3.




 目が覚めたとき、僕は審神者の私室にいた。傍らでは清光がまだ眠っている。とはいっても、夜伽をさせたわけではない。昨日は厨房に時間を取られてしまって、自分たちが過ごす部屋の掃除をすっかり忘れていた。それで、夜に取り急ぎ審神者の私室だけを簡単に掃除して、ふたりで一緒に眠ることにしたのだ。
 男同士で同衾というのは、人によっては抵抗があるだろう。だが、おそらく二十世紀や二十一世紀の人間ほどの嫌悪感はないはずだ。
 二一〇〇年頃から同性同士の恋愛関係が一般にも受け入れられるようになってきて、同性同士の婚姻制度もできた。というより、むしろ同性・異性という意識が昔より希薄になったのだと言われている。
 これは人口減少対策として、政府が成人した国民の精子・卵子を管理して、毎年、一定の割合で人工子宮による子どもを作り出すようになった影響らしい。人工子宮生まれの子は政府施設で養育されるし、場合によっては里子に出されることもある。
 ともかく、男女による生殖行為が社会的にさほど重要でなくなったこともあって、異性愛にこだわる必要がなくなってきたのだ。むしろ、二二〇〇年代の人間は、同性・異性問わず自分と相手の相性によってパートナーを決めることが多いらしい。
 僕はどうなのか。記憶がないから、よく分からない。けれど、スキンシップ好きな清光にくっつかれても、嫌だと感じないのは確かだ。ここ数日、自分という人間を振り返ってみるに、恋人が同性だろうが異性だろうが、こだわりはない人間なのではないかという気がした。
 まぁ、だからといって、この本丸の刀剣に夜伽をさせようなんて考えてはいない。もちろん、刀剣相手に恋愛するつもりも。
 僕は枕元の端末を取り上げた。時刻は午前五時になろうとしている。二十三人分の朝食を用意して、あわよくば昼食の段取りをつけるためには、そろそろ起きなければならない。
 布団を抜け出すと、清光も目を覚ましたようだった。寝ていてもいいと言ったけれど、自分も起きると聞かない。結局、二人とも布団を出て、身支度を整えた。庭を突っ切って厨房へ向かい、朝食を用意する。様子を見にきてくれた薬研も手伝ってくれたおかげで、さほど時間はかからなかった。
 六時半に朝食の用意が終わると、薬研が皆を呼びにいった。ふたたび皆が大広間に集まったところで、食事を始める。朝食といっても凝ったものではない。ただのご飯と卵焼きと味噌汁だけだ。短刀と蛍丸には砂糖入りの卵焼きを、脇差以上には出汁巻きをつけてある。
 今度は皆、食事をすることには文句を言わなかった。缶詰を発見したときにも考えたことだが、この本丸にも以前は刀たちも食事をする習慣があったらしい。肉の器がものを食べることを理解しているため、食事をすることにさほど抵抗感がないのだろう。皆、箸が進んでいるようだった。
「――それで、大将、今日はどうするんだ?」薬研が尋ねる。
「今日は清光と出陣しくるよ」僕は答えた。
「出陣? 待てよ。加州の旦那だけが出陣するってことかい?」
「行くのは僕と清光だよ。清光はここへ来る前に降ろしたばかりで、チュートリアル出陣――つまり、初陣を済ませてないから。とりあえず、無難なところで函館に行こうと……」
「主よ」落ち着いた声で言ったのは、宗近だった。「審神者が初期刀を単騎出陣させる習わしがあるのは、他に刀がなく、資材も少ないためだ。そなたは引継であるから、事情は違ってくる」
「えぇと、つまり?」
「僕らも出陣させてよってことだよ」
 汁椀を置いて言ったのは、大和守安定だった。彼はまだ僕と主従の契を交わしていない。僕は少し考えてから、答えた。
「出陣したい人は、僕と主従の契をしてください。した人だけで出陣部隊を組みます」
「なっ」安定がムッとする。
 近くで和泉守兼定も怒った顔をしていた。他にも数名、僕の発言に不快そうな様子を示した者もある。
「別にいいじゃないですか、主従の契くらい。主従の契ったって、そうそう絶対というじゃない。僕が理不尽を働いてあなた方が怒れば、主従の契なんて簡単に破棄して僕を殺せるんですから」
「未来に生まれた主には分からぬだろうが、武士に扱われてきた我々にとって、主従関係というのは特別な意味があるのだ」宗近が取りなすように笑う。「まぁ、下克上もあったわけだが」
「僕が気に入らなかったら下克上してもいいから、とりあえず主従の契を結んでくださいと言ってるんです」
「……主ってば、何でそう積極的に相手を煽っていこうとするわけ」
 清光がげんなりした顔をしている。ひとまず朝食を終えてその場は解散となった。清光と薬研、同田貫、宗近に片づけを任せて、僕は歌仙兼定と一期一振を呼び止める。一緒に厨房に来てほしいと頼むと、二人は渋々ながらもついてきてくれた。
「何の用かな?」歌仙が尋ねる。
 僕は二人に、自分も出陣について行くので、昼食の用意は頼むと告げた。頼むとはいっても、昼食用にはすでに卵と畑の野菜でチャーハンを作ってある。あとは盛りつけして配膳するだけの状態だ。
「我々はまだ、あなたと主従の契を交わしておりません。あなたの命に従う義務はない」一期一振の口調は冷たかった。
「もちろん、承知しております。ですから、これは命令ではなくただのお願いです」
「なぜ僕らに?」歌仙が尋ねる。
「歌仙さまと一期一振さまは昨日、厨房の様子を見においででした。ですから、ある程度、料理に興味があるのではないかと考え、お二人にお願いいたしました」
 歌仙も一期一振も、はっきりした返事はしなかった。だが、こちらにもいちおう、打算はあった。一期一振は弟たちに食事をさせてやりたいと考えるだろう。歌仙は料理を捨てることになるのは、雅でないと考えそうだ。そういうことを含めての人選である。
 僕は歌仙たちに言うだけ言うと、さっさと出陣の準備に取りかかった。
 出陣部隊は清光の他に宗近、薬研、同田貫。――そして、驚いたことに安定が僕と主従の契を交わして部隊に加わった。清光の練度は一。宗近、薬研、同田貫、安定は練度上限に至っている。
 僕と清光は当初、維新時代の函館への出陣を予定していた。だが、残りの四人が戦国時代の椿寺にしようと言う。清光の練度を手っとり早く引き上げるためだというが、かなりのスパルタだ。僕は迷ったが、結局、皆の言うとおり椿寺に決めた。清光が安定に張り合って、椿寺でいいと言いだしたからだ。
 正直、練度一が練度上限に張りあってみても仕方がないと思う。だが、清光をそう諭したところ、「何かと刀剣を煽る主よりはマシだよ」と言われてしまった。ので、彼の言うことを聞かざるをえなかった。
 刀剣五振と僕はゲートを通って戦国時代へと向かった。いちおう、矢はないが弓は携えていった。だが、そもそも審神者は戦うものではない。僕は遠くの安全な場所から戦いを見ながら、昼食用の握り飯を守るだけだ。
 清光以外は練度上限とあって、部隊は苦もなく進軍している。ひとしきり敵の刀を倒したところで、僕たちは昼食を取った。草の上に座り、握り飯を頬張る。具が僕のカツオか梅カツオしかないのは僕の趣味だが、皆、おいしいと言ってくれた。
「懐かしいね。昔もこうやって、握り飯を持って出陣してた」ポツリと安定が言う。
「あぁ、光忠が作るときは、もっと具に凝ってたな。ほら、魚の身の油漬け――しーちきんとか高菜とか豚肉のしょうが焼きとか。俺は塩だけの握り飯が好きだが」同田貫も話に加わる。
 そこから、握り飯の具談義になった。鮭が一番だと言う薬研に、しそ結びを主張する安定。清光はカツオが、宗近は梅が最高だと声を上げた。
「――そういえば」ふと薬研が思いついたようにこぼした。「前任の弟どのが作るときは、梅カツオばっかりだった。あの人、握り飯は梅カツオ至上主義っつてたからな」
 ――前任の弟。ということは、兄弟で本丸を運営していたのだろうか?
 昨夜の宗近の言い方だと、最初に本丸から消えたのは前任の審神者と初期刀の加州清光、それに一振目の三日月宗近らしい。弟はどこへ行ったのか。
 こんのすけを通じて得たデータによると、前任の審神者の失踪が発覚したのは、五十九年前。そこからあの本丸には、政府の役人や数名の引継候補が訪れている。しかし、結局、誰も本丸を受け継がずに、立ち去っていた。ならば、薬研の言う『前任』とは、失踪した審神者のことに違いない。
 いまなら、前任の話が聞けるのではないか。そう考えて、僕は口を開いた。
「前任の審神者どのは、どのような方だったの?」
 尋ねた途端、シンと座が静まり返る。しばらくの沈黙の後に口を開いたのは、安定だった。
「……僕らは何も覚えていないんだ。記憶に呪が掛かっていて、思い出そうとするとぼやけてしまう」
「覚えていない? でも、今、薬研が前任の握り飯の話を――」
「断片的な記憶はあるんだよ。だが、前任がどんな姿形で、どういう人間であったのか、まったく思い出せねぇ。五百年、千年の昔のことは覚えているのに、数十年前の記憶がねぇとは情けねぇ話だがな」同田貫が答える。
「それは……何とも妙な話ですね」
「妙なのはそれだけじゃねぇぜ」薬研が口を挟んだ。「ついさっき、俺は前の大将の話をした。これは本丸の中ではできねぇんだ。あと、幾つかの昔の話もな。なぜか、そういう風になってる」
 宗近も頷いた。
「そう、昨夜、同田貫がそなたに“話せない”と言ったがな、あれは話す意思がないという意味ではない。あるはずの記憶が失われているか、もしくは、話すことができないようになっているから、答えられないということだ。……あれは一種の呪いのようなもの」
 だとしたら、本丸を引き継いだ審神者に降りかかる呪いも、隠されている可能性だってある。
 だが、刀剣たちに前任を忘れるようにという呪いをかけて、いったいどんな意味があるのか。引継をしやすくするためというなら、候補を数名追い返したことから、失敗が分かりそうなものだ。そもそも、それは呪詛の類なのだろうか? 神剣であった者がいれば、何か分かるかもしれない。しかし、太郎太刀、次郎太刀は刀解されている。蛍丸は何も言わない。石切丸は行方不明。手がかりはないのだろうか。
 考え込んでいると、清光にポンポンと背中をたたかれた。「焦りは禁物。ゆっくりやっていけばいいんだから」あやすように微笑みかけられる。それで、少し心が落ち着いた気がした。清光に礼を言って、自分の握り飯を頬張る。やはり、僕は梅カツオが一番好きだと思った。


