我らは獣にはあらず1





 ――ばいばい、三郎。

 眠りの中で雷蔵が別れを告げる。腕の中の温もりが去っていく。行かないでくれ、と三郎は懇願したかった。君は私のつがいじゃない。それでも、私は――。そう言いたかったが、言葉が喉の奥に貼りついて出てこない。
 雷蔵への気持ちを告げれば、自分の信念を否定することになる。それが分かっているから、何も言えない。言えないまま、己の卑怯さに嫌悪を覚えた。
 ただ「行かないで」とだけ呟く。しかし、雷蔵は聞かなかった。光に包まれた彼の姿が薄れていく。
 そうして、温もりは去ってしまった。
 冷えた空気が腕の中に入り込み、体温を奪っていった。

「っ……!」
 三郎は夢から跳び起きた。次いで、刺すような頭痛を感じて、頭を抱える。身体には重だるさが残っていた。頭痛と相余って、最悪のコンディションだ。
 抱き合ったはずの雷蔵の姿はなかった。夢うつつに別れを告げられた記憶のようなものがあるから、きっとファミリーの元へ帰ったのだろう。今回、三郎に応えてくれたけれど、彼には本来のつがいがいる。彼自身のファミリーのボス――七松小平太だ。
 三郎も今ではファミリーに属する身であるため、構成員がボスにどれほどの忠誠を捧げるものかよく分かっている。今回の三郎とのことは、雷蔵にとっては仮初めの恋のようなものだったのだろう。そうであるはずだ。だって、つがいの相手を捨てることはできないのだから。
 三郎はズキズキ痛む頭で考えた。心の中に残念な気分があったが、それは無視する。三郎にもつがいの相手がいる。どんなに惹かれても、雷蔵を選ぶことはできないのだ。
 ぐったりとして、三郎はベッドに倒れ込んだ。
 いまいましい発情期の熱を散らすために、性行為におよんだ後はいつもこうなる。以前、医者に相談したときには、発情期から来る体調不良だろうと言われた。すべてのオメガがそうなるわけではない。それでも、発情期の前後に体調を崩すことは珍しくないらしい。というのも、オメガ――特に男性のオメガは、発情期間中、男という本来の性にはない妊娠能力を得る。その際に分泌されるホルモンなどが、発情期終了後に男性体に戻ったときに異物となってしまうからなのだそうだ。
 おまけに、三郎の場合はつがいがまだ未熟である。発情期を早く終わらせるために性行為に及ぶのには、どうしてもつがいでない者を相手にしなくてはならない。そうした事情が三郎の心理的なストレスになってもいると言われた。
 ――つがい、か。
 頭痛に呻きながら、三郎は考えた。
 つがいと宿命づけられた庄左ヱ門のことは、大切に思っている。さすがに五つ年下で、アルファとして覚醒しきらない彼と寝たいとは思わない。それでも、情欲とは別の形で、家族のように愛しているといってもいい。
 だが、どうしても惹かれる相手は別にあった。雷蔵――同じオメガのはずの彼のことが、一人の人間として慕わしい。そう思ってしまうこの感情は、何なのだろう? 同じ男同士でも、アルファとオメガなら生殖ができる。婚姻も。それなのに、どうしてよりにもよって同じオメガに惹かれるのか。
 恋愛というのは、ホルモンによる錯覚だと聞いたことがある。だとしたら、同じオメガを慕うのはなぜなのだろう? 生物としての本能がぶっ壊れているとでもいうのか。
 そう思ったときだった。
 不意に部屋の中に強烈な殺気が立ちこめた。わけも分からぬまま、三郎はギョッとして上体を起こす。次の瞬間、部屋の中央の空間がグニャリと歪んだ。〈思考する装置〉の作動する気配。やがて、現れたのは、黒々とした髪に意思の強そうな顔立ち、百獣の王を思わせる威厳を備えた男――七松小平太だった。しかも、彼の全身からは怒りに満ちた気配が立ち上っている。片耳から下がる赤い貴石のピアスが、彼の怒りを映し出すように不穏な輝きを放っていた。
