Odi et amo


・愛憎ありますがハッピーEDです。
・ED2ベースといいながら、ED1〜3の要素がそこはかとなく全部入っています。







1.



 荒れ果てた廃墟の先に、敵の陣地が見えていた。延々と伸びる壁は、ひとつであったはずのこの国・ニホンを事実上、分断している。ディバイドライン――この国の中に存在する国境だ。
 六月の湿気を含んだ風の中、アキラは敵側の壁を眺めていた。今いるのは分断されたニホンの国土のうち、西側に位置する日興連の陣営である。アキラはもともと敵陣営――CFCの出身だった。だが、麻薬組織ヴィスキオの主宰するイグラというバトルゲームに参加した後、日興連とCFCが始めた内戦を避けて西側へ逃れた。以来、あるきっかけから日興連軍に属している。
 ――まったく、人生は何があるか分からないものだ。
 アキラは内心で苦笑した。
 そもそも自分で言うのも可笑しな話だが、アキラはひどく反抗的な性格だった。義理の親や教師など権威をかさに着る人間には、とにかく反発せずにいられなかった。そんな性分では、孤児だったところを引き取って育ててくれた義理の親とも上手くいくはずがない。イグラに参加する以前のアキラは親元を出て、Bl@sterというライト層向けのバトルゲームの賞金で食いつないでいた。
 そんな人間がよく軍人になったものだと自分でも思う。
 ――あの方が俺を変えた。
 アキラは凛と背筋の伸びた軍服姿を思い描いた。
 今、こうしてアキラが性に合わない軍に入って、それでも上手くやっているのは、トシマで出会った男・シキのせいだ。トシマでさんざんアキラをいたぶり、気に食わないと言い続けた彼は、しかし、変わった。宿敵として追い続けたニコル・プルミエの血を飲んで、ニコルウィルスの保菌者――つまりは非ニコルであるアキラの対なる者となってから。
 シキはもはや、以前のようにアキラをいたぶることはない。己の対になる者として大事にしてくれる。大望を叶えるために、アキラに傍にいることさえ望む。そんなシキのことを、今ではアキラも愛していた。
 何があってもついていくべき相手と、今は素直にそう思う。
「――アキラ。何か異変でもあったか?」
 声を掛けられて、アキラは振り返った。見れば、自分のシキが軍服の裾をなびかせながら歩いて来るところだった。艶やかな黒髪と抜けるように白い肌。血のように紅い瞳。秀麗な彼の姿は、モノクロの戦場の中でひどく鮮明だ。すべてを投げ出して後に従いたくなるほどに。そんな上官をアキラは誇らしく思っていた。
 同時に、彼の鮮やかさに惹かれるのが自分だけであればいいと願わずにはいられない。
 つまらない嫉妬だ。
 それでも、彼は非ニコルというマイノリティであるアキラの心をよく分かってくれる。同時にニコル体質であるシキを理解できるのも、対なる存在であるアキラだけだ。互いに互い以外、対になれる者はない。自分たちはある意味では二人きりの世界にいるのに等しいのだ。その事実を再確認しながら、アキラはゆっくりと首を横に振った。
「いえ。CFC側には何も動きはないようです」
「そうか……。敵が動いてくれれば、叩くことができるのだがな。いかんせん、こちらから動くなと上層部から命じられている。まったく、お偉方は腰が重くて困る」
「そうおっしゃらずに」
 アキラは苦笑しながら、シキを宥めた。
 上層部は戦場にあって華々しく活躍するシキを、扱いかねているところがあった。世界的に石油などの資源が乏しく、戦争をするにも白兵戦が主流となっている現代のことだ。戦場ではいわゆる“英雄”が生まれやすい状況になっている。シキは容姿もカリスマ性もまさに“英雄”にふさわしい要素を多分に持っていて――上層部は警戒しているようだった。
 とはいえ、それも手遅れだが。
 既に前線の兵士の中には、シキに心酔する者が出始めている。戦場で、何度となく自ら刀を取って闘うシキを見ていれば当然のことだろう。そして、それがシキの大望への手段の一つでもあった。いずれ、前線の兵士だけでなく、軍全体――いや、もっと多くの人間がシキに忠誠を誓うときが来るだろう。
 アキラは、その手助けをするためにシキの傍にいる。
 シキを宥める素振りのまま、アキラはそっとシキに身を寄せた。
《――数名の“同志”が、CFC側を挑発すべく警戒線の死角から、密かに接近しております。シキ少尉の指示通り、逃げそびれた避難民を装って。もうじきCFC領内に入るはずです》
《これでCFCを攻撃するための口実ができるな。楽しみだ》
 ひそひそとほとんど唇の動きだけで、内密の言葉を交わす。闘いのときを思って凄艶ともいえる笑みを浮かべるシキに、アキラもつられて微笑した。彼の闘う姿を見ることができる――そう思うだけで、嬉しくなってくる。
 と、そのときだった。
 CFC側からかすかに銃声が聞こえてきた。潜入させた、 “同志”たちが工作活動を開始したらしい。予定よりも早い刻限である。だが、シキは慌てなかった。かえって微笑を深めるだけだ。
「――さて、行くか、アキラ」
 発砲にかこつけて、CFC側を攻撃する。シキはそう言っているのだ。
 アキラは微笑しながら、「お供します」と頷いた。