 午後からも少し進軍して、清光の練度が三十程度になったところで、引き上げることにした。清光はなかなか筋がいいようだ。練度向上の早さに、皆、驚いていた。
 皆、帰還のために、本丸へ続く時空ポイントへ戻っていく。もうじきゲートだというところまできたとき、安定が小声で僕を呼び止めた。他の皆はそれに気づかず、先へ進んでいく。
「――清光のことなんだけど、あいつ、主が二、三日前に顕現したばっかりなんだよね?」
「ん? ああ、そう……かな。安定は何か気になるの?」
「本当に顕現したばかりならいいんだ。ただの個体差だろうけど……あの清光、練度が上がるのが早すぎるよ。いくら練度一から椿寺に来たって、普通、今日の戦闘回数で練度三十にはならない」
「え……?」
 僕は先を行く清光の背中を見た。確かに、清光には少し妙なところがある。昨日だって顕現したばかりのはずなのに、普通に料理をしていた。僕とだって数日の付き合いなのに、長い間、一緒にいたみたいにこちらを理解していると思える節がある。何より、昨日、練度一のはずの彼は練度上限の薬研の一撃を受け止めたのだ。
 清光には、僕の知らない秘密があるのかもしれない――。
「――あの加州清光は、いったい何者なんだろう……? って思っちゃうよ」
 安定がぽつりと呟いた。その視線をたどると、清光が振り返って大きく手を振る。「主、安定! 置いてっちゃうよ!」そう言われて、僕たちは慌ててゲートに寄っていった。
 ゲートに入って、隊長の清光が丸く透明な宝玉をかざす。刀装に似たその宝玉には、本丸の位置データやゲートを開くための情報が記録されている。清光の手の中で宝玉から光が溢れて、彼自身を包み込んだ。
 この時空転移のキーとなる宝玉は、刀剣男士に宿る審神者の霊力を読みとって、ゲートへ働きかける。宝玉と最低でも一振の刀剣男士(あるいは審神者本人でもいい)がそろわなければ、ゲートは作動しない仕組みだ。そうすることで、歴史修正主義者たちが本丸を襲撃するのを防いでいる。ただ、時空転移というのは、人知を越えたブラックボックスの部分も少なくない。年に数割は歴史修正主義者がどこからともなく本丸を襲撃する、ということもあった。
 時空間を通過すること五分ほど。ようやく本丸の門が目の前に現れた。この門を開いて中に入れば、本丸に帰還したことになる。清光が宝玉をかざして門を開く。
 僕らが門をくぐると、庭先で遊んでいた短刀たちが駆けてきた。脇差の骨喰藤四郎と鯰尾藤四郎も寄ってくる。
「おかえりなさい! どうでした?」
「無事のお戻り、何よりです!」
「今日、久しぶりに内番したんだよ。皆で畑を綺麗にしたんだ」
 短刀と脇差たちが、我先にと声をかけてくる。僕は彼らに返事しようとした。そのときだ。
「主よ、何か妙だ」宗近が門を睨みながら、鋭く言った。「門が閉じない。しかも、よくない気配が近づいてきている」
「何だって……?」
 僕は本丸へと意識を向けた。目を閉じて、自分を本丸と一体化させるイメージ。本丸全体の様子がおぼろげに感じられた。本丸の結界も門の時空転移装置も、皆、正常に作動しているようだ。
 それなら、宗近の感じている異変はいったい――。
「敵さんのお出ましだ」
 低く言った薬研が、腰の短刀を引き抜いて構えた。安定、同田貫も抜刀している。
 敵がどれくらいの数かは分からない。だが、本丸内での決戦になれば、最悪、本丸が破壊されてしまう可能性がある。この本丸の謎も、かけられているかもしれない呪いも、解明しないままにこの場が壊されれば、どんな影響があるか。仮に呪いだとすれば、その効果は現在、刀剣たちに及んでいる。下手をすると、呪いの対象が破壊された“呪返し”のようなダメージが、刀剣たちを襲うかもしれない。
 まずい。
 敵を本丸に深入りさせてはいけない。そのためには、なるべく門の出口で戦わねば。
 無意識に、腰につけた巾着を探る。中には刀装が幾つか。その中から投石兵と弓兵を取り出して、脇差たちに投げる。
「……てき、の」かすれた声が喉から出てきた。緊張をこらえて、懸命に言葉を紡ぐ。「敵の詳細が把握できていないため、ひとまず本丸の入り口で敵の出頭を叩いて様子見します。骨喰さま、鯰尾さま、この刀装で遠戦を頼みます。出陣部隊は白刃戦にそなえて待機、薬研以外の短刀たちは母屋の刀剣たちに連絡を」
 一瞬の沈黙。その後に短刀たちが一斉に母屋へ駆け出す。骨喰と鯰尾は、真剣な面持ちになって刀装を装備した。彼らの神気に触れて、刀装から小さな兵士の姿の式神――刀装兵が現れる。刀装兵たちは、いっせいに攻撃態勢を取った。
「宗近、敵の感知を頼む。敵が門をくぐる瞬間に、刀装兵に合図を」
「承知した」
 宗近が鋭く答える。皆、それぞれに本体を構えている。ひりつくような戦意が場を支配するのを肌で感じた。
 僕も震える手で、携えていた弓を持ち直す。矢がないので攻撃はできないが、昨日のように弦を鳴らすことはできる。弓の鳴弦というのは、破邪の効果があると宗近が教えてくれた。とはいえ、僕はあまり戦力にはならないだろう。それでも、本丸が襲撃されている今、審神者がこの場で戦うことが必要だと感じた。
「もうじきだ」宗近が声を上げた。「三、二、一……――来た」