 三郎はわけが分からぬまま、彼を見つめた。逃げるかどうにかしなければならない、と思うのだが、身体が満足に動かない。
 そうする間にも、七松は口を開いた。
「鉢屋三郎だな? お前に聞きたいことがある」
「……何でしょう?」
「雷蔵をどこへやった?」
 小平太の問いは寝耳に水だった。
「あなたの元へ帰ったのでは?」
「雷蔵は――昨夜、突然、私の前に現れた。そして、消えたんだ。あいつはお前の元にいたはずだ」
「……えぇ」三郎は慎重に頷いた。
「それは構わない。雷蔵が……一人前の男が自ら下した決断だからな」小平太はあっさり言った。が、その眼差しには相変わらず、剣呑な光が宿っている。「だが、アレは私のファミリーの一員だ。ボスとして、私は身内の安全に責任がある。雷蔵はどこへ去った?」
「分かりません。目覚めたとき、雷蔵はすでにいませんでした」
 小平太の目を見返して、三郎はきっぱり言った。だが、内心ではひどく混乱している。そんな三郎の表情を読みとったのか、小平太はため息を吐いて殺気を消した。
「そうか」
「私を責めないんですか?」
「……雷蔵は、実は昨夜、私に会いにきた。突然、部屋に現れたんだ。あの出現の仕方は〈思考する装置〉が発動した結果のようでもあった」
「彼はあなたに会って、何と?」
「行かねばならないと言っていた。お前が何かしたのでないなら、雷蔵は自分の意思で決めて去ったのだろう。ここへ来たのは、それを確かめるためだ」
「雷蔵を探すんですか? それなら、私も――」
「お前には関係のないことだ」淡々とした口調で、小平太は三郎の言葉を遮った。「雷蔵が決めて去ろうとしたなら、誰にも止められない。あいつはあぁ見えて、頑固な男だ。だが……それとは別のところで、私は鉢屋三郎、お前を恨んでいる」
 小平太の物言いは率直だった。仮にもこの地域で一、二を争う大ファミリーのボスだというのに、あまりにも素直に心情を吐露していた。そのことに、三郎は戸惑うと同時に強烈な恐怖も感じていた。
 弱さを見せるということは――無防備になって見せるということは、何ひとつ鎧わぬままでも戦えるということだ。無防備で傷を負おうと、戦いぬけるという自負を持っているということだ。そうした相手は〈思考する装置〉“ペルソナ(仮面)”の力で常に顔を隠し、嘘をつき、相手を手玉に取ることで生き延びてきた三郎のもっとも苦手とするタイプだった。どう対峙すればいいのか、分からなくなってしまう。
「私を恨んでいる、とは……」
「お前は私よりも先に雷蔵の心を奪っていった。それはいい。あいつの決めたことだからな。だが、あいつが去ろうとするとき、お前はなぜ引き留めてくれなかった? お前が願えば、雷蔵はどこへも行かなかったかもしれん。――これでお前のことを恨まずにおれようか」
「っ……申し訳ございません」
「謝罪がほしいわけではない」
 冷たく言って、小平太は右手を閃かせた。握られていたナイフが、三郎に向かって飛来する。ナイフそのものは他愛ないペーパーナイフのようだが、投げたスピードが尋常ではなかった。さほど鋭くもないペーパーナイフは、三郎の顔のど真ん中に向かってくる。
 三郎は反応できなかった。避けるべきなのか、甘んじて受け入れるべきなのか、二つの気持ちの間で引き裂かれていた。
 と、次の瞬間。三郎の鼻先で、突如としてナイフは消えた。見れば、そのナイフは再び小平太の手の中にあった。彼が〈思考する装置〉を起動させて、ナイフを空間移動させたらしい。
