媚薬を飲むシキの話
*ED1後、眠ったシキが復活した後の話
*アナルへの舌での愛撫描写あり注意






 差し出されたグラスの中で、赤い液体が微かに波打っている。まるで誰かの目の色を思わせるそれを、俺は途方に暮れて見つめていた。
 グラスの中身は、きっとワインなのだろうと思う。あまり酒に興味のない俺には、それが上等なのかどうなのか見当もつかない。また、上等であったからといって、飲みたいとも思えない。
 俺は、酒を飲まない。
 といって、アルコールを受け付けない体質というわけでもない。嗜む程度ならば口にすることはある。だが、アルコール分が体内に回ると、いろいろと自分のタガが緩んでしまう。たとえば、なぜか他人にくっつきたくなったり(もちろんしないが)、更に酔うと他人に絡み出すことがある(とこれはシキから聞いた話だ、俺は覚えもない)。とにかく、そんな醜態を晒したくないので、普段はあまり飲まないようにしている。
 けれども。

「さぁ、今日はパーティだ。君も一杯飲みたまえ」

 盛装した見知らぬ中年の男が、上機嫌でグラスを差し出してくる。さて、どうしたものかと、俺は宙に視線をさまよわせる。もちろん、クリスマスイブだからといって、神様が天からこの場の救い主を差し向けてくれる様子はないようだ……。


 十二月二十四日――クリスマスイブのこの日、俺とシキはとある豪華客船の船上にいた。今夜、この船の上でクリスマス・パーティが行われる。もっとも、俺たちは単純に客として招かれたわけではなかった。
 俺もシキも、裏の世界で様々な仕事を請け負って生計を立てている。とりわけシキはかなり名の通った部類なので、常連客がいる。財界の大物の一人だというその常連客が、今回のパーティでシキを引き合わせたい相手がいるというのだ。
 裏の世界の仕事というのは、仲介屋を通すか今回のように常連客が別の客を紹介したりして、こちらに回ってくる。今回のパーティへの招待は、シキに仕事を依頼したいという相手を引き合わせるためのものだった。
 こうして、俺とシキは急遽、船上パーティに出ることになった。俺はパーティなど初めてで、シキに言われるままにパーティ用のスーツを準備してシキと一緒に船に乗った。それが今日の昼のこと。
 豪華客船の中が物珍しくてうろうろするうちに時間は過ぎて、あっと言う間にパーティの始まる夜になった。パーティが始まっ最初のうちは二人でいたのだが、やがてシキは常連客に呼ばれて行ってしまった。俺はしばらく賑やかな会場にいたが、やがて気疲れして部屋に戻ろうと廊下に出た。
 そうして廊下を歩いていくと、途中で出会ったのがその中年の男だったのだ。男はパーティの招待客らしく、見るからに金のかかった身なりをしていた。俺はブランドものなどには詳しくないが、男の時計や指輪はいかにも高価なのをひけらかすようで、あまり趣味がいいとは思えなかった。
 男は、少し酔っているのかやけに上機嫌で、俺にしきりに酒を飲むように勧めてくる。断りたかったが、そうするとこの男は気を悪くするかもしれない。そうしてパーティの主催者でもあるシキの常連客に文句を言われたりしたら、それはそれで厄介なことになるかもしれない。
(穏便に済ませるには……やっぱり、俺が飲んだ方がいいのか……)
 気が進まないながらも、決意したときだった。

「失礼。――私の『弟』に何か?」

 背後から、馴染みのある低くて響きのいい声が聞こえてくる。俺ははっとした。振り返らなくても気配で分かる――シキが来たのだ。
「弟? この青年が、君の?」中年男がシキに確認する。
「そうです。彼は私の『弟』です」さらりとシキが嘘をつく。
 俺は二人の会話に口を挟まないでいた。
 もちろん、俺はシキの『弟』ではない。けれど、シキは俺の関係者だと周囲の人間に印象づける必要があるとき、『兄』を称することがある。これは、単に友人同士だと説明するよりも効果的だ。
 このときも、シキの詐称はかなりの効果を示した。繰り返し俺に酒を勧めてきた男が、引く様子を見せ始めたのだ。
「儂は彼に酒を勧めていたんだよ。あまり飲んでいないようなのでな。若いのに、それではつまらんだろう」
「それはお気遣いありがとうございます。しかし、弟は下戸なので皆様に醜態を見せまいと酒を控えているのです。せっかくですから、そのグラスは私がいただきましょう」
 言うが早いか、二人の間に割って入ったシキはさっとグラスを取り上げた。そのままグラスを唇に近づけたところで、シキは一瞬眉をひそめる。が、次の瞬間にはグラスの中身を一気に呷った。
「あ……」中年男は、呆然とシキを見ている。
 あっと言う間に液体を飲み干したシキは、礼儀正しく男に挨拶すると、俺を促して歩きだす。俺は慌てて後を追い、隣に並んだ。ふと見れば、シキの表情はいつになく硬いような気がした。
「シキ、どうかしたのか?」
「何でもない。さっさと部屋へ戻るぞ」
 普段より殊更素っ気ない調子で言って、シキは歩調を早める。俺も口を噤み、二人して黙ったまま部屋に戻った。