 合図と同時に、弓の刀装兵が門へ矢を射かける。その直後、投石兵の石が落下し始めた。僕は弦を引っ張って鳴らそうとした――はずだった。が、身体が勝手に動いて、矢もないのに弓の弦を引き絞りだす。自分でもわけが分からないけれど、弦を引く右手の指先に熱を感じた。火傷するほどではないが、指先の熱は確実に高まっていく。
 その熱が火傷しそうなほどに熱くなったとき、僕は右手の指を開いた。ヒュッ。鋭く風を切る音とともに、真っ白な輝きが飛んでいく。その輝きは門の上で八つに別れ、敵へと降り注いだ。
 刀装兵の攻撃で装備をはがされ、あるいは軽傷を負った敵が、光の矢に貫かれて動かなくなる。一瞬、門の向こうにどんよりと曇ったどこかの場所がかいま見えた。どこか見覚えがある風景。だが、どこだとははっきりと分からない。目を凝らそうとしても、新たな敵がゲートに殺到して見えなくなる。
「来るぞ!」
 宗近が叫んだとき、敵の刀たちがどっと押し寄せてきた。敵の刀の最前列は短刀が多いようだった。さらなる遠戦に持ち込もうとするが、敵の機動が速すぎる。刀装兵が次の攻撃を準備する前に、こちらへ迫ってきた。
 白刃戦が始まる。
 素早く突出した薬研が、敵の一体に刃を叩き込んだ。一撃で敵の大太刀を葬りながら、即座に離脱していく。同田貫と安定が薬研を追うように敵部隊とぶつかる中で、宗近は最前線から距離を置いて、討ち漏らした敵を斬り捨てていた。薬研たち突出組を牽制に使いながら、骨喰と鯰尾に指示して確実に防衛ラインを保っている。
 気がつけば、清光は僕の傍に来ていた。宗近に僕を守れと指示されたという。
 この場で僕にできることはない。それよりも他の刀剣を、と僕は清光を連れて母屋へ向かいかけた。と、短刀たちが呼んできてくれたらしい刀剣たちの姿が見えた。先頭は和泉守兼定と堀川国広、後に他の刀剣たちが続く。
「何があった?」和泉守が尋ねた。
「敵襲です。門から侵入を受けています」そう答えてから、僕は地面に膝をついた。顔を上げて、和泉守を見つめる。「門前で宗近が皆を指揮して、敵をくい止めております。どうか皆さまのお力をお貸しください」
「主従の契を交わさぬ者は、戦わせないんじゃないのか?」
「この非常時に、そんなことを言ってる場合じゃ――」
 反論しかける清光を制して、僕は身を投げ出すように頭を下げた。
「このままでは、敵の本丸侵入を許してしまいます。万が一にも本丸が落ちれば、数多の機密が敵の手に渡り、戦いがこちらの不利になるのは必定。前任から引き継ぐこの本丸に、敵に落とされた本丸という汚名を刻むわけには参りません。どうか力をお貸しください」
「ふふん。テメェ、口では殊勝なこと言いながら、土下座のひとつや二つ、屁とも思ってねぇだろ」
 和泉守の言葉に僕は顔を上げた。彼の視線を受けて、真っ向から見つめ返す。
「だったら?」
「いい性格してやがる」
 和泉守はゆっくりと僕に近づいてきた。傍らに控える清光が、緊張を漲らせて鯉口を切る。それが見えていたはずだが、和泉守は立ち止まらなかった。もっとも、その手は身体の両脇に垂れて、刀の柄にさえ触れていない。
 僕の右横まで来たとき、彼は僕の肩に手を置いた。軽く掴んで、すぐに離す。
「俺ァ、お前みてぇな奴は嫌いじゃねぇよ。腹は立つがな。――だから、力貸してやらァ」
「数が減ったとはいえ、この本丸の刀剣、一振たりとも鈍ってはおりませぬ」
 僕の左横で声がする。見れば、へし切長谷部の姿があった。彼は僕に手を差し伸べた。立てということらしい。手袋に包まれた長谷部の手を握って立ち上がると、彼は頬を緩ませた。笑った、ようだった。
「主となる方の命であれば、どんな敵でも討ってみせましょう」と長谷部。
「斬ってこその刀、ですからな」
 僕の正面で一期一振が優雅に微笑む。その周囲に短刀たちと鳴狐の姿があった。他の刀剣たちも、じっとこちらを見ている。
「ありがとうございます」僕は一礼してから言葉を続けた。「門前の出陣部隊には伝えておりませんが、この度の戦いは、単に侵入してくる歴史修正主義者を撃退するだけでは済みません」
「どういうことだ?」山姥切国広が尋ねる。
「敵は……どこか他の本丸から、ここへ転移してきています。一瞬、かいま見えましたが、おそらく瘴気に堕ちた本丸を乗っ取ったのだろうと思われます。そして、ここへ攻め込んできている敵の刀は、おそらく――その本丸で折られた刀を無理に妖刀化したもの」
「それって、敵は元は僕たちだったってこと!?」
 乱藤四郎が言い、短刀たちが怯えた顔になる。一期一振が宥めるように弟たちの肩を撫でた。「……それならば、なおのこと、私たちが引導を渡してやらなくては。そうだろう、お前たち?」静かに、言い聞かせるように言葉を発する。
「つらい戦いになると思います。ですが、あなた方が頼りです。――当面は門前で戦闘中の部隊を第一とし、第二部隊を和泉守さま、第二部隊を長谷部さま、第三部隊を一期一振さまが率いていただきます。門前の敵を一掃後、第一から第四部隊長が協議の上、二部隊を敵がやって来ている本丸へ派遣してください」
「承知。――ところで、あんたはどうする? 別行動なら護衛を付けにゃならんだろうが」和泉守が問う。
「俺が主の護衛だよ」清光が答えた。
「僕らは鍛刀部屋へ行きます。あそこの祭壇を通じて、僕の霊力を直接この本丸に流します。そうすれば、穢れを帯びた敵は多少、戦いにくくなる」
「どうか、お気をつけて」長谷部が一礼した。
「皆さまも、ご武運を」
 僕は皆と別れて、清光と共に母屋へ向かった。