「ではな。俺の用は済んだ。邪魔をした」
 そう言う小平太の身体が、光に包まれる。彼は立ち去ったらしかった。その様子を呆然と見ていた三郎は、やがてベッドにくずおれた。生命を惜しんだつもりもないのに、身体はガタガタ震えていた。おそらく、恐怖のせいなのだろう。


 三郎が起きあがって、のろのろと身支度を終えたとき、部屋のドアがノックされた。返事をすると、慌てた様子で勘右衛門が飛び込んでくる。
 彼は部屋を見渡して、不審そうに眉をひそめた。
「どうして三郎ひとりなの? 雷蔵は?」
「目が覚めたら、いなかった」
「嘘。部外者の雷蔵がアジトの警戒網に引っかからずに出ていくことなんて、不可能のはずだ」
「……そうだな。だが、それは物理的に移動しようとした場合の話だ。何らかの〈思考する装置〉を使えば、できないことはない」
 そう答えたところで、三郎は違和感を覚えた。雷蔵の〈思考する装置〉“エニグマ(謎)”の能力を目にしたことがあるが、空間移動の力ではなかった。“エニグマ”以外の力ということになるだろう。だが、一人の人間が複数の〈思考する装置〉の能力を持った例は聞いたことがない。そうだとしたら、考えられるのは一つ。雷蔵が自分以外の誰かの〈思考する装置〉による空間移動で、外へ出たということだ。
「七松ファミリーのボスが、雷蔵を取り返しにきたとか?」
「それはないだろう」
 勘右衛門の言葉に、三郎は首を横に振った。七松小平太は空間移動の能力を持っているようだ。しかし、先ほどの態度からして彼が雷蔵を移動させたとは思えない。はっきりしているのは、その第三者によって移動させられることに、雷蔵は同意していただろうということだ。そうでなければ、小平太に別れの挨拶などできないはず。
 三郎が考えこんでいると、さらに勘右衛門が言った。
「それより、ついさっき、この部屋に大きな力の反応を感知したと報告が上がってきた。いったい何があった?」
「七松小平太がここに来ていたんだ。雷蔵が突然、自分の元に現れて別れを告げ、去っていったと。なぜ、どこへ去ったのか、知りたかったらしい」
「三郎は知ってるのか?」
「言っただろ。私が目覚めたら、雷蔵はいなかった。私は何も知らない……知らされていないんだ」
 自分は雷蔵にとって、その程度の存在だったのだろうか、と三郎は唇をかんだ。そこで、すぐに内心、自嘲する。
 あぁ、そうだ。私はつがいの絆を捨てぬまま、同性である雷蔵を抱いた。それは決して生半可な気持ちではなかったけれど、状況から見れば彼をもてあそんだという他はない。こんな中途半端な自分に、雷蔵が重要な決断を告げなくとも当然――。
「三郎」勘右衛門が低い声で名を呼んだ。いつになく冷たい表情をしている。「自分の立場を考えてみてよ。お前は庄左ヱ門のつがいなんだ。俺たちや、他の誰かと寝るのは構わない。でも、お前の心はいつでも庄左ヱ門のものでなければならない」
「勘右衛門……。分かってる」
「分かってないだろ。七松ファミリーがその気になれば、俺たち黒木ファミリーは潰されてしまう。雷蔵とお前のことを、きっと向こうのボスはよく思ってないんだろ?」
「……雷蔵は、本当は七松小平太のつがいになる運命らしいんだ」
「なら、なおのこと。七松ファミリーに言われるまでは、雷蔵を探そうとしちゃいけない。雷蔵のことは面に出さずに、自分の役目を果たすんだ。……でなければ、俺たちは生き残れない。分かるだろ?」
 三郎はきつく目を閉じた。