***


 用意された部屋に戻るなり、シキはツインのベッドの片方に身を投げ出すように座った。「くそっ」と短く吐き捨てながら、苛立たしげな手つきでネクタイを解き、ベッドの上に投げ捨てる。このとき俺はといえば、シキの急な変化についていけず、部屋の入り口に呆然と立ちすくんでいた。
「……本当にどうしたんだ、シキ? 新しい客との顔合わせが、うまくいかなかったのか……?」俺はおそるおそる尋ねた。
「違う」とシキは不機嫌に答える。
「だったら、どうして――」
「クスリだ」
「え?」
「先ほどの男がお前に飲まそうとしていた酒に、クスリが入っていた。飲ませてお前をどうにかしようとしていたのだろうな。口にする前に臭いで気がついてはいたのだが、状況的にも毒薬とは考えにくかったのでな……。あの男は俺の顧客から紹介された、俺に依頼したいという客だ。あの状況で突き返して機嫌を損ねれば、後々面倒なのでそのまま飲んだが」
「あの男が、あんたに依頼をしたい客だったのか……だけど、それでもクスリなんか飲むなんて! 身体は大丈夫なのか? あんたにもしものことがあったら、俺は――」
 酒に薬物が入っていた。その薬物がシキの身体に悪影響を及ぼしたら……もっと言えば、シキが毒薬で死んでしまったら。そう思うといても立ってもおれず、俺はシキに駆け寄った。身を屈めて顔を近づけ、差し伸べた手で頬に触れようとする。
 そのときだった。パシッと音がするほど激しく、シキは俺の手を振り払った。
「……シキ……?」
「触るな……――クスリと言っても、死ぬようなものじゃない。あのグラスに入っていたのは、おそらく、媚薬だ」
 一息にそう言うとシキは辛そうな――けれど、どこか艶めいた――息を吐いて、身を丸め自分の肩を抱いた。自分の中で渦巻く熱を持て余すような、戸惑うような仕草だ。そうしていると、いつもは傲慢なくらい自信に溢れたシキも、どことなく頼りなげに見えた。その常にないシキの様子に、俺の方まで不安になる。
 それでも、毒薬でなく媚薬だというなら、死ぬわけではない。今すぐにでも解消する方法はあるはずだ。俺はどうしてシキがそうしようとしないのかと、不思議に思った。俺は今ここにいるのだから、シキはさっさと抱けばいい。もっとも、自分からそう言うのには抵抗があった。
 戸惑う俺の目の前で、シキは荒い息を続けている。やがて、ふと顔をあげるとシキは「出ていけ」と言った。
「なっ……あんた、それどういう意味だ……」
「出ていけと言った。そのままの、意味だ。俺の顧客には昼間会わせてやっただろう? あの男に、部屋を別に用意しろと言え。今夜は別に寝る」
「だから何でだよ!?」
 なぜこんな状態になっているのに、俺を避けるのか。もしかして、俺が嫌になったんだろうか。俺を追い出して、誰か女でも呼び込んで抱くつもりなのかもしれない。
 そんな考えが頭を駆け巡って、俺はかっとなってシキの肩を掴んだ。
「俺を追い出してどうするつもりだよ!?」
「この熱が散るのを待つ。さっさと出ていけ!」激しく、怒鳴るようにシキは言った。それから、低く声を落として呻くように付け加える。「……早く行け。でないと、俺はお前を抱きたくなる。この状態で触れれば……お前を壊すかもしれない」
「そんなわけないだろっ! あんたふざけてるのか。俺は、あんたに抱かれたくらいで壊れるほど柔じゃない。たとえ壊れるとしても、あんたに壊されるなら望むところだ! ――好きなだけ俺を抱けよ、媚薬の熱が散るまで」
 睦言にはほど遠い脅しのような調子で言って、俺はなかなか触れて来ないシキから離れて立ち上がった。ジャケットを脱ぎ捨て、タイも解いて投げ捨てる。シャツのボタンを外してからふと顔を上げると、シキが情欲を点した目でこちらを見ているのが見えた。
 いつも冷静なシキは、普段は行為の最中でも自らの情欲をはっきりとは見せない。行為の終盤に、その眼差しや吐息に艶やかさが僅かに混じるだけだ。それが、今ははっきりと表情に情欲と余裕のなさが表れている。