4.




 鍛刀部屋にたどり着いた僕は、祭壇の前へ座った。短く祈りを捧げてから、祭壇に据え置かれている掌大の勾玉を手に取る。白いモヤが掛かったような半透明のそれに霊力を込めると、ポゥっと勾玉の奥に紅色の光が宿った。
 同時に、本丸という場に接続されている感覚が、少し強まる。門前に集まる大量の穢れは敵の刀のもの。その中に刀剣男士の気配が入り乱れている。混戦状態にあるようだ。
 僕は目を瞑って、意識を集中した。勾玉に触れるこの手、手の先に繋がっている本丸全体に霊力を送り込むイメージ。自分という人間の境界線がぼやけて、本丸が自分の身体のように感覚し始める。本丸全体を覆った僕の霊力が、敵の持ち込んだ穢れを少しずつ浄化していく。ジリジリと敵が後退し始めるのが、感じられた。
「清光、頼みがあるんだ」僕は目を閉じたまま言った。
「――なに?」傍らで清光が返事をする。
「敵が後退し始めてる。もうじき、二部隊が敵の足場の闇堕ち本丸に突入するだろう。危険だろうが、突入組に加わってほしい」
「いいけど、何か考えがあるの?」
 尋ねられて、僕は少し驚いた。僕に意図があると、清光はなぜ分かったのだろう。意外に思いながら僕は答えた。
「よく分かったね。……――僕ら審神者は自分の魂に本丸を接続すれば、本丸内の環境をある程度は調整することができる。たとえば、本丸内によどむ穢れを祓うことも」
「だけど、どうやって? 敵の刀があれほど大量にいるってことは、向こうの本丸はひどい瘴気に満ちているってことだよ。主みたいな生身の人間では、正気を保てないくらいの……」
「分かってる。それに、敵方の本丸から瘴気が流れ込んできているから、僕はここにいて本丸を浄化しなくてはならない。だから、代わりに突入組に混じって、向こうの本丸へ行ってきてほしいんだ。これを持って――」
 僕は胸元にしまっていた首飾りの革紐を引っ張って、外した。革紐の先には掌大より少し小ぶりの勾玉。これは鍛刀部屋の祭壇に安置されている勾玉と似たている。審神者が養成所を出るとき、初期刀と一緒に渡される品の一つだった。本丸の結界発動やその他の操作を行うためのキーである。
 このキーの勾玉は、本丸に最初から設置されているものより、込められる霊力が少ない。ただ、その分、内蔵されたマイクロチップで本丸のシステムに働きかけて、キーとしての動作を補助するように作られている。つまり、このキーがあれば、この本丸が敵に侵略された本丸と繋がったままでいる間に向こうを僕の制御下に置くことができる。……はずだ。理論的には。
「これをどうすればいいの?」清光が尋ねる。
「向こうの本丸の鍛刀部屋へ持って行ってほしい。祭壇に設置するんだ。そうすれば、僕が向こうを制御下に置ける。上手くいけば向こうを浄化できて、敵の刀の増殖は停まるだろう」
「待って。それって、主がものすごく霊力を消費することになるんじゃない」
「それでも、敵方に堕ちた本丸を放置できない。分かるだろう?」
 敵方に堕ちた本丸といえども、元は政府が用意した場だ。今回のように他の本丸襲撃の足場にされるし、残っているシステムで機密情報をクラッキングされる可能性だってある。このまま取り逃がせば、どれほど被害が大きくなるか。
 そのことは、清光も承知しているはずだった。彼も記憶喪失の僕を補助するため、一日ほどの短い間ではあるが、審神者の知識を少し学んでいたから。そして、刀剣でありながら、審神者の知識を持つがゆえに、僕は清光にキーを託そうとしているのだ。
 短い沈黙の後に、清光は果たして頷いた。それから、ふと僕に身を寄せて肩を掴む。急に顔が近づいてきて――唇がふれ合った。突然の出来事に、僕はとっさに動けなかった。喉を滑り落ちて胸にたまる温かな感覚――これは神気だとすぐに気づく。
 な。これがファーストキスだったらどうしてくれる。いや、清光のことは嫌いじゃないけど。けど……。
 僕が動揺している間に、清光は顔を離した。心配そうな、いっそ悲壮ともいえる表情で「ごめん、保険かけた」と言う。
「俺のこと、嫌いになってもいいよ。主に嫌われるのはヤだけど、失うくらいなら――」
「嫌わないって! ……ていうか、そんな捨てネコみたいな目されたら、嫌えないから」僕は手を伸ばして、清光の頭を撫でた。「それより、僕の指示だってお前を危険にさらすことになる。でも、ぜったい、無事で戻ってきてくれよ? お前は僕の愛刀なんだ。生命預けてんだからな、最初から」
「ん。ぜったい戻るからね!」
 ふわりと笑みを浮かべて、清光は立ち上がった。勾玉を自分の首にかけてから、鍛刀部屋を出ていく。僕は祭壇へと向き直った。門前の敵はだいぶ片づいたが、本当の正念場はここからだ。
 僕は掌大の勾玉を握りなおした。そこに意識を集中する。僕は意識を本丸へと集中した。本丸のさまざまな場所のおぼろげな画像が脳裏に浮かぶ。さらに集中すると、脳裏に浮かぶ映像は真っ黒になり、闇の中に光の線で本丸の立体的な見取り図が見える状態になった。その本丸の基底部から、闇の中に細く光のラインが伸びている。サーバーへと続くラインだった。
 このサーバーというのは、二十世紀からあるコンピュータ用語だ。もともとはネットワーク上に置かれていて、クライアントに各種サービスを提供するソフトやコンピュータのことを指す。本丸統括システムを指してサーバーというのは、そのコンピュータ用語からの流用だ。
 本丸は時空の狭間に形成される場であり、どこの時代のどの場所にも存在しない。ところが、こうした「いつのどこでもない場所」というのを個人が常に維持するのは、ほぼ不可能である。そこで、二十二世紀後半の科学の粋と霊的な技術を総合して作り上げたのが、本丸統括システム――俗に言うサーバーだった。「相模」「備前」などの旧国名を与えられたサーバーは、一国につきほぼ千近い本丸と万屋などの関連施設の場を形成している。同じ国のサーバーに属する本丸は、大本ではサーバーを通じて繋がっているということ。さらに、サーバー同士を霊的ネットワークが繋いでいる。
 僕の意識はラインを辿り始めた。とはいっても、サーバーと本丸との接続というのは、実際の距離も通信速度も関係ない。あくまでも霊的な距離と霊的な粒子による通信速度の影響を受ける。僕の意識はラインを辿り、すぐにサーバーへと至った。闇の中で、僕の引継本丸のある「相模国」サーバーとそこに属する本丸は、巨大な樹木の根のように視えた。闇の中に大きな「相模国」サーバーが青白く輝いている。そこから細く枝分かれしたラインの先に、無数の小さな光の点――つまり、本丸が繋がっていた。
 僕の意識はサーバーを経由して、僕の本丸の位置情報をえ続けている本丸へ向かった。その本丸のシステムを支配下に置こうと、接続を試みる。だが、失敗。もはや主のいない本丸とはいえ、霊的ネットワークのセキュリティはいちおう作動しているようだ。僕は本丸の基底部から少しずつ、自分の霊力を流し始めた。相手方の本丸を一気に浄化なんてことはできないが、これなら突入組が少しは戦いやすくなるはずだ。
 あとは清光と突入組の活躍を待つばかり。