 目蓋の裏に雷蔵の笑顔が、熱をはらみながらも深淵のように底知れぬ瞳が、浮かび上がっては消える。もはや自分の心を見て見ぬふりはできなかった。庄左ヱ門が大切だ。それでも、同時に心は雷蔵を求めて絶叫していた。
 ――雷蔵に会いたい。探しに行きたい。
 しかし、三郎が忠誠を誓う黒木ファミリーの皆を、悲惨な目に遭わせるわけにはいかなかった。弱小の黒木ファミリーには七松の後ろ盾が必要だ。自分は幹部として、後ろ盾を失わないように動かねばならない。
 三郎は自分の心を封じるように、左の掌を顔にあてがった。ゆっくりと撫で下ろせば、“ペルソナ”がそれに反応する。最近ずっと使っていた雷蔵の顔が、一瞬にしてどこの誰でもない男のものへ変化した。
「分かってる、勘右衛門。私は黒木ファミリーの幹部として、それにふさわしい行動を取ると約束する」
 感情を抑えた声で、三郎はそう宣言した。


***


「――大変だ! 海賊が襲ってきたぞ!」
 静かな図書館の中に、中年の男の声がこだまする。カウンターの中で、ひとり静かに書物をめくっていた青年は、ゆったりした動作で顔を上げた。ひどく書物に集中していたのだろう、起きてていたはずなのに、ついさっき夢から抜け出したような目をしている。
「あ、タカシオさん……。海賊……ですか?」青年は緩慢に首を傾げた。
「そう、海賊だ。村を襲ってきたんだ」
 男――タカシオはせき立てるように言葉を重ねた。無精ひげが多少のびているものの、精悍な顔立ちの男前である。てきぱきとした彼の口調には力強い。海賊が上陸してきたとき、ほとんどの村人は彼の冷静さと力強い言葉に励まされて、速やかに避難することができた。
 ところが、逃げ遅れた者があった。この図書館で暮らす青年だ。三日前、村に流れ着いたとき、彼はライゾウという自分の名前の他は何も覚えていなかった。ただ、どういうわけか書物に対して異様な興味を抱き、とうとう閉鎖されていた図書館に住み着いてしまった。
 そういう特殊な事情があり――つまり、ライゾウは余所者でである。逃げ遅れたところで、タカシオは彼を見捨てることもできた。しかし、ライゾウは見るからに善良そうな人間で、心情的に放ってはおきにくい。そこで、タカシオは危険を承知で避難場所からひとり、ライゾウを迎えに戻ってきたのだった。
 しかし、海賊と聞いても当のライゾウは動揺ひとつしない。もしかして、彼のいた場所に『海賊』という単語が存在しなかったのだろうか? あるいは、記憶と一緒に『海賊』という言葉の意味も忘れてしまったのか?
 思わずタカシオは基本的なことを尋ねていた。
「お前さん、海賊の意味は分かるか?」
「もちろん。海上で略奪行為を行う人々のことでしょう?」大まじめに頷いて、ライゾウは辞書を読み上げるかのように海賊の単語の意味を述べてみせた。それから、またおっとりと言葉を続ける。「海賊なんて、そんな人たちがこの世界に本当にいるんですね。もう、物語の中にしかいないものとばかり……」
「うちの村だってな、今まで海賊なんか来やしなかった! だが、襲ってきたものは仕方ない。逃げなきゃならん!」
 お前もさっさと出てこい、とタカシオは青年を急かしたつもりだった。しかし、ライゾウは首を横に振った。
「逃げるわけにはいきません。図書館を放ってはいけない」
「何を言ってるんだ! 本と生命と、どっちが大事なんだ?」
「本です」
 ライゾウは即答した。記憶のないせいか、どこかいつもフワフワした印象の彼だが、そのときばかりは刃のように鋭い光を目に宿していた。
 生命よりも本が大事なんてことは、タカシオの価値観にはあり得ない。この世のたいていの物事は、生命あっての物種である。いったいこの青年は今までどんな人生を歩んできたのか――。生命よりも大事なものがあると応えるライゾウのことを、タカシオは痛ましく思った。
