3795日の孤独


・年齢操作あり(八年後)。オリキャラあり。
・学園卒業時に双忍の道を選ばなかった鉢雷の話。
・そこはかとなく尾浜と久々知が×のような+のような。
・ハッピーエンドです。




1.

 忍術学園を卒業して、八年が経とうとしている。どきどき、僕は過ぎた日々を数えてびっくりする。
 在学中は『双忍』と呼ばれた僕と君は、しかし、別の道を歩むと決めて卒業した。僕たちは双子ではない。まして一人の人間を形作る片割れ同士でもない。ひとりで生きていけるのは当たり前のこと。
 にもかかわらず、君と離れて八年もひとり生きてこられたことに、今もなお寂しさ――いや、違和感を覚えてしまうのだ。
 だけど、それも終わる――。


***


 不破雷蔵は夜の山道を駆けている。
 忍術学園を卒業して八年。本職の忍たることを示す黒の忍服は身に馴染んで久しい。口布に隠れた顔立ちも大人びている。今でも人好きのする顔ではあるのだが、学園にいた頃、親友が好んで変装していた顔にあった幼さや甘さが消えたのは確かだろう。ただ頭巾の下から零れる黒髪は昔と変わらない。忍たまの時分からすれば少し長くなったそれは、今も悪戯好きな狐の尾のように膨らんで、楽しげに風に翻っていた。
 だが、髪とは裏腹に雷蔵自身の心には、そんな余裕はなかった。夜の中をただ一心に駆けていく。現在、雷蔵は味方にとって重大な情報を持ち帰ろうとしているのだ。
 ざあっと夜の森が風に揺れる。そのとき、雷蔵はふと気配を感じた。
(――五人。……いや、六人か)
 鋭い殺気が、闇の中を飛び交っている。雷蔵は懐から苦無を取り出した。いつ仕掛けられてもいいように、臨戦態勢に入る。
 と、そのときだった。
 ひゅっと蛍火のようなものが飛んでくる。それが手りゅう弾――素焼きの器に火薬を詰めた宝禄火矢だと気付くのに、数瞬かかった。
(っていうか、いきなり宝禄火矢とか……! 忍なんだから、もっと忍べよっ!)
 敵への悪態もそこそこに、雷蔵は慌てて逃げようとした。しかし、間に合わない。背後で爆発した宝禄火矢に吹き飛ばされ、木に激突する。ろくな受け身を取る暇もなかった。むしろ、少しでも衝撃を和らげようと半端に体勢を変えたのが災いして、頭を打ってしまった。
 ぐらぐらと視界が揺れる。脳震盪を起こしたらしく、気が遠くなっていく。雷蔵は湿った感触の土を引っ掻いたが、意識を繋ぎ止めることはできなかった。
 敵が迫っているのだろうか。近くで鋭い刃のような殺気が閃いたのが分かる。それから、虫の音に混じるうめき声と土と草の匂いを打ち消す血臭を感じた。
 ざわざわざわ。森がざわめいている。血生臭い闘いがあったにしては、辺りは静かだ。
 不意に雷蔵は誰かが近づいてくる気配を感じた。殺気はまとっていないらしい。だが、手練れの忍は己の殺気を完全に殺してしまうものである。相手が敵でないとは言い切れなかった。
(起きなきゃいけない! ……僕はこんなところで死ぬわけにはいかないんだ……!)
 雷蔵は拡散していく意識を、懸命にかき集めようとした。そうする間にも近づいてきた“誰か”がじっと雷蔵を見下ろしているのを感じる。
 と、急に“誰か”は手を伸ばし、肩に触れてきた。
 殺される!
 雷蔵の中で恐怖が閃いた。けれども、なぜだか身体は無防備に力が抜けてしまう。
 いったいなぜ――と考えたところで、雷蔵はようやく悟った。“誰か”の気配は自分によく馴染んだものだったのだ。別れてもう八年にもなるけれど、今もかけがえのない親友に違いないアイツに。頭よりも身体の方がその気配を覚えていて、意識が気付くよりも先に安堵してしまったらしかった。
 相手はひどく丁寧に、雷蔵を抱き起こした。しかし、相手の顔は月明かりの逆光になって、判然とはしない。
「――……」
 雷蔵は親友の名を呼んでみようとした。が、上手く口が動かない。ひどく懐かしい気配に包まれて、雷蔵は堪えきれずに目を閉じた。
 とろり、と夜が意識の中に流れ込んでくる。

 ――らいぞう。

 懐かしい声が、頼りなく自分の名を呼んだのを聞いた気がした。


2.