 ――さぁ、手を伸ばせ。
 俺はいっそ挑むような気持ちでベルトを外し、スラックスを下着ごと脱いだ。勢いだけでとうとうシャツ一枚羽織っただけの素裸になってしまって、俺は内心覚束無い気分のまま、態度だけは何とか挑むような調子を保ちながらシキへ近づいた。
 すると、シキはふと熱の籠もった息を吐き出し、「馬鹿が」と呟く。次の瞬間、俺は強く腕を引かれてベッドに倒れ込んだ。驚きの声を上げる間もなくシキがのしかかってきて、唇を奪われる。シキの舌が口内に入り込んでそこかしこをなぞったかと思うと、すぐに出ていってしまった。
「……馬鹿が……こちらが抑えているのを、わざわざ煽る奴があるか。……どうなっても知らんからな」
「だから……そんな心配は、いらないって言った……」
 ひとしきり口づけた後に、やっと顔を話してそんな囁きを交わす。すると、シキは気遣いはできないと念を押してから、俺に四つん這いになるように言った。シキに言われた姿勢を取りながら、実は俺は内心少し不安だった。
 あれほど手加減できないとシキが言うからには、このまま挿入されるのだろう。いきなりの挿入にひどい苦痛を伴うことは、トシマで経験済みだ。その苦痛は別に構わない。問題は、俺が堪えきれず苦痛を表に出してしまったら、シキが後で気に病むのではないかということだ。
 何としても、苦痛に叫んだり顔を歪めたりすることは、避けなければならない。
 そんな決心をしている間にも、シキは俺の腰を掴んで更に高く上げさせる。俺は苦痛の瞬間に備えて、息を吸った。そのときだった。
 尻の双丘が押し開かれて、ふと吐息がかかる。それから、そこに熱く濡れた柔らかな感触が後孔の表面に触れる。これは舌だ。シキが舌でそこに触れているのだ。
 気づいた瞬間、羞恥と驚きにかっと身体熱くなる。そもそもそこは排泄器官であって、舐めるような場所ではない。パーティの前にこの部屋でシャワーを使ってから着替えたが、だから舐めても大丈夫ってわけじゃないに決まってる。
「シキ……! 何やって……」
「動くな。お前を傷つけないためだ。ゆっくりと時間をかけている余裕は……今の俺にはないからな」
「だからって、こんな……こんなこと……!」
 しかし、抗議の声も無視して、シキは舌での愛撫を続ける。やがて指で後孔を押し開いて、差し出した舌を内部に侵入させるかのように押しつけてくる。「く、ぅ……」俺は思わず上擦った喘ぎを零す。身体のごく浅い場所で蠢く舌の感触と響く水音に、知らず身体が更に熱くなるのを感じる。
 直接触れられたわけでもないのに、興奮のためか前が硬度を増して来ているのが分かった。
「シ、キ……もう、いいから……!」
 とうとういろいろと堪えきれなくなった俺は、シキを振り払うように大きく身動きした。一瞬、シキの手が腰から外れて、身体が自由になる。その隙を逃さず、俺は寝返りを打って仰向けになった。見上げれば、シキは荒い息に肩を上下させながら、はっきりと情欲の籠もった目でこちらの動向を見守っている。
 俺は、やはり少し不安だった。
 普段はシキが行為の主導権を握り、俺をリードしてくれている(今になってようやくそのことが分かる)。けれども、今日はシキはそこまでの余裕がない。俺よりも先にシキが昂ぶっているというのは初めてで、どう行為を進めていけばいいのかと途方に暮れる。早く熱を散らしてシキを楽にしてやりたいという気もあって、気ばかりが先走って焦ってしまう。
 そうだ。今日は、シキのリードを期待していてはいけない。
「も、いいから……来いよ……」
 俺は腹を決めると、膝を立てて足を開く。後孔はまだ浅く解されただけで、このまま挿入すればきっと痛みを感じるだろう。けれど、自分の痛みよりも早くシキを楽にしてやりたいと思う。
