■鉢屋衆の中で出来が悪かった三郎は忍術学園に入学させられる。そこで雷蔵と出会って……。鉢雷の10歳〜20歳の10年間のお話です。
■注意:三郎はあんまり天才じゃない(と自分で思っている)感じです。



この世でいちばん優しいことば





 鉢屋三郎は鉢屋一族の落ちこぼれだった。 その名が示すとおり、三郎は鉢屋一族――鉢屋衆の頭領の家柄に生まれた三番目の男子である。上には兄が二人と姉が一人。彼らはいずれも忍の頭領の子にふさわしく、幼い頃から優れた忍術の遣い手であった。
 しかし、三郎は違った。
 鉢屋衆の子どもらしく、忍術を遊び代わりにして育ったものの、どうにも不器用なのである。兄や姉は九つの年にはすでに大人の忍ほどの実力者であった。だが、三郎は九つになっても、満足に手裏剣も投げられない。樹から樹へ跳びうつろうとすれば落ち、獣遁に使う獣に怯える始末。子どもらしいといえば子どもらしいのだが、これでは鉢屋衆の忍としては使いものにならぬ。
 忍衆はよくも悪くも実力主義の集団である。使えぬ者を置いておくわけにはいかない。頭領である父や親族、側近らは困りはててしまった。
 戦国の世は、とかく人が死ぬ。子どもは病や戦で生命を落とし、成人せぬ場合も少なくない。跡継ぎとなりえる男子は多い方がいいのだが、忍として芽が出ない三郎を候補の一人とするのは無理がある。いっそどこかへ里子に出して、忍ではなく農民や商人として生きる道筋をつけてやるのがよいのではないだろうか――。
 三郎が十になるふた月前、鉢屋衆の大人たちは頭領の邸に集まって、話し合いをした。頭領も奥方も、我が子はかわいいもの。できれば三郎を一族の忍として迎えてやりたいという思いはある。しかし、それはそれとして、鉢屋衆の大人たちはいずれも――心根をも含めて――優れた忍であった。忍であるがゆえに、みなは話し合いの末に非常に合理的な判断を下した。
 いわく――鉢屋三郎を忍にはしない、と。
 鉢屋の頭領や奥方、親戚、鉢屋衆の幹部らの寄り合いが結論を出した直後、三郎がその場に呼び出された。寄り合いの決定を伝えるためである。
 そのとき、三郎はちょうど兄や姉と変姿の術で遊んでいた。誰がいかに母親そっくりに化けられるかという競争の途中で、大人たちの前に引っぱりだされることになった。そのため、三郎は変姿の術用の化粧やかつらもそのまま。
 三郎の格好を見て、大人たちの大半は吹き出しそうになり、奥方は卒倒しそうになった。何しろ、三郎の変装は多少、奥方の特徴をつかんではいるものの、目を閉じてでたらめに目鼻をつけた福笑いの顔もいいところだったのである。
 正直なところ、頭領は今にも声を上げて笑ってしまいそうだった。三郎の変装はめちゃくちゃだが、激怒したときの奥方の顔によく似ていたからだ。しかし、ここで笑っては頭領の威厳が損なわれてしまう。そこで、彼は精一杯の厳しい顔をして、末の息子に声をかけた。
「三郎、よく参ったな」
「はい、父上」
 三郎は深々と頭を下げた。その仕草は、大人たちのそれを真似たつもりだったのだろう。しかし、急な動きのせいで、中途半端に頭に乗っていたかつらがズルリと床に滑りおちてしまった。
 プッと誰かが堪えきれずに笑った息づかいがあった。頭領はギロリと両側に並ぶ大人たちを睨んだ。お前たちが笑ったら、私まで吹き出してしまうだろうが。頭領の視線を受けて、何人かが慌てて姿勢を正す。それを見てから、頭領は改めて三郎に向きなおった。
「三郎、お前を呼んだのは他でもない。今後のお前の身の振り方について、話さねばならぬからだ」
「……身のふり方、でございますか? 三郎は、はちやしゅうの忍です。他のものになるつもりは、ございませぬ」
「そういうわけにもいかぬ。こう言っては何だが、そなたには忍の才がない。商人や農民として生きる方が、そなたのためであろう」
 頭領の言葉に、三郎はハッとして顔を上げた。青く化粧に彩られた切れ長の目に、じわりと涙が浮かぶ。
「なぜでございますか!? 兄上たちや姉上は、忍になりました。なぜ三郎はだめなのですか? 忍術はまだ下手かもしれませんが、練習をしてかならず――」
