございました。あの……」
「私は雑渡というんだ」
「雑渡さん。これ以上、あなたにご迷惑をおかけすることはできません。ここからは、僕が先輩を連れて帰りますから……」
 伏木蔵は包帯の男――雑渡から、気絶したままの左近の身柄を受け取ろうとした。だが、雑渡は首を横に振った。
 と、そのとき、建物の影から人の気配が現れる。見れば、それは伏木蔵たちより年上の――しかし、まだ若い男だった。切れ長の目に端正で理知的な面差しをしている。
「頭」
「陣左、ちょっとこの子を頼むよ」
 雑渡は若い男――陣左に左近の身柄を預けた。彼は丁寧な手つきで左近を抱き取って、一瞬、驚いたような表情になる。しかし、その表情もすぐに消して、陣左と呼ばれた男は冷たい無表情で雑渡の後ろにさがった。
「先輩を返してください……!」
 伏木蔵は陣左に向かって詰め寄ろうとした。と、目の前に雑渡が立ちふさがる。彼はガシリと強い力で伏木蔵の腕を掴んだ。
「君、名前は?」有無を言わせぬ調子で、雑渡が尋ねる。
「伏木蔵……。鶴町、伏木蔵ですけど……」
「伏木蔵君、ね。君、なんで“守護者”たちといたの?」
「一緒にいたんじゃありませんっ。不思議な声が聞こえて……行ってみたら、急にもう一人、現れて戦いになっただけです。僕たちは関係ない――」
「本当に? 呼ばれただけで、あんな危険な場所に行くかな? 夜の遺跡は夜盗なんかもいるのに」
「っ……。だって、声が寂しそうだったから……。ひとりぼっちみたいだったから……」伏木蔵は言いながら顔を上げた。だが、雑渡の表情は伏木蔵を信じているようには見えない。伏木蔵は少しためらってから、言葉を続けた。「僕は人の心に潜る能力があるから、悲しそうなのが放っておけなくて……」
「――君は……いい子だねぇ」
 雑渡は不意に伏木蔵の頭に手をおいた。わしゃりとラフに頭を撫でられる。見上げれば、雑渡は伏木蔵が微笑だと思った、あの目を細める表情をしていた。
 はっきりした笑顔ではない。わかりにくい表情。だが、伏木蔵は不意にその表情が好きだと感じた。
「申し訳ないが、君と先輩には一緒に来てもらうよ。何しろ、“守護者”と接触した人間は今のところ、とても稀少だからね」
「来てもらうって……どこへです?」
「我々……黄昏時ファミリーの本部にさ」
 雑渡は伏木蔵の手を引いて歩き始める。けれど、伏木蔵は抵抗できなかった。大ファミリー黄昏時の幹部ともなれば、彼ごときがかなう相手ではない。だが、それ以上に伏木蔵は彼に興味を引かれていた。
 自分の前を歩く大人の男の背中を、伏木蔵はいつしか自分から追いかけていた。


***


 赤く明滅しだした“世界樹”のネットワークの中で、雷蔵は顔を上げた。その拍子に雷蔵の身体から金色に輝く文字が流れ出して、周囲を旋回しだす。
 すべてを知った雷蔵は、輝く文字の中心で悲しむように目を閉じた。
「浦風藤内は“世界樹”のネットワークから座標喪失、次屋三之助は“ログアウト”してしまったみたいだね……。いよいよ“世界樹”は安定を失った……。僕が君たちを助けなきゃならない」
「でも……そうすれば、あなたは僕らと同じ存在になってしまいます」
 傍らで孫兵が不安そうに雷蔵を見る。その眼差しに、雷蔵は微笑してみせた。
 笑うつもりであったけれど、泣き笑いになってしまったかもしれない。自分がしようとしている選択を、それによって失うものを思えば、完全に強がってみせることはできなかった。これでいいのかと、もう一人の自分が絶叫している。
 けれど。
「いいよ。僕を君たちと同じにして。君たちみたいに、僕の精神を“世界樹”のネットワークにつないで」
 雷蔵はきっぱりと言った。雷蔵の精神が“守護者”たちに加われば、ネットワークは最悪の状態を抜け出すことができるはずだった。それによって、世界は破滅を避けることができるだろう。
 ――そうしたら、皆を護ることができる。三郎を護れるんだ。
 精神がネットワークに繋げられたとき、自分がどうなるのか雷蔵には分からない。だが、それでも三郎や皆を護りたかった。
 ――だって、同じ立場になったら、あの人もきっと僕と同じ道を選らぶ。
 あの人――小平太も皆を護ろうとするだろう。もっとも、雷蔵がその選択をすれば怒るにちがいないけれど。
 そう思ってクスリと笑ってから、雷蔵は孫兵に目配せをした。彼は少しためらった様子だった。けれど、背に腹は変えられないと思ったのか、心を決めた様子だった。孫兵は雷蔵に向かって手を伸ばした。その手を這って、スルスルと蛇が近づいてくる。
 蛇は雷蔵の鼻先でカプリと口を開き――身を踊らせるようにして、首筋に噛みついた。その痛みの中で、自分が変化しだすのを感じる。為す術もなく変化に身を任せながら、雷蔵は三郎や小平太に感じた愛情を反芻していた。
 変化が終わったとき、自分は精神まで変化してしまうのかと心配で――愛されて、愛した記憶だけは覚えておきたいと思っていた。