2.


 二人が日興連軍に入って、まだ二年しか経っていない。だが、優秀な軍人であるシキはあちこちから声が掛かる。その理由について、アキラは深く尋ねたことがないが、それでも皆の態度から感じ取ることはあった。どうやらシキは、二つに分断される前の旧ニホン政府で、それなりの地位のある家系の流れを汲むらしいのだ。
 実力優先のCFCとは違って、日興連は血縁や家柄、旧習などを大切にするのが特色である。いかに有能とはいえ、どこの血筋とも知れない人間がいきなり日興連で重んじられるはずもない。
 しかし、シキはそうした懐古体質を打破しようとしている。彼の大望とは日興連軍の上位に駆けのぼり、CFCと日興連を統合して、旧習に囚われない新たなニホンを築くことなのだ、とアキラは聞かされていた。
 もっとも、現在の日興連とCFCはそれぞれ主義主張の異なる国々によって支援を受けている。そうした国々はニホンの東西陣営の対立をある種の代理戦争のように捉えているのだ。
 もしもニホンの東西が統一されれば、各国はニホンを支援するための意義を失う。すぐに手を引くだろう。そればかりか、逆に統一されたニホンに対抗してくるかもしれない。そうなったときのために、新生ニホンは他国と渡り合うだけの力を用意しておく必要がある。そこで、シキは自らのニコルウィルスによってラインをもっと改良した兵力増強剤を作るつもりでいた。副作用を少なくした新型ラインによって兵力を増強し、国を守るのだ。
 皆に恐れられてきたニコルウィルスが、この国のために役立つ――シキの役に立てるのだと思うと、アキラは幸せだった。自分のような存在にも意味があるのだと思うことができる。


 前線から日興連に戻ったシキは、多忙を極めた。
 戦場では、誰よりも勇敢で手柄を立てなければならない。だが、それではいつかこの国を統治するという大望には不十分である。後方にいるときには、様々な相手に根回しをして味方をつくっておかねばならない。
 自らが将来、ニホンを手に入れる日のため、シキは巧妙に立ち回っていた。アキラはもともとそうした駆け引きが上手い方ではないため、シキに言われるままに動くばかりだった。それでもめまぐるしい忙しさなのだから、すべてを掌握しているシキに感心せずにはいられない。
 そんな忙しさの中でも、たまに一息つける瞬間は訪れる。
 ある日のこと、アキラはシキに与えられた執務室で、シキと共に事務をこなしていた。ちょうど先日のCFCとの小競り合いについての報告書のまとめが一段落し、アキラはシキの雑務を手伝っていた。シキはアキラより階級が高いので、多岐に渡った仕事に関わっている。報告書のまとめで疲れのたまっていたアキラは、シキの手伝いをしながらも少しだけ、うとうとしてしまった。
「おい……。アキラ、起きろ」
「ん……。シキ……少尉……」
 起きようとするが、起きられない。
 まどろみに引き込まれかけるアキラを、シキは強くとがめなかった。
「仕方のない奴だな。……今日はもういい。お前も疲れているだろう。官舎に戻って眠れ」
 苦笑しながらアキラのデスクの上の書類を持っていくシキは、ひどく柔らかな雰囲気をまとっていた。ついでのようにくしゃりと頭をひと撫でして去っていく手がくすぐったい。アキラは眠たい意識の中で思わず微笑した。大事にされていると実感する。
 それでも、ときどきアキラは不安になる。
 確かに自分と彼は対になる者。誰よりも彼を理解できる――はずだ。大切にされる理由としてはそれで十分だろう。人は誰しも自分のことを分かってもらいたいものである。
 ところが、対であるはずのシキには何も感じない。nとの接触で感じていた痺れも、磁石に引かれるような引力も何ひとつ。とはいえ、自分とnの間にあった不思議な感覚は個人差のあるものなのかもしれない。
 ――そのことで、俺は何か忘れている気がする。
「アキラ?」
 ぼんやりしたアキラに、シキが訝しげな声を掛ける。何でもないというように、アキラは微笑してみせた
「大丈夫です。……やはり、ぼんやりしているようですので、お言葉に甘えて眠ってきます。今のような私では……きっと少尉のお役に立つどころか、邪魔をしてしまうでしょうから」
「今日休んだ分は、明日、しっかり働いてもらうから問題ない。お前は大事な俺の右腕だからな」
 そう言ったシキの言葉は、シキの本心というよりは先に休むことを申し訳ないと感じるアキラに配慮したようだった。また気を遣わせてすまった、と思いながらも、必要とされることは嬉しい。
「ありがとうございます……」
 一礼して、アキラは事務所を後にした。