 ともかく、自分はこのどこか現実感のない青年を生かさねばならない。使命感に駆られて、タカシオはライゾウを強引に連れだそうとした。
 だが、図書館の出口まで来ると、ライゾウは突然、タカシオの手を振り払った。普段のおっとりした様子はどこへやら、矢のように浜の方へ駆けていく。彼の右の耳朶に下がる赤い石のピアスが、揺れてキラリと光るのがタカシオの目蓋に焼き付いた。
「クソッ! あの坊や、自分の生命を何だと思ってるんだ!」
 タカシオは舌打ちして、ライゾウを追った。彼の足は速く、どんどん浜へと降りていく。
 ライゾウは浜に上陸していた海賊たちの一団の前に、立ちはだかった。それを見て、先頭にいた黒髪で顔に傷のある男が眉をひそめる。男は三十代前半といったところだろうか。他の海賊たちよりは少し年かさのようだ。真面目そうだが、決してそれだけでは終わらない獰猛さが顔立ちに見て取れる。
 ――この海賊、頭が切れる上に行動力がありそうだ。
 こういう男がいちばん厄介だということを、タカシオは承知していた。
「いったい何だ、あんたは」黒髪の海賊はライゾウを見下ろして言った。
「僕はこの村でお世話になっている者です。どうかこの村を荒らさないでください。あなた方が村に損害を与えるつもりなら、僕にも考えがある」
「ほぅ? どんな考えだい?」
「あなた方を撃退する」
 怯む様子もなく、ライゾウは言い切った。人好きのする面差し――その中でも印象的な大きな瞳で、真っ直ぐに海賊を見据えている。その瞳の中に、普段にはない深い色を見て取って、タカシオは動けなくなった。
 ライゾウと海賊との対峙は、もはやただ無力で善良な青年と屈強な海の戦人とが向き合っているだけには留まらない。タカシオの理解できぬ何かが、その場にある気がしていた。
「……おもしろい」黒髪の海賊はニヤリと笑った。「お頭には、村人を傷つけてはならぬと言われているのだが……坊主はただ人ではないようだ。俺と手合わせ願おう」
「鬼蜘蛛丸の兄貴……いいんですか?」
 部下の一人が心配そうに黒髪の海賊――鬼蜘蛛丸を見た。彼はそんな部下に「斥候は俺の裁量の範囲だ。お頭は許してくれるさ」
 鬼蜘蛛丸の言葉に、部下は頷いた。それから、刀をふた振り持って前へ進み出る。部下が差し出した刀を、鬼蜘蛛丸もライゾウも落ち着いた動作で受け取った。
「怯まぬところを見ると、刀を扱えるようだな」
「おそらく……戦う術は一通り分かるのではないかと思います」
「そいつは重畳。さぁ、始めようか」
 鬼蜘蛛丸が言い、刀を抜きはなった。やや大振の太刀だが、重さなどないかのように軽々と扱っている。対するライゾウの刀は、それよりいくらか細身のようだった。
 ライゾウは刀の鞘を払わぬまま、鬼蜘蛛丸に向かって駆け出す。あっという間に距離を詰めながら、彼は走る勢いに乗って刃を抜きはなった。
 白刃が鋭く閃く。
 鬼蜘蛛丸は踊るような身軽さで、背後に跳びのいた。その胸元を、今にも衣服にかすりそうな近さでライゾウの攻撃が掠めていく。
 最初の一撃をやり過ごして、鬼蜘蛛丸は攻撃に転じた。ブンと空気を斬って、刃がライゾウを追う。避けられないと判断したのか、ライゾウは己の刀で鬼蜘蛛丸の一撃を受けた。
 金属同士のぶつかり合う重い音が響く。
「クッ……!」
 ライゾウは、その一撃の重さに耐えられなかった。太刀の一撃に態勢を崩し、転倒する。そこへ、鬼蜘蛛丸のとどめの一撃が襲いかかった。
 次の瞬間。