 気がついたとき、雷蔵は見覚えのない部屋に寝かされていた。今は昼間らしく、障子を透かして光の気配がある。ぼんやりと見上げた天井は、短くはない年月を経てきたようで黒く煤けていた。
(……どこ?)
 ぼぅっとした頭で、雷蔵は思った。
 ――そうだ。確か宝禄火矢で吹っ飛ばされて、頭を打って。
 だが、そもそも、どうして宝禄火矢を投げつけられる羽目になったのだったか……。雷蔵は考え込んだ。ぐるぐると考えすぎて、つい眠りに引き込まれそうになる。
 そのときだった。
 とっとっと、と小さな足音が聞こえてきた。目方の軽い子どもが走っているらしい。そうかと思えば、雷蔵の寝ている部屋の障子がすすすっと開く。顔をのぞかせたのは、足音の主らしい小さな子どもだった。
 子どもの顔立ちは分からない。古びて塗りの剥げかけた狐の面で顔を覆っている。雷蔵は面の上部に開いた二つの穴の奥の目と、つかの間、見つめ合った。
 狐面の子どもは、見れば見るほど親友の鉢屋三郎の幼い頃のようだった。ということは、今、目にしている光景はあれか。走馬灯というヤツなのだろうか。
(あぁ……。僕は死にかけているらしい)
 雷蔵は内心、呟いた。
 一方、狐面の子どもは我に返ったのか、きゃっと叫んで逃げていってしまう。人見知りのようだ。
 だが、人見知りにしたって、鉢屋三郎が親友の不破雷蔵を知らないはずがない。ひどいじゃないか、と雷蔵は子どもの姿をした鉢屋三郎を少し恨めしく思った。
 そうしていると、今度は割合に目方のある大人の足音が響いてきた。すぱーんと勢いよく障子を開けて、一人の男が部屋の中に飛び込んでくる。年齢は二十歳前後だろうか。どこにでもいそうな、あまり印象に残らない顔立ちだ。雷蔵には見覚えのない男だった。
 しかし、知り合いとは思えないにもかかわらず、男の方は生き別れの親にでも再会したかのような有り様だ。横たわる雷蔵の上に伏すようにして、胸元に顔を押し付けてくる。
 雷蔵はひどく困惑してしまった。が、やがて気付く。この男の気配は、気を失う寸前に感じたそれと同じ――不思議と安堵できる気配だ。雷蔵は半信半疑で、それでもそっと尋ねた。
「――さぶ、ろ……かい……?」
 男ははっと顔を上げた。涙さえ滲ませた情けない顔をしている。ここに来て、雷蔵は確信を抱いた。
 目の前の男の表情は、学園時代に三郎が雷蔵だけに向けたものだ。彼は鉢屋三郎以外にあり得ない。
「三郎」雷蔵はもう一度、はっきりと呼んだ。
「雷蔵! よかった、気がついて……。気分は? 頭をひどく打ったようだけど、吐き気やめまいはしないか?」
「平気だよ。それより、その顔は……」
 誰の顔なの? 今はその人の顔をずっと借りてるの? ――昔、僕の顔を使っていたみたいに。
 そう尋ねそうになって、雷蔵は口をつぐんだ。まるで嫉妬しているみたいな台詞だと思ったのだ。実際、その通りだった。だが、自分に嫉妬など許されるはずがない。双忍の道を選ばなかったために、三郎を独占する権利をも捨ててしまったのは雷蔵自身だ。
 けれど、三郎は優しい笑みを浮かべた。
「この顔は誰のものでもないよ。印象に残らない造りの顔に変装してるんだ。卒業してからは、ちょっとだけ仲間の顔を借りたり、今みたいに誰のでもない顔を使ったりすることが多い」
 と、そこで三郎は片手で顔を覆った。学園時代に見馴れた動作だ。ぱっと手を離したとき、三郎の顔は雷蔵のそれに変わっていた。
 いつ見ても信じられない早変わりだ。ただ――。
「僕の顔、ちょっと若すぎない?」
 雷蔵の言葉に三郎は苦笑した。
「これは私としたことが。忍たまの頃の君の変装は、癖になってしまっているから……。――これでどう?」
 再び顔を覆った三郎が手を離す。次に現れた顔は、まさに現在の雷蔵そのものだった。
「さすが鉢屋三郎だ。やっぱりお前はすごいなぁ」
 雷蔵の感嘆に、三郎はひどく嬉しそうな顔をした。