 二時間後。月が昇って夜半に差しかかる頃。
〈アキラ〉は刀を持って、与えられた官舎の自室を後にした。ひたひたと足音を忍ばせて、敷地内の事務所のある棟へと向かう。初夏の明るい月が空に輝き、足元に濃い影を作っていた。
 事務所棟に向かうために、近道をしようと〈アキラ〉は中庭を突っ切ることにした。と、そのときだ。
「……こんな時間に誰だ?」残業していたらしい同僚に声を掛けられる。
「俺だよ。シキ少尉に、鍛錬に付き合えと呼ばれたんだ」〈アキラ〉はすぐに応じた。口がつるつると嘘を吐き出す。
「あぁ、少尉らしいな。体力底なしのあの方の鍛錬に付き合わされるとは、お疲れさん。せいぜい頑張ってきてくれ」
 同僚は苦笑して、ひらひらと手を振った。その言葉こそシキに辟易したような調子ではあるが、彼はシキに心酔している同志の一人である。言葉にあるのは、むしろシキへの敬愛ゆえのからかいだった。
〈アキラ〉は手を振りかえして同僚と別れた。そのまま事務棟へ進んでいく。
 事務棟を見上げると、シキは二時間前と変わらず一人で仕事をしているようだった。事務所のシキの部屋だけ、灯りが点いている。予想通りだ。〈アキラ〉は刀を手に、うっそうと笑みを浮かべた。気配を消して、事務棟の中へ忍び込む。二階の北の隅に位置するシキの事務所へこっそりと向かった。
 気配を殺したまま、〈アキラ〉は事務所の扉の外で刀の鞘を払った。抜身の刀を手に、扉を蹴り空けて一気に中へと入る。さすがのシキも驚いたのだろう。物騒な姿で登場した〈アキラ〉に目を丸くしている。
 しかし、〈アキラ〉は問答無用でシキに斬りかかった。
「覚悟しろ、シキっ!」
「フン、また“お前”か」
 突然の襲撃にもかかわらず、シキは笑みさえ浮かべて〈アキラ〉の一撃を避けた。だが、それでも〈アキラ〉は止まらない。避けられた刃をすぐさま返し、追っ手にするかのように斬りつける。シキは事務所の隅にあった刀を手に取って、〈アキラ〉の刃を受け止めた。
 ガキンッ。激しい金属音が上がる。見れば、シキは〈アキラ〉の剣を受け止めているのだった。あの一瞬でよくも反応できたもの、と思わずにはいられない。しかし、感心している暇はなかった。
「――殺す……!」
〈アキラ〉は短く吐き捨てた。
 すでに〈アキラ〉は気付いていた。自分には二人の自分がいる、という事実に。一方のアキラはシキに心酔している。ところが、もう一方の〈アキラ〉――つまり自分の方はシキを憎悪して、殺したいと願っているのだ。
 なぜこんな風に自分がふたつに分離してしまったのか。
 それは、シキが嘘を吐いているからだ。
 にもかかわらず、もう一人のアキラ――あのお人好しは嘘にも〈アキラ〉の存在にも気付いていない。あるいは、気付かないふりをしているのか。
 それでも、アキラはシキに心酔しながらも、心のどこかで疑っている。そのアキラが眠る夜半に、〈アキラ〉は目覚め、こうしてシキの生命を狙う。もちろん、狙われるシキもそのことには気付いている。しかし、彼はいつまで経っても、アキラに別人格である〈アキラ〉のことを話そうとはしなかった。それがなぜなのか、〈アキラ〉には分からない。シキを敬愛する可愛らしいアキラを悩ませたくないと思っているのか。或いは〈アキラ〉に生命を狙われて対処するのも、ちょっとした運動のつもりなのか。
 いずれにせよ、身体を支配する主人格であるアキラがもう一つの人格について気付いていないのは、〈アキラ〉にとっても好都合だった。何の邪魔もされずに、シキを殺したいという欲求だけに専念できるからだ。
 そう。今のように。
〈アキラ〉はにっと凶悪な笑みを浮かべて、再びシキに斬りかかった。シキは自分の刀の鞘でそれをいなして、窓へ向かう。
「逃げる気か!」
「さて、どうかな?」
 慌てて叫ぶ〈アキラ〉に、シキはふっと余裕のある笑みを見せた。かと思うと、僅かに開いていた窓を開け放って、そこから夜の闇に身を躍らせる。二階から中庭へ飛び降りたのだ。
「待て!」
〈アキラ〉は鋭く言って、自分も窓枠に足を掛けた。もう少し階が上ならば厳しかっただろうが、今いる二階からならば、飛び降りて降りられない高さではない。〈アキラ〉はためらいなく、庭へと飛んだ。建物のすぐ傍に生えていた庭木を中継にして、少し湿気を含んだ土の上に降り立つ。
 逃げたかと思ったシキはそこにいて、〈アキラ〉を待っていた。
「逃げたかと思ったぞ」〈アキラ〉は嘲笑混じりに言った。
「俺はお前からは逃げんさ。どうせなら、存分に力を出せる場所で闘いたかっただけだ」
 余裕の表情で言ったシキは、手にした刀の鞘を払った。真剣が月明かりに白く輝く。刃を抜いた途端、シキの穏やかな気配が一変した。トシマの頃のシキのような強烈な殺気と闘気に、皮膚がぴりぴりする。
 ――やっぱり、“シキ”はこうでなくちゃ……!
「やっと本気になったみたいだな……!」〈アキラ〉は笑みを浮かべながら言った。
「俺を本気にさせたことを、後悔する方がいい」シキもにやりと凶悪な笑みを浮かべる。
「誰が……! お前を殺してやる」
「できるものならな。……お前には無理だ。いつものように、俺に負けて屈辱を味わうことになる」自信たっぷりにシキが言った。
 その言葉に、知らずぞくりとした感覚が背筋を這うのを感じた。既に何度か、〈アキラ〉はシキに挑んで敗北し、躾だと称して身体を開かれた。そのときに与えられた快感のような、殺意のようなよく分からない熱が腹の底からこみ上げてくる。
「そっちこそ、やれるもんならやってみろよ……!」
 不敵に叫んで、〈アキラ〉は刀を手に駆けだした。