***


 門前に戻った清光は、四部隊に審神者からの言葉を伝えた。ならば、と二部隊と清光が敵方に堕ちた本丸へ向かうことになる。
 突入組は、へし切長谷部の采配ですぐに決まった。長谷部は織田信長から下賜されて身を置くことになった黒田家を、自らの主として認めようとしない。だが、戦場での判断の鋭さ、采配の巧みさは、名軍師と言われた黒田如水の影響だろう。皆、長谷部の判断には信頼を置いているようで、異議を唱える者はなかった。
 相手方の本丸への突入組は、宗近、同田貫、長谷部、山姥切、蜂須賀、蛍丸、鳴狐、安定、獅子王そして清光ということになった。
 短刀や脇差がいないのは、小柄な身体では相手方の本丸に満ちる瘴気にすぐに毒されてしまうからだ。おまけに、刀剣のほぼ半数を相手方の本丸に送り出したとしても、この本丸を護る刀剣たちは気を緩めることができない。本丸同士は接続したままであり、瘴気と敵の刀は常にこちらにやって来ることが可能だからだ。留守居組は留守居組で、さきほどの本丸防衛戦の半分の刀剣で、警護を続けることになる。薬研が一振、審神者を護衛なしに一人にしておけないからと母屋の方へ走っていく。
「一期一振、和泉守――こちらを任せる」
 長谷部の言葉に、ふたりが頷く。短刀や脇差たちは、やや心配そうに相手方の本丸へ踏み込んでいく突入組を見守っていた。
 まばらに敵が残る時空の狭間の回廊を抜けて、相手方の本丸へ。一歩足を踏み入れた途端、清光は顔をしかめた。瘴気があまりにも濃い。本丸の庭の池はにごり、草木は枯れている。曇った空から、雪のような煤のような灰色の塊がふわふわと降ってきていた。あまりに濃すぎる瘴気が凝り固まって、塊状になったものだ。辺りは静かだった。まだ本丸内に敵はいるはずだ。が、今はその姿が見えない。
 ガランとした庭には無数の折れた刃が散らばっていた。泥にまみれ、錆び付き、粉々になった刀。焼けて刀としての用を果たさなくなった刀身。しかし、飛び散った拵えや刃の刃紋、何よりそこから感じる神気の名残に覚えがある。
 これは――つまり。悟った瞬間、清光は吐き気を覚えた。もっと悲惨な場面を見たこともあるのに、どうしようもない。
 思わず胃の中のものを吐き出しそうになったとき、背中に掌が触れた。そこから伝わる神気に、吐き気がスッと引いていく。見れば、宗近が傍らに立っていた。
「破壊された刀……。これは刀剣男士であった刀のようだな」宗近は呟いた。
「――短刀と脇差が多い」お供を置いてきた鳴狐は、自らの声で呟いた。しゃがみ込んで、折れた刃をじっと見つめる。「……声が、聞こえる。悲しみと、恨みと、苦痛。何より……――戦って折れたのではないことへの、悔しさ」
「人間たちが言うところの、ブラック本丸だったということだろうね」蜂須賀が悲しげに言う。
 清光は意識して、姿勢を正した。瘴気に負けそうな自分を叱咤して、言葉を発する。
「ここは主が浄化する。そのために、俺は鍛刀部屋へ行く」
「では、俺が共に行こう」宗近が声を上げた。それから、清光に笑いかける。「いいだろう? そなたはまだ練度が低い。俺と共にいた方がいい」
「――ならば、我々が宗近どのと加州清光を鍛刀部屋まで援護します」
 長谷部の言葉に、皆、それぞれの本体に手を掛ける。油断なく歩きだした、そのときだ。フワリと灰色の瘴気の塊が舞い落ちた地面が、ボコリと盛り上がった。土を振り払うようにして、敵の短刀が一体、その場に現れる。斥候として先頭に立っていた安定が、刀を抜き様に流れるような動作で敵を斬り捨てた。
 しかし、それでは終わらない。一体目を皮切りにして、後から後から敵の刀が現れる。早々に顕現して安定を攻撃しようとした一体を、背後から飛び出した山姥切が斬り伏せた。敵はさらに増えていく。皆は刀を抜いて、応戦し始めた。
 清光は自分もと本体に手を掛ける。が、横から宗近の手が伸びてきて、それを留めた。「そなたには役目がある。皆に任せよ」そういう宗近もまた、刀を抜いてはいない。
「道を開け! 庭を西へ突っ切って、鍛刀部屋へ向かう道だ!」
 長谷部の叫びに応じて、戦線が西へ移動し始める。道を開くのが目的の戦闘。そうであるが故に、退くことはできない。皆、細かな傷を負いながら、進んでいく。しかし、残り三分の一というところまできたとき、急に敵が多くなった。前へ進もうにも、数で押し返されてしまう。
 その様子を見て、宗近は長谷部に言った。
「ここまででいい。後は俺たちで行く」
「分かりました。ここで敵を足止めします」
「頼んだ」
「承知」
 ここへ来て、宗近はようやく刀を抜いた。清光には抜刀せず付いて来いと言い、前方の敵を斬り伏せる。蛍丸と獅子王も呼吸を合わせるかのように渾身の一撃を繰り出して、一瞬、戦線の一角だけ敵の空白地帯ができた。「行くぞ」という宗近の声で、清光は彼の背中を追って駆け出す。
 戦場はグングン遠くなり、やがて斬撃と咆哮とが聞こえるだけになった。池を回り、伸び放題のまま枯れている庭木の間を抜けて、あと少しで鍛刀部屋というとき。清光たちの行く手に飛び出してきた影があった。敵の刀たちだ。薙刀、太刀、打刀の三体が立ちふさがる。さすがに清光は本体を抜こうとした。
 が、宗近が手でそれを制する。彼は太刀を正眼に構えた。
「こちらが数で劣るようなのでな。ちと古風なやり方だが、一騎打ちで決着をつけようぞ」
 呼応するように敵の薙刀が前へ進み出る。「走れ、清光!」宗近は剣撃を繰り出しながら叫んだ。清光は矢のように駆けだした。宗近の一騎打ちは、おそらく勝算があってのことではない。自分を通すための時間稼ぎだ。そうと分かっているからこそ、何が何でも鍛刀部屋へ到達せねばならない。
 清光は土足で縁側に駆け上がった。鍛刀部屋の木の扉を開こうとするが、留め具が錆びて動かない。仕方なく体当たりで扉を壊し、中へ入っていく。
 鍛刀部屋には式神の気配がなかった。そればかりか、瘴気と強い欲が濃く渦巻いている。床には厚く埃のような瘴気の塊が積もっていた。その無数の塊から、小さく呻くような声が聞こえる。
 ――強イ刀ガホシイ。稀少ナ刀ヲ手ニイ入レ、認メラレタイ。
 この本丸の元の主が、特定の刀を欲しがって鍛刀したのだと、誰に言われるまでもなく感じ取れた。
 あまりに強い欲望と瘴気に、清光は吐き気を覚えて倒れそうになった。が、皆のために役目を果たさないわけにはいかない。そう己を叱咤して、部屋の奥――埃と蜘蛛の巣まみれの祭壇へ近づく。刀剣にとって父神にあたる迦具土命の祭壇の惨状に顔をしかめながら、清光は首から掛けた勾玉を引っ張りだした。主の霊力の込められたそれを、埃を払ってから祭壇に置く。
 だが、何も起こらない。そこで、清光は勾玉に自分の神気を慎重に流し込んだ。途端、勾玉が輝きだす。手の触れている勾玉に、別の気が流れ込んでくるのが分かった。なじみのある力の気配――主の霊力だ。
 勾玉を通じてこちらの本丸に注がれだした霊力が、瘴気を浄化していく。空気の重さが消え、呪詛の声が聞こえなくなる。外の雲が晴れ、光が射し込む。鍛刀部屋に凝る重苦しさも、いつしか消えていた。
 ホゥっと清光は息を吐いて、立ち上がった。鍛刀部屋を出て、庭へ下りる。縁側の手前では、宗近が抜き身の刀をダラリと下げて立っていた。清光を見て、フワリと花咲くように微笑する。
「敵が急に折れ刀に戻ったよ。主の無茶な策も、なかなか通じるではないか」