「無理なのだ、三郎。お前の兄や姉は、お前の年にはすでに大人顔負けの忍術が使えておった。しかし、お前はまだものにならぬ。――われら鉢屋衆は才のない忍を使うことで、忍衆としての評判を下げるわけにはいかぬ。優れた忍であることが鉢屋衆の生き残る術なれば」
「父上! 三郎はかならず、誰よりもすぐれた忍になってみせます! はちやの血をうけてこの世に生まれたからには、忍にならねば生まれた意味がありませぬ。どうか、おねがいでございます。三郎をここへ留めおいてください!」
 三郎は必死に声を上げた。変装の名残の化粧は、もはや涙でグチャグチャになってしまっている。ひどい有様なのだが、幼い三郎の必死の願いにその場の大人たちは皆、胸を詰まらせた。
「三郎……。そなたの気持ちは真実かの?」
 静まりかえった座の中で、ぽつりと尋ねた者があった。鉢屋衆の長老――三郎の祖父である。顔には深く皺が刻まれ、眉も髪も白く成りはてた長老は、垂れた目蓋の下から鋭く三郎を見すえた。
「まことでございます、おじじさま」三郎は涙混じりにもはっきりと答えた。
「そなたに覚悟があるならば、わしがそなたのために忍として生きるための道をつけてやってもよい」
「おじじさま! ありがとうございます!」
「待て、三郎。話は最後まで聞くものじゃ。そなたに覚悟があれば、忍になるための機会を与えてやろう。しかし、そなたは鉢屋衆に残ることは許されぬ。そなたの技術は鉢屋の基準を満たさぬゆえ。この家を出て、余所で忍の技を学ぶのじゃ」
「そんな……」
 忍になってもいいと言われて一度は躍りあがった三郎だが、すぐにその場でうなだれてしまった。長老の出した条件は、幼い三郎にとってはあまりに過酷に思えた。
「……どうする? 三郎、この家を出て忍となるか? あるいは、もうしばらくこの家で過ごして後、商人か農民になるべく奉公するか……?」
 まだ十になるかならぬかという齢で、家を出るのはためらいがある。できれば、まだ家族の元で甘えていたい。
 しかし、それはかなわぬのだと大人たちは言う。
 三郎は自分の家族のことを考えた。祖父母、両親、兄と姉。いずれも忍として生きている。将来、商人や農民になったのでは彼らとの間にある繋がりが消えてしまう気がした。
 それくらいならば、たとえ家を出ることになったとしても、忍となるべきなのではないか。そうすれば、忍として自分は家族と同じ世界に生き、同じものを視ることができるのだ。
 だったら、選ぶ道はひとつきり。
「……おじじさま。三郎は、たとえこの家を去らねばならぬとしても、忍になりとうございます」
「よかろう。……わしの知り合いが、忍を育てる学び舎を開いておる。そなたはそこで忍としての技を学ぶがよい」
「まなびや……でございますか?」
 三郎は問いかえした。それを受けて、長老はにっこりと笑ってみせる。
「さよう。その学び舎の名は……『忍術学園』」




 こうして、鉢屋衆の子・三郎は十になるとすぐに忍術学園へ入れられた。これで、商家や農家に奉公や養子に出される事態はひとまず避けられたことになる。学園に入れたからには、勉学に励んで一人前の忍にならねば――。
 自分の忍術はまだまだ未熟だが、いちおう鉢屋の名を背負っていくのである。鉢屋の名に恥じぬために、三郎はひとつ己の中で決まりごとを作った。鉢屋といえば変姿の術の名手として名高い忍衆――このことにちなんで、在学中は決して素顔をさらさない。常に変装するか仮面をつけるかしていよう。と。
 そんなわけで、三郎は身の回りの品々を少し持ち、白い狐の面をつけて学園へおもむいた。しかし、意気込んでいた三郎の気負いは、すぐに挫かれることになる。
 というのも、忍術学園は多くの者に開かれた学び舎であったためだ。生徒の中には商人や農民、侍の子弟も少なくない。彼らは忍術に関してはまったくの素人だった。もちろん、三郎のように忍の子もいるといえばいるのだが、幼い頃から忍術を学んではこなかったらしい。そんな彼らに向けた授業は、忍術の初歩の初歩から。三郎にとっては、よちよち歩きの頃に兄や姉から教わったような内容ばかりであった。
 授業で初めて習うような忍術をやすやすとやってのける三郎は、じきに所属する一年〈ろ〉組の生徒たちからの尊敬を集めるようになった。
 学園に入って半年後のこと。放課後、三郎は授業が終わったばかりの教室にいた。三郎の傍らには、最近、よく話す友人たちが寄ってきている。