「頭領っ! やっぱりここにいた! 駄目でしょうが、勝手に来ちゃあ」

 不意に大きな声が部屋に響いた。
 え? 頭領? と雷蔵が疑問に思ったのもつかの間、廊下を振り返った三郎が声を上げる。
「いつまでも、私を雷蔵から引き離しておけると思うなよ。不破雷蔵あるところ、鉢屋三郎ありだ!」
「もー。相変わらず鬱陶しいぞ、お前。ちっとは頭領らしくしろよ」
 とても頭領相手とは思えない口振りで言い争いながら、新たな声の主が近づいてくる。ひょいと三郎の肩越しに雷蔵をのぞき込んだのは、見知った顔だった。三郎と同じく、共に忍術学園で学んだ同輩――尾浜勘右衛門だ。
 特徴的な大きな目。以前より大人びてはいるものの、愛嬌のある顔立ち。どこか人をくったような、それでいて憎めない雰囲気が、何となく狸を連想させる。
「勘右衛門……?」
「久しぶりだね、雷蔵。学園を卒業して以来だから……八年ぶりか」
「え?」
 雷蔵は尾浜の言葉に目を丸くした。
 学園を卒業して八年にもなるだろうか? 記憶によれば、自分は卒業してからある城に五年仕え、その後フリーになって間もないはずだが。
 うーんと考え込んだ雷蔵だったが、結局、大雑把に結論した。八年も五年も長い間には違いない。尾浜はただ長期間にわたって会っていないと言いたかったのだろう。
「勘右衛門はどうして三郎といるの?今は同じ城に仕えてるとか……?」
 雷蔵が尋ねると、尾浜は僅かに眉をひそめた。
「……覚えてないの?」
「え? 何が?」
「いや、何でもない」尾浜はすぐに明るい笑顔に戻った。「三郎とは同じ城っていうか、同じ忍衆にいるんだ。暁衆っていうんだけど」
「暁衆……」
「ちなみにもう一人、同学年が一緒だよ」
「そうなんだ。同学年が三人もって、すごい偶然だね」
「雷蔵、君……」
 今度は三郎が困ったような顔をした。が、尾浜が目配せをすると、すぐに何でもない表情に戻ってしまう。
 雷蔵は二人の様子が気になった。しかし、学園時代の六年間の付き合いで、こうなったら友人たちが隠し事を漏らさないだろうことは分かっている。結局、何も問うことはできなかった。
 ひとまず懸念は頭の隅に追いやって、雷蔵は会話を続けた。
「さっき勘右衛門は頭領がどうとか言ってたけど、どこにいらっしゃるんだい? 助けてもらったのなら、僕、挨拶しなきゃ……」
 雷蔵は布団の上に起き上がった。少し身体がふらついたのを、三郎が支えてくれる。
「いいんだよ、挨拶なんて。よく知った仲なんだから、気を遣う必要はない」三郎が言った。
「だけど……」
「本当にいいんだよ、雷蔵」今度は尾浜が言った。その目がなぜか笑っている。「だって頭領本人が気を遣うなって言ってるんだし」
「本人……? まさか」
「そ。そのまさか。頭領は三郎なんだ」
 雷蔵は目を丸くした。自分を支える三郎を見れば、弱ったような笑みを浮かべている。
 学園を卒業するとき、雷蔵が城仕えを選んだのに対して、三郎は主を持とうとはしなかった。忍集団・鉢屋衆の宗家の家柄である彼は、卒業後は実家の忍衆に属するよう命じられていたようだった。それが、どうして別の忍衆の頭領なんかやっているのか。
 雷蔵が困惑していると、三郎が苦笑して事情を説明してくれた。“三郎”の名からも分かるように三男である彼は、卒業後、実家に戻った。しかし、そこは長兄が跡を継ぎ、次兄がその補佐役についていた。こうなると、予備の後継ぎ候補であった三郎の出番はない。それでも、彼を遊ばせておくのはもったいないと考えたのだろう。長兄と次兄は鉢屋衆の勢力外である播磨で、新たな忍衆を作って独立するよう三郎に命じた。頭領同士が血族であればいざというとき協力しあうこともできる、と考えてのことだったらしい。
「……そんなわけで、似合わない頭領をやってるのさ。まぁ、暁衆は実家からついてきた昔からの知り合いと勘右衛門たちだから、私を頭領とたてまつるやつはいないけどね」
「勘右衛門たちも最初から暁衆にいるの?」
「最初からっていうのかな。三郎が独立して少し後に、俺ともう一人の同学年は城仕えやめてさ。偶然、暁衆のことを知って、三郎に雇ってもらいにきたんだ」
「三郎、忍衆を立ち上げるなんて、頑張ったんだねぇ」
 ――知っていたら、僕も君に雇ってもらいたかった。
 つい零れそうになった本音を押さえ込んで、雷蔵は三郎に笑いかけた。そこへ、新たな声が掛かる。