***


 僕は祭壇の前で、ホゥっと息を吐いた。途端、ズシンと身体が重くなる。どうやらこの感じからして、敵に堕ちた本丸を浄化することに成功したようだ。しかし、その反動は大きかった。
 相手方の本丸は予想以上に穢れが蓄積していたのだ。おかげで浄化に霊力を消費した上、瘴気にあてられてしまった。もはや立ち上がる気力すらない。グラリ。目の前が揺れて、身体が傾ぐ。気づけば僕は床に倒れ込んでいた。視界がグルグル回って、目が開けていられない。
 と、そのとき、足音が聞こえてきた。鍛刀部屋に入ってきた誰かが声を上げる。
「――こいつは驚いたな。無茶をしてないか様子を見にきてみれば、案の定だ」
 目を開けて、僕は相手を見た。白い髪に金色の瞳、白い戦装束――これは。
「ん……。つる、まる……国永……?」
 鶴丸国永は、現在、この本丸にいない刀剣だ。推定三年前に行方不明になった刀のうちの一振である。ということは、僕は幻覚を見ているのだろうか?
 そう思ったときだった。新たな声が部屋に響く。薬研の声のようだった。
「鶴丸の旦那。用は終わったかい? 早くしねぇと、皆が戻ってきちまう」
「あぁ、終わった。……しかし、“空蝉”はなかなか立派に審神者の役目を果たしてるようだな。記憶がないだけで、これほども違うか」
「そうなのかい? 俺は鶴丸の旦那と違って、ここ最近の大将を知らねぇからな」
 グルグル回る意識の片隅で、僕は二人の会話に違和感を覚える。鶴丸は三年前、この本丸から姿を消した。それなのに、薬研は鶴丸と久しぶりにあったような口ぶりではない。幾度となく連絡を取り合ってきたようですらある。どういうことなのだろう……?
「薬研……? そこにいるのは薬研なんだろ?」
「おっと、大将。今、聞いたことは忘れてもらわなきゃならねぇな。まだ、あんたは真実を知る時期じゃない」
「薬研、後を頼む。“空蝉”は、ちと瘴気を受けているようだ。あとで浄化せねばならんだろう」
「あとは任せてくれ。忘却の薬は用意してあるんだ」
「嫌だ」
 そう頭を振ったけれど、どうしようもなかった。薬研の手が伸びてきて、そっと視界を覆う。『今はぜんぶ忘れてくれや』と彼の囁きが聞こえた直後、僕は薬を嗅がされて意識を失った。


***


 次に目覚めたとき、僕は布団の中にいた。しかも、なぜか清光が布団からはみ出した僕の手に指を絡めて、畳の上で眠っている。清光は寝間着ではなく、赤を基調とした単衣と袴の普段着姿のようだ。誰のものかは分からないが、水色の単衣が彼の上に掛けてあった。
 僕は起きあがろうとした。途端、頭がズキンと痛む。思わず呻いたときだった。
「無理をしてはならぬ。そなたはまだ回復してはおらぬゆえ」
 響きのいいその声音は、宗近のものだった。ふと見れば、彼は壁に背中を預けて座っていた。宗近もまた、戦装束ではなく青い着流し姿だ。重たげな髪飾りも外して、いつになく身軽そうである。
「敵、は……?」僕は尋ねた。
「撃退した。そなたが闇堕ちした本丸の浄化に成功したゆえ、あちらも今は清浄だ。明日……」と、そこで宗近は朝の光の指す窓へ目を向けた。「いや、もう今日だが、こんのすけの連絡で政府職員がやって来て、空の本丸を回収する」
「では、僕も準備を……」
「動いてはならぬよ。そなたは闇堕ちした本丸を制御下に置いたとき、強すぎる瘴気の毒を受けた。回復せねば、起きられぬ」
「でも」
「考えてもみよ。我々が戻ってきたとき、倒れているそなたを発見してどんな思いになったか。清光など、そなたの傍を離れずに一晩中、看病していた。――そうそう、薬研が謝っていたぞ?」
「え?」
 ふと宗近の言葉に違和感を覚えた。けれど、それが何に対してなのか分からない。気のせいだろうと、僕は宗近にあの後のことを尋ねた。
 宗近が言うには、薬研は清光が突入組と合流したとき、入れ替わりに護衛を務めようとしたらしい。母屋へ戻ってきた薬研は、しかし、鍛刀部屋へ向かう途中で何者かに襲われた。彼は気絶させられ、本丸警護組が発見するまで廊下に倒れていたという。
「薬研が襲われた……? じゃ、もしかして、僕の夢も本当なのかも……」
「夢?」
「誰かが、祭壇の僕のところへ来たんだ。顔も姿も覚えていないけれど……確かに誰かが。たぶん、あれは――」
「無理せずともよい。考えるのは、回復してからだ」
 宗近の言葉に、僕は目を閉じて眠りの中へ戻っていった。