「すげぇよな、三郎。さっき、先生の質問の答えがわかったの、お前だけだったじゃねーか」
 おさまりの悪い灰色の髪の少年が元気に言う。彼は猟師の子で、名を竹谷八左ヱ門といった。その表裏のない性格は明らかに忍に不向きなのだが、本人は気にする風もなかった。
「手裏剣の授業のときもすごかったよね。僕ら、ほとんど的に命中させられなかったのに、三郎はぜんぶ真ん中にあたってたもの」
 そう同意したのは、フワフワとした癖毛に穏やかな笑顔が特徴的な不破雷蔵いう少年だった。三郎と同室でもある彼も、忍らしくない性格をしている。表裏がないのは竹谷と同じだが、雷蔵の場合は更に迷い癖という悪癖を持っているのだ。
 このところ、三郎は雷蔵と竹谷と一緒にいることが多かった。同じ〈ろ〉組の級友たちは、三郎の優秀さを認めながらも、常に顔を覆う面や忍びらしい性格を少しばかり遠巻きにしているようなところがある。しかし、雷蔵と竹谷は鈍いのか表裏がないのか――普通の子とは違う三郎をものともせずに近寄ってくるのだった。
「べつに、私はたいしたことはしてないよ。実家じゃあれくらい、できて当たり前だもの」
 三郎は二人に言った。手裏剣が命中するのも、忍としての知識があるのも、実家では当然のこと。その言葉に嘘はない。しかし、少しばかり自慢げな響きになるのは、堪えようもなかった。だって、鉢屋の家では三郎は落ちこぼれと言われつづけてきたのだ。人に感心されれば、少しくらい自慢したくもなる。
「そんなことないよ。三郎はすごい奴だ。僕はお前と同室で、いちばん近くで見てるから分かるもの」
 雷蔵が言葉を重ねる。あまりに手放しで誉められると居心地が悪くなってしまう。三郎は「じゃ、私、級長の仕事で先生に呼ばれてるから」と言い、慌ててその場を後にした。


 仕事を終えて部屋に戻る頃には、すでに夕刻になっていた。同室の雷蔵は図書委員の仕事があるらしく、まだ戻ってきていない。普段なら、何となく夕飯は雷蔵と一緒に食べるのだが、待ってみても彼が帰ってくる気配はなかった。
 あまり遅くなると、夕飯を食いっぱぐれてしまう。委員会で遅くなったときは、委員長があらかじめ申請しておけば食事を置いておいてもらえる決まりだ。おそらく、雷蔵のところの委員長はそうするつもりだろう。しかし、自主的に雷蔵を待っていただけの三郎には、その制度は適用されない。
 ――雷蔵には悪いが、今日は先に夕飯を食べてしまおう。
 そう決めた三郎は、ひとりで部屋を後にした。ヒタヒタと一年生長屋の廊下を歩いていく。食堂への渡り廊下を渡ろうとしていると、微かな声が聞こえてきた。
「一年〈ろ〉組の鉢屋三郎を知ってるかい? あいつはひどく不気味な奴だよ。お面なんかつけちゃってさ」
「まったく、気味が悪いよね。お面を外すときは、必ず他人に変装してるんだもん」
 ヒソヒソ話は、どうやら渡り廊下に面した中庭の隅――茂みの影から聞こえてきているらしい。声変わりのしない高い声音は、一年生か、あるいは年上だとしても二年生だろうと思われる。
 声をひそめていても聞こえるのは、三郎が実家で鍛錬を積んでいたおかげだった。学園に入りたての一年生では、こうはいくまい。三郎は立ち止まり、柱の陰に身を隠した。言いたい奴には言わせておけばいい――そう思うものの、まだやっと十歳の三郎は無視してその場を去るほど達観できてはいない。思わず聞き耳を立ててしまう。
「――鉢屋三郎は、鉢屋衆の子だって噂だよ」
「鉢屋衆?」
「有名な忍衆さ。あいつ、きっと自分の家にいるとき、いっぱい忍術を教えてもらったんだよ。手裏剣も命中するし、忍術のことをよく知ってる」
「そんなの、ズルじゃないか」
「そう怒るなよ。皆が授業に馴れたら、三郎はそのうち一番でいられなくなるさ。あいつは本物の天才じゃない。ただの見せかけだよ」
 ――それがどうした。
 三郎は叫びたかった。反論したかった。
 天才じゃないから、どうだって言うんだ。自分が凡人なのはよく知っている。忍として天性の才能が備わっていないからこそ、一族を離れてここにいるのだから。私が天才だなんて級友たちが勝手に言いだしただけじゃないか。
 けれど、ここで取り乱しては自分が負けたことになる、というのも三郎は本能的に理解していた。陰口なんか知らぬふりをするのだ。陰でヒソヒソ話をする奴らには、お前たちのことなど知らぬ、と態度で示してやらねばならない。