 目が覚めると、アキラは覚えのない部屋にいた。正確には部屋自体はよく知っている。官舎にシキが与えられている士官用の個室だ。しかし、なぜ自分がそんなところにいるのかが分からない。
 さらさらと心地のいいシーツからは洗剤と少しばかりシキの匂いがする。そこですぐ傍にある体温に気付いて、アキラはぎょっとした。振り返れば、同じベッドにシキが眠っている。それも、二人とも裸だ。こうなると、前日ここで何があったのかは明白だった。下肢に残る違和感が、アキラの予想を裏付けている。
 ――俺はシキと寝た、のか……?
 しかし、そこに至るまでの記憶はまったくなかった。どのように自分がこの部屋に来たのかさえ、覚えていない。アキラに残っている最後の記憶は、シキの許可を得て官舎に戻り、ベッドに潜り込んだところで途切れている。
 このところ、毎回、こんな風だった。幾度となくシキに抱かれているのだが、前後の記憶が残っていないのだ。しかし、翌朝、同じ部屋で目覚めたときにもシキは取り立てて何か言ったり、態度がおかしかったりすることもない。ということは、自分はシキの前でおかしな振る舞いをしているわけではないのだろう。もしかすると、眠くなってシキに甘えたい気分のとき、自分は半覚醒のまま彼の元へ行ってしまうのかもしれない……。
 さすがに度重なる記憶のない出来事に、アキラも何かがおかしいと感じていた。だが、それを医者に言うわけにはいかない。精神に問題があると診断されれば、軍にいられなくなるかもしれないからだ。そうすると、シキの役には立てなくなる。アキラにとって、それだけは避けたい事態だった。だから、納得できないまま、自分の異変を目こぼしし続けている。
 ――だけど、本当に大丈夫なのか……?
 自問自答しながら、アキラは布団からのぞくシキの肩に触れた。そこに赤く浮く傷跡は、おそらく自分が行為の最中に引っ掻いてしまったのだろう。思いだせないけれども。アキラは指先でそっと傷跡をたどった。
 と、シキがふわりと目を開く。
「……アキラ」
「おはようございます、シキ」
 アキラの言葉にシキは柔らかな笑みを浮かべた。眠りから覚めて間もない彼の表情は、なんだかとても無防備だ。
「身体は?」
「大丈夫です。仕事に支障はありません」
「そうか。……まだ少し時間があるな。朝食を作ってやるから、食べていけ」
 シキは身軽にベッドから起き上がった。てきぱきと衣服をまといだすその背中に、アキラは慌てて声を掛ける。
「あの、シキ……大丈夫です。朝食ならば、食堂で摂りますから」
「遠慮するな。――というより、俺の我儘だ。俺に抱かれた朝のお前の顔を、できるかぎり誰かに見せたくないという、な」
「っ……」
 執着心を隠しもしないシキの言葉に、一瞬にして頬に血が上る。赤くなって絶句したアキラを面白そうに見てから、シキは部屋の簡易キッチンへと歩いていった。同じ官舎の部屋でも、アキラのような一般兵の部屋には簡易キッチンなどという上等なものはない。シキを始めとした士官たちの特権だ。
 アキラは相変わらず熱い頬に手を当てながら、キッチンに立つシキの背を眺めた。トントントンと規則正しい包丁の音に、ひどく心が安らぐ気がした。