 だから、自分がはしたない姿勢を取っていること――勃ち上がりかけた雄も、舐められて濡れた後孔も全て見られているのだということは、考えないようにする。そうでないと動けなくなりそうだった。
「シ、キ……」
 促すように名前を呼ぶと、シキは我に返って短くハッと嗤った。「滅多に自分から強請ることのないお前が、珍しい」そういう声には揶揄の調子が混じっている。一瞬ムカッときた俺だったが、すぐにその怒りは治まった。多分シキは、昔のように皮肉な口調にならなければ、余裕のない今は自身のプライドを保てないのだろうと分かったから。
 シキはスラックス前を寛げながら、いつになく性急に覆い被さって来る。後孔に熱い塊が押しつけられ、次の瞬間やや強引にそれが体内に押し入って来た。
「……っ、……ぅ……」
 後孔は完全には解れきっておらず、身体をこじ開けられるような痛みと不快感に思わず背筋が強ばる。それでも俺はうめき声を飲み込み、手を伸ばしてシキの身体を更に引き寄せた。もっと奥へ――もっと傍へ来い。もっと。シキを侵す媚薬の熱に感染したかのように、熱に浮かされ始めた意識でそう思う。
「動け、よ……」
「言われずとも」
 全てを収め終えたシキは、こちらが息をつく間もなく動き始める。俺の挑発に応じるかのように、最初から容赦のない動き。苦しさで、視界が生理的な涙ににじむ。そのぼやけた視界の向こうに、余裕のない素のままのシキの表情が見える。
 その顔が、愛おしいと思った。愛なんて語る柄じゃないし、何が愛なのかもよく知らない。けれど、俺にとって今のこの感情は『そう』としか言いようがないものだった。
 俺は手を伸ばし、シキを引き寄せて口づけようとした。
 シキはぐっと一際深く腰を進め、顔を近づけて俺の耳元に唇を押し当てる。次の瞬間、艶めいたシキの吐息が耳に触れた。「……っ、く……」達したらしく、シキの熱が体内に放たれる微妙な感覚にぞくりと快楽に似たものが生まれる。けれど、俺はまだ達するほどではない。
 覆い被さるシキの重みを感じながら息を整えていると、射精後の脱力から回復したシキが顔を上げ、視線が合った。
「まだだ。まだつき合え」シキは言った。
「あぁ……あんたの、好きなだけ……」俺は言った。
「……かなわんな、お前には」
 俺の中にあるシキの雄は、まだ萎えてはいなかった。それでも一度射精して少し落ち着いたらしいシキは、ややゆとりのある顔で苦笑する。それからつながったまま上体を起こし、俺が上半身に引っ掛けていたシャツの残りのボタンを外していった。
 ボタンを外し終えると、シキは俺の肩口に顔を埋めた。先ほどの激しさとは全く違って、練るようにゆったりと腰を動かしながら俺の肩や鎖骨や咽喉元に舌を這わせる。まるで獣を思わせるようなその愛撫に、甘さが生まれて腰へと落ちていく。
「はっ、……ぁっ……」
 今度は、先ほどとは打って変わって苦痛ではなく快楽から、喘ぎ声が零れ落ちる。俺はいつしか自分から足を絡め、シキの動きに合わせて腰を揺らしていた。時折強くシキを引き寄せて身体を密着させれば、今や完全に勃ち上がった俺のものが互いの腹の間で擦れて、達してしまいそうなほどの快楽を生む。そればかりか、シキの抽送に合わせて、先ほど内部に放たれた精液が立てる水音にも感覚を刺激されていた。
 身体ばかりか、意識までも快楽に追いつめられる。
 限界は、目の前まで来ていた。
「――シ、キ……もう、……っは……」俺が本心から言った。
「あぁ……今度こそ、イかせてやる」
 シキも焦らす様子もなくそう答えて、緩やかに腰を揺らしながら、先走りを零す俺のものを掴んで扱く。シキが数度手を上下させただけで、快楽が極限まで達して感覚が弾けた。
「っ……あぁっ…………」
 俺は堪えきれずに声を上げて、シキの手の中で精を放った。同時に快楽で勝手に身体が強ばって、体内にあるシキのものを締め付けてしまう。その動きに逆らうように、シキは一度腰を押し進めてから俺の中でまた達した。