 三郎は歯を食いしばって、廊下を歩きだした。そのときだ。タタタタタと軽い駆け足の音が近づいてくる。
「ごはーん! 僕のごはんっ、なくなっちゃう!」
 叫びながら走ってくるのは、雷蔵だった。彼は三郎を追いこしかけて、慌ててその場で立ち止まった。しかし、速度を殺しきれずにぐらりと傾き、くるくると回転する。三郎は思わずその手をつかみ、止めようとした。それでも、雷蔵はなお勢いあまって三郎の胸に倒れてくる。
 結局、ふたりしてその場に尻餅をつくことになった。
「ごめん、三郎。ありがとう!」雷蔵は笑顔で言った。
「いいよ。それより、そんなに急いでどうしたの? 委員会の仕事なら、夜食は取っておいてもらえるはずだろ」
「だって、取っておいてもらえるのは、だいたいおにぎりだろ? でも、今日はどうっっしても日替わり定食がよかったんだもん」
「へぇ? いつも食堂で迷いに迷う雷蔵が、珍しいじゃないか」
「だって、昨日、お前が言ってたじゃない。甘味どころのおじさんが学園に来てたから、今日は日替わり定食にみたらし団子がつくはずだって。みたらし団子がつくなら、断然、日替わり定食でしょ!」
 雷蔵に力説されて、三郎は曖昧に頷いた。みたらし団子がつくというのは、学級委員長委員会の先輩から教えてもらった情報だった。三郎自身は、さほど甘いものに執着がない――わけではないのだが、甘味は女子どもの食べものであると考えている。ときに粗食に甘んじねばならぬ忍は、甘味で舌を我が侭にしてはならない、としつけられてきたのだ。
 雷蔵がこれほどまでに団子を食べたがるとは予想しておらず、三郎はびっくりした。
「さぁ、三郎、食堂へ行こう! 今日は一緒に日替わり定食だ!」
 元気よく言って、雷蔵は三郎の腕を引っ張って立たせた。その無邪気さに、三郎はいつしか冷えきっていた心が温かくなっていることに気づく。そっと気配を探ってみれば、庭の隅の植え込みで陰口を叩いていた生徒たちは立ち去ったようだった。
 三郎は雷蔵に手を引かれて歩きだした。今夜は焼き魚定食のつもりだったのだが、雷蔵と一緒に日替わり定食にしてみるのも悪くない。
 ――私は私だ。雷蔵や竹谷という友もいる。言いたい奴には言わせておけばいいんだ。
 心に決めた三郎――だが、そう超然としてはいられない日が来るとは予想もしていなかった。




 その日は間もなくやってきた。冬休みの前、生徒たちに行われる試験が終わった翌日のことである。
 試験の順位は、教室の壁に張り出される。入学当初の一般常識的な試験も、夏休み前の試験も、いずれも三郎は〈ろ〉組の中で一位を取ってきた。冬休み前の試験もきっと結果は同じだろう――そう思っていた。
 後になって思いかえしてみれば、きっと慢心していたのだろう。
 担任の教師によって、教室の後ろの壁に試験の順位が張り出される。〈ろ〉組は十名あまり生徒がいるため、順位表はちょっとした巻物だ。担任は巻物の端――順位表の最下位にあたる部分を釘で壁に留めて、紙をするすると伸ばしていく。
 生徒たちの多くは教師の背後に集まって、少しでも早く自分の順位を見つけだそうとした。紙が伸びるたびに、集まった子は自分の名前を発見してため息や歓声を上げる。
 三郎と雷蔵、それに竹谷は皆には加わらず、机の前に座ったままでいた。三郎には、順位が発表されてすぐに見にいくのは、いかにも気にしているようで格好わるいと考えていた。竹谷は所属する生物委員会で使うのに、細く切った竹で懸命に虫かごを作っている。雷蔵はといえば、図書委員としての特典でかり出せた秘蔵の書物に夢中だ。二人とも、試験の結果どころの話ではないらしい。
 三人が席にいるうちに、順位表が最後まで張り出された。一位の部分を見て、〈ろ〉組の生徒たちがざわめき出す。
 ――何か妙だ。
 三郎はそう思った。同じことを雷蔵や竹谷も感じたらしく、二人とも本や作りかけの虫かごから顔を上げる。
「どうしたんだろう?」雷蔵が首を傾げた。
「何かみんな、こっち……っていうか三郎と雷蔵を見てるぞ」
 竹谷が不審そうに言う。彼の言うとおり、他の生徒たちは三郎と雷蔵を見比べて、ヒソヒソと話をしているようだった。