3.


 数日後の夜更けのことだった。その日もまた刀を手にシキの元へ向かおうとしていた〈アキラ〉は、事務棟の手前で呼び止められた。振り返れば、そこにいたのは先日にもシキを襲撃する直前に出遭った同僚だった。
「――どこへ行くんだ?」
 そう尋ねる同僚の声が、やけに硬い。しかも、周囲には同僚のみならず三人ほどの気配が潜んでいる。これまでとは異なる事態に、〈アキラ〉は密かに身構えた。しかし、表面上は普段通りを装う。
「どこって、シキ少尉のところさ。今日も鍛錬に……」
「鍛錬? 本当に? ――この前、お前が少尉と庭で“鍛錬”しているところを見かけたぞ。真剣を使って、殺気を隠しもしないで……」
「それはそうだろう。シキ少尉は実戦さながらの鍛錬を好まれる」
「実践さながら? 違うな。あれは限りなく本気に近い殺し合いだった。なぜシキ少尉が、本気でご自身に害を為そうとしたお前を告発しないのか、俺には理解できない」
「ハッ。だからただの鍛錬だと言っているだろう」
〈アキラ〉は嘲笑を込めた声で答えた。なぜシキは告発しないのか――同僚が示した問いは〈アキラ〉の胸にもずっと引っかかっている。しかし、その疑問に答えられるのは、シキひとりだ。考えても仕方ないと、いつものように自分自身に言い聞かせる。
「――アキラ、お前は危険だ。いつかシキ様に害を為す。悪いが、その前に災いの芽は摘ませてもらう」
「どうするつもりだ……?」
〈アキラ〉は尋ねながら、刀に手を掛けた。多勢に無勢ではあるが、生命まで取られそうならば抵抗しないわけにはいかない。
 しかし、そんな〈アキラ〉の覚悟を見て取ったのか、同僚は苦笑した。
「心配するな。ここでお前の生命までは取らない。然るべき手続きを踏んで真実を明らかにするだけだ」
「手続き……?」
 何のことだ、と〈アキラ〉は呟いた。そのときだった。同僚の言葉を合図に、物陰に潜んでいた気配が現れる。外灯の下で見れば、それはシキに心酔する同志たちだった。その中に査問部に所属する者がいるのを、〈アキラ〉は素早く見て取った。
 査問部は軍の内部の風紀を司る部署である。軍はその性質上、警察の手が及びにくい。そのため、何か事件があって大事に至る前に、査問部が風紀を糺しておいて、事件を未然に防ごうという狙いがあった。
 その軍組織内部での独立性と権力の大きさから、シキは査問部の人間を同志にしようと苦心してきた。日興連軍の中でシキ同様に権力を持ちたがっている士官があって、その男も査問部を味方に付けようとしているらしい。シキとその士官の間には、査問部を自分の陣営にした側が出世のコースに乗るのだと競い合っている風もあった
 しかし、査問部は監査機関であるため、軍人たちから籠絡されないように様々な措置が施されている。この場に現れたのはそうしてやっと仲間にした、査問部所属の兵士だった。
「――アキラ。上官に危害を加えた疑いで、お前を査問部に告発する。立会人はここにいる三人だ」
「っ……」
〈アキラ〉は唇を噛んだ。査問部に告発されるということは、審議のときまで身柄を拘束されることを意味する。下手に抵抗をすれば、待っているのはより厳しい処分だ。「くそっ」と短く吐き捨てて、〈アキラ〉は刀を地面に捨てた。





2013/08/04

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