年越しそばの話
20XX年12月31日。 年明けを控えてニホン国総帥府は、非常に多忙だった。12月は昔の呼び方では師走――“先生も走る”などと言うが、それこそ冗談ではなく総帥であるシキすら時間がなくて移動の合間に走らなければならないときがあるほどに。 世間では年末年始で休みに入る企業も多く、ニホン国軍の人間の多くも休暇に入っている。けれども、政治を司る総帥府に限ってはそうもいかない。何割かの職員が、大晦日にまで居残って仕事をしなければならない状況だ。 この日、年末の行事やその他の処理を後回しにできない仕事に追われて、シキは昼と晩の食事をする間もなかった。もちろん、常にシキの傍に控えているアキラも同様だ。仕事と仕事の合間を見てソリドを齧りもしたが、激務の中それで足りるはずがない。そこで、行事が終わってあとは書類の処理ばかりとなった午後11時頃、アキラはシキの許可を得て外へ夜食の買出しに行くことにした。というのも、こんな日のこんな時間に残っているのは警備員か総帥の執務を補佐する秘書課の人間だけで、普段厨房で働く人間などはもう休暇に入っているからだ。 大晦日の午後11時といえば、もう大抵の店が閉まっているだろう。けれど、シキがニホンを統一して治安が改善した上経済的にも少しずつ発展している今では、大戦前に普及していた24時間営業のコンビニも増え始めているから、探せば買い物ができないことはないはずだ。それにしても、夜食は何を買えばいいのか。ソリドよりはカップ麺か――などと考えながら、アキラが廊下を歩いていると、廊下の端の給湯室にこの時間には珍しく灯りが点いていた。 誰かいるのか。或いは、灯りの消し忘れか。 確認しようとしてアキラは給湯室の前まで行き、中をのぞきこむ。すると、そこには秘書課の職員の姿があった。秘書課の中では最も若い――といってもアキラよりは3つほど上だが、年齢が近いのでよく話すことがある――職員だ。彼は給湯室の壁際に置かれた長机の上にずらりとカップ麺の容器を並べ、その一つ一つにポットから湯を注いでいた。 「お疲れさま。秘書課の夜食か?」 「あ、アキラ様、お疲れさまです。えぇ、これが今日の夜食です。大晦日なので、年越しそばです…といっても、カップ麺のそばですが。――その格好…アキラ様は、今から外出されるんですか?」 「あぁ。コンビニに行こうと思って」 「コンビニ?今からですか?もしかして、夜食の買出しとか?――コンビニは割引がないから高いですよ。よろしければ、このカップ麺とかいかがです?定価100円が売り出しで88円!」 職員は、長机の端に置いてあったスーパーの袋に手を突っ込んだ。じゃーん、と大げさな効果音を付けつつ、『きつねそば』と書かれたカップ麺を取り出す。見れば表面の通常の値札の上に、黄色い割引の値札が貼り付けてあった。 「確かにお得だな。だが…貰ったら、秘書課の分が足りなくなるだろう?」 「構いやしませんよ。カップ麺はどうせ3つ程余分に買ってあるし、他にスナック菓子なんかもありますから。――あ、言っときますけど、酒はありませんからね。秘書課が打ち上げしてるなんて、総帥に言わないで下さいよ。ちゃんと仕事してますから」 「あぁ。分かってる」 「よし、取引成立ってことで」おどけた様子で職員は言って、スーパーの袋の中をまさぐった。「アキラ様、いくつ要ります?余り3つなんですけど、全部持って行きます?」 「いや、俺と総帥の分2つ貰えれば十分だ」 「総帥がカップ麺って…何か変な感じですね。まぁ、総帥も人間なんだし、カップ麺くらい食べるでしょうけど。…取りあえず『てんぷらそば』と『きつねそば』一種類ずつでいいですか?」 秘書課の職員に礼をいい、アキラはカップそばを持ってシキの執務室へと戻った。扉を開けたアキラが入っていくと、シキはデスクから顔を上げ、意外そうな表情を見せた。 「早かったな」 「はい。外には出ませんでしたので。