「試験の結果、そんなに妙だったのかな? 見に行く?」
 雷蔵の提案で、三人は連れだって教室の後ろまで歩いていった。壁に張り出された試験の順位表を見て、三人は言葉を失った。
 長い順位表の先頭にあったのは、鉢屋三郎……――の名前ではなかった。不破雷蔵という文字だったのである。
 三郎はびっくりしてしまった。雷蔵はいちばん仲のよい友達だし、彼がいい成績を取ったことは嬉しい。だが、雷蔵が自分に勝つことなど、今まで考えてみなかった。
「おめでとう、雷蔵」
 何とか雷蔵を誉める言葉を口にして、三郎は笑顔を浮かべた。自分が一番の成績でなかったことへの驚きで心は凍りついているのだが、口と態度だけは普段の自分を取りつくろうように勝手に動いていく。三郎は何事もなかったかのように振る舞う自分を、どこか他人の芝居でも見ているような気持ちで傍観していた。
 どうやって午後の授業を終えて、戻ってきたのか。気づけば、三郎は自室にいた。障子を開ければ、空は夕暮れどきに差しかかっている。雷蔵は委員会のようで、まだ戻ってきてはいなかった。
 部屋の中は静かだ。けれど、耳を澄ませれば一年生長屋のどこかから、誰かの笑い声が聞こえてくる。遠く鍛錬場の方からは、組手をしているらしい気合いの声も。もうほとんど冬なので、他の季節のように虫の音は聞こえないものの、家路を急ぐカラスの鳴き声は空に響く。
 三郎は、部屋の片隅で膝を抱え、そうした物音を聴いていた。そうしていると、鉢屋の家にいた頃を思い出す。大人たちは三郎を落ちこぼれだと思っていたが、気配を消すことに関しては三郎は兄や姉に劣らなかった。よく、家の片隅で息をひそめて、大人たちの動きに聞き耳を立てていたものだ。そうやって静かにしている分には、誰も三郎のできの悪さを思い出しはしなかったから――。
 ――このまま、私は落ちこぼれてしまうのだろうか……? 実家から追い出されたように、いつか学園からも追い出されてしまうのではないだろうか……?
 三郎は恐怖と共にそう思った。と同時に、脳裏に浮かぶ雷蔵の、安穏とした嬉しそうな顔が急に憎らしく感じられてくる。
 雷蔵はいい。彼は鉢屋の血筋ではないのだから、忍でなければならないという強いこだわりなどないだろう。そんな人間に負けたなんて。
 急に胸に黒い感情が湧いてくる。
 悔しく、雷蔵が妬ましい。けれど、そんな感情を抱く自分を受け入れられない。かつてないほどグチャグチャな気分で――ひとつだけ、三郎には分かっていた。
 このまま、この部屋にいてはいけない。いずれ――もしかすると、戻ってきた雷蔵に対して、忍らしくない振る舞いをしてしまうかもしれない。たとえば、泣いてかんしゃくをぶつけるとか。
 ――そうなる前に、いなくなりたい……!
 三郎は衝動的に、部屋を跳びだした。綿入れも着ない制服一枚で、冷たい空気の中を夢中で駆ける。
 どれくらいそうやって走っただろうか。やがて、息が上がりきって、苦しくて走れなくなった三郎はばたりとその場に倒れこんだ。冷たい土の上で仰向けになって、狐の面ごしに空を見つめる。ここは学園の裏々山あたりだろうか。立ち並ぶ木々はほとんど、葉を落とした冬の装いをしている。その枝の合間にのぞく空はいつしか真っ暗になっていた。空気は夜になっていよいよ冷えこみ、しんしんと体温を奪っていく。
 ――このままここにいたら、私は死ぬだろうな。
 それはそれで、構わない。忍の才がないことに苦しみながら生きるくらいより、いっそ、死んで楽になる方が。そう思って、三郎は身体の力を抜いた。身体の熱は奪われて、感覚が鈍くなっている。その中で、面に触れる呼気だけは暖かく、まだ自分が生きていることを実感させてくれた。
 それでも、寒さのあまり、次第に意識が遠のいていく――。
 そのときだった。人の話し声と足音が聞こえた。甲高い声は女か、子どものものだろう。しかし、いずれにしてもこの冬の夜に山中にいるのは妙な話だ。
 三郎は閉ざしていた目を開いた。と、不意にかなり近い場所で声がする。
「いたぞ、雷蔵!」
「ほんとだ、八左! 三郎、大丈夫かな。こんなとこで寝てて、凍え死んだりしてないかな……」
 聞き覚えのある声に、三郎は身を起こした。見れば、そこにいるのは雷蔵と白い犬を連れた竹谷だった。防寒のため、二人は蓑を着込んで藁靴を履いている。