「旧交を暖めるなら、俺も寄せてくれ」
 そう言って部屋に入ってきたのは、秀麗な顔立ちの青年だった。白い肌に濡れ羽の黒髪を背まで垂らしている。学園で一緒だった久々知兵助だった。
「勘右衛門が言ってたもう一人の同学年って、兵助だったんだ……」
 と、そこで雷蔵は久々知の腰の辺りに隠れるようにしている小柄な人物に気づいた。見覚えのある着物と狐の面。雷蔵が夢うつつに幼い頃の三郎の幻だと思った子どもだ。
「その子は……?」
「あぁ、この子は三郎の子どもだよ。名を初瀬というんだ」
 尾浜の言葉に雷蔵はなぜかぎくりとした。三郎が家族を持つのは喜ばしいことのはず。なのに、なぜか傷ついている自分がいる。
「ち、違うんだ、雷蔵……! いや、初瀬は確かに息子だが、そうじゃなくて……!」三郎が慌てている。
「何が言いたいのか分からないよ、三郎」雷蔵は胸の痛みを堪えて苦笑した。
「勘ちゃん、言い方が意地悪すぎ」二人の様子を見ていた久々知はため息をついた。それから、雷蔵へと声を掛ける。「雷蔵、初瀬は三郎の養子なんだ」
「養子……?」
 雷蔵は目を丸くして三郎を見た。三郎はばつが悪そうに頭をかいた。
「この子は恩ある人の忘れ形見だから、私が面倒を見ることにしたんだ。私は妻帯はしていないから、皆、心配して反対したんだけどね」
 雷蔵は三郎の言葉に呆然としながら、狐面の子どもを見つめた。初瀬と呼ばれたその子は、恥ずかしそうに久々知の陰から雷蔵をうかがっている。久々知がそんな彼の肩を抱いて、雷蔵の前にやんわりと押し出した。
「さぁ、初瀬。この人は俺や頭領の同級生で、不破雷蔵というんだ。挨拶をおし」
「――………………はちやはつせと申します……。はじめ、まして……」
 初瀬は蚊の鳴くような声で挨拶した。そうかと思えば雷蔵が返事するのも待たず、ぱっと久々知の陰に戻ってしまう。どうやら相当な恥ずかしがりらしい。
 相手を怖がらせないようにと、雷蔵はできるだけ優しい笑みを浮かべてみせた。
「初めまして、初瀬。よろしくね」
「……不破殿のお顔……ぼく、知ってます……。義父上の、大事なお顔……でしょ……?」
 幼子の言葉に雷蔵は目を丸くした。
 学園を卒業するとき、三郎は雷蔵に約束した。生きる道を分かつからには、自分はもはや日常的に雷蔵の変装をしない、と。それを聞いたとき、実のところ雷蔵は寂しさを覚えた。だが、雷蔵の変装を止めることが双忍として生きないという道を選択したことへの、三郎なりの決意なのだろう。そう考えると、彼の決意に水を差すようなことを言うわけにはいかない。そこで、雷蔵はただ三郎の言葉に頷いたのだった。
 もし初瀬が雷蔵の顔を知っているというのが真実なら、おそらく三郎の変装を通じて知ったのだろう。となると、三郎は自らの宣言を破ったことになる。
 けれど、雷蔵は三郎を責める気にはならなかった。むしろ、宣言を破ることになっても、雷蔵の顔を使うことを諦めきれなかったのだろうかと思うと――嬉しいような落ち着かないような気分になる。
「三郎、あのね……」
 雷蔵は思わず事の次第を確かめようとした。と、三郎は責められると勘違いしたのか、慌てたように首を横に振った。
「違う、雷蔵! 私は約束を破ってない!」
「まぁ、確かに俺たちが暁衆に来てから、三郎が雷蔵の顔を使ったところは見ていないねー」尾浜が助け船を出すように言った。
「おそらく、三郎がときどき描く似顔絵で見たんだろう。似顔絵は変装の基本だからと三郎も練習を続けているし、初瀬もこのごろ練習を始めたから」
 場を取りなすように言って、久々知は初瀬の頭を撫でた。少年はもの言いたげな雰囲気を見せていたが、それ以上、口を開くことなく久々知にしがみついている。
 雷蔵はふと引っかかりのようなものを覚えた。雷蔵の顔の件にしろ、初瀬の様子にしろ、三郎と初瀬の間はどことなくぎくしゃくしているように思える。どこがどうとはっきり指摘できるわけではないのだが、学園時代に下級生を可愛がり、慕われてもいた三郎らしくないと雷蔵は感じた。
 ――あの子と話してみたいな……。
 そう考えたものの、三郎たちが一緒にいるこの場では難しい。ただ、幸いなことに三郎はきっと、雷蔵の傷が治るまでの間はこの邸への滞在を許してくれるだろう。
 ――話す機会はまだあるはずだ。
 三郎たちと談笑をしながら、雷蔵はひそかにそう思った。