***


 鉢屋三郎が心地よい眠りから引きずり上げられたとき、まだ暗いはずの部屋の中には金色の光が溢れていた。三郎は驚いて、ベッドの上に起きあがった。
 見れば、ベッドの傍らに雷蔵が立っていた。すっかり服を着込んで、身支度を済ませている。そんな彼の周囲を金色に輝く文字が飛び交っていた。当の雷蔵はといえば、意識がないのかぼんやりと虚空を見つめるばかりだ。
「らっ、雷蔵……?」
 三郎が呼びかけると、雷蔵はゆっくりと振り返った。その瞳は青緑色に輝いている。夢の中にいるようなぼんやりした眼差しで、雷蔵は三郎を見つめた。
「さぶろ……?」
「雷蔵、私が分かる? どうしたの? これはいったい……」
「――ごめん、三郎」疑問を口にする三郎を遮って、雷蔵が言った。ひどくきっぱりした口調だった。「僕、もう行かなきゃいけないんだ。役目があるから……」
「行くって……? 七松ファミリーに戻るってこと? 役目って何の役目?」
「……ファミリーには戻らない。どんな役目かも言えない。とにかく……僕、もう、行かなきゃ」
 謎のような言葉をこぼして、雷蔵は手を伸ばした。スルリと優しい手つきで、三郎の頬を撫でる。彼はにっこり笑ってみせた。
「ごめんね、三郎。お前を愛していたよ」
 過去形の言葉が、三郎の胸を抉る。待ってくれ、と三郎は言おうとした。けれど、次の瞬間、雷蔵は金色に輝く言葉の渦に巻かれて――その場から忽然と姿を消していた。


***


 小平太は、深夜にもかかわらず執務室にいた。雷蔵に鉢屋三郎のもとへ行くことを許した小平太だが、感情は意思に反して割り切れなかった。そのためにここ数日、眠れぬ夜を過ごしていたのだ。眠れぬならば、と徹夜で仕事などしてみるが、こうも連日になるとさすがにつらくなってくる。
 執務の合間に小平太は、うつらうつらと眠りに引き込まれていた。その夢の中で、小平太は雷蔵に逢った。雷蔵は金色の光を身にまとっていて、遠くへ行かねばならない、と小平太に告げた。
『皆を守るために、僕は行かねばなりません。あなたの幹部としての役目を放棄すること、申し訳ありません』
 雷蔵は謝罪の言葉を口にした。さらに、自分を幹部から外してしまって構わない、とまで言う。
 小平太は途方に暮れてしまった。
 勝手に役目を放棄する幹部には、厳しく接さねばならない。だが、真面目な性格の雷蔵がそんな行動を取るのには、余程の理由があるのだろう。そう思うと、厳しい態度に出ることはできなかった。――というより、行ってほしくない。
 いまだに割り切れない感情をどうすればいいのか分からないまま、夢の中の小平太はとっさに自分の耳朶にあったピアスの片方を外して、雷蔵に押し付けた。自分が使い馴染んだ持ち物が雷蔵の手にあれば、そのイメージを頼りに彼の元へ空間転移することも可能だろうと思ったのだ。
 目覚めたとき、小平太は執務室にひとりきりでいた。手元には処理しかけの書類が広がっている。ため息をはいた小平太は、しかし、自分の手を見て目を丸くした。
 そこにはめていたはずの指輪がなくなっている。
 ――まさか、雷蔵はここにいたのか? まだ追えば間に合うか?
 はっとして椅子から立ち上がった小平太は、テラスへ続くドアへ向かった。ドアを開けて、テラスにある庭園へと出る。
「雷蔵……?」
 呼びかけてみるが、返事はない。聞こえてくるのは街の喧噪ばかり。庭園の向こう側は虚空で、眼下には無数の街の明かりが散らばって見えた。
 ビルの高層階に吹く風は強い。小平太は風に髪を乱されながら、庭園を歩き――そこで、ふと気づいた。庭園の土の上に、背の高い少年が倒れている。堅く目を閉じたその面差しは、先日、監視カメラで見た“守護者”の少年だった。


***


 チチチチという鳥の声で、雷蔵は目を覚ました。辺りは明るい朝の光に満ちている。雷蔵が眠っていたのは、まったく見知らぬ庭園の中だった。眠っていたというか、行き倒れていたとしかいえないくらいだ。右手の中にはピアスがひとつあった。赤い石でできたシンプルなそのピアスは――いつも小平太の耳朶で光っていたものだ。おかげで夢を通じて彼と話したことを思い出した。
 雷蔵は起きあがった。彼がいるのは、どこかの廃墟のようだった。周囲にはまったく人の気配が感じられない。
 自分がどこにいるのか、雷蔵は分からなかった。孫兵から“世界樹”のネットワークや“守護者”の秘密を聞いたものの、彼の言葉どおり、ほとんど覚えていない。ただ、自分が望んでこの場にいるのだということは理解していた。
「僕……役目を果たさなきゃ」
 雷蔵はピアスを握りしめながら、自分に言い聞かせるように呟いた。



pixiv投下2014/11/05

目次