「君たち……どうして」
 竹谷が三郎の問いに答えようとした。が、それを遮るようにして、雷蔵が前へ出る。暗さに慣れた三郎の目には、彼の表情が見えた。怒っている。おっとりした気質で、めったに激することのない雷蔵が――激怒しているのだった。
「どうしてって、それはこっちの台詞だよ、三郎っ。お前、そんな格好をして、こんな山の中でどういうつもりだい!」
「……君には関係ない」
「関係ないことない! 僕らは級友だし、同室だし……何より、友達だろ」
「馴れあいはやめてくれ。私たちは忍だ。忍は“色”――すなわち、情けに囚われてはならない。級友だろうが同室だろうが、仲良しごっこは御免だよ」
「三郎、そういう言い方はないだろ。雷蔵はお前が部屋を飛び出すところを見て、心配になったんだ。それで、俺に忍犬で探してほしいって頼みに来たんだぞ……!」
 今にも喧嘩になりそうな二人の間に、竹谷が割って入る。だが、三郎も雷蔵も止まれない。
「探してくれなんて、私は頼んでない。放っておいてくれればよかったんだ」
「いい加減にしろよ、三郎! 竹谷はお前のために、こっそり忍犬を連れ出してくれたんだ。先輩に怒られるかもしれないのに……。――それなのに、お前、恩知らずなことを言うもんじゃないよ! どうせお前が拗ねてるのは、試験で一番を取れなかったからだろ」
 雷蔵に図星を指されて、三郎は息を呑んだ。その直後、激しい怒りが腹の底からこみ上げてくる。
 きっと、普段なら雷蔵に痛いところを指摘されても、これほどまでの怒りは感じなかっただろう。だが、今このとき、三郎にとって雷蔵は己を追い抜いて一等の成績を取った敵としか見ることができなかった。彼に負けて逃げ出したことを見抜かれたのは、屈辱の上に屈辱を重ねたようなものだ。
「君こそ、一番を取ったからって天狗になってるんじゃないのか? 私を探しに来たのだって、同室の相手を気遣えば先生の覚えがめでたくなるからじゃないのか?」
 口から出た言葉は、本心ではなかった。雷蔵も竹谷もいい奴だということは、よく分かっている。それなのに、心の中で荒れ狂う妬みや屈辱感は三郎自身の手綱を外れていて、ねじくれた言葉ばかりが口をついて出た。止めることは不可能だった。
「三郎っ、お前、言っていいことと悪いことがあるぞ」
 それまで心配そうに成り行きを見守っていた竹谷も、さすがに三郎の言葉を聴いて怒りの表情になった。しかし、それ以上に大きく反応したのは雷蔵だった。
 雷蔵は三郎に飛びかかり、着物の胸倉をつかんだ。体術の授業以外取っ組み合いをしない雷蔵にしては、珍しい行動だ。それほど、怒っていたということなのだろう。雷蔵は強い怒りを含んだ低い声で、三郎に言った。
「――いい加減にしなよ。お前は何を拗ねているんだい。僕らは何のためにここにいる? 一人前の忍になるためじゃないのかい?」
「……むろんだ」
 雷蔵の剣幕に押されて、三郎は思わず頷いた。
「僕たちはまだ、“忍たま”なんだ。できないことは山ほどある。僕らよりすごい忍なんて、数多いるだろう。敗けるたび、自分の未熟さを知るたびに、お前はそうやって拗ねるのか? 立ち止まって、駄々をこねるのかい?」
「何を――」
「ずっとそれを続けていくつもりなら、強くはなれない。お前は取るに足らない奴だ。鉢屋三郎はすごいと思った僕の、見立てちがいだったよ……!」
 雷蔵は三郎を突き放した。それから、手にしていた蓑を投げつける。それは三郎の胸にぶつかって、バサリと地面に落ちた。どうやら三郎の蓑を持って、探してくれていたらしい。
 しかし、今や雷蔵はキッパリと三郎に背を向けて、立ち去ろうとしていた。けれど、三郎は彼を追うことも、何か声をかけることもできなかった。雷蔵の言葉が衝撃的すぎて、頭が真っ白だった。竹谷はそんな三郎を、心配そうな顔で見た。が、何も言わずに背を向けて、雷蔵を追っていってしまう。
 忍犬も雷蔵と竹谷に従って去り、その場には三郎ひとりきりになった。




 三郎はかがんで、足下に落ちた蓑を拾いあげた。ずっと雷蔵が胸に抱いていたのだろう。蓑にはわずかながらも温もりが残っている。その温かさが、今の三郎には痛かった。
“――敗けるたび、自分の未熟さを知るたびに、お前は立ち止まるのか?”