3.


 雷蔵が目覚めた日の夜。尾浜は頭領である三郎の部屋を訪れた。話がある、と声を掛ければ、部屋にいた三郎は「入れ」と応じる。尾浜は障子を引いて、静かに部屋の中へ進んだ。と、背を向けて文に目を通していたらしい三郎が振り返る。
「どうしたんだ、勘右衛門?」
「今日の雷蔵の様子ですが……彼は記憶を失っているようです。暁衆を結成したときに頭領が彼を誘おうとしたことを、覚えていないようだった。それに、俺たちが雷蔵を助ける直前に彼が何をしようとしていたのかも」
 尾浜は低い声で告げた。
 学園時代の同級生とはいっても、暁衆では三郎は頭領である。ゆえに、尾浜も久々知も特に旧友として接するとき以外は三郎に恭しく接するようにしていた。最初のうち、三郎はそれを“い”組特有の堅苦しさだと苦い顔を見せたものだ。だが、いくら他人行儀だ杓子定規だと言われようが、上下の別、主従の別がなければ組織というものは瓦解してしまう。頭領としての三郎への敬意は、尾浜と久々知なりのけじめだった。
 そのけじめに、三郎はいまだに面食らうときがあるらしい。今もちょっと傷ついたような表情が浮かび掛けたのを打ち消してから、口を開く。
「だが、学園時代の記憶はあるようだった」
「俺もそう感じました。おそらく、雷蔵は爆発で吹っ飛ばされて頭を打ちでもしたのでしょう。卒業後の……比較的、最近の記憶が抜け落ちている風です」
 尾浜の言葉に三郎は考え込むように黙った。そこへ、今度は久々知が部屋に入ってくる。どういうわけか三郎の養子に非常に懐かれている彼は、幼子を寝所に連れていった後なのだろう。初瀬の寝所の前庭に咲く藤の匂いが、ふわりと久々知から香った。
 ふと三郎が顔を上げて、久々知へ目を向けた。
「兵助、初瀬は?」
「眠りました。過剰なくらいに敏感な子だから、雷蔵がいることでもっと過敏になるかと思いましたが……心配ありませんでした」
「いつも初瀬の相手をさせてすまない」
「いえ……。それよりも、雷蔵をどうする気です?」
 忍としては素直すぎるほど率直な性格の久々知は、尾浜が尋ねようと様子を見ていた質問をずばりと口にしてしまった。
 案の定、三郎は強ばった表情になる。あーあ、もう少しゆっくり話をして、三郎の結論を誘導するつもりだったのに。尾浜は内心、ため息を吐いた。
 そんな彼に気づかず、二人は会話を続けている。
「――雷蔵は暁衆に留め置く。記憶が戻っても、戻らなくても」
 三郎は先ほどの考え込むような様子とはうって代わって、きっぱりと宣言した。結論は決まっていたが、自分や久々知に反対を受けるだろうと予測して、言いにくそうにしていたらしい。
「しかし、それは……」案の定、久々知は渋い顔をした。
「危険すぎます。頭領……いや、三郎、同級生として忠告させてもらう」尾浜は同輩としての口調になって、三郎に言った。「雷蔵が爆発に巻き込まれたあのとき……雷蔵が何の目的で狙われていたのか分からない」
「勘ちゃんの言うとおりなのだ。噂によれば、雷蔵は今、マツヨイ城に仕えているという。こんなこと言いたくはないけど、マツヨイと敵対するスズラン城に雇われたことのある暁衆を……三郎を狙ってたって、おかしくはない」
 二人かがりの説得に、しかし、三郎は首を横に振った。
「何と言われようと、雷蔵がこの手に転がり込んできたからには、もう手放すつもりはない。――……たとえ雷蔵に殺されるとしても、それはそれで本望だ」