***


 次に目が覚めたとき、最初に感じたのは快楽だった。硬く張りつめた欲望を、刺激される感覚。射精感がこみ上げるのに、何かにせき止められていて達することができない。その苦しさにすすり泣くような高い声が漏れる。
「ん……あ、あぁ……や……あぁ……!」
 自分の声の高さにびっくりして、僕は目を開けた。そうして、目の前の光景に呆然とする。行灯の明かりに照らされて、闇の中に白い裸体が浮かび上がっていた。清光だ。僕の上で腰を揺らしている。大きさはともかく、勃起したものを体内に受け入れるのは苦しいはずだ。それなのに、開かれた足の間に見える彼の性器は、張りつめている。
 清光が動く度に溶けそうなほどの快楽が腹の底でうごめいて、すでに混乱の最中にあった僕は怖くなってきた。
「いやだ……。きよみつ、……やっ……怖い……! たすけ……」
 快楽を与えてくるのは清光なのに、僕は思わず彼に助けを求める。記憶をなくして目覚めてから、僕はいったいどれだけ清光に依存しているのか。しかし、僕の叫びに異変を感じたのか、清光は閉ざしていた目を開けた。
「主……」
「きよみつ……何、これ……? 苦しく、ないの?」
「ごめんね、主? 主の瘴気を手っとり早く浄化するには、これしかなくて……。ごめん。こんなの、気持ち悪いよね? いいよ。俺のこと嫌いになっても構わない。いっそ刀解してくれても――」
「ちょっと、待って。気持ち悪くなんかないからっ」
 僕は言った。事実だ。清光と粘膜で接触していることに、嫌悪感はまったくない。ある意味では強姦と言える行為だが、怒りも感じていなかった。口づけしたときもそうだったが、僕の心よりも先に身体が、清光を近しいものとして受け入れているらしい。
 なぜ、僕が彼を受け入れているのか、理由は分からない。記憶喪失の前に何かあったのか――。
「……清光、僕は昔、お前と恋仲だったのかい?」
「それも言えない。……俺、さ。主に言えないこと、たくさんあるんだ……。こんな秘密ばっかりの刀、いらなくない……?」
「――お前は、僕の愛刀だから……いないと困る」
 清光はふわりと微笑した。僕がさらに言いかけるのを、彼の人差し指が唇に触れて止める。清光が動き出した途端に快楽を感じて、僕は泣きそうになった。怖いくらい気持ちいい。だが、張りつめた性器はどうしても、達することができない。根本を紐か何かで拘束されているらしい。
 身動きする度に素肌に敷布が触れて、その感覚にさえ昴ぶってしまう。
「……っ……やだ、これ……! も、無理……。はっ……も、いかせて……!」
これではどちらが抱かれているのか、分からない。けれど、吐き出せない快楽が苦しすぎて、僕は懇願していた。それでも清光はしばらく腰を揺らしていたが、やがて僕の上から降りた。ズルリと彼の体内から性器が抜ける感覚に、身体が震える。
「……ごめんね」と乱れた息を整えながら、清光は言った。彼もまだ達してはいない。身体の中心で熱が張りつめたままだ。「今は俺が、主に神気を与える側だから……。主が俺のナカでイくと、逆に俺が主の霊力をもらっちゃう……」
 昔から、性行為によって、相手の気を受け取り、自分のものにすることができるという考え方があった。古代の中国皇帝や日本の時の権力者が、女を抱くことで寿命を延ばそうとしたのも、それゆえだ。この、性行為によって気を受け取る方法では、女を抱くのはいいが達してはならないとされる。精液には本人の気がこもるせいだ。射精してしまえば、受け取った気を逃してしまうのである。
 どうも、清光が実行しているのは、ソレらしい。しかし、そうと分かったところで、達せないのはつらいだけだ。僕は性器を縛る紐へ手を伸ばした。結び目を解こうとするのだが、刺激がつらくて上手くいかない。みっともないけれど半泣きで悪戦苦闘していると、清光が手を伸ばしてさっと結び目を解いた。
「主、俺のナカじゃなきゃ、イってもいいよ……。でも……その、申し訳ないんだけど……あの、」
 言いにくそうにしながら、清光は口でして自分の精液を飲んでほしいと言った。まぁ、精液に気がこもるのなら、そうなるだろうな。要求が要求だというのに、僕は妙に冷静だった。
「分かった」とあっさり返事が口から出る。
「ごめんね……。俺が主を抱けばよかったのかもしれないけど、主の身体の負担を考えると――」
「いいから。……目覚めたとき抱かれてたら、さすがに僕も怒ったと思うし」
 目覚めたら抱いてたというのもアレだが、いちおう僕も男だ。抱かれる側より抱く側の方が心理的な抵抗は少ない――ように思う。おそらく、清光もそこを気遣ってくれたのだろうから、責めるつもりはなかった。
 それに、今のままではつらいのは、清光も同じだ。僕は腹を決めて、布団の上に座る清光へと向きなおった。腹這いになり、勃ち上がった彼の性器へ顔を寄せる。
「ごめん、主」
「――謝らなくていいから。僕もだけど、お前だってこのままじゃ……」
 とはいえ、口淫のやり方なんて、どうしていいのか分からない。自分に経験があるのか、その記憶さえないのだから。分からないままに、僕は清光の熱に口づけた。先端から側面へ、ひとしきり唇で愛撫する。それだけでも熱はフルリと震えた。
 悪くは、ない、らしい。
 僕は思いきって、口を開けて清光の熱を含んだ。独特の味とにおいが広がる。けれど、腹を決めてそうしたせいか、嫌悪感は覚えなかった。頭上から降ってくる清光の喘ぎ声が、かわいらしかったせいかもしれない。気をよくして口淫を続けるうちに、僕は自分があらぬところに疼きを感じていることに気づいた。身体の芯の、およそ自分では触れられぬ箇所。たぶん、さっき清光が僕を受け入れていたのと同じところ――。
「主」清光が甘い吐息混じりの声をこぼした。「腰、ゆれてる……」
「はっ……」
 僕は顔を上げて、否定しようとした。が、清光の方が動きが速かった。枕元から小瓶を取り上げ、中の液体を掌にこぼす。彼はその手を僕の背中、それから臀部に滑らせた。ヌルリとした感触で、それが油だと分かる。あっと思ったときには、油をまとった清光の指先が後孔に触れていた。
 グニグニと表面を押されて、身体の芯の疼きが強まる。性器は張りつめているのに、そちらよりも身体の奥を暴いてほしいとさえ思えた。今でさえこの状態なのだ。もしも、自分が受け入れる側になったら――いや、こんな思考は正常じゃない。
「っ……だめ、だって……清光……。それ、やめ……っ……」
「ごめん、主……。ちゃんとヨくするから」
「だめ、だってぇ……」
 そう言う間に、とうとう清光の指先が体内に侵入してきた。痛みはない。異物感こそあるが、それよりも疼きの方が勝っている。体内をまさぐっていた指先がある一点――前立腺を刺激した瞬間、疼きははっきりした快楽にかわった。気づけば、体内にある指により感じる場所をすり付けようとするかのように、腰を振っている。
 腰を揺らすたびに、すでに勃ち上がっている性器が布団に触れて、快感がこみ上げる。しかし、前の刺激だけではなぜか達することができない。
 自分で自分の反応が信じられない。こんな……盛りのついた雌みたいな反応。嬉しそうにこちらを見ている清光の余裕を奪ってやりたくて、僕は口を開けて彼の性器を口に含んだ。ためらいを捨てて、大胆に口淫を始める。後孔を刺激されながらそうしていると、まるで清光を全部、後ろに受け入れているかのようだ。
「はっ……あ、……主、こうしてると、俺が主を抱いてるみたい……。今度は、俺に抱かせてね……」
 頭上から降ってくる清光の言葉に、ひときわ強く身体の芯が疼く。いったい僕はどうしてしまったのか。頭の片隅に追いやられた理性が、こんなことはおかしいと声を上げていた。が、それも目も眩むような興奮にかき消されてしまう。僕は夢中で舌と唇を使って、口内の性器を愛撫した。やがて、清光はフルリと震えて、精を吐き出す。口内に溢れる味は苦くて、決して飲みやすいものではない。なのに――気が付けば、つられるように達していた。