 雷蔵の言葉を思い出して、三郎は唇を噛んだ。本当に彼の言うとおりだった。
 けれど。
 鉢屋の一族で求められるのは、最初から完璧であること。未熟であること、敗けることは許されない。忍びの術が拙かったがために、三郎は鉢屋衆から捨てられて学園にいる。たとえ学園を卒業したとしても、鉢屋の流儀ではないから鉢屋衆の忍にはなれない。
 才能を持たないがための代償を、三郎はすでに嫌というほど知っていた。これで、どうして敗けることを恐れずにいられようか。
「雷蔵は、何も分かってないんだ……」
 三郎は小声で呟いた。声と共にこぼれ落ちた吐息が、面の隙間から夜の空気の一端を白く染め、すぐに散っていく。
 と、そのときだ。遠くから微かに甲高い悲鳴が聞こえてくる。三郎はハッとして顔を上げた。悲鳴――ということは誰かが危険な目に遭っているのだろう。
 誰が、と考えるまでもなく、三郎は蓑をまとって悲鳴の聞こえた方向へ走り出していた。そうしながら、雷蔵と竹谷のことが心配になる。いま時分にこんな山中にいるといえば、己の他は雷蔵たちくらいではないだろうか……。
「雷蔵っ……八左ヱ門……!」
 三郎は走る速度を上げようとした。と、前方から夜目にも白いものが矢のように駆けてくる。見れば、竹谷の連れていた忍犬だった。雪のように白いソイツは、確か、竹谷によく懐いていて――一度、紹介してもらったことがある。
「〈六花〉……!」
 名を呼ぶのと、〈六花〉が三郎の元へ走りよってくるのは、ほとんど同時だった。三郎は忍犬に尋ねた。
「〈六花〉、八左ヱ門と雷蔵はどうした?」
 忍犬はじっと三郎を見つめてから、くるりと踵を返す。ついてこい、ということだろう。そう考えて、三郎は忍犬の後を追った。 そうやって、四半刻ほど走っただろうか。不意に前方に明かりが見えた。光の種類から察するに、誰かがたき火をしているのだと分かる。
 岩陰になっているその場所に、三郎は気配を殺して近づいた。そっと木陰からのぞいてみる。たき火を囲んでいるのは、雑兵の態をした二人の男だった。ぼろぼろの鎧を身につけ、傍らには槍や刀を置いている。刀は抜き身、槍は穂袋もしていない。あちこち欠けた刃は血脂で曇って、たき火の光を鈍く反射していた。
 彼らのたき火に近い一本の木に、雷蔵と竹谷が荒縄で括られている。雑兵らは雷蔵たちを連れていくことにしたようだった。
 雑兵たちは、おそらく戦場から戦場を渡り歩く傭兵だろう……と三郎は見当をつけた。雇われの雑兵は戦場で略奪や強姦、人さらいなどを黙認されている。ほとんどは己の利で動く狡猾な人間だ。雷蔵たちを返してくれ、と口で言って聞き入れてはくれないだろう。
 ――あいつら、雷蔵と八左を人買いに売るつもりだな……。
 悔しいが、三郎ひとりでは雑兵どもにはかなわないだろう。下手をすれば、己のみならず雷蔵たちにまで危険が及ぶ。ここは学園へ報告に戻るべきか――と三郎は考えた。
 だが。
 雑兵の一人が不意に立ち上がり、雷蔵と竹谷へ近づいていった。そいつはニヤニヤしながら二人を見比べていたが、やがて、かがんで雷蔵に手を伸ばす。嫌な手つきだった。衆道が珍しくないこの時代、男児だからといって暴行を受けないとも限らない。雑兵が雷蔵に触れる手つきを見た途端、三郎はカッと怒りがこみ上げてくるのを感じた。
 ――あいつ、雷蔵によからぬことをするつもりだ。
 もはや、悠長に学園に報告している暇はない。三郎は忍犬〈六花〉に、学園の教師を連れてくるように頼んだ。賢い忍犬だけあって、〈六花〉はすぐに三郎の意を受けて学園の方向へ走り出す。
 それを見届けてから、三郎は円を描くようにたき火の周囲を移動した。攻撃するにもたったひとり。闇雲に打って出るよりは、機会をうかがうべきだ。そうする間にも、雷蔵を守ろうとして雑兵に噛みつきかけた竹谷が、ひどく殴られる気配が伝わってくる。
 たき火のそばにいたもう一人の雑兵が、面倒そうに抜き身の刀を持って、仲間のそばへやってきた。
 ――まずい……!