 鈍い音と共に、鬼蜘蛛丸の刃は空中で停止していた。彼の刃を受け止めたのは、ライゾウの刀でもなければ、肉体そのものでもない。唐突に土から無数に生えてきた、白っぽい金属の棒のようなものが、ライゾウの前まで伸びて、刃を受けているのだった。
 いったい、何が起こったというのだろう? タカシオはしばらくの間、言葉を失っていた。
「――〈思考する機械〉……。お前、西の大都市(メガシティ)の人間か」鬼蜘蛛丸が呟く。
「分からない……。何も覚えていないんだ。自分の名前以外は……何も……」
 ライゾウが弱々しい声で言う。その間にも、彼を取り巻いて護る白っぽい金属の棒は、急速に崩れていた。刃の一撃を受け止めたのが嘘のように、金属棒は塵に変わってしまう。
 鬼蜘蛛丸は刀を引いた。新たな一撃を繰り出そうとする。次の瞬間、鬼蜘蛛丸の刀とライゾウの間の空間に、裂け目が開いた。信じられない光景だが、そうとしか言えない。
 裂け目は黒々とした口を開いて、鬼蜘蛛丸の剣を三分の二ほど飲み込む。海賊は目を見張って、背後に跳びのいた。その手に握られた太刀は、まるで折れたかのように半分以上が失われている。
 鬼蜘蛛丸は舌打ちした。太刀を捨てて、臨戦態勢に入る。身ひとつでも戦うつもりなのだろう。しかし、ライゾウを取り巻く奇妙な加護を見るに、鬼蜘蛛丸が無事でいられるとは思えなかった。
 ――これはまずい。人死にがでるぞ。
 不吉な予感に駆られたタカシオは、ライゾウに制止の言葉をかけようとした。そのときだ。
「――そこまでっ!」
 威厳に満ちた声があたりに響く。見れば、船の方からやって来るのは鬼蜘蛛丸と同年代くらいの男だった。体格がよく、男前の鬼蜘蛛丸と比べると、彼は小柄で平凡な顔立ちをしている。いっそ善良そうでさえあった。唯一、海賊らしい特徴といえば、髭くらいのものだろうか。親しみやすく、進んで支えたくなる首領という風情だった。
「鬼蜘蛛丸が失礼をした。俺は第三協栄丸といって、海賊船の首領をしている。部下の非礼を許してやってほしい」
「いえ、こちらこそ……」
 第三協栄丸の言葉にライゾウは頷いた。その意思を受けたかのように、空間の裂け目が消えていく。裂け目のできた虚空に目を向けてライゾウは小さく「ありがとう、“世界樹”」と呟いた。どんな意味なのか、タカシオには分からない。
 海賊たちはライゾウの呟きが聞こえなかったのか、話を続けた。
「物々しいなりで上陸したせいで、誤解を招いてしまったが、我々はこの村より略奪するつもりはない。もとより、俺は弱い者より奪う気はないのでな」
「はぁ……」そう海賊に言われても、簡単に信じられるものではない。タカシオは曖昧に頷いた。「では、どうしてこの村へ? ここは〈どこでもない村〉……たいして裕福でもありません」
「すまん。さぞ、驚かしたことだろう。しかし、他に行くあてがなかったのだ。何しろ、俺たちの本拠地があった地は、消えてしまったのでな」
「消えた?」ライゾウが驚きの声を上げた。「土地が消えたとはどういうことです?」
「そのままの意味さ。海を行っても、そこまでたどり着けぬ。壁があるわけでもないのだが、前へ進んでいると思いきやいつしか船は方向転換して戻っていっているのだ」
「……あなた方の本拠地は、どこにあったんです?」
 第三協栄丸と鬼蜘蛛丸は、一瞬、視線を交わした。本拠地を打ち明けてもいいかどうか、迷ったらしい。しかし、結局、首領に促されて鬼蜘蛛丸の方が答えを口にした。
「我らの本拠地はここより東――〈世界の果て〉にあった。しかし、今ではこの村が真実、世界の果てだと言えるだろう」



pixiv投下2015/03/08

目次