「お前には暁衆の頭領としての責任があるんだよ? 死んでもいいなんて、簡単に言ってくれるな」
「そうなのだ。第一、お前が死んだら初瀬はどうなる? また身寄りを亡くす悲しみを味わわせることになるんだぞ」
 尾浜と久々知の言葉に、三郎は寂しげな笑みを見せた。
「自分の背負うもののことは分かっているさ。だけど、卒業して、雷蔵と離れて思い知らされたんだ。忍としてはともかく……人としての鉢屋三郎の幸せは雷蔵の元にしかない。だから、奪っても、生命にかえても、今度は雷蔵を手に入れる。……これは私の我がままだ。だが、どうか許してほしい」
 しおらしい三郎の態度に、久々知は同情を覚えたようだった。「三郎がそう言うなら……」と不承不承ながらも、雷蔵に手出ししないことを約束している。尾浜も同じ約束をしたが、内心は違っていた。
 暁衆は三郎の作った忍衆だが、彼の所有物ではない。組織として多くの人間を抱え、給金という形で暁衆に属する者の家族をも養っている。もし一歩間違えて潰滅すれば、村ひとつ焼かれたくらいには路頭に迷う人間がいるのだ。雷蔵が三郎にとってかけがえのない存在であることは承知している。しかし、それでもたった一人のために数多の人間を不幸にしていいわけがない。
 ――たとえ約束を違えても、三郎に憎まれたとしても、俺は兵助や初瀬や三郎を……暁衆の皆を守る。
 尾浜は密かにそう決意した。途端、ざっと頭の中に一枚の図面が広がる。各地の城の国力を示した戦略図にも似たそれには、地形や各国の情勢だけではなくもっと細かな情報まで記されている。すなわち、城だけでなく尾浜自身や三郎、雷蔵など、個人の戦力や所属までが描き出されているのだ。いわば、戦略図に個人の能力や属性まで足した図面とでも言おうか。
 もしも尾浜の頭の中の図面を紙の上に描いてみたところで、誰も何も理解できはしないだろう。客観的に見れば、それほどまでに乱雑な図面だとしか言えない。しかし、尾浜は頭の中の図面を切り替えることによって周囲の状況を知っているのだった。
 頭の中の図面を遠目から見れば、各城の戦況を把握することができる。一方、近づいてみれば彼我の忍個々の戦闘能力を見ることができる。さらには、図面の遠景と近景を関連づければ、敵方の動きを読む精度も上がるのだ。この独自の図面を利用して、尾浜はときどき参謀として三郎に助言をすることもあった。
 今回、尾浜は初めて、かつての同輩相手に本気でその能力を使った。雷蔵の経歴、能力、卒業後に力を付けているであろう伸びしろなどを推測し、彼が無害なのか――害があるならどうすれば倒せるかを考える。
 とはいえ、雷蔵は簡単に見通せる相手ではなかった。迷い癖のせいだけではない。自分と同じ顔をした人間がいるのは不安だろうに、当たり前のように三郎の変装を受け入れたこと。三郎とあれだけ互いを想い合いながらも、最後には双忍になることを拒絶した意思の強さ。優しいばかりの人間かと思いきや、雷蔵はかなり複雑な性格の持ち主でもあるのだ。
 ――雷蔵は手強いな……。だけど、諦めるつもりはないさ。
 尾浜は目まぐるしく頭の中の図面を切り替えながら、心の中で呟いた。



2013/08/04

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