 三郎は用意していたもっぱんをたき火に投げ込んだ。もっぱんは火薬と薬草を詰めて、煙に薬の効果を持たせた忍具である。学園の一年生、二年生は授業で習った薬草しか持たせてもらえない。よって、今、三郎が使っているもっぱんも、本来よりかなり効果の軽い薬でできている。学園の一年生はこの時期、すでに耐性を身につけているほどだ。
 とはいえ、薬物耐性のない人間には、有効な手段のはずだった。もくもくとした煙が立ちこめる中、三郎は素早く雷蔵たちの元へ駆けていった。苦無を取り出し、てきぱきと二人の縄を切る。
《ありがとう!》
 雷蔵と竹谷は矢羽音で言った。三郎は、礼は後だと応じて、二人と共にその場を去ろうとした。そのとき。
 ガンッ。
 衝撃と共に、三郎は地面に吹っ飛ばされた。何者かに殴られたのだ。――否、何者かではない。雑兵のうちの一人だった。
 ヒュウと風が吹き付け、もっぱんの煙が散っていく。開けた視界に雑兵が二人とも、その場に立っているのが見えた。
「もっぱんを使うとは……お前らどうも妙だと思ったが、忍たまか。俺たちにこんな弱い薬が効くと思ってるのか? 耐性はすでにあるさ」刀を手に、雑兵が言う。
「……お前たち……忍くずれか……」三郎は地面に這いつくばりながら、二人を見た。
 忍と一口にいっても、さまざまな忍がいる。三郎の実家の鉢屋衆や忍術学園のように、体系だった忍術を使える者というのは、さほど多くなかった。それ以上に大きな割合を占めているのが、どこぞで聞きかじった程度に忍術に馴染んでいる者である。雑兵たちも、少しばかり忍術の心得があるようだった。
「クソッ……!」三郎は歯噛みした。
「このガキ、妙な面をつけてやがる。値打ちものかもしれねぇし、見てみろよ」
 仲間に言われて、雑兵は三郎に手を伸ばしかけた。だが。
「三郎に手を出すなっ!」
 雷蔵が雑兵に殴りかかる。しかし、槍の柄であっさり返り討ちにされてしまった。
「こいつら、うっとおしいガキだな」
「もったいないが、ひとり殺せ。そうすれば残りは大人しくなるだろうよ」
「オゥ」
 槍を持った雑兵は、雷蔵に向けて槍を振りあげた。三郎と竹谷はとっさに雷蔵に覆いかぶさり、守ろうとする。
「三郎、八左っ! やめてっっ!」
 雷蔵の絶叫が響く。そこに被さるように、パァーンと高く火縄銃の音が響いた。同時に手裏剣と苦無が雑兵たちめがけて飛んでくる。
 ――いったい何が起きている?
 三郎は顔を上げた。だが、辺りを探る前に何者かに抱き上げられてしまう。びっくりして見れば、よく見知った上級生――学級委員長委員会の委員長の姿があった。学級委員委員長は三郎を抱いたまま、林の中を駆けていく。隣を見れば、雷蔵と竹谷がそれぞれの属する委員会の委員長に背負われていた。
「先輩……どうして――?」
「〈六花〉が私たちに報せてくれたのさ。後できちんとお礼をするんだよ」
 そう言われて、ふと委員長たちの足下を見れば、白い犬が並んで走っている。
「〈六花〉は八左ヱ門に懐いている……というか、自分の兄弟犬だと思っているらしいからな」と生物委員長が苦笑する。
「ありがとうな、〈六花〉!」
 竹谷が声を掛けると、〈六花〉は抑えた声でひと吠え、返事をしてみせた。
「先輩がた、申し訳ございません……。僕らのために……」
「……よくがんばったな、雷蔵。もう何も怖いことはないぞ」
 涙声の雷蔵に、図書委員長が優しく言う。
 二人のやり取りに、三郎は胸が苦しくなった。そうだ。普通の子どもなら夜の森が怖いだろうに、雷蔵も竹谷も探しに来てくれた。そればかりか、雷蔵は身を挺して雑兵から三郎を守ろうとさえしてくれたのだ。あまりの申し訳なさに涙がにじんで、三郎はスンと鼻を鳴らした。
 と、学級委員長委員長の声が優しく落ちてくる。
「聞け、三郎。お前が二人を守ろうとしたこと、立派だった。私は誇らしいよ。忍にとって大切なのは、知識でも成績でもない。守るべきものを……正心を持っていることだ」
「正心、ですか……?」
「そうだ。人の評価や金や利に囚われてはならない。目先の利に囚われたとき、忍は先ほどの雑兵と同じ――振るうべき力の先を知らぬ愚か者になる。お前の価値を決めるのは、他人ではない。お前自身の心の在り方だ」
 委員長の言葉は、年齢のわりには聡い三郎にとっても難しかった。それでも、三郎は頷く。成績が優秀であろうと、きっと闇も雑兵も恐れずに敢然としていた雷蔵や竹谷にはきっとかなわない。自分は先輩のようになりたいし、雷蔵や竹谷たちと肩を並べて進んでいきたいのだ。
 ――私は忍になりたい。
 生まれや血筋のためではなく、親兄弟がそうだったからでもなく、初めて三郎は心からそう思った。誰に認めてもらうためでもなく、仲間たちと生きていくために忍でありたいと思った。

 後に学園随一の変装名人と呼ばれることになる鉢屋三郎が、不破雷蔵の貌を使いはじめたのは、その翌日のことである。


(サンプルここまで)
 


2015/01/05

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