給湯室で秘書課の者と会ったとき、これを貰いました」 腕に抱えたカップそばを見せると、シキは手を止めて僅かに笑みのようなものを浮かべた。 「年越しそばというわけか。カップ麺など久しぶりだな」 「そうですね。あなたが政権を執ってからは、以前のようにソリドで食事を済ませたりするわけにもいかなくなりました。仕方のないことです」 「今の生活は窮屈か?」 シキが尋ねてくるのに「いえ」と首を横に振りながら、アキラはカップ麺の用意に取り掛かった。 秘書課と違って、シキの執務室にはポットが備えられている。給湯室まで行く必要はない。シキに背を向けて、アキラは2つのカップ麺の蓋を半ばまで開けてポットの湯を注ぎ、蓋をした。上に机の上に出ていたファイルなどを置いて重石にする。ポットを載せている棚の傍にカップ麺を置いて、シキに背を向けたままアキラは言葉を続けた。 「…決して今の生活が嫌なわけではありません。昔の俺は、何も知らなかった。他人に関わらず自由にしているつもりで、他人に関わらないからこそ狭い世界の外を知らないまま生きていた。そこから引き出したのは、他でもない貴方です。――確かに、自分の知らない世界を経験することは、最初は抵抗がある。しかし、貴方となら、未知の世界を歩むことに躊躇いはありません。次にどんな景色が現れるのか、楽しみなくらいだ」 「次に現れるのは、美しい景色でなく、醜悪な地獄かもしれんぞ」 「何が美しいかを決めるのは、他人ではなく自分自身だ。覚えていますか、貴方がまだ政権を執らずに一介の軍人としてnicolの研究に協力していた頃、俺は貴方や自分がモルモットにされるのが耐えられなかった。けれど、そのときの研究が今は実を結んで、より安全に効率的にラインが使用できるようになった。――たとえ地獄の中でも歩き続ければ、いつか自分が美しいと感じる景色はあるかもしれない。そのことを、俺は貴方に教えられた」 「いい答えだ。アキラ、来年も変わらず俺の傍にいろ。といっても、連れて行ってやれるのは決して楽園ではないだろうがな」 「どこに行こうが、貴方の傍にいられるなら、それは俺にとっての楽園です」思わず笑みを浮かべながらアキラは言い、そこで腕の時計に目を移した。「――っと、そろそろ3分か。総帥、『きつねそば』と『たぬきそば』どちらがいいですか?」 シキはどちらでも構わないと言ったので、アキラはシキに『たぬきそば』を渡した。 この広い執務室で2人のデスクは離れているが、こんなときにそれぞれ離れたデスクで食べるのも妙な気がして、アキラはシキに断って、彼のデスクの端に自分の『きつねそば』を置く。椅子だけ自分のデスクから引っ張って戻ると、『きつねそば』のパッケージを見ていたシキが面白そうにアキラを見た。 「やはり、お前の味覚は分かりやすいな。子どもの味覚だ」 『きつねそば』はあげに甘みがあるから好きなのだが、それをシキに見抜かれたらしい。「そんなことはありません」と取り繕いながら、アキラは少し面白くない。いただきます、とカップ麺と一緒に貰った割り箸を割って食べ始めると、シキはアキラの態度に少し笑ってから同じように食べ始めようとする。 と、そこで何を思ったか、彼はデスクの端に寄せていたパソコンを操作した。 スクリーンセイバーになっていた画面が明るくなり、立ち上がったウィンドウに映像が映し出される。どうやら、テレビのもののようだ。ちょうど一人の女性歌手が舞台に立ち、歌っている。 「――総帥、こういう番組に興味を持たれるとは知りませんでした」 「いや、別に興味があるわけではないが」 「あぁ、でも、秘書課の人間も話していました。今日、今年一番人気が出た女性が歌うから、ぜひ聞かないと、と言って。そういえば、この女性がそのようですね」 「ほぅ、今年の流行はこういう歌だったのか…知らない間に一年が終わっていくな」 「全くです」 2008/12/31 |