***

 明け方、宗近はひとり起き出して、庭へと出た。薄暗い中にたたずむ離れを見る。そこには、魂の深くまで瘴気を受けてしまった審神者の部屋がある。昨日、話し合った通りに事が運んだならば、清光はすでに主への伽を済ませているだろう。彼の瘴気を祓うために、伽は避けられなかった。
 けれど。
 宗近はかすかに胸が波立つのを感じていた。清光は主の初期刀で、いちばん傍にいた時間が長い。ということは、神気がもっとも主に馴染んでいるということだ。彼が伽役にいちばんふさわしい。分かっている。分かっているのだが――なぜか落ち着かなかった。
 嫉妬、とは少し違う気がする。欲望とも。
 ただ、主の傍にいて己も触れられて、抱きしめられたい。そんな童のような他愛ない願いに近い。こんなことは、もう長い間、なかったのに。
 そう思ってため息を吐いたときだった。離れの廊下に清光の姿が見えた。その身に緩く艶と審神者の霊力をまとって、歩いていく。宗近は庭を歩いて、彼の元へ行った。
「――主の様子は?」
 そう声を掛けると、清光は軽く目を見張って「あんたか」と呟いた。
「……大丈夫。俺の神気で、瘴気は流れたみたいだ。今日には目が醒めるはず」
「そうか。伽役、ご苦労だったな」
「ん。……じゃ、俺、湯殿に行くから」
 清光は歩きだそうとした。が、らしくなく、わずかによろめく。宗近は履き物を脱いで、縁側へ上がった。「神気を消耗したのか。大事ないか?」と、彼の背を撫でながら、緩く神気を与える。
 と、清光は勢いよく顔を上げた。その白い頬が、薄暗い中でもほの赤くなっているのが分かる。
「違うって。……そ、じゃ、なくて……いろいろ思い出しちゃったの!」
「あぁ、主との閨を、か」
「もぅ、何でそうはっきり言うかな」
「伽は必要なことだった。何を恥じらう必要がある?」
「そんな風には割り切れないよ」清光は唇を尖らせた。「主の傍で寝てると、触れたくて、もっとしたくて仕方がなくなる」
「そういうものか?」
「そうだよ。……肉の器を得るっていうのは、そういうことだよ」
 宗近は首を傾げた。清光の言うことが、よく分からない。そんな宗近に苦笑してから、清光は「しばらく主の様子、見ておいてくれる? 身体は清めておいたから」と頼む。湯殿で身体を流しつつ冷静になりたいから、とその場を去っていった。
 後には宗近だけが残された。


***


 朝、目が覚めたとき、僕は離れの私室にひとりきりだった。身体は清められ、新しい寝間着を身につけている。いっそ、清光としたあの爛れた行為は夢だったのではないかとさえ思った。が、寝乱れて緩んだ襟元を見下ろせば、左胸に薄らと紅い花が咲いていた。唇をあてて、吸った痕だ。
 やはり、あの行為は淫夢の類ではなかったらしい。
 僕は頭を抱えた。清光との行為は、僕の意思ではなかった。だが、刀剣男士はそもそも、己を喚んだ審神者に好意的にできている。強く行為を止めさせようとしなかったのだ、非は僕にもある。愛刀に夜伽をさせるなんて、巷で話題のブラック本丸と同じではないか。
 ――僕は最低だ。
 自分で自分を責めていると、廊下から足音が聞こえてきた。
「主よ、よいか?」
 おっとりとした静かな声音で、宗近だと分かる。もし彼が清光との行為のことを知れば、いったいどう思うだろう? 他の刀剣男士の反応も気にかかる。しかし、最初に僕を信じて主従の契を結んでくれた彼に対する後ろめたさは、ひとしおだった。
 とはいっても、嘘をついて逃げ隠れするのは、なおさらよくない。僕は意を決して、宗近へ部屋へ入るように告げた。ふすまを開けて入ってきた宗近は、朝食の膳を持っていた。僕を見るなりふわりと微笑する。
「瘴気のせいで弱まっていた気が、戻ってきているな。清光の神気が効いたか」
「なんでそのこと、知って……」
 そう尋ねると、宗近は膳を脇に置いて座った。姿勢を正して、僕に身体を向ける。
「伽はそなたを救うため、皆で相談して決めたことだからな。何しろそなたほど魂の深くに受けた穢れは、心を蝕んでいく。そうなる前に、祓わねばならなかった」
「それでも……僕が清光にさせたことは、誉められたことじゃない」
 そう言うと、宗近は困った顔をした。
「俺は……というか、刀剣は皆そなたよりもずっと古いからな。正直、俺にはそなたがそこまで気に病む理由は分からぬ。だが……考えてみてくれ。俺たちは、あのままそなたを失うわけにはいかなかった」
「伽を受け入れるような、ひどい奴でも?」
 尋ねると、宗近は手を伸ばして僕の右手を掴んだ。咎めるように、或いは離さないとでもいうように、少し強い力で手を握られる。
「そなたは、俺の――俺たちの主だ。先日の戦いの中で感じただろうが、皆、もはやそなたを主と認めている。この意味が分からぬか? 刀も本丸も、主がいなければ真には生きぬのだ。我らが心から認めた主がいなければ」
 付喪神に――神に心から認められる。果たして、自分がそんなものに値するのだろうか。そう考えてから、ふと畑でひとり生のトマトをかじっていた宗近を思い出した。刀剣たちの誰も、食事をしていなかったことも。
 自分が神に認められるほど素晴らしい人間だとは、やはり思えない。主としてこの本丸でできることがあるとしたら、肉体を得た刀剣たちに、人として過ごす方法を提供するくらいだろう。審神者として着任してそれでいいのか分からないが――それでも、宗近にもう畑でひとり途方に暮れたように野菜をかじらせたくはなかった。
 ただ、不安がひとつあった。
「……皆がいいと言うなら、僕は皆の主になりたい。だけど……ひとつ」
「何だ?」
「怖いんだ。夜、清光に触れられたとき、僕はあっさり流されてしまった。それでいいかと思ってしまった。……そんな風に、僕はいつか楽な方に流れるんじゃないだろうか? 主と認めてもらえることにつけあがって、皆にひどいことをするんじゃないだろうか? それが不安なんだ。だから――」
「だから?」
 僕は宗近をまっすぐに見た。凪いだ瞳の中に、美しい金色の月がのぞいている。僕はしっかりと視線を合わせた。
「もしも、僕が道を間違えたなら……あなたが僕を殺してくれる?」
「本気……のようだな。その目を見れば分かる。さすが、我らが主よ。――だが、それを頼むのは清光でなくてよいのか?」
「清光はきっと、最後まで僕に付いてきてくれようとするんじゃないかと思う。だから、あの子には、いざとなったら僕を殺せなんて言えない」
「承知した。……ならば、そなたの願いは刀剣男士と審神者ではなく、神と人としての契約を交わす必要がある。契約の質として、少しそなたの霊力をもらおうか」
 宗近は握ったままだった僕の手を引いた。されるがままに、僕は彼の方へ身を乗り出す。布団に手をついた宗近が顔を寄せてきて――唇が重なった。それが契約の証だった。宗近の唇は、夜のようにひんやりして、かすかに甘かった。


 僕は宗近が運んできた朝餉を食べた。その頃には清光がやってきて、宗近と二人で何やら仕度を始める。二人に言われるままに、僕は審神者の単衣と袴を身につけて、母屋の大広間に向かった。
 中へ入ると、そこにはすでにこの本丸の刀剣たちがすべて、並んでいた。その光景に少しだけ気後れしながら、僕は清光に言われて(というか、背中を押されて)、上座へ座る。
 皆の中から一期一振と和泉守が僕の前へ出てきた。
「この本丸の刀剣一同、あなたさまを主にお迎えいたすことで一致いたしました」と一期一振。
「これまでの数々の無礼、心より謝罪する」和泉守が言う。
 僕は顔を上げて、皆を見渡した。嬉しそうに微笑している清光、それに静かにこちらを見ている宗近。二人の視線に励まされるように、僕は口を開く。
「――こちらこそ、不束ではありますが、この本丸を世話する審神者として精一杯、務めさせていただきます。よろしくお願いいたします」
 こうして、僕はひとつの本丸の主となったのだった。







2章(オフライン)へ続く