***


 その夜、俺はシキが「壊すかもしれない」と心配した意味を身をもって味わった。媚薬に侵されたシキはそのまま一晩中行為を続けたので、俺はずっとシキに付き合うことになったのだ。
 結論から言えば、俺は『壊れ』なかった。翌日十二月二十五日午前十時半頃、豪華客船が港に着いたとき、俺は自分の足で船を下りることができた。腰やあらぬ場所が痛かったし、寝不足と疲労で少しぼんやりしていたが。
 シキは船を辞するときに招待主である常連客に会い、挨拶をした。その場で招待主の紹介した新たな客との仕事は、断るつもりだとはっきり告げていた。俺はヒヤヒヤしながらその様子を見ていたが、シキの常連客は「そうか」と言って寛大に笑っただけだった。
 家に帰る頃には昼頃になっていた。俺たちはスーパーで総菜を買って帰って、パーティの料理とは比較にならない簡単な昼食を済ませると、二人してベッドへ直行した。とにかく、少し仮眠を取るべきだということで、互いの意見が一致したのだ。
「……どうだった、本物のパーティは」
 シキは腕の中に俺を抱き込みながら尋ねた。
「うん……」俺は煮えきらない調子で答える。
「つまらなかったか」
「いや、面白かったけど、気疲れしたかな……。イブにパーティだっていうから、期待してたのかもしれない。……やっぱり豪華なパーティより、クリスマスを祝わなくてもあんたと二人で家にいるだけで十分だったのかも……」
「そうか」
「あぁ」
 そんな会話の後に眠りについた。次に目が覚めたときには、シキは傍におらず、俺はベッドに一人きりだった。
 時計を見れば、時刻は午後四時になっている。そろそろ起きなければならない。俺はぼんやりした頭でベッドを抜け出し、ダイニングへ向かった。
 ダイニングには、シキがいるようで明かりが点いている。俺が入っていくと、シキが忙しくダイニングとキッチンを行き来しているところだった。
 料理を含めて家事は交代制なので、シキが料理するのも別に珍しいことではない。けれど、今の時刻から夕飯の料理を始めるのは少し早くはないか。不思議に思いながらテーブルを見た俺は、次の瞬間あっと声を上げていた。テーブルの上には、手作りらしいケーキが乗っていたのだ。
 ケーキはスポンジから手作りらしく、少し傾いている。けれども綺麗にホイップクリームとイチゴでデコレーションされ、おまけに真ん中には小さなサンタとトナカイの人形が乗っており、いかにもクリスマスらしい楽しそうげな様子だった。
「シキ、これ……このケーキ、あんたが……?」
「あぁ。お前がチラシのケーキを羨ましそうに見ていたのでな。といっても既製品は甘すぎるから、食べ切れまい。そのケーキは、ホイップに入れる砂糖を控えめにして作った。――お前は、クリスマスを祝いたそうにしていただろう?」
 そうだったのか、ありがとう。
 そう言いたかったのに、とっさに声が出なかった。だって、目の前にあるのは子どもの頃夢見たケーキであり、クリスマスだった。 孤児院の頃の記憶はないので、クリスマスを祝ったかどうかなど分からない。義理の家族ができてからは、俺が彼らに馴染むことができず、彼らも俺に馴染まず、家族でクリスマスを楽しむことなんてなかった。そうした人の――家族の温もりなど、必要ないと思っていた。けれど、トシマでシキと出逢って、トシマを出て『眠った』シキの傍に一人取り残されて、それで分かるようになった。どういうことが幸せなのか、その幸せの形が。
 シキとクリスマスを祝う。それは些細なことなのかもしれないが、俺にとってはこの上ない幸せで――不意に胸の辺りから熱い固まりがこみ上げて来た。それは目元に達して涙となり、俺の意思に反して勝手に溢れだしてくる。
 あぁ、泣くところじゃないのに。
「――シキ、……ありがとう……」
 やっとそれだけ言って笑って見せたものの、涙は止まらない。必死になって止めようと袖口で目元を擦っていると、傍に寄って来たシキがふわりと俺を抱き寄せた。
「そう泣くな」
「……あぁ」
「ケーキでもオムライスでも何でも、いつでも好きなだけ作ってやる」
「あぁ……だけど……あんまり甘やかすなよ……あんた、俺を甘やかしすぎだ……」
「お前はもっと甘えていい」
 昔からは考えられないような言い種に、俺はちょっと驚いてから笑った。「十分甘えてる」と言ったとき、ピピッとレンジの鳴る音が聞こえた。
「夕飯を作っている最中なんだ」
「なら、俺も手伝う」
「あぁ。それはいいが、今日は鍋を焦がすなよ」
「! ……あれは料理の最中にあんたが変なコトするから……!」
 じゃれるような言い合いをしながら、俺たちは身体を離してキッチンに入っていく。いつの間にだか、俺の涙は止まっていた。






拍手アンケート企画「媚薬」
2009